ゴキゲンナナメ



  猿飛佐助は憂鬱だった。
「はああああ……」
  ただし、このため息は彼のそれではない。
「はあああああああ……」
「……あのね、ダンナ」
「はあああ……。ん…何だ佐助。何か言ったか?」
「いいええ。べっつに」
  そう。
  深く悲しげなため息を漏らしているのは佐助の主、真田幸村その人であった。





  いつも元気で煩いとすら思える幸村が、その日はしょんぼりと肩を落として帰ってきた。佐助は「あの男と痴話喧嘩でもしたかな」と思いながらも、とりあえずは放っておこうと当初は傍観を決め込んでいた……が、幾ら「ご飯出来てるってよ」、「身体でも流してきたら?」、「もう寝たら?」―と、幾度となくいつもの世話焼き台詞を吐いても、主は「ああ」とか「うむ」とか「ふえ」とかしか応えない。ちっとも復活する兆しが見えないのである。それどころか、終いには泣いてしまうのじゃないかとすら思われて、佐助もさすがにこのままにしておくわけにはいかないなと観念した。
「あのさあ旦那」
  いつもの「ご機嫌とり用」のとっておき団子を皿に乗せ、佐助は幸村のいる縁側に自らも腰を下ろした。
「今日あんまり食べてなかったっしょ? これどうぞ。美味しい緑茶もつけたげたよ?」
「ああ…」
「旦那ァ、一体どーしたのよ? 皆心配してたよ?」
「うむ…」
「うむ、じゃないでしょ! 聞いてんの? こら!」
「はあ…」
「……またため息ですか」
  こっちがため息つきたいよと心の中で毒づきつつ、それでも佐助ははたと良い事を思いついたという顔になって、突然片手を額に当てながらわざとらしい声をあげた。
「あれ〜? あそこにいるのって、独眼竜の旦那じゃない?」
「な、何っ!? そんなばかな!!」
  佐助の声に幸村はまんまと素早い反応を寄越した。ガバリと立ち上がり、きょろきょろと辺りを忙しなく見渡す。
「ど、何処だ佐助、政宗殿は何処におられる!? な、何故ここに…! そんなわけはないのに、何故っ、何処だ、何処にいると言うんだっ!?」
「……何で《そんなわけない》の?」
  その割には必死こいて探してるよこの人…と思いながらも、佐助は幸村の言葉に引っかかりを感じて首をかしげた。
  しかし幸村はそんな佐助の様子にまるで気づかず、まだ政宗を探している。
「おい佐助! 政宗殿は何処におられるのだ!?」
「あ〜ごめん。気のせいだったみたい」
「なに…っ?」
「そうかな〜って思ったんだけど、俺の見間違いだったわ。ごめんね旦那」
「……み…見間違い」
「そうそう」
「……そう、か」
「旦那?」
「………」
「ちょ…ちょっと…?」
「………」
  すとんとまた元の位置に座りこんでがっくりと俯く幸村に今度は佐助が慌てて立ち上がった。
  一体全体何だってこんなになっちゃってんだこの人!? どうやら政宗が「いるわけがない」という事に関係がありそうだが、それでもこっちとしてはまるで意が飲み込めない。
「ねえ、どうしちゃったのよ旦那!」
  焦れたような声を出し、佐助は再度幸村から何とか反応を得ようとした。顔の前でひらひらと片手を振ってみたり、わざと皿に乗った団子をちらつかせたり。
「政宗殿が……」
  そんな事をどれくらい続けただろう。ようやっと幸村は声を出した。
「政宗殿が、いなかった」
「はぁ?」
「今朝、いつものようにお手合わせ願おうと城へ伺ったのだが…」
「はあ…。あっちは何処かと戦でも始めたのかい?」
「違う。片倉殿も他の方々も殆どの者が残っておられた。それなのに、政宗殿だけが出掛けられたのだ」
  幸村のその言葉に佐助は思わず口笛を吹いた。
「へえ、マジ? 大将だけどっか留守しちゃってるわけ? それって何かさ〜、こっちには結構オイシイニュースだったりして?」
「な…!」
  しかしこれに今度は幸村がぎょっとしたような顔を向けた。
「さ、佐助、お前…っ! 政宗殿が不在の時を狙って奥州を攻めるというのか!?」
「いや〜兵を出す事決めるのは俺サマじゃないし。ただ、事実は事実としてお館様には報告しとかなきゃ、ね?」
「ふ、ふん…! お館様はそのような事を聞かれても、奥州を攻めるなどとは仰らないさ」
「そう? だってお館様の目的は天下統一でしょ。だったら、叩きやすい時に叩くのが定石だと思うけど? そんな甘いこと言ってたらいつまで経っても天下泰平の世は来ないんじゃない?」
「……そ、それは!」
「旦那」
  意地悪かなと思いつつ、へこまれているよりはよほどマシだろうと佐助は努めて真面目な顔をして見せた。
「旦那が独眼竜の旦那の不在を何でそこまで気にして落ち込むのかは敢えて深く訊かないけどさ。最近、ちょっといき過ぎなんじゃない?」
「いき過ぎ…?」
「伊達政宗と仲良くしすぎ」
「……っ」
「あちらさんは敵なんだからね」
「わ、分かっている!」
「そ? ならいいけど」
「………」
「あ〜……」
  黙り込む幸村に、佐助は「やっぱりいじめだったか」と思いぽりぽりと頭を掻いた。しかしそれはそれとして、この主には己で決めた使命があるのだ。それは信玄を支え、信玄の天下統一の手助けをすること。彼はその誓いを守らなければならないし、ひいては信玄や甲斐の民を守り、自分自身をも守らねばならない。
  そしてそんな幸村を見守るのが佐助の使命なのである。

  そこらへんの事は、さすがに時々釘刺しておかなきゃね。

「でもねえ…。所詮、俺サマってしょんぼりな旦那に弱いんだよね」
  未だがっくりとしている幸村に、佐助は困ったように笑いながらその真正面に立つと、慰めるようにぽんぽんとその頭を軽く撫で叩いた。それで幸村が驚き顔を上げるのを見届けてから、佐助はふっと微笑んでやった。
「まあ、旦那が時々反省してくれて、俺サマたちを路頭に迷わせないってなら、後は好きにしていいからさ。そんな落ち込まないでくれる?」
「さ、佐助…」
「それに、何処をどう攻めるかってのはやっぱりお館様次第で、俺サマもなんだかんだであの方は奥州を攻めるなんて事はしないと思うからさ。だってお館様、今、謙信公との事でそれどこじゃないみたいだし?」
「そ、そうだな…うむ。そうだ…」
「でさ。何で独眼竜の旦那は奥州にいないんだって?」
  そもそもの幸村落ち込みの原因を思い出したようになって佐助は訊いた。
  もっとも、そんなお国事情を伊達の家臣が敵国の幸村にやすやすと教えるわけもないだろうが……。
「政宗殿は新しく造らせた西洋の船で四国へ行かれたそうだ」
「お、教えてもらったのかいっ」
  毒されているのはあっちの家臣団も同じか!…と、心の中で激しいツッコミを入れつつ、佐助は呆れるやら笑いたいやらで後の言葉が続かなかった。
「政宗殿は…」
  そんな佐助にやはり気づかず、幸村はむっと唇を尖らせ、思い出したように口を速めた。
「俺に、『船が出来たらお前も乗せてやるから』と仰っていたのだ…。それなのに…一人で、しかも四国へなどと…」
「何で四国?」
「この間の団子大会で知り合った長曾我部殿に会いに行くという事だった」
「長曾我部? ああ…聞いた事あるけど。鬼だよね…ん、鬼…??」
  そういえばそんな奴があのばかげた大会にいたような。
  腹を膨らませてあんまりうんうん苦しそうだったから、哀れに思って政宗に胃腸に良い草の根を託したのだが、まさかあれが?
「いつの間に…。いつもそうだ、政宗殿はいつの間にかそうやって知己を増やし、遠くへ行かれてしまう…」
  幸村の声にふと考え込んでいた佐助ははっと顔を上げた。
「いつもいつも…。遠くを見ておられる。俺なぞ、きっとまだ政宗殿の足元にも及んではいないのだ。俺は…俺は、政宗殿を超えねば、きっと一人前の武将にはなれぬ。ずっと子ども扱いだ。だから船にも乗せて下さらなかったのだ…っ」
「試運転じゃないの? 造ったばっかの船にいきなり旦那乗せるなんて危険な真似、あの独眼竜様がするわけないし?」
「俺は! 一緒に行きたかったのだ!!」
  だんっ、と強く縁側の床を叩き、幸村は初めて激したようになって唾を飛ばした。
  佐助がそれに唖然となるのにも全く構う風がない。心なしか幸村の頬は赤くなっていた。
「片倉殿が仰っていた。政宗殿は長曾我部殿のような男が心底好きなのだと。いつもなら自分からわざわざああやって会いに行かれる事などないのに、と。確かにそうだ。いつも…いつも、会いに行くのは俺の方だ…」
「ちょっとちょっと、そんな事ないでしょ。旦那のとこにだって会いに来たことあるじゃない」
  そんな事俺サマにフォローさせんなよと思いながら、それでも佐助はどこか暴走気味な幸村にやばいなと思ってそう言った。
  もっとも幸村の機嫌が悪い理由はそれこそ子どものようで、こうなるともう佐助にも早々手出しはできなかった。一人で船遊びに出てしまった政宗も政宗だが、ちょっとばかり幸村の「駄々」はくだらな過ぎだ。
  しかし、だからこそ厄介なのである。
「政宗殿のことなど俺はもう知らん!!」
  握り拳を作ってそう叫ぶ幸村に佐助は唇をへの字に曲げた。
「いや…知らんって…。でも、思いっきり意識してますけど?」
「煩いっ。明日から忘れる! 奥州にも行かぬ!」
「…それがまあ、正しい方向なんだけどね?」
  それでも、と佐助は深くため息をついた。
  先刻自分でも釘を刺したばかりだというのに、佐助はこうやってあからさま動揺し落ち込み、自棄になっている幸村にはつい「待て待て」と言ってやりたくなる。「そんなの駄目だよ。自分に正直に生きなさい」とついつい言ってしまいたくなるのだ。
  つくずく親ばかだ。
「ねえ旦那」
  そんな自分に呆れて、佐助は髪の毛をまさぐりながら苦笑した。
  そして言った。
「そんなに独眼竜の旦那のことが心配なら様子見てきてあげようか? あの人が四国で何してんのか、とか。俺サマひとっ走り見てくるけど?」
「な…何をバカなッ! 佐助! そんな事で甲斐を空けるな! いつお館様からお呼びがかかるかも分からんというのに!」
「……全部自分の事棚に上げてるんですけど」
「煩いっ。いいか、政宗殿の事なぞ俺はもう知らんのだ! だから…だから…!」
「だから?」
  ああ、もうすぐ爆発する。
  佐助はそんな主のぎりぎりの状態を冷静に眺めながら、しかし間もなく訪れるであろう自らの災厄にやっぱり小さく息を吐いた。
「うおおおー! 何だか無性に腹が立ってきたぞ、佐助ーッ!! よし、相手しろ!!」
「……これから?」
「俺はやる! 政宗殿には負けぬぞおおおおお!!!!
「………」
  通りの犬が遠吠えするのとあわせるように、幸村の雄叫びが辺りに響き渡る。
  佐助はそれを聞きながら夜空の月を見上げ、「今夜は徹夜かあ」と独りごちた。一端昂ぶったこの主の心を鎮めるのはいつも容易ではないのだ。
「恨むぜ…。独眼竜の旦那」
  興奮して叫び続ける幸村には決して聞こえない声で佐助はそう呟き、この元凶を呼んだ「あの男」には、帰ってきたら厭味の一つや二つは言ってやらねばと思うのだった。



<了>



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