の果て



  何故助けたの、と。

  あの薄い唇が怒りで戦慄いた時、政宗はらしくもなくすぐに答えてやる事が出来なかった。それは相手が女だからとか、「殺人鬼」の変わり果てた姿に憐れを感じたからとか、そんな理由ではない。
  単純に、政宗にもハッキリとした理由が分からなかったからだ。

  けれど臣下である小十郎に同じ事を問われた時は、さすがに胸中に燻っていた不機嫌が最高潮に達した。

「気分悪ィからだよ」
「政宗様」
「分かってる。分かってるから、あんま煩く言うな小十郎」
  この問題を深く考えると頭が痛くなる。だから政宗は尚も何事か言いたげな腹心を片手を挙げて制した。
  それから眼前の庭先で成実と楽しそうに手合わせしている幸村を何ともなしに見やった。ここ最近、真田幸村という男は政宗にとっての「精神安定剤」的なところがある。
「あいつはいいよな。バカだから」
「……政宗様」
「だから分かってるって。そんなバカをこの奥州に入れちまってるのは俺だな。あいつだけじゃねェ、最北のいつきや、この間も謙信の奴が…」
「政宗様。此度の事、真田や他の方たちとは訳が違います」
「………」
「魔王の妹ですぞ」
「……魔王じゃねェ、あんな奴。単なるオッサンだから単なる妹に負けたんだろうが」
  ぶすくれたようにそう言ってみたが、小十郎には何も響くところがなかったらしい。依然として厳しい眼差しを向けてくるものだから堪らない。「俺だって知るか」と再度吐き捨てたくなりながら、それでも政宗はそ知らぬフリをして再び視線を幸村のいる方へ移した。
  そう、自分でも何故咄嗟にあんな事をしてしまったのか分からない。
  それはつい数日前の話だ。

  織田信長が倒れた。

「西の魔王が滅んだ事は我らの好機となりましょう、ですが…。この混乱の最中、そもそもの狂乱要因を作りしあの魔王の妹を匿っているとあらば……我ら伊達軍にとって不利にこそなれ、何一つ益になる事は―…」
「損得の問題じゃねェ。俺の目の前で人一人が死にそうになってたから、助けただけだ」
  それのどこが悪いんだよ…と、子どものような理屈をこねてみたものの、やはりというかで小十郎に政宗のその理論は全く通じなかった。
「あの者も死を望んでおりました」
「……」
「生きている事こそ地獄でしょう」
「……小十郎。それはお前らしくねェんじゃねえのか」
「そのような事はありませぬ。むしろ政宗様の方こそ」
「何だよ」
「まさかあの女を―」
「……は? ったく、無粋な想像すんじゃねえって」
  ハアァと深くため息をつき、政宗は胡坐をかいたままの状態で緩く首を振った。
  そう、ここ数日こんな不毛な会話が延々と続けられている。元々政宗にこういった苦言を呈せられるのが小十郎だけだから致し方ないが、それでも皆の意見を代表しているからこそのこの押しの強さと思うと、さすがの政宗もウンザリだった。
  勿論、自分の行動を後悔したり間違ったとは思っていないのだけれど。


  独眼竜……酷い、酷いわ。何故、市を生かしたの……。


「……魔王のオッサンは俺が倒すはずだった。あんな胸クソの悪い結末があるかよ」
  ぽつと呟いた政宗に、今度は小十郎もすぐには何も言わなかった。
「俺はよ、浅井の最期も見てる。あの市がぶっ壊れちまったところも間近で見ちまってんだよ。気持ち悪いだろうが、気分悪いだろ? お前が俺の立場でも、あんな場面見せられたら思わず助けちまうって」
「では今ならどうです」
「はぁ…?」
「あの状況下で政宗様が《思わず》人道に則って魔王の妹を助けたというのなら、それはそれで良しと致しましょう。しかし今は冷静な判断力をお持ちです。今後の戦況も、そして我が国の行方も。政宗様なら一番にお考えでしょうな」
「………そうだな」
  素直に頷く政宗に、ここで小十郎は初めて苦しそうな顔を閃かせた。元々は「情」にかけて政宗よりも遥かに厚い義の漢である。本来ならこんな話はしたいわけではないのだろう。
  小十郎はぐっと拳を握り締めながら低い声を発した。
「…申し訳ありません。政宗様のやりようにここまで意見するなど、この小十郎、元より覚悟は出来ております。ですが…」
「小十郎。分かっていると、俺は言ったぞ」
「政宗様…」
「お前の心配はもっともだ。俺が《今の》状況下で国の為にならない事をしちまってるのも分かってる。けどな、それでも―……、俺はあいつを殺す気はねえ」
  何も言わない小十郎に、政宗は傍にあった煙管をおもむろに摘むとコツンと叩いた。
「あいつ、生きてるって感じた事、多分一度もねェんじゃねえか」
  いや、一度だけ…あの「夢を見つけた」と力強く頷いてみせた時だけは、本当に輝いて見えたのだけれど。
「政宗殿ォ!!」
「ん……」
  その時、庭先で尻餅をついている成実を前に、幸村が嬉しそうな顔をして政宗に向かって声を張り上げてきた。
「お話は終わりましたかな! そろそろ某と手合わせをして下されッ!」
「ああ! 分かった、今行く」
  政宗はにこにこと害のない笑顔を振りまく幸村に自然笑みを零し、それからついと背後に控える小十郎に目をやった。
  そして抑えた声で告げる。
「あの男になれとまでは言わねェがよ。…なあ、小十郎。あいつ…幸村は、いつも本当に楽しそうだよな?」
「はい…」
「幸村はいい。本当に気分がいいぜ、あいつを見てると」
「政宗殿ォ!!」
「わーかったって! んな急かすなよ!」
  それでも政宗は幸村のぶんぶんと激しく手を振る様子が可笑しくて心底からの笑顔を零した。
  この戦乱の世の中で、本当にどうかしている。幸村は武田の武将で、敵なのに。
  自分はこんなにもあの男に惹かれている。
「そういう気持ちを全部奪われちまったあいつに生きろってのは……確かに俺は残酷だけどな」
  そう独り言ちた政宗に、小十郎は再びすうと眉をひそめ、唇を噛んだ。





  群雄割拠の戦国時代、しかし天下に一番近いとされていた魔王は、実の妹・市の叛旗により、あっさりとその身を滅ぼしてしまった。
  信長の家臣である明智光秀や森蘭丸、妻の濃姫も先の戦いで散っている。元同盟国である浅井・朝倉両軍はそれ以前に信長の手によって壊滅させられており、前田軍はこの状況下に徹底した沈黙を護っている。事実上の白旗宣言であろう。
  故に、信長の配下にあった者たちは皆完全に天下という頂きから引き摺り下ろされた。
  全ては魔王とその妹「市」の常軌を逸した「破壊」がもたらした結果だった。
  魔王の支配下に怯えていた西の人間の中には、これらの事態を歓迎している者も少なからずいたが、都を壊滅的なまでの惨状に到らしめた市の存在を快く想う人間は、政宗が知る限りでは一人もいなかった。それどころか彼女が遠征先でしでかした事に憎悪を抱いている者は多く、もしその「魔女」が生きている事が知れれば、それを匿っている伊達軍はひとたまりもないと言えた。

  それでもあの業火の中、独り泣き崩れながらひっそりと死を待つ市を助け出したのは他でもない政宗だった。

  彼女は突然のその事態に当然暴れ半狂乱となり、何をする、死なせろと政宗を激しく罵った。けれど魔王との戦闘で疲弊していた市を政宗が押さえつける事など容易で、政宗は反対する小十郎たちの言も聞かず、彼女を奥州まで連れ帰った。
  そして離れに住まわせ、怪我の手当てをさせた。自害しないよう、刃のあるものは遠ざけ、常の見張りも置いた。もっとも、無気力になった彼女に最早その望む死を実行に移す力はもうないようだったが。





「また飯食ってないのかよ」
  政宗が執務を終えて市のいる離れを訪れると、いつものように介添えの女が心配そうにその現状を告げてきた。
「無理矢理口に入れられるのは嫌だろうが? 自分で食った方が美味いぜ?」
「市はもう…死にたいの…」
  同じことしか言わない女に、政宗は慣れたような目を向けながら傍に座った。
  市は決して政宗の方を見ない。ただ床で上体を起こしたまま、虚ろな眼で手元をじっと見やるばかりだ。
  そして死にたいと繰り返す。
「死なせねえって言ってんだろ。何回も言わせるなよ」
「死にたいの…死にたいの…。う、う、うぅ…!」
  そうしてやがて泣き出すのもいつものパターンだ。政宗はそれを無感動に見やった後、急にむかっ腹が立ってばしんと軽く市の頭を叩いた。女に手を上げるなど本意ではないのだが、あまりに寝惚けた声ばかり出すので時々はいい加減むかついてしまうのだ。
「んな簡単に楽にさせるかよ」
「………」
「お前、何人斬った? 勿論今は戦乱の世だ、俺だって何人も殺してる。けどお前がやった事は死んで済ませられる問題じゃねえ。いつき達の村にどんだけの被害を与えたか分かってんのか?」
「………」
  今まで責める言葉を一つも吐かなかった政宗のその言に、市は初めて意思のあるような光をその瞳に宿した。呪文のように唱えていた言葉もぴたりと止まる。
  だから政宗も後を続けた。
「あの雪ん子はよ、小せェガキのくせにどんなに辛い事があってもへこたれねえ。けど今回の事はさすがに参ったみてェだな。いつもは笑ってほうばる砂糖菓子も受け取りやしねえよ。……それでも、あいつは言ったんだ」
「………」
「『何であの姉ちゃんはあんなに苦しそうだったんだ』…ってな」
「……市…市は……」
「あん時は…俺も悪かった。お前の旦那、救ってやれなくて」
「市…市は、長政様、と…」
「お前に兄貴を討たせてすまない。俺の仕事だったんだよ、あれは」
「うう…う、兄、様は……」
  きちんとした思考になっているのかは分からないが、市は政宗の言葉に反応しては必死に言葉を継ごうとしていた。再びさめざめと泣き出しはしたが、それは明らかにいつもの涙とは違うもののように感じた。
「……また来る」
  政宗はおもむろに立ち上がり、市に言った。
「いいか、俺は絶対にお前を死なせねェ。お前は生きろ。……生きてなきゃ出来ないだろ」
「………」
  何をと、市が初めて顔を上げてそう問うた気もしたが、政宗はそれには答えなかった。
  ただ黙って立ち去り、それから誰にも聞こえないようにため息をついた。





  翌日、いつものように幸村が「手合わせにきた」と家臣が告げてきて、政宗は心底「ホントあいつはいいよな、呑気で」と思った。
「あいつこそこんなしょっちゅうウチきて、非常識だっての」
  それを嬉しく思っているくせにわざと毒づいてみせて、政宗はそれでも幸村が待っているであろう修練場へと向かった。気分の悪い時には幸村を拝むに限る。
  しかし幸村の姿はどこにもない。
「幸村…? あいつ、何処行きやがった」
  いつも城の中をうろうろと勝手に動き回るから慣れた事ではあったが、政宗としては早くあのノーテンキな笑顔を見たかったから妙に気が急いてしまった。そこかしこを通る家臣に「幸村はどこだ」と訊いて歩きながら、政宗は自身も落ち着かなくあちこちを彷徨い、自分にとって最高の「精神安定剤」を探した。
「幸村」
  そうして幸村がいたその場所に。
「幸―…」
  政宗は思わず足を止めて声を失った。

「どうです、美味しいでしょう?」

  幸村は市のいる離れの濡れ縁に市と肩を並べて座っていたのだ。本来女性全般が苦手な幸村にはそれはかなり珍しい光景で、しかも何の照れた様子もなく自然に市と接するその表情に政宗は思わず目を見張った。
  その顔は弱った人間に優しく接する菩薩のように見えた。
「何考えてんだ、俺…」
  それに思わずツッコミを入れた政宗だったが、それでも声を掛けられない。そうこうしているうちに幸村は恐らくは政宗への土産だったのだろう、「甲斐の特製団子」をしきりと市に勧め、そして晴れ晴れとした声で言った。
「今日は天気も良くて気持ちの良い朝ですな!」
  市が何も応えようとしないのもまるで意に介した風はない。幸村は子どものように縁側に腰掛け遊ばせている両足をバタバタさせながら空を見上げた。
「ですので、早朝から失礼かとは思ったのですが、すぐにこちらへ来てしまいました。政宗殿と手合わせをすると一日気分が良いのです。とても、すっきりとした心持ちになれる」
  市はまだ何も反応を示さない。縁側に出てきているという事自体は驚きだが、幸村と同じように座ってはいてもを向いたまま顔を上げようともしない。
  それでも幸村は続ける。
「政宗殿は某がお仕えするお館様とは立場を同じにする方故、いずれは戦場で我が槍を向けねばなりませんが。ですがそれでも、某は政宗殿と同じ時代に生きられた事を喜びと感じております。そう感じられる己が嬉しい」
「………嬉、しい」
  市が声を出した。幸村はにこりと笑って頷いた。
「そうです。悲しいが嬉しい。これは偽りのない某の気持ち。生きていればこそです…このような己の気持ちと出会えた事」
「……市は……」
「怒りも哀しみも身を捩るような焦燥も。生きているからこそ感じてしまうものですが……」
  そっと市に団子を握らせ、幸村は真剣な顔つきで言った。
「喜びもまた、然りです。きっと貴女にも訪れる。そんな日が」
「う…う、ううぅ、無理…! そんなの、無理ッ…」
「わっ…」
  耐え切れなくなったように泣き出す市に、幸村はここで初めて狼狽したような顔を見せて立ち上がった。慌てて後ろに控えていた側女が市を部屋へと連れて行ったが、幸村は依然としてオロオロしたようになりながら、それでも目一杯の声で叫んだ。
「死んではなりませんぞ!」
  力強い、それはとてもよく通る声だった。
「某には事情は分かりませぬが…! しかし、死んではなりません、絶対に!」
「おい幸村」
「絶対に、貴女にも!」
「幸村って」
「うおっ!?」
  突然後頭部を政宗に叩かれて、幸村は間の抜けた声を出して前のめりに倒れかけた。
  それから憮然としている政宗を振り返り見て、幸村は心底驚いたように目を見開いた。
「こ、これは政宗殿…! いつからそこに?」
「んな事ァどうだっていいんだよ。それより、女泣かせてんじゃねェよ」
  政宗がわざと意地悪くそう言うと、幸村はあわあわと再び焦った風になって激しく首を左右に振った。
「ちがっ! 誤解でござる! 某は別に…!」
「だってあいつ泣いてたじゃねえか。あーあ、ショックで死ぬかもな」
「そっ! そのような! 某、もう一度あの方とお話を―」
「………」
「な、何やらこちらを通りかかりました折、あの方が今にも命を断ってしまいそうな体で出て参ったのでございます! そ、それで、某は…! あ、政宗殿のお土産も渡してしまいましたが!」
「……jokeだよ」
「は…?」
「冗談だ。本気にすんな」
  政宗はあっさりとそう言った後、まじまじと幸村を見やり、それからふと唇の端だけで笑うとその癖のある髪の毛をわしゃわしゃとかきまぜてやった。
「わっ…政宗殿、何を…!」
「煩ェ。天然のお前にゃ敵わねェな、やっぱり」
「は…は?」
「あいつはまだ駄目だろうが…俺は救われたって事だ」
「……政宗殿?」
「Thank you. 幸村」
「??」
  幸村には何が何だか訳が分からないらしい。それでもはたと思い出したようになりながら、幸村は恐る恐るという風に政宗の顔を窺った。
「ところであの方は政宗殿とはどのような…。も、もしや奥方となられる方、とか…」
「あ? ……ばぁか、何でもねえよ。妹みてェなもんだ」
「妹君ですか!」
  パッと顔を明るくする幸村に政宗はいよいよおかしくなってしまう。こういう態度を無意識に取られるからこちらも調子が狂ってしまうのだ。
  そんな政宗には構わず、すっかり気分を戻した幸村は真剣にアドバイスするように指を立てた。
「いけませんぞ、妹君は顔色が大層悪かった。たまには外の空気を吸わせてあげねば!」 
「箱入りなんだよ。お前みたいに泣かす危険な男がいるから、なかなか外に出せなくてな」
「えっ! だ、だから! 某は!」
  再度わたわたとなる幸村に政宗は今度こそ大きく吹き出してしまった。やっぱり敵わない。
「幸村」
「わ! ま、政宗殿!?」
  だから政宗はそんな幸村の身体をおもむろに抱きしめると、それに面食らって口をぱくぱくさせる相手に構わず、ゆっくりと目を閉じた。ただぎゅっと抱きしめる腕に力を込めた。

  そう、この喜びも悲しみも。今ここにある温もりも。
  生きていれば、こそだよな。

「好きだぜ幸村」
  政宗はそっとその愛しい相手の耳元にそう囁き、そしてちらとあの襖の向こうにいるであろう市を見やった。
  今は無理でも、いつかは。
  あの少女を覆う闇の果てが、少しでも薄らいでくれればいいと―…そうなればいいと、心から思った。



<了>




ドラマCDネタです。浅井領近くの山中で殿と市が偶然出会って夢について話し合ったり、「妹を泣かすなんてロクなもんじゃねえ。そんな兄貴は俺がぶん殴ってやるよ」みたいに言う殿が素敵過ぎてときめきまくりのエピソードでした。結末は涙ながらに聴けませんが…。ドラマCDの結末を変え、狂乱した市が魔王様を倒してしまい、その後…という設定で書きました。市に救いがあるならこんな終わり方がいいなあと。未視聴の方は是非あのドラマCDを!お勧め過ぎます!

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