ラブリー
「 気持ち悪い」
ぴたりと足を止めてそう呟いた龍麻に、その後ろを大人しくついてきていた黒装束の男・如月翡翠は実に不思議そうな顔をして首をかしげた。
「 気分が悪いのかい? ついさっきまではやたらと元気そうだったが」
「 どこが!」
言われた台詞にきっとした目を閃かせて龍麻が勢いよく振り返ると、そのキツイ視線を向けられた当の如月は依然として静かな表情のままあっさりと答えた。
「 どこが、と言われても。こんなに入り組んだ遺跡の中をあんな尋常じゃないスピードで走り回っていたら、そりゃあ元気だと思うだろう。具合の悪い人間が出す速度じゃなかったよ」
「 わざと!」
「 ん…?」
むっとした顔をそのままに、龍麻は遂に我慢ならなくなって未だ意を飲み込めていないという風な如月に詰め寄った。ぐいと上体を寄せ、その久しぶりの顔をじいっと見やる。何しろ向こうは全身黒ずくめだから、よくよく近づいて見ないとその表情が分からないのだ。
「 ……っ」
「 どうしたんだ、龍麻」
間近で見る如月の瞳はとても穏やかで、龍麻は一瞬言い淀み口を噤んだ。
ただ、この状況を明らかに楽しんでいるような如月の様子には、やはり焦れた思いがしてイライラした。
龍麻はより声を荒げた。
「 俺…っ。わざとダッシュしてたんだよ! 翡翠と歩きたくなかったから!」
「 え?」
「 え、じゃないっ! 何だよさっきから! 何か凄くむかついてきたぞ!」
「 ……何が?」
「 何がって!」
こちらだけがどんどん熱くなる。それがとにかく忌々しくて、龍麻は先刻言葉を交わせた喜びなど全て忘れ、また自分自身の事も全て棚に上げて、目の前の「旧友」を怒鳴りつけた。
「 だって…! だって折角久しぶりに会ったのに、何か翡翠、全然いつもと同じだろ…っ。俺が急にいなくなった事も責めないし、何でこんな所でまた高校生やってるのかって事も訊かない! ただ分かった風な顔だけして『敢えて訊かない』って…! 何だよそれ! そ、そもそも俺がお前んとこの店あんなに利用してたのに、何で今まで来なかったんだよ!!」
「 ………」
「 し、しかも今だってこうやって一緒にいるのに、黙って後ついてくるだけでさ…っ」
「 ………」
「 な、何だよ…! 何か文句あるかよ!」
一気にまくしたてた龍麻の台詞に如月は何も返さなかった。
ただすっと消した表情の中に静かな怒りが込められているような気がして、龍麻は思わずその視線から逃れるように下を向いた。
いつものように深夜探索に出掛けようとしたその矢先、如月は突然龍麻の前に現れた。
ふらりと立ち寄った旅先、ひょんな事からロゼッタ協会なる組織の宝探し屋にされてしまった龍麻だったが、その運命を今更どうこう言うつもりはない。ただ、その任務地とされた場所が東京の、しかも新宿だと分かった時、龍麻は少なからず頭の痛い思いを味わったのだ。
翡翠にバレたらどうしよう……。
最初真っ先に頭に思い浮かんだのはその事だった。だから今夜、探索前に立ち寄った場所でその如月の姿を見つけてしまった龍麻は、とにかく慌てふためき狼狽した。そうして何故か反射的にそのままくるりと踵を返し逃げ出そうとまでした。
「 やあ」
しかしそんな龍麻の背中に、如月はあっさりと声を掛けてきた。
「 元気そうだな。龍麻」
随分と活躍しているようだな?と、探るような目で尋ねられた時、龍麻は思わず曖昧な返答しか出来なかった。如月が自分の近くにいる事はとうに分かっていて、ロゼッタ協会御用達の「あの店」から自分の注文した品が素早く届くと、龍麻はそれだけで心躍る思いがした。
あの卒業の時。
『 いつでも君の傍にいるよ』
優しくそう言い笑ってくれた如月が、あの時の約束通りいつでも見守ってくれている気がした。
恥ずかしげもなく「僕は君の為に在るのだから」と言ってくれた、あの。
かつての同士で、かつての仲間で、かつての……。
「 僕の方こそ、いつ君が呼んでくれるのかと待っていたんだけどね…」
「 え…?」
俯いたきり黙りこんでしまった龍麻に如月が言った。どことなく呆れたような視線が胸に痛かったが、発せられたその言葉を龍麻は頭の中で何度も何度も反芻した。
「 痺れを切らせて出てきたんだ。むしろ怒って許されるのは僕の方だと思うが」
「 だ、だったら…!」
怒ればいいじゃないか。
「 ……っ」
そう言いかけて、けれど龍麻は黙りこくった。如月に怒られるのは今も昔もやはりしんどい事のように思えた。結局自分はいつでも良いように逃げているのだ。そんな思いがぐるぐると全身を行き来した。
しんとした遺跡の中で、土の匂い石の匂い、その他様々な匂いが鼻先を掠めていく。
「 東京を離れたいと言ったのは君だ。違うかい」
如月が言った。何とも答えられずに龍麻はぎゅっと唇を噛み、再度俯いた。
「 突然離れて、突然戻ってきて。しかもその事を君は僕に知らせては来なかった」
「 うん…」
だって忙しかったんだ。そんな言い訳にもならないバカな言い訳が頭に浮かんだが、さすがにそれは口に出せなかった。
「 龍麻」
「 え」
けれどそんな龍麻の考えは当にお見通しなのか、呆れたようなため息と共にその腕はすっと伸びてきた。
「 あ…!」
そうして腕を取られ引き寄せられたと思った瞬間、龍麻は如月によって強く抱きしめられていた。
「 ひ…翡翠…」
「 言っただろ。いなくなったのは君だ」
「 う、うん…」
「 それでも僕は君を見つけた時点ですぐにこうして駆けつけて…抱きしめなくてはならなかったのかな」
「 ………」
「 どうなんだい、龍麻」
厳しい口調ではないのにそう訊ねられただけでもう胸が苦しくなった。だから如月の胸に顔をくっつけていた龍麻はそう言った相手の腕を遠慮がちに振り解くと、そっと窺い見るような目を向けた。
口元が隠されていると、やっぱりその表情はよく分からない。
「 取って…いい…?」
「 ………」
半ば独り言のようにぽつと呟きながら、龍麻は如月を隠しているその黒布にそっと手をかけた。
如月は別段何も言わず、ただ静かだった。
「 どうだい」
そうして己の素顔が露になった時、如月はようやく抑揚の取れた声で龍麻に向かってそう言った。
「 翡翠だ…変わらない…」
「 ……ああ。そうだ」
「 ………」
その先何と答えて良いか分からず、龍麻はただ困った顔をした。すると所在ないように宙に浮かしていた龍麻の手を如月がすっと取った。
「 君がいなくなってからますます人前に顔を晒すのが嫌になってね。今の商売は、その点でいうととても都合がいいよ」
「 忍者だから顔隠してたんじゃないの…」
「 そういう風に取られた方がまだマシだろうな」
嘲るようにそう言い捨てた後、如月は龍麻を握る手により力を込めて続けた。
「 龍麻。僕と…歩きたくなかったのかい」
「 翡翠…」
「 知らぬフリをしていた僕に頭にきた?」
「 だ、だって…」
「 黙って後をついてくるだけの僕に不満だった?」
「 ちょ…っ」
突然強い力で身体を押され、龍麻は思わず声を出した。どんと強い衝撃があり、はっとして背後に目をやった時には、もう傍の石壁に身体を押し付けられていた。
迫るその眼に龍麻は急激に焦りを覚えた。
「 ひ、翡翠…?」
「 いい具合に君が走ってくれたお陰で、あの可愛い少年はついてこられなかったらしい」
「 え…あ、そういや凍也がいない…!」
如月に指摘された事で初めて龍麻ははっとなり、慌てて周囲を見回した。
今頃気がついたが、今夜の探索にはもう1人意地っ張りな後輩を連れて来ていたのだ。この学園の仲間たちに過去の自分を知られるのが嫌だったから、龍麻は如月を連れた今夜は誰も誘う気はなかったのだが。
墓地で待ち構えて「当然俺も行きますよ」と言った後輩に、龍麻は断る術を持たなかった。
「 相変わらずだな。君に夢中にならない人間はいない」
「 なっ…何言ってんだよ…」
「 だが彼も修行が足りなかったな。2人きりになった事だし、このままここで今までの分を取り返そうか」
「 へ…」
「 ただ後をついて来られるだけじゃ不満だったんだろう」
「 ちょ…翡…!」
すっと近づいてきたその顔に龍麻は目を見開いて声を上げかけた。…が、それは容易く如月の唇によって制せられ、呼吸すらも封じられた。
「 んっ…」
「 …何年待たされたと思ってるんだ」
それはそっと触れ合うだけのキスだったが、その唇は未だ完全に離れる事なく龍麻の熱をすっと奪い取り、同時に違う熱を与えてきた。
そしてそれに翻弄され続ける龍麻に如月は凛とした声で言った。
「 何を怒っていたんだ、龍麻」
「 ………」
「 怒っていたのは僕だ。平静を装っていても、本当はすぐにでもこうしたいと思っていたんだ。…それでも君がここで成さねばならない事があるならと大人しく従っていれば…何を訳も分からず怒り出す?」
「 ………」
「 今日僕に来いと言ったのは君だろ」
「 ………」
「 龍麻」
ああ、やっぱり翡翠は変わらない。龍麻はそう思い、ぐっと目を瞑った。こうして真っ直ぐにこちらに向かい、安心する熱と同時にこちらをかき乱すような眼を向けてこんなキスもしてくれるのだ。
「 だって…」
それが自分は辛くもあり、哀しくもある。
「 だって翡翠は…」
だから龍麻は意を決したようになって目を開くと、自分も真っ直ぐに如月を見据えて言った。
「 翡翠があんまり、同じだからだよ」
「 ……さっきもそんな事を言ったな」
「 うん」
「 龍麻」
「 え……あっ…」
呼ばれて答えたと同時、また唇を塞がれた。戒めの封印が解けたかのように、あの布が取り去られた途端、如月はしつこいくらいに龍麻に触れるだけのキスを繰り返した。
「 翡翠…ッ」
それが嬉しくて、けれどやっぱり苦しくて龍麻は言った。
「 俺…翡翠に会いたかったんだ…」
でも。
「 でも、怖かった…」
「 ………」
「 お前に……会いたくなかった」
そうだ。だから逃げ出した。
東京というその街そのものから少し距離を置きたい、そう思う気持ちも勿論あった。けれどそれ以上に、
龍麻は自分を無条件で包み込み守ってくれる如月翡翠という男からも、もしかすると逃げ出したいと思っていたのかもしれない。龍麻は自分に自信がなくて、けれども如月の事が好きだった。宿星だとか何だとか、そんな事はどうでもいい。ただ自分の心が如月を必要だと訴えていた。
けれどその強い自身の想いが、龍麻はずっと怖かったのだ。
「 ……龍麻」
「 もう一回高校生やれるって知って…。だから、俺は、本当は凄く嬉しかった」
「 ………」
「 もう一度…ちゃんと考えられると思ったから」
「 ………」
そう言って試すように向けられた龍麻のその瞳を、如月は互いの唇が触れ合う程の至近距離からただ黙って見つめやっていた。
微動だにせず、暫し2人は見詰め合った。
「 ふ…」
その目を先に和らげたのは如月だった。
「 龍麻」
そして如月は一言言った。
「 バカだな」
「 翡翠…?」
「 龍麻は相変わらずだ」
「 どういう意味…んっ」
先刻までの戯れのようなキスから一転、今度は強引な所作で何度も舐られ舌まで入れられたものだから龍麻は思い切り面食らった。やめさせようと腕を強く掴んだものの相手はびくともしない。
「 あ…っ」
途端、驚く程身体に力が入らなくなり、龍麻はそのままずるずると地面に座り込んだ。
「 龍麻」
するとそんな龍麻に如月はいやに不敵な笑みを向けると、その身体に覆いかぶさるように再接近し、その髪の毛を優しく撫でた。
そして言った。
「 くだらない事で悩んで、こんな騒動に巻き込まれて。全く君らしい。だから放っておけないんだよ。幾ら君がそれを望んでも」
「 ………」
「 大人しく、僕は君につき従うだけだ。だがね、君がそれを不服だというのなら…もう待ったりはしないよ」
「 え…ちょ…」
「 そうか。寂しかったのか」
「 翡翠っ」
「 僕もだよ」
「 あ…っ。ちょ、どこ触って…!」
「 愛しているよ」
「 ……ッ」
暗闇の中で何か得体の知れない生き物たちの蠢く音がそちこちで聞こえる。淀んだ空気の中で、何か不吉な色が浮かぶ。
それでも今の龍麻には、そんな事もうどうでも良かった。
あんなに会いたかった人が今、こんな風に優しく傍にいてくれる。あの意地を張って、怖くなって逃げ出した自分は一体何だったのだろう。
「 でも…凍也が来たらどうしよう…」
「 見せつけておくさ」
くすりと笑った如月の目は完全に面白がっていた。
その様子を見て、龍麻は本当に一瞬だけ「やっぱりマズいんじゃないかな」と思ったのだけれど、それでもやはりそれは本当に一瞬だけだった。
「 翡翠…好きだ」
結局その想いだけだったから、龍麻はすぐに観念したようになり、自分に迫る相手にそっと笑って見せた。
その夜。
「 龍麻センパイッ! 龍麻センパイ、何処いるんすかー!! くそ、あの怪しい忍者と一体何処消えやがったんだ! 全く世話の焼ける人だなもう! おーいセンパーイ!!」
可愛い後輩は一晩中遺跡の中を駆け巡っていたらしいが、2人の姿をと見つける事はとうとうできなかったという。
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