きっといる



  いつの間にか激しく降り出した雨空を見上げながら、政宗は軽く唇の端を歪めた。
(ったく…。面倒臭ェ事になりやがった)
  自分一人なら多少濡れるくらいは構わない、城まで一気に山を下った事だろう。しかし降り始めこそ霧雨のようだったそれも、今では大地を揺らす程の雷まで伴っている。そんな荒れた悪天候の中、女を連れて動くのはさすがに憚られた。
「貴方…帰らないの…」
  そんな政宗の気持ちを知ってか知らずか、当面雨を凌ぐ場所として避難した奥の浅い洞の中で、女は入口の傍に立ち尽くしている政宗にそう声を掛けた。政宗はなるべく時化っていない枝木を集めてそこに火を焚いてやったが、女はとても寒そうだった。青紫の唇を戦慄かせながら、ただそれでも話す気はあるのか、素っ気無くとも口を継ぐ。
「市の事なら放っておいていいの…。雨が止んだら…一人で、行くから」
「別にアンタの為にここにいるわけじゃねェよ」
  陰氣な奴だと思いながら政宗は素っ気無く応えた。
「こんな雷雨の中、馬を走らすのは得策じゃねえだろ。もう暗いしな」
「でも……」
「何だよ」
「貴方のお馬さん……とても、走りたそう」
「うっ……」
  ま、まあなと口元で呟いてから、政宗は決まり悪そうに少しだけ咳き込んだ。
  自分たちがいる洞の中へ何とか無理に引っ張りこむ事には成功したが、政宗の愛馬は政宗同様、入口付近からしきりに空を見上げて先ほどから随分と興奮気味だった。「もっと降れ降れ」とでも言わんばかりに蹄を蹴り、何やらウキウキしている。荒れた天候が、加えてそのせいで酷いぬかるみとなる「重馬場」が大好きで堪らない変な馬なのだ。普通ならこの激しい雷の音だけで萎縮してしまうところなのに。
「お前……人間だったらさぞかしとんでもない武将になってただろうな」
  政宗が愛馬の首を軽く叩きながらため息混じりにそう呟くと、「市」と名乗った女はここで初めてふっと唇を綻ばせた。
「仲…いいのね…」
「あ?」
「お馬さんと」
「あ……ああ、まあな。戦場じゃ、コイツに助けられた事も何度もある」
  武士の中にも勘違いする輩はいるが、馬はただの戦の道具ではない。小十郎が政宗にとって掛け替えのない「相棒」であるように、共に戦場を駆けるこの愛馬も決して欠かせない大切な「仲間」だ。
  政宗がそう言うと、市は再び暗い目をしてすっと俯いた。
「さっきは……ごめんなさい……。貴方のこと……兄さまと似てる、なんて言って……」
「ん…」
  ゆらゆらと揺れる炎の向こうで市の顔が怪しく光る。暗い闇の中で炎の赤だけが色鮮やかなせいか、市の生白い顔は本当に生きた人間という感じがしなかった。政宗はすっと眉をひそめ、愛馬から離れると己の身体を洞の中へと向けた。
  市はそんな政宗の方を見る事はなく、淡々と話し始めた。
「兄さまにとって……兄さま以外のものは、皆意味がないの。お馬さんも、同じ、人間も……。何でもないもののように、簡単に消してしまう」
「……アンタの兄貴ってのは、何者だい」
「………」
  市は答えなかった。雨が降り出す前にも何者かとは問い質したが、それには貝のようになって口を噤んでしまう。当然と言えば当然だが、しかし奥州の領内に入り「独眼竜に会いたい」と言っているからには、政宗としてもこのままだんまりを認めるわけにはいかなかった。
  自分の正体を容易に明かそうとも思わないが。
「さっき、独眼竜に会いたいと言っただろ。皆を助けたいとも。俺に話してみろよ」
「……見知らぬ貴方を巻き込みたくないの」
「Ha! アンタなぁ、もうこうやって知り合っちまったんだぜ? 今さら巻き込むも何もねェよ。それに俺のなり見て分かるだろ? 俺も奥州の武将だ。うちの大将に会いたいって言ってる奴、そのままハアそうですかって放置できるか?」
「………貴方、独眼竜の家臣なの」
  市はここでようやく顔を上げ、初めてまじまじと政宗の方へ視線をやった。政宗は自分の顔がはっきり見えないよう炎を差し挟んだ場所に座り、そっぽを向いてとぼけていたが、一方で「俺も案外他所モンには知られてねェんだな」という点では密かに落胆していた(そんな場合でない事は重々承知しつつも)。
「そう…そうよね…。ここはもう、奥州なのだものね……」
「ん。そうだぜ。お前、どんだけ呆けてんのか知らねーけどよ。普通にありえねェぜ。他所モンなんだろ? 大体どうやって国境警備くぐり抜けて来たんだ? ……まあアンタ亡霊みたいだし、案外フリーパスで通り抜けてこられたのかもしれねェけどな! ははっ!」
「…………」
「……jokeは……通じなかったんだっけな」
  たらりと冷や汗を垂らし、政宗は再びごほんと咳き込んだ。前田の所のまつといい最北のいつきといい、「変な女」は苦手だ。普段が普段なので政宗は周囲から「破天荒で非常識人」として捉えられる事が多いが、基本は限りなくノーマルである。だから女の趣味とて特別美人ではなくとも、性格は至って「普通」の奴がいいと思っている。

  これが男なら……あの向かい合う度身も心も焦がしてくれる「熱苦しいアイツ」がいいのだけれど。

「とにかくだな」
  心の奥底へ押しやったはずの男の顔をふと思い出してしまった政宗は、意図せず不快な声を出して市に言った。
「お前の言い分次第じゃ、大将に話通してやる事も出来る。皆を助けたいってのはどういう事だい。アンタ、何処の人間なんだ」
「独眼竜に、会わせてもらえる…?」
「は…そいつは無理だ。一国の大将がそうほいほい他所モンに面通しするわけがないだろう」
「でも……噂では……」
「あん?」
  政宗が怪訝な声を上げると、市は相変わらず俯いたままの姿勢でぽつぽつと言葉を切った。
「独眼竜は、たとえ他所の国の人間でも広く門戸を開け迎える将だって…。とても大きな考えを持っている人だって…」
  政宗がハッとして何も言えずにいるのに気づかず、市は続けた。
「だから…会ってもらえると思ったの。戦いを止めてくれると思ったの。兄さまの闇を、衝動を、止めて…もらえると……。兄さまも、独眼竜の力をとても買っていると聞いた…。だから、きっと」
「………」
「他所の国とも懇意にしてるって。東は勿論、中国の毛利や、四国の長曾我部という海賊とも。だから、だから、市は……」
「アンタがどっからそんな話聞いてきたのかは知らねェが」
  努めて冷え冷えとした声を出して政宗はぴしゃりと市を黙らせた。

  一体いつの話だろう、「あの頃の自分」のせいで愛する奥州は荒れたのだ。
  もう戻らないと決めているのに。

「妙な期待は抱かない事だな。うちはうちの事で精一杯だ。大体、アンタの兄貴がどんだけ酷い武将かは知らねェが、独眼竜だって同じ侍だぜ。自国を荒らす奴は躊躇なく殺すし、国の安寧の為なら他所の国にだって攻め込む」
「………もう戦は嫌なの」
  ふるふると首を振って涙声になる市を政宗は黙ったまま見つめた。自分は間違っていない。これが俺の考えだと思っているはずなのに、目の前の市を見ていると妙に腹の底がぐらぐらと煮立った。

  間違っていない。俺は、間違ってなどいない。

「……―」
  けれど、どうしてだろう。政宗は不意に小十郎や成実や―…大切な仲間の、心配そうに自分を見つめるあの顔を思い浮かべた。小十郎など何事か言いたそうな目を向けるくせに結局何も言わなくて。
「嫌なの……」
  市が言った。
「殺しあいは、もうたくさん。どうしてなの。何故、戦は起きるの。戦を止めたい。皆が……皆が、死んで、しまう」
「……これ以上殺さない為だ。まずは国を一つにして、争いのない土地を―」
  政宗の機械的な口調に市は激しく首を振った。
「おかしい…おかしい…ッ。戦をなくす為に、戦をするの…? そんなの、市は、分からないもの…!」
「……ちっ!」
  ぐしぐしと泣く市の言葉に政宗のイライラは最高潮に達した。
  一体どうしろと言うのだ。俺は俺にやれる事しか出来ない。己の国を護り、これ以上戦乱の世を長引かせない為に、天下統一を目指す。自分自身の手で争いのない国を作る。それが俺の夢、俺に課せられた、俺が今ここに生きている理由ではないか!
  だからこそ、「それの為」に、鬼にも修羅にもなろうと決めた。
  それなのに。


  “殿の将棋は、いつでも真正直に過ぎますな。”
  “確かに、あの国境警備は嫌な大人のする事ですな。”


「くそッ! むかつくぜッ!!」
  おもむろに立ち上がり、政宗は突然何か悪い物を吐き出すようにそう大声で叫んだ。勿論傍の市はびくりとして、お陰で泣き止みはしたが、途端ぶるぶると震えてどうして良いものやらと白い顔を尚一層白くした。
  外の雷雨は未だ止みそうになかった。
「……言えよ」
「え…」
  その間がどれくらいあったのだろう。恐らくはほんの一瞬のものだったのかもしれないが。
  政宗は一つ大きく息を吐くと、厳かな低い声で言った。
「アンタ、何処の国の奴なんだ。言え。でないとここで斬る」
「………」
「独眼竜に何をさせたいって? お前の兄貴は何を企んでる。何処を攻める気だ。アンタ身内だろう、少なくともアンタがいる所ではないんだろう。何をそんなに怯える」
「違う……」
「何が違う」
  詰問する政宗に市はすっと自嘲の笑みを浮かべた。ゆらりゆらりと揺れる炎の間で、その一瞬、市のその瞳には狂気の色が宿っているように政宗には見えた。
「市がいようといまいと…兄さまには、関係ない…。兄さまは、ただ殺すの……」
「殺す…」
「今はまだでも…。きっともう直、攻めて、くる。兄さまは…誰も信用、していない…」
「……おい。アンタ―…」
「朝倉はもう炎に包まれ始めてる…。だから、次は……」
「……ッ」
  まさか。
  不意に記憶の引き出しからその名が蘇ってきて、政宗は目を見開いた。
  いや、けれど間違いない。本人も何度となく己の名を口にしていたではないか。どこにでもある名前と聞き流してはいたが、今さら気づくなんて間抜け過ぎる。
  政宗はその事実に今さら気づいた己を激しく心内で罵倒しつつ、暫し立ち尽くしたまま沈黙した。ようやっと声を出せた時も、どこかしゃがれたものだった。
「………アンタ、バカか」
「………」
「自分の立場、分かってんのか。前田から何か聞いたのかも知れねぇが…。俺は、もう……」
「きっと……」
  けれど市は政宗の声が聞こえているのか、いないのか。
  未だ暗い地面を見つめたまま、それでもいやにはっきりとした声色で言った。
「きっと、いるわ」
「……何だよ」
  政宗がたった一つの眼を窄めて市を見ると、市の方もすっと顔を上げ、政宗を見据えた。先刻垣間見えた狂気はもう消えている。けれどその瞳―…、吸い寄せられて目が離せないその色は。

  あの魔と呼ばれる男と似ていると思った。

「独眼竜」
  そしてその魔を継ぐ少女は緩やかに、ただ力強く―…畏怖を纏うその雰囲気とは全く異なる言葉を口にした。
「独眼竜……。貴方のこと……貴方のような人を、待ってる人が…願い続けている人々が、きっと、いる。……それは奥州じゃなくても」
「!」
「きっと、いるから」
「………無茶苦茶言うなよ」
  自分の正体がいつバレたのかとか、何故会ったばかりの女にそうまで言われるのかとか、考える事は色々とあった。
「戦で困るのは民…。武器を持たない人々なの。お願い独眼竜…助けて」
「………」
「皆を、助けて」
「……ふざけるな」
  けれどこの時の政宗にはそれしか言えなかった。そしてそう言った自分がとてつもなく愚かに聞こえた。
「俺は―…」

  これから、天下統一を。

  けれど政宗は、ふと己の剣を振るっていて一番楽しかった時の自分を脳裏に過ぎらせていた。
  それはあの紅の男と何の見返りもなく、何の打算もなく戦っていた時。
  ただ己の力だけを素直にぶつけられた、あの一瞬、あの日々。やりたいようにやった、思うがままに生きていた、あの時が―。
「冗談じゃねェよ…」
  それでも政宗はただそれだけを呟いた。呟いて、そして後はただじっと目を瞑り、大きく1つ息を吐いた。



<了>




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