紅い華
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ああ良い月だと政宗が春まだ遠い牡丹雪を肴に独り酒盛りに興じていると、いつからそこにいたのか傅役の小十郎が傍に控えていて、自らも黙って薄白い空を見上げていた。 「…何だよ気持ち悪ィな。いるならいるって言え」 「殿の邪魔になってはいけないと思いまして」 「………テメエ」 幼い頃からいつも近くにいてくれた忠実過ぎる家臣は、政宗に対し普段は逆らう事など滅多にない。けれどそんな男が「言葉少な」に「無表情」で政宗の事を「殿」と言う時には、決まって何か含むところがあった。いつも控え目な小十郎の、それは実に彼らしい抗議の仕方なのだ。 しかも今日のこれは、特別頭にきてやがる。 「んだよ。言いたい事があるならとっとと言え」 「別に何もありませぬ」 「嘘つけ! 顔にむかついてるって書いてあんだよ! 気分悪ィな、人が折角気分良く一杯やってるってのに―…!」 「………」 「……あ〜……」 言いかけて政宗ははたと口を噤み、心の中でぽんと手を叩いた。 何だ、「それ」のせいか。 「………」 憮然として黙り込む政宗に、小十郎も己の主の想いを正確に汲み取ったようだ。ふうとわざとらしい嘆息をした後、これまた白々しい口調で言った。 「殿に私の小煩い進言など必要ありますまい。ご自分のお立場くらいよくよくご承知おきの事と思いますれば」 「……だぁから、んな厭味言うなって」 「厭味ではありませぬ」 「その言い方がそもそも厭味だってんだよ!」 酒が不味くなるだろうと口の中でもごもごと文句を言った政宗は、しかし今日ばかりは自分の分が悪い事が分かっていたので、それ以上逆らうのはやめた。 手にしていた杯を乱暴に床に置き、まずは「悪かったよ」と言ってやった。これだけで十分効力がある事を知っていたから。 「お前がキレんのも、まあ何となくは分かるからな。今日ばかしは俺も反省するぜ」 「………その仰りようはとても反省しているようには思えませんが」 「バカ野郎、反省してんだろーが。あれは不味い攻めだった。認めてるんだぜ、この俺が?」 「………」 「Hey」 釈然としないような顔をしている小十郎に政宗は口の端だけで哂った。 そして傍に置いていた刀剣を掴む。今日の今日まで共に戦ってきたそれは帰ってきてすぐ刃を研いだが、後でもう一度じっくり見てやらなければならないだろうと思う。 何せ今回の戦は本当に激戦だった。まさに血で血を洗う死闘だったのだ。 「けどまあ、よ。結果的には痛み分けだ。領地が荒れる事もなかったし、向こうも暫くは大人しくしてんだろ。お前らに何も言わないで突っ走っちまった事は悪かったが、ちゃんと生きて帰ってきたろうが。それで許せよ」 「当たり前です」 「あん?」 「生きて戻られた事です」 「ハッ。そりゃそうだな」 政宗が軽く鼻で笑うと小十郎は実に嫌そうな顔をした後、ハアと再び重いため息をついた。もう付き合いも長いというのに、この苦労人はいつまでもこうだ。そんな家臣に苦笑する想いを抱きながら、しかし政宗は敢えてもう口には出さず、手に取った愛用の刀剣の一本を鞘から抜き、月光の下にそれをかざした。 この刃を見るだけで容易に思い出せる。ほんの数刻前まで剣を交えていたあの熱い瞳の主の事を。 あれは何だ。血塗れた戦場で唯一と言って良いほどの輝きを見せていた真紅の華。それがこちらを向いて燃えるような眼で挑みかかってきたものだから、政宗は嬉しさの余り胸が湧き立ち、一瞬眩暈を覚えた程だった。 あれは、あの男は。 「政宗様」 「……ん?」 呼ばれてふっと我に返ると、横では案の定小十郎が難しい顔をしてこちらを見つめていた。まずいなと思って政宗が渋い顔をすると、胃痛持ちの家臣はきりりと殊更引き締まった顔で厳しく言い放った。 「政宗様。貴方様はこの国を…いえ、天下を治めるお方なれば」 「はいはい」 「政宗様!」 「怒るな怒るな小十郎」 ぱちんと刀を元の鞘に戻し、政宗はとことん軽い口調で返した。そうしてあの楽しかった時間を回想もさせてくれない男を横目でちらと見やった後、政宗は未だしんしんと降り注ぐ夜の雪を見上げ、「そういえば」と呟いた。 「あいつの名前もユキムラ…ユキって言ったっけなぁ。どういう字、書くんだろうな? なあ小十郎」 「存じませぬ」 「今度調べとけよ」 「政宗様」 「今度あいつと会った時は作戦無視してがむしゃらに追っかけたりしねェよ。ちゃんと考えて奴とサシの勝負が出来る戦略を練るからな」 「………」 駄目だこれは……という顔を全面に押し出していた小十郎は、けれどどうしても治まる事のない主の楽しそうな嬉しそうな顔にはやはり弱いのか、もうその夜はそれ以上何も言う事はなかった。 「真田ユキムラ……ね」 だから政宗も静かになった家臣に自らも知らぬフリをして、あの紅い華に今度はいつ会えるのだろうかと内からせり上がる心地良い高揚に暫し酔った。 |
<了> |