労さん。



  欲求不満なもんでね……悪びれもせずそう言った隻眼の男に、佐助は露骨に蔑んだ目を向けた。この際相手が敵方の大将でいつこちらに刃を振るうか分からないとか、己の主が実はこの人物をやたらと気に掛けていて、それが厄介な事に「恋」なんてものかもしれないとか、そういう事はとりあえず忘れておこうと思う。
  大事なのは今。
「あのう」
  男が自らの懐に抱いている「それ」を「幸」と呼んだ。その事こそが問題だ。





  その日、佐助は甲斐と奥州とを結ぶ街道沿いにある寂れた神社で、主からの伝言を渡そうとその男―奥州の総大将・伊達政宗と対峙した。社へ向かう上り階段の最上段に腰掛けていた政宗は佐助を見るなり物凄く嫌そうな顔をして、しかしその後すぐに事態を察したのだろう、「あいつは来ないんだな」と言い、すっかりぶすくれた顔で頬杖をついた。その思い切りいじけた様子に佐助は何となくその場を去るタイミングを逸し、どうしたものかと考えながら彼の目の前に立ち尽くした。
  そんな苦行の昼下がり。
  突然現れた「それ」に政宗が発した「幸」という言葉。 
「あのですね」
「何だよ」
「幾ら欲求不満だからってそういうのは、ねえ? 何つーかー……」
「やっぱまずいか? まあ、お前があいつに言わなきゃ済む事だ。黙っとけよ」
「いや、あの。まあ、進んで言おうとも思いませんがね…」

  駄目だこの男は。

  佐助は思わずがくりと項垂れた。
  恋する男は何とかと言うが、主だけではない、こっちも相当重症だと思う。こんなにあからさま呆れた様子や非難の顔をしてみせているというのに、この男はそれを全く意に介していないどころか、もしかすると気づいてさえいない。まぁ「お前なんか眼中にねェ」とはっきり言われた事もあるから、たかが一介の忍の態度など実際どうでも良いのだろうが。
  だが、しかし。
  佐助はうーんと腕組をして首を捻った。
「それ。もしかして自分とこでもしょっちゅうやってます?」
「よく分かったな。やってる」
「……ダンナの身内は何も言わないんですか?」
「あー? 別に言わねェよ。もう諦めてるんじゃねェ?」
「なるほど、ね」
「……んだよ、さっきから。何か文句でもあんのか?」
「いやいや。別に」

  何だ、気づいてやがったのか。

  佐助はにへらと気の抜けた笑顔を見せながら、咎められている事が分かっていたなら、ちっとはその腑抜けた顔を仕舞えよなと心の中だけで毒づいた。
  しかし政宗はやはり佐助には全く構う風がない。1度は憮然とした顔をしつつも、すぐに気を取り直したようになって懐の「それ」に目を落とす。そうしてすっかり甘い顔に戻るとうりうりと指先でそのフカフカな毛先を撫で始めた。相手はそんな政宗の愛撫に気持ち良さそうに目を細め、何の拍子か「うにゃん」と珍妙な…しかし明らかに嬉しそうな声をあげた。
「おっ、擦りついてきた。野良なだけに処世術に長けてるな。媚び方が巧い」
「……ホントに嬉しいんでしょうよ。猫は喉撫でてもらうのが好きだから」
「ふうん、そうか。なら今度はホンモノにもやってみるかな」
「あの。ウチのダンナは猫じゃないんですけど」
「わーってるよ。冗談だよ冗談!」
「…………」

  やっぱりまだいじけてる。

  佐助はハアと今度は明らかに分かるため息をついた後、くるりと踵を返した。まあ伝える事は伝えたのだから、俺様の役目はもう終わりだ。とっととこんな気まずい、それでもって気色の悪い場所からはオサラバしよう。
「幸。幸村。こら暴れるんじゃねーって。するする滑るぞ?」
「………勘弁」
  しかし、背後から聞こえてきたその声に、佐助はぱしりと額を叩いて思わず去りかけた足を止めた。
  仮にも天下を狙おうって北の大将があんな声を出してそこらを歩いていた「猫」相手に遊んでいても良いのだろうか。しかもその猫に勝手に「幸村」なんて名前をつけて。

  痛い。イタ過ぎるよ独眼竜のダンナ。

「……その猫、どうするんです?」
  ちらと振り返ると、政宗が猫を「高い高い」している姿が目に入り、またしてもげんなりする。それでも、仮にも主の名がついたその猫の行方は気になり、よせばいいのに佐助は政宗に訊ねてしまった。
  すると政宗は高い高いをしながら素っ気無く言った。
「どうもしねーよ。そこらにほっとく」
「……お城には連れて帰らないんで?」
「こいつが俺と一緒に行きたいっつーなら連れてってやってもいいけどな。たぶん、そうは言わないだろ。こいつのテリトリーはこの社なわけだし」
「………」
「何だ?」
  意外か?と顔を向けてきた政宗の口の端はやや上がっていた。佐助はその不敵な笑みに何か引っかかるものを感じながら、負けじと皮肉な目を閃かせ肩を竦めた。
「そりゃあ、ね。てっきりお城で愛でてる他の《幸村》ともども、そのコもどっぷり可愛がるのかと思いましたよ。……ホンモノをそうできない分だけね」
「うちに幸村なんかいねえよ。ただ今日みたいに道すがら見かけた犬とか猫を《幸》と呼んでるだけだって。それ全部攫ってたらお前、収拾つかなくなんだろ?」
「……アンタの中では動物全部が幸村なのか」
「はっ…語弊のある言い方よせよな。俺はcuteだと思った奴をあいつの名で呼ぶ……そう言ってるだけだぜ?」
「……はぁ。まぁどうでもいいです。俺は帰らせてもらいますわ。伝言はきっちり伝えましたんで」
「あいつとは今度いつ会える?」
「さてね。うちもそこそこ忙しいもんで。ダンナと違ってね、働き者のウチのお館様は天下統一目指して日々邁進中なんですよ」
「ふうん」
「………」
  突っかかってくるかと思ったが、政宗は乗ってこなかった。佐助は己の挑発が不発だった事を少しだけ物足りなく思い、またしてもちらとだけ相手のいる方向へと目をやった。
  政宗はまだ猫を胸に抱いたままじっと石段に腰を下ろしている。
  まるでまだ待っているかのようだ。幸村がこの階段を上ってやってくるのを。
「独眼竜のダンナ。ウチのダンナは今日は来ないよ」
「は? ……何だよ、分かってる。聞いたぜそれは」
「じゃ、何でいつまでもここにいんの?」
「考え事してる」
「何を?」
「………」
  政宗は佐助のその問いにすぐに答えなかった。ただ、まだ撫でて欲しそうな眼で見上げる猫を政宗はだしぬけぽんと膝から下ろした。
「未練のないこいつと違って…」
  そして言った。
「どうやったらあいつを俺んとこへ連れてこれるかを、な」
「………」
「それを考えてる」
  再びふっと顔を上げ、政宗は黙りこむ佐助にニヤリと笑いかけた。そうして、未だがりがりと自分の足を引っ掻き、遊んでくれ抱き上げてくれとせがむ猫には、政宗はもう「幸村」とは呼ばず、視線も落とさなかった。
  ただ政宗は石段からその場にいる佐助を通り越して眼下を見やり、本当に恋しい本物だけを求める眼差しを向けた。
(あ……何かヤな事思い出した)
  その時佐助はどこか哀愁漂う政宗のそんな姿を眺めながら、今日ここに来る前に何度も何度も「政宗殿に詫びておいてくれ」と言った主の顔を思い浮かべた。本当は行きたい、会いたくて堪らないのだけれど…どうしても駄目だ。そんな切ない顔を全面に押し出して、主は自分の腕を掴んで言ったのだ。政宗殿に詫びておいてくれ、この戦いが終わったら今度は必ず会いに行くから、と。佐助はそう訴えられながら強く掴まれた己の腕に一瞬だけ意識を向け、それからもう一度目の前の政宗に目をやった。

  ああ、何て恥ずかしい人たちなんでしょう。

「ねえ」

  けれども、そんな彼らを放っておけない俺はもっと愚かか。

  佐助は一歩だけ政宗の所へ戻って声を掛けた。
「アンタの欲求不満っぷりをさ。やっぱり真田のダンナに俺から伝えておこうか?」
「は?」
  きょとんとする政宗の反応を無視し、佐助は笑った。
「その方がいいかもよ。そしたら会える日、もっと近くなるかも」
「……んだよ気持ち悪ィな。武田の忍がどういう風の吹き回しだ」
「知りませんよ」

  だけど、ウチのダンナも、きっとそれを望んでいるから。

「……ま、単なる気紛れ…かな」
  それでも佐助は訝しそうな顔を向ける政宗には最後のその台詞をぎりぎり喉の先で止めて黙りこくった。どちらも想いは同じだけれど、自分はあくまでも幸村の従者だ。ならば少しでも幸村が有利な立場になれるよう画策するのが仕事だろう。
  本当は恋の橋渡しは任務外なんだけれど。
「俺様もつくずく人がいいねえ」
  佐助は一人でそう勝手に結論づけ、依然として自分に不審の眼を向ける政宗に今度は苦く笑ってみせた。

  傍の「幸村」はそんな2人を不思議そうな目で見つめていた。



<了>



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