の意くや



「……殿。このような早朝からどちらへ?」
「うっ…」
  努めて足音を出さないように出て来たようだが、小十郎は政宗が「してやったり」と表門を出た所で、わざと今気づいた風に声を掛けた。
「まだ夜も空け切らぬ時分ですよ。一体どうされたのです」
「ちょいとそこまで、散歩にな…」
  政宗は厭味たらたらの小十郎に悪戯を見つかった子供のように気まずい顔をして見せたが、何とかその場を誤魔化そうとぺらぺらと口を動かした。
「俺はこんくらいの時間に散歩すんのが好きなんだよ。清々しいだろ? 空気がよ!」
「ほう、空気が。それはそれは」
「ははは……は」
「………」
「………小十郎」
  にこりと微笑んではいるものの目は全く笑っていない。そんな事は政宗にも、そういう顔をしている当の小十郎自身にも重々承知の事だった。
  先にこの状況を打破しようとしたのは主である政宗だ。いい加減慣れているとはいえ、この不機嫌面を起き抜けに見るのは辛過ぎるという事なのだろう。
「お前なぁ。ンなマジで怒んなよ」
  試すように茶化した言い方をする政宗に、しかし小十郎は乗らなかった。今や見せかけの笑顔すら消して腰に手を当て、一体どちらが主なのか分からないような容赦のない厳しい視線を向ける。意識してではない、ついそうしてしまうのだ。
「殿。殿はご自分のお立場というものを本当に分かっておいでなのですか」
「おう。俺は奥州筆頭伊達政宗! ここらの大将だな!」
「……それで、供の者もつけずに一体どちらへ?」
「だから言ったろーが。散歩!」
「では私も共に参ります」
「No! 来んな、邪魔!」
「いいえ、参ります!」
「だーめっ!」
「政宗様ッ!!」
  ふざけたように胸元で「バッテンマーク」を作った政宗に、小十郎はいよいよ血管が千切れそうな真っ赤な顔をして怒鳴り声を上げた。近くにいた門番たちが「また始まった」という風に苦笑してこちらを見ていたが、政宗は逆にそんな彼らに向かって「お前ら、見てないでこいつを宥めろ」などと言っている。
  そうやって怒り心頭の小十郎を他の者たちと一緒になって笑うものだから堪らない。
「……殿のお気持ちはよく分かりました」
  ぴくりと額に怒筋を浮かべながら、小十郎はいやにドスの利いた声色でそう呟いた。「やべえ、からかい過ぎたか」と政宗が後悔しても後の祭り、小十郎は腰に差していた刀をすらりと抜くと、びしりと引き締まった顔で己の主に言い放った。
「どうしても行かれると仰るのなら、小十郎はここで腹を切りまする!」
「げっ!? おい小十郎、悪い冗談はやめろ!」
  驚かないかとも思ったが、意外にも政宗はぎょっとした顔をしてすぐに止めてきた。
  しかし小十郎の勢いは増すばかりだ。
「冗談などではありませぬっ。殿にとって私めの進言が無用とあらば、私は伊達家にとっても無用のもの。己の始末くらい己で致します。殿のお傍にいる意味がないのであれば、この小十郎、最早生きている意味も……!」
「あーあー分かった! I understand! よく分かったから、とりあえず刀納めろ」
「……では、散歩はやめて頂けますか」
「刀を納めろ!」
「政宗様が約束して下さる方が先です!」
「テンメエ〜! あー、分かったよ! 散歩はやめる! それでいいだろ!」
「………武士に二言はありますまいな」
「ねえよ! バカ!」
「ばっ…バカとは何ですか、バカとは!」
「バカだからバカだっつったんだ! けどお前は切るっつったらぜってえ切る奴だからな。ああ、約束してやる。散歩はしねえよ!」
「………」
  その問答はそれほど長いものではなかったのだが。
  政宗のイライラしたような顔をじっと見やりつつ、小十郎はこれを酷く骨の折れるやりとりだったと嘆息しながら鋭く光る刃を鞘に収めた。
  そうしてゆっくりと、子供のようにいじけてそっぽを向く主に静かな声で呼びかけた。
「政宗様」
「何だ?」
  意外にも早い返事に安堵しつつ、小十郎は続けた。
「政宗様は天下を取られるお方です」
「百回くらい聞いたな、その台詞」
「何千、何万でも繰り返しましょう。貴方様が大願成就されるその日まで」
「なら何万もはいらねえよ」

  すぐに獲ってやるからな。 

  政宗の口調は素っ気無い。腕組をしたまま何やら明後日の方角を向いているその姿は、天下取りなど造作もないという不敵さに満ちていた。
  しかし。
「政宗様」
  小十郎は政宗がしきりに見つめているその方向を自らもちらと見やりながら、周囲には聞こえないくらいの小声で言った。
「あの者は政宗様と敵対する武田の武将です」
「知ってる」
「畏れながら、その腕前は政宗様にも匹敵する程のものかと」
「それも知ってる。……俺は負けねェがな」
  あまりにあっさりと答える政宗に小十郎は多少焦れた想いがした。
「政宗様。勝負とは時にその実力とは無関係のところで決する事もあるのですよ」
「運の事言ってンのか。俺はすげえラッキーな男だぜ。むしろあいつだな、運悪そうなのは。見るからに不器用だしな」
「………」
「要領も悪ィし。動きは早ェが隙も多いぜ。まだまだ甘い。あの綺麗な顔通りだわ」
「………政宗様」
  敵方の男をこれほどまでに語る主は初めてだ。
  訊かない方が良いのだろう。その方が伊達家の為だ。咄嗟にそう思いつつ、しかし小十郎は気づくともう政宗に問い質してしまっていた。
「政宗様はあの男……真田殿の事をどう想っておられるのです」
「………」
  しかし政宗はすぐに答えなかった。
  小十郎は努めて冷静な声で再度問い返した。
「理想の好敵手ですか。初めて思う存分剣を振るえる勇猛な武将として…目を掛けておられるのですか」
「違う」
  不意にきっぱりと答えた政宗は、ここでようやく小十郎の事を見つめた。片方だけの、けれど誰よりも鋭い光を帯びたその眼光は、小十郎がずっと見てきた何ものにも傾かない孤高のそれだった。
「違うな、それは」
  けれどその孤高の主はそう言った。
「たぶんな」
  そしてすぐにそう付け足した。
「多分…ですか」
「分かんねェんだよ、俺もな。らしくねえだろ? ただな、向こうもきっとそうだと思うぜ」
「真田殿も?」
「ああ。こんな朝っぱらから鍛錬だっつって走ってくるなんてクレイジーな奴だろ? けどな、すげえ楽しそうに笑うンだよ、あいつ。すげえ嬉しそうに笑いやがる……敵である俺を見てな」
「真田殿は……」
「けど、あいつは色恋なんて柄じゃねえから。だからたぶん、分かってねえよ。俺に懐いてんのは…まあ、天然だ」
「………」
「もう会わねえよ」
  むすっとした政宗に小十郎は妙にたじろいだ。自分がした事は正しい。主が敵方の武将と毎朝「逢瀬」を重ねるなど、臣下として止めて然るべきだ。周りに示しもつかないし……そうだ、自分は間違っていない。
  間違っていない。
  自分は正しい事をしたはずだ。
「殿……」
「あ? あーあ…。もっかい寝直すかな」
「殿」
「何だよその呼び方! 俺、お前の言う事聞くっつってんだろ、ちゃんと名前で呼べ! 今度は何にキレてんだ? 俺はな、お前の言う事が正しいと思えばちゃんと聞くぜ」
「え」
  怒り任せに吐き出したようなその台詞…。しかし小十郎はそう言った政宗を驚きの目で見つめた。
  政宗もそれで決まり悪そうながらも憮然として応えた。
「お前だけだからな。俺にそういうまともな事言う奴」
「政宗様…」
「もう怒るなよ?」
「………」
  政宗の言葉は胸が震える程に嬉しく、小十郎の気持ちも自然昂ぶった。しかしこの時はそれ以上に妙な寂しさを漂わせて笑う政宗に大きな焦燥を感じた。何か酷くいけない事をしてしまったような、そんな後味の悪さを感じたのだ。

  本当は諦めたくないはずだ。臣下である自分や家、国の事を考えて己の想いを封じるなど、この方らしくないではないか。

「………殿。私は殿に散歩はおやめ下さいと申しました」
「あん?」
  だから、1度そう思ってしまうともう止まらなかった。あの男に会ってはいけないと、たった今強引な手で引きとめたのは紛れもなく自分自身だというのに。
「それはつまり、いつも黙って出て行かれる事に苦言申し上げたまでです。その事を肝に銘じていて下されば……それ以外の事は殿がご自身で判断して下さいませ」
「………おい。どうした、いいのか? 何の心変わりだ?」
「知りません」
「おい…」
  小十郎?と呼びかけながらますます不審そうな顔をする政宗には、あのあどけない頃の顔とどこか重なるところがあった。そう思うと、「やっぱり行っちゃ駄目」とも言いそうになったのだが、小十郎はそんな己の気持ちを必死に堪え、努めて平然とした素振りで踵を返した。背後で政宗はまだ何か言っていたが、振り返るとまた「腹を切ってでも」止めたくなるのだからと、1度も立ち止まらずに元来た道を歩き続けた。
  呼びかける主を無視して立ち去るなど、それこそどうかしているのだが。
(しかし……)
  悶々とした思考を何とか整理しようとしながら、小十郎はぐっと唇を噛んだ。
  きっとこの判断は間違っている。主を信頼しているといっても、こんな「非常識な事」を容認するのは傅役として明らかに失格だ。
(しかし、あのようにガッカリとした顔を見せられたら…仕方がないじゃないですか)
  家臣である以前に、小十郎にとって政宗は家族以上に大事な人間だった。そんな相手があれほど誰かの事を想い、慕う姿を見せられてはもう駄目だ。駄目なのだ。片目を失い母の愛を失った時、政宗は確かに人として大事な何かを失くしてしまった。刀を振るう姿は鬼神の如き強さで惚れ惚れとするが、それでも主は遠い昔に何かを失くしてしまったのだ。
  そんな政宗が今この戦乱の世で何かを得ようとしている。あの紅き炎の化身のような男と接していく事で。
「けれど真田殿。貴公がもし政宗様にとって害なす時は…」

  その時は遠慮なくこの刀を抜こう。そしてあの炎を切り裂いてしまおう。

「やれやれ…胃が痛い」
  そんな物騒な事を頭に思い描きつつ、しかし小十郎はその想いを誰にも悟られないようにと心の奥に仕舞いこんだ。そういった闇の感情はいざという時にだけ出せば良いのだと思いながら。



<了>



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