その鼓



  「酒に弱い」などと言ったら絶対にバカにされる。


「うしっ、真田幸村。飲め!」
「う………」
  しかし幸村は手にした杯を前に、思わずぐっと唸ってしまった。なみなみと注がれたその透明の液体は月夜の下でそれはキラキラと美しく輝いているが、今はもう酷く性質の悪い毒にしか見えない。
  そう、自分をどんどんと柔らかく腑抜けたものにしてしまう、甘い毒。
「イイ半月だな。すげぇ気分いいぜ」
  けれどもそんな幸村に対し隣にいる男―伊達政宗―は、飲み始めた時からまるで変わらぬ涼しい顔で月を見上げている。酒に強いとは聞いていたが、彼は完全な蟒蛇(うわばみ)だ。悔しいが幸村の太刀打ち出来る相手ではなかった。

  戦場では対等なのに、こういう時はいつでも悔しい思いをしてしまう。
  だから今夜は絶対に潰れぬものかと頑張っているのに……。

「そういやぁ、今日は保護者同伴じゃないんだな」
「え?」
  その時、ふと思い出したようにそう言った政宗に、幸村は酔いでぼうっとなりながらも何とか聞き返した。
「保護者…?」
「そ。お前の保護者」
「誰の事を言っておられるのです…?」
「名前なんざ知るかよ。とにかくいつもお前の傍にくっついてる忍だ。いつもなら俺らがいるこの木の向こう辺りに控えてよ、目を光らせてんだろ」
「佐助の事ですか……って、ま、政宗殿! 保護者とはどういう意味です!? まるで某の事を小さな子どものように…!」
「お前怒るの遅過ぎ」

  鈍い奴だ、それとももう酔っちまったのか?

  政宗はそう言って笑い、やはり幸村にからかうような視線を向けた。そうしてむっとしてより一層顔を赤くする幸村のことを、出し抜け片腕でぐいと引き寄せ自らの胸に掻き抱いた。
「あっ…。な、何を…!」
「どうせもうgive upだろう? いいから俺に寄りかかってな」
「そ、そうやっていつも…!」
「ん」
「いつも、某をバカに…っ」
  酒に弱い、鈍感、常に保護者(佐助)付き……そんな言葉を投げ掛けてこちらの感情を煽っては、政宗はいつも最後には楽しそうに笑う。そして抱きしめてくる。自分たちは互いに別の国を持ち、敵対する者同士。ひとたび戦場へ赴けば命を賭して腕を振るう間柄だというのに。
  こうやって静かな夜に出会う時は、この男はいつもこうだ。

  来たな、真田幸村。まあ一杯やろうぜ。

  まるで長年の旧友に向かって親しく話し掛けるような全く屈託のないその態度。だからだろうか、幸村もいつしか護衛と称して共にやって来る佐助を遠ざけ、一人だけでこの国境の一本杉へ足を運ぶようになっていた。
  こんな風にこんな所で2人、酒を酌み交わすなどおかしな事だと思うのに。
  ましてや、こんな風に身体を寄せ合い互いの息吹を感じあう事も。
「……おかしいでは、ないか」
「ん?」
  不平を言おうとした途端、しかし幸村は政宗により強くぎゅっと抱きしめられ、先の言葉を捻じ伏せられた。
「ん…! ま、政宗殿!」
  けれど幸村は、一瞬は息を詰まらせたものの何とか顔をあげ、こちらをじっと見下ろす政宗をぎっとして睨みつけた。
「政宗殿は、何故いつもこうする…?」
「こうする? 何してるんだ、俺は?」
「な、何…?」

  そんな事口に出してわざわざ言えるか。

「……っ」
  そう思いつつ幸村がぱくぱくと口を動かしていると、政宗は勝手知ったるような顔でハッと嘲笑った。
  そうして困ったように視線を逸らす幸村の髪の毛をさらりと撫でると、政宗はそのままそっとそこへ自らの唇を当てた。
「!」
  それはちょうど頭の真上に当たる場所で、これをされたのは先日の分をあわせると今日で2度目だった。この間初めてこれをやられた時は、幸村はただもう驚いて政宗を突き飛ばすようにして飛び退ったのだが、当の政宗は平然として「こんなのはお前、キスなんかじゃねえからな」と言ってニヤリと笑うだけだった。それは幸村には全く訳の分からない台詞だった。
  しかしこの事を帰宅後従者の佐助に報告したら、その忠実な忍は呆れたように言ったものだ。

『別に、ダンナが嫌じゃなかったんならいいんじゃない』

  嫌とか何とか思う間もなく終わってしまった事だから、幸村はそれに関しての答えをまだ出していなかったのだが……。
「嫌だったか?」
「………」
  政宗にそう訊かれ、幸村は今度は逃げ出さず大人しくしていた己に途惑いつつも、嘘を言うのは卑怯だとすぐに首を横に振った。
「別に…嫌ではありませんでした」
「そうか」
「今のは…何なのです」
  素直にそう訊いた事をまたバカにするだろうと思ったが、政宗は意外にも静かで、ただ幸村の頭を優しく撫でただけだった。もっともそんな所作はやはり子ども扱いのようで嫌だったのだが……それは口にせず、幸村はすぐに顔を上げると依然自分を抱きしめたままの政宗を見上げた。
「政宗殿は何故このような真似をされる?」
「さあな」
「ご自身のしている事の意味が分からぬのか」
「ああ」
「……そんな、バカな」
「ああ。俺はバカだな」
「え?」
  あっさりと答える政宗に幸村は目を見開いた。
  政宗はただ笑っていた。
「俺はバカだ。……お前よりもずっとな」
「政宗殿…」
  しかし幸村はどんどんと近づいてきた政宗の眼光を見つめたまま、もう何も発せられず息を止めた。開きかけたその唇を咎めるように、接近してきた政宗のそれがそっと優しく重なってきたから。
「……っ」
  どくんと心臓が激しく飛び上がり、幸村は政宗の腕をぎゅっと掴んだ。
  けれど触れ合った唇を己から外すことはせず、幸村は政宗が何度となく触れては離れ、離れては触れてくるその唇の感触にただ溺れた。
「ふ……」
  何度も何度も、政宗は幸村の唇を味わうように、そして相手を試すような調子で啄ばむような軽い口付けを続け、最後に今までのものが全部吹き飛んでしまうかのような深く優しいキスをした。
「ん、んぅ…っ」
  舌を絡め取られ、離れていく間際まで唇をきつく吸われた。戯れには思えない、その熱く真摯な接吻に幸村はどうする事もできなかった。同時に触れられた頬や耳、支えられている背中にまで政宗の温もりを感じ、身体中が熱くなった。

  幸村は政宗を愛しく思った。

「………」
  行為が終わって幸村がうっすらと目を開くと、政宗は相変わらず平静とした顔でじっと強い眼差しを向けていた。
  そして。
「呆けてんじゃねえよ」
  幸村の濡れた唇を指の腹で拭ってやった後、政宗はそう言って再度自らの胸に幸村の身体を抱えこんだ。
「………政宗殿?」
  おとなしくその胸におさまった幸村は、しかし毒づきながらもどことなく精彩を欠いたような政宗に不審の声をあげた。政宗もおかしいが、こんな風に素直な自分もおかしいと、そんな事を考えながら。
「なあ幸村」
  するとどれくらい経ってからか、不意に政宗は幸村の耳元に唇を近づけるとどこか言い聞かせるような口調ではっきりと言った。
「戦場では、俺はお前を1番に探す。だからお前も俺を探せよ?」
「え………」
「探して、俺を殺しに来い」
「政宗ど……」
「俺もお前を殺すからよ」
「………」
「いいな?」
  何という事もないような様子で政宗はそう言った。
  笑ってはいない。けれど悲嘆もしていないような、それは実に静かな声色だった。
「………」
  だから幸村も。
「貴公は……酷い男だな」
  ―…そう言って応えるしかなかった。言って後は口を噤んだ。
  政宗の胸に顔を押し付けたまま、幸村はそのとくとくと規則正しく鳴る心臓の音にただ聴き入り、目を閉じた。
  そうしてそれに耳を傾けながら、せめて今この時くらいは、少しくらい男のこの鼓動が早くなってくれれば良いのに、と。
  ただそれだけを願った。



<了>



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