この子の匂いを辿ったら
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「太郎と姫子がいなくなったのでござります…」 「は?」 礼儀正しく正座してそう言った女性は、シクシクと泣いていた。白い布を目頭に当てるその仕草は可愛らしいと言えない事もなかったが、政宗はその場に立ち尽くしたまま眉をひそめた。 「あ〜…そりゃ誰のことだ? まつさんよ」 「ですからっ! 太郎と姫子です!!」 「……いや。だから、俺はそんな奴ら知らねェんだけど…」 ぽりぽりと顎先を指で掻く政宗は一応表面的には気を遣うような笑みを浮かべたが、心内では激しく「何でうちの城は最近こんなヘンな奴らが入り浸ってんだ?」と自問自答していた。 政宗が「まつさん」と呼んだのは、前田利家の妻、まつの事である。一応敵対している織田側の人間であるし、こんな風に気安く呼ぶ間柄でもないのだが、どうやら彼女はここへ単身「私事」でやって来たようだ。別段フェミニストではないが、女一人を相手に前田だ織田だと騒いでも仕方がない。周囲の侍女たちもまつが何者かは分からないようだし、このまま遠縁の女という事にしておけと政宗はそんな風に考えていた。 「政宗殿! 聞いておられるのですか!?」 「は? ……あぁ悪ぃ。全然聞いてなかった。何だ?」 そうこうしている間にもまつは何やら必死に政宗に語りかけていたらしい。しかし相手があまりに上の空なので思い切りふてくされたようだ。まつは白い布をぎゅっと口に咥え、実に悔しそうに顔を歪めた。 「女の言葉をないがしろにするなど! 政宗殿は仮にも一国の主。政事を滞りなく行う為には我ら女子の考えや意見にはよくよく耳を貸すものですよ! それを…!」 「でもアンタ、別に俺の女ってわけでもねーし」 「当たり前にございますっ。まつめの身も心も犬千代様のものっ。ああ犬千代様…! まつは、まつは何故このような所に…!」 「ホントだよ。何でいんだよ…」 「何か仰いまして!?」 ぼそりと呟いた政宗の声はまつにもしっかりと届いたようだ。涙目ながらもキッとした鋭い視線で睨みつけ、それからきょろきょろと辺りを窺う。 「そういえば。他の者の姿が見えないようですが」 「ああ。人払いをしてある」 「何故…? はっ! まさか、この機に乗じてまつめを政宗殿の慰み者にするつもりではっ!? ま、まさか!!」 「……あのなぁ」 あーもう!とぐしゃぐしゃ髪の毛をまさぐった政宗は、ここでようやく興奮しているまつの前にどっかと胡坐をかいて言い含めるような声を上げた。 「あのな? アンタも分かってると思うが、ここは伊達の領地だぜ。何か知らんが最近妙な奴らがどんどん入ってきやがるが…。フツーに考えてアンタがここにいんのはおかしんだよ! 今すぐ俺に斬られても文句なんざ言えねーんだぞ!」 「まつはそう簡単にやられませぬ。それに、犬千代様が助けに来て下さいます」 「Shut up!! 助けるって何だ助けるって!? アンタが勝手にうちに入ってきといて、奥州を攻める気か、前田は!? そうなったら俺も黙っちゃいねえぜ?!」 「落ち着いて下さいませ、政宗殿。犬千代様はそのような理不尽な真似は致しませぬ。政宗殿がまつに手を出したら…という仮定の話にござります」 依然として正座をしたままきょとんと答えるまつに、政宗もいい加減どっとした疲れを感じたが、それでも気を取り直し抑えた声を出す。 「……だから手なんか出さねーって。その為にした人払いだ。他の奴らに大っぴらにバレないうちに前田へ帰んな」 「人質にしたりはしないのですか?」 「んな面倒臭ェ事するかよ。アンタんとこの大将…魔王とは、いずれサシできっちり勝負つけるつもりだからな」 「まあ。さすがは独眼竜、伊達政宗殿。男っぷりがようございます」 ぱちぱちと嬉しそうに手を叩き、まつは先刻の騒ぎなど嘘のようにころころと笑った。大丈夫かこいつ……とは、政宗が心の中で思った事だが、やがてその破天荒な奥方は不意にまた思い出したような顔になってさっと眉尻を下げた。 「太郎と姫子がいないのでございます……」 「あ。話が戻ったな」 政宗が俯けていた顔をかったるそうに上げると、まつは必死の様子で縋るような声を出した。 「まだ御子のいない我ら夫婦ですが、太郎と姫子は我らにとって実の子のように大切な存在…! それが…今朝方、まつ特製ご飯をあげようとした時に……悲劇は起きたのでござります」 「ちょっとその前にいい加減教えろ。その太郎と姫子ってのは何だ? ……もしかして人間じゃねえのか?」 「鷹の子にござりまする」 「……ああ。あのめちゃくちゃに攻撃してくる人食い鷹か」 「政宗殿! 何という事を!」 「あー! 悪ィ! 話進めろ。で? 鷹がどっかいっちまったのか?」 「そうなのです。まつ特製ご飯のつもりが……ご飯がいつの間にか摩り替わっていて…。それに激怒したあの子たちは家出をしてしまったのでございます」 「家出ェ?」 実に胡散臭い声が出てしまったが、幸いまつは気にしなかったらしい。再びシクシクと涙を落とし、その後何を思ったのかごつんと畳を拳で叩いた。 「!?」 「それもこれもっ! 全ては犬千代様のせいですッ! 犬千代様がご自分のご飯だけでなく、あの子たちの物まで取って食べてしまわれたから!」 「は、はあ…?」 「犬千代様、食べた後しまったとお思いになられたのでしょうね。私があの子たちの為に作ったご飯をご自分で食べておしまいになって、それがなくなってしまったものだからご自分でご飯を炊いたのですよ」 「前田利家が? 自分で飯を?」 「そうです。ああ…お殿様が自らご飯を炊くなど! そのような事、お家の恥にございます!」 「……へー。で?」 「犬千代様のご飯が余程不味かったのでしょうね。太郎も姫子も反狂乱になった後、何処ぞへと飛び去ってしまったのでございます…。呼べど待てども、あの子たちは帰って来ない…」 「それで、探しに来たと」 「はい。犬千代様の嗅覚を信じるのならば。こちらの方であの子たちの匂いがしたと」 「………犬だな」 おかしな夫婦だとは思っていたが、やはりおかしかった。 政宗は呆れたようにまつの嘆く姿を眺めていたが、ふと嫌な予感を覚えて恐る恐る口を開いた。 「あー…。で? ダンナはどうした」 「犬千代様でございますか? 甲斐まではご一緒していたのですが、途中で逸れてしまいました。いつもいつも寄り道をするのですよ、うちの旦那様は」 けれど間もなく来るでしょう、あの方は私の匂いには一番敏感なのです。 ……惚気なのか何なのか分からないような台詞をまつはうっとりとして言い放ち、それから改めて政宗を見やった。 「それで、太郎と姫子をご存知ありませぬか」 「知らん」 即答した政宗は、今はもう立ち上がってひらりと閉じていた襖を開け広げた。耳を澄ますが、まだ何らか騒ぎが起きた気配はない。 「どうかなさいまして?」 まつが全く分かっていないという風に訊く。それで政宗もようやくぎろりと凄んだ視線を向けて声を荒げた。 「あのなっ! 女のアンタだけならまだしも、旦那にまで来られたらどうしたって騒ぎになるだろうがよっ! うちの奴らだって大人しい連中ばっかじゃねえんだぞ? アンタの旦那みてえな煩いのが領内を疾走してたらだな…!」 「あら」 「? 何だ?」 「いらっしゃいましたわ」 「………は?」 「走って来られる音が聞こえます」 にっこり笑ってまつはそう言った。 「何だと……?」 そうして政宗がそんなまつを振り返り、一瞬だけ外への視線を外した時、だ。 「まつ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」 「!?!」 ドドドドドという物凄い地鳴りがしたかと思うと、城を覆う石壁すらも破壊してしまうのではという勢いで、まつの夫こと前田利家は政宗たちの下へやって来た。 「テ、テメエ…」 しかし政宗が仰天したのは利家が突然襲来してきた事などではなかった。槍を肩に掛けた半裸の大男は、何ともう片方の肩に「別のもの」を担いでいたのだ。 これにはまつもさすがに驚いた顔をしていた。 「い、犬千代様…? あの…その方は…?」 「まつ! 探したぞ、こんな所にいたのか!!」 「はい、こんな所にいたのですけれど、それより…」 「こら、テメエら! こんな所ってのは何だ!? ってより、そうだ、そんな事よりっ!!」 政宗は自分の目の前に立ち尽くし、妻であるまつにばかり目を向けている利家にびしりと人差し指を向けた。 そして叫んだ。 「何でテメエは肩に幸村を担いでんだッ!!」 「ん?」 利家はその怒号でようやく政宗の存在に気づいたという風になり、きょとんと首をかしげてみせた。その幼い仕草はまつが先ほど見せたものと実に似通っていたが、子ども子どもしているところはこの利家の方が遥かに上だ。 そうして、政宗が怒っている理由にも全く無頓着である。 「あ、こいつの事か? いやあ、まつ聞いてくれ。それがな…」 「訊いてんのは俺だっ!」 政宗はどかどかと利家の方へ歩み寄り、奪い去るように彼の肩に圧し掛かって…どうやら気を失っているような…幸村に手を伸ばした。幸村の顔は利家の背後にある為、その状態がよく分からない。それに一層焦れた思いがして政宗は「幸村!」とその名を呼んだ。 「おっと、触るな。落ちるだろうが」 しかし呼ぶと同時に手を出しかけた政宗を利家はひらりとかわし、数歩後退した。政宗から距離を取り、駄目だというように片手で制する。 「何だ何だお前は? 今こいつは眠っているんだぞ。煩くして起こしては駄目だろう」 「何を…! テメエ、幸村に何しやがった!?」 「何? 何ってなぁ、何だよ!? 変な奴だな」 「犬千代様。しかしどうされたのです、その殿方は…。もしや、甲斐の真田幸村殿ではありませぬか?」 要領を得ない利家に今度はさすがのまつも立ち上がって不審の声をあげた。政宗のように「邪な」想いで勘繰ったりはしていないようだが、愛する夫が大事そうに敵方の武将を抱えている姿はやはり面白くないようだ。眉間には微かに皺が寄っている。 しかし利家は実に得意気に言った。 真相も実に明々白々だったのだ。 「見ろ、まつ! 太郎と姫子だ!」 「あら…まあ…まあまあまあ…」 言いながら利家がくるりと背中を向けると、逆に今まで背を向けていた幸村の姿が露になる。 「……?」 政宗には意味が分からなかった。ただ幸村の、別段どこも傷ついていないような安らかな寝顔が目に入り安堵しただけなのだが…まつの方は目をキラキラさせて幸村の事を見ていた。 いや、正確には幸村の胸元を。 「見つかったのですね! 鷹笛!」 「そうなんだ!」 「鷹笛?」 訳が分からず訊ねる政宗に今度はまつが庭に出てきてすたすたと幸村の前にまで歩み寄った。 「これにございます」 そうして幸村の胸にぶら下がっていた小さな笛をそっとその首から外して自らの手に取った。 「これで太郎と姫子を呼び戻せます」 「つまりは、何だ?」 政宗は布団を敷かせた部屋に幸村を寝かせてから、隣の間で呑気にお茶を啜っている前田夫妻をぎろりと睨みすえた。 「その笛さえありゃ、家出した鷹は呼び戻せんのか」 「はい。ですが、あの子たちはこの笛を自分たちで咥えて飛び立ってしまっていたので」 「某たちは太郎たちを探す事は勿論だが…もぐ。この笛の行方も追っていたというわけだ。んぐんぐ。…そうしたらな、んぐ。真田殿が!」 利家は喋ってはもぐもぐと出された菓子をほうばり、ほうばってはまた口を開いてと非常に忙しそうだった。 そんな夫の口元を優しく拭ってやりながらまつが代弁する。 「真田殿はあの子たちが甲斐で落とした笛を拾って下さったのですね。ですが…ふふ、如何な真田殿でも半日以上あれを持っていたとあっては疲れるはずですね」 「そうだな」 「? どういう事だ?」 政宗が訊くと、利家はちょいちょいと外の庭を指さした。 促されるままそちらを見ると、いつの間にいたのか実に立派な大鷹が2羽、庭木に留まってこちらの様子を窺っていた。 「近くで見るとますますでけえな…」 「太郎と姫子の夫婦攻撃は我らの力にも匹敵する程のもの。あの子たちは私たち以外の者があの笛を持つと、その力で絶えず攻撃を仕掛けてくるのですよ」 「なっ…。そ、それで?」 「もぐもぐ…んぐ! 恐らくなぁ、真田殿は太郎たちが襲ってくる原因がこの笛とは知らず、ずっとこれを首に下げたままあいつらに追い回されてたんだ。…だがな、真田殿は武器を持っていた。だから俺は不思議だった。それであいつらを止めた後、何故それで攻撃しなかったんだと訊いたら、真田殿はこれは戦ではないからと」 「………バカか。それでテメエが殺られたらどうすんだよ」 ぼそりと呟いた政宗の言葉を、しかし前田夫妻も隣で眠っている幸村も聞いてはいなかった。走り回って体力の落ちた幸村は政宗の背後ですうすうと呑気に眠っているし、このお気楽夫婦も人の城でいちゃいちゃと何やらちちくりあっている。 「……あら? ですが」 しかしその時、不意にまつが不思議そうに利家の顔を見やった。 「犬千代様? ですが何故わざわざ真田殿を抱えて奥州までやって来られたのですか? 笛だけ取って真田殿は甲斐のお屋敷へ連れて行かれたら宜しかったのに」 「ん…?」 はて、そういえばそうだと政宗も頬杖をついていた手を放し、ふっと顔を上げた。 すると利家は別段何の不思議もないさというような飄々とした顔できっぱりと言った。 「俺も真田殿のご自宅へお送りするつもりだったぞ。真田殿はほれ、あのように疲れてばったりだったからなぁ。俺は匂いの辿るままに真田殿を運んだだけさ」 「匂い…で、ございまするか?」 「ああっ! 真田殿の匂いの基を辿ったらここに着いた! そしたらまつもいて、一石二鳥だった!」 「……はあ。それは…どういう事なのでございましょう」 腑に落ちないという風に小首をかしげるまつに対し、一方の政宗の方も利家のこの発言にはただただ唖然だった。あんぐりと口を開いたままその場で固まり、二の句が告げない。 こ、この野郎の嗅覚は犬以上だ…!!! 「………そういえば、政宗殿も先ほどは何故あのようにお怒りになられたのです?」 「はっ!?」 まつが思い立ったように発した言葉にようやく政宗ははっとして我に返った。 「な、何だよ?」 「先ほど怒ってらっしゃいました。犬千代様が真田殿を抱えていらして」 「おお、そうだそうだ。俺はただ礼のつもりで真田殿を運んだだけなのに、だ! あれはまさに嫉妬に狂った男の姿そのものだったぞ!」 「なっ!? 何だよその物言いはっ!? さ、さてはテメエっ! ホントは天然なんかじゃねえだろっ!? そのすっとぼけた態度はわざとやってんだろ!?」 「あ? 何を言っておるのだ?」 「……まつにも意味が分かりませぬ」 「煩ェっ! と、とにかく用は済んだんだろーが! テメエらさっさと帰れ! んで、もう二度と来んなっ!」 政宗は唾を飛ばしながら、こんなに騒いでは幸村が起きてしまうかもしれないといった事や、この夫婦は何処まで知っているのか確かめなければという事もすっかりうっちゃって、ただただ熱くなる自分自身に翻弄されてしまった。 全くみっともねえ。俺は何を照れてんだ? 心の中でそんな風に冷静に観察する自分もいるのに、それでも上昇していく温度は一向に冷める気配がなかった。バカバカしい、暫く会っていなかった幸村に「自分の匂い」が残存していた事がそんなに嬉しいのか。 「全く…。ガキは俺かよ…!」 依然としてこちらに珍しいものでも見るような目を向けてくる前田夫婦から視線を逸らし、政宗はちっと舌打ちした後ぶんとかぶりを振った。 そうして、ともかくは幸村が目を覚ますまでに何とかこの熱を下げなければ、こいつらもさっさと追い払わねばと思うのだった。 |
<了> |