奥方の憂鬱
「 何してるんだい龍麻」
本来なら人に背後を取られるなど到底我慢ならないのだが、相手が龍麻だと思うから如月も我慢していた。……していたのだが、結局たとえ龍麻でも嫌なものは嫌なのである。特にこの如何にも「何か企んでます」というような、悪戯っぽい笑みを見せている時の緋勇龍麻は大変危険だ。
「 龍麻」
呼びかけているのに全く反応せず、未だにこにことしながら如月の座る椅子の背に手を掛けたままの龍麻。視線は如月を通りこしてデスクの上にあるパソコンの画面に向かっているが、それを瞳に映して何を考えているかというのは、やはり分からない。昔はもう少しは龍麻の考えも分かっていたと思うのだが、一時期離れ離れになっていたせいか、そして互いに成長し少なからず大人になって「変わった」せいなのか。
如月は時々龍麻の事が分からなくなる。
「 ……何見てるんだい」
答えないかもしれないなと思いながら、それでも如月は一応もう一度声を掛けてみた。自分から仕掛けなければ龍麻がいつまでもこうなのは目に見えていたし、やりかけの仕事にも差し障る。用があるならあるで何か言って欲しいし、特に何もないのなら出て行って欲しい。たとえ同居していても、そういうところはきちんとしていたい如月なのであった。
「 君にとって面白いものじゃないだろ、こんなもの」
「 うん。でも大切だよ」
すると龍麻はようやっとそんな事を言い出し、それから如月を見つめてにこりと笑った。ああこの顔は反則だな、この笑顔はずるい…と如月は思う。幾ら自分が不機嫌な顔をしてみせても龍麻はそうと分かっていてこんな「可愛らしい」笑顔を見せて、こんな「綺麗な」瞳で自分を見つめる。
それで全部許される事が分かっているんだな。
「 何が大切なんだい」
それでもそう簡単に厳しい態度を崩しては癖になる。今自分は仕事中で忙しい。たとえ龍麻が退屈で遊んで欲しいと思っていたとしても、駄目な時は駄目なのだと教えてやらなければ。
如月は同じ年であるはずの龍麻に対して、(本人は至って真面目だが)極めて失礼な子どもに向かうような心持ちでそんな事を考えていた。
無の表情を決して崩さずに如月は口を開いた。
「 龍麻は、さっきまで隣でテレビを見ていただろう」
「 うん」
「 何故こっちへ来た? 言っただろう、僕は仕事中は独りで集中したいタイプなんだ。如何に君でもこんな風に邪魔されたくない」
「 うん、知ってる」
「 ……じゃあ何故ここにいる?」
「 うん」
「 ………?」
頷くだけでは答えになっていないじゃないかと訝しむ如月をよそに、龍麻は未だパソコンに表示されている数字―JADEショップの支出リスト―を見つめ続けている。これらを一見したからと言って店の経営状態や商品の概要等が瞬時に分かるわけでは勿論ない。にも関わらず龍麻の表情からは、それらの数字を全て把握したい、何か一つでも分かる事はないだろうかと熱心に探っているような感があった。
「 ………」
それで如月もすっかり抗議する気を削がれてしまった。
暫くしてから龍麻にそっと呼びかける。
「 龍麻」
「 ん」
「 ……君もこういうのに興味があるのか?」
「 うん」
「 ……手伝いたいのかい?」
「 うんっ」
今度はこれでもかという程の大きな声が返ってきた。如月はそんな龍麻の態度に驚いて目を見開いたのだが、龍麻の方は「やっと分かってくれたか」というような顔を閃かせて、椅子の背に掛けていた手にぎゅっと力を込めた。
そして龍麻は言った。
「 俺、手伝いたい」
「 ………」
「 俺も何か仕事したい」
「 何故」
不快な声になっていなかっただろうかと如月は言った直後妙に気になったが、龍麻は何とも思っていないらしい。途惑っているような如月にすっと顔を近づけると、龍麻は何か大層な秘密を打ち明けるかのような声でそっと囁いた。
「 俺ね、翡翠。そろそろ充電完了してきたらしいよ」
「 ……?」
「 いつまでも翡翠のすねかじりでもないなって。この生活もうやめる」
「 ……すねかじり。そんな事思ってたのか?」
「 思ってなかったけど。さっきふと思った」
だって俺。
朝起きて翡翠が作った朝飯食べて縁側でゴロ寝して。
また翡翠の作った昼飯食べてちょっと本読んで昼寝して。
夕方近くを散歩してきたらもう翡翠の作った夕飯が出来ててテレビ見て。
あとはさ、寝るだけ。
「 そこに時々翡翠とのエッチが入るわけだけど、さすがにそのご奉仕だけじゃ悪いし。俺だって翡翠に気持ち良くしてもらってるわけだし」
「 ……そういう言い方は好きじゃないが」
「 とにかく、俺も何か働きたいなあって」
「 ………」
「 駄目?」
小首をかしげてそう言う龍麻に、「何を可愛く甘えて見せてるんだ」と如月は咄嗟に心内で毒づいたのだが、それが己の内から沸き起こった焦りを覆い隠す為だとは気づいていなかった。嬉しいという気持ちもないわけではない。自分が誇りを持って取り組んでいる仕事に興味があると龍麻は言い、それを手伝いたいとまで言った。大体にして、何かをしたいと口にした龍麻は久しぶりだった。
だからそれがもし本心ならば、喜ばしい事だと思う。基本的には。
しかし……。
「 生憎、手は足りてるんだ」
如月は素っ気無くそう言い、わざと表示させていたリストの画面を閉じた。すぐさま龍麻が不満そうに口を尖らせたのは視界の端にも留まったが、敢えて知らないフリをする。
龍麻を外へ出したくない。それが現在の如月の偽らざる本心だった。
この自由気ままな鳥のような男は、今でこそこんな風に自分の傍にいるけれど、いつまた何処へ飛んで行くかも分からない。充電は完了したと言った。ほんの少しのきっかけさえあれば、彼はいつでも世界へ向かって飛んでいく。JADEの仕事はそういう意味では外へ出る為の一番手っ取り早い口実だろう。
だから自分はそんな龍麻に決して賛成などしてやらない。そんな事で利用されて、「それでもいい」と思っていた時代はとっくに終わっているのだ。
「 翡翠」
そんな事を如月が悶々と考えているなどと、この時の龍麻に分かったのかどうなのか。
「 翡翠」
それは定かではないが、何も応えない如月に龍麻は二度その名を呼ぶと、先刻まで見せていた無条件に明るい笑顔をさっとしまい、静かな優しい目だけを残してゆっくりと唇を開いた。
「 こんな事をさ、言うつもりはなかったんだけど。でもね……大好きだ」
「 は…?」
「 大好き」
「 何が?」
突然訳の分からない事を口走る龍麻を、如月は陰鬱な気持ちを抱えていた事とも相俟って本当に理解できていなかった。眉をひそめて「何なんだ」と再度問いかけると、しかし龍麻は怯まずに再度繰り返してきた。
今度はもっとはっきりと。
「 翡翠の事、大好きだって言ってるんだよ」
「 な…っ、何を突然、そんな事を言い出すんだ?」
らしくもなく舌をもつれさせて、如月は唖然とした表情で背後に立つ龍麻を見つめやった。
自分もあまり言う方ではないが、龍麻の方がもっと言わない。愛してるとか好きだとか……言葉にするくらい簡単だとはいつも思うのに、互いに熱く見詰め合ってもそれはなかなか出てこない。きっと性格なのだろうと思っていた。別になくても構わないだろうと思っていた。
けれど。
「 ……龍麻。そんな台詞で僕の機嫌を取ろうとしても無駄だよ?」
そう言いつつも、ほんの今までぐらぐらと煮立っていた不快さが消えているから不思議だ。たった一言、龍麻に「大好き」と言われたくらいで。
「 とにかく」
それでも頬を緩めては調子に乗られる、そうはいかないと如月は必死で毅然とした態度を作ったまま、龍麻にふいとそっぽを向いた。
「 とにかく仕事の件はなしだ。君は何も手伝わなくていい」
「 何で」
「 ……何処にも行って欲しくないからだ」
「 ん」
ぽろりと出した本音に龍麻がおやと反応したのが分かった。如月はそれも先刻同様無視すると、視線をあわせないままに憮然として続けた。
「 外に出たければ散歩でもしてこいよ。好きな事すればいい。でも……君はここにいるんだ。もう冒険は十分しただろ」
「 何それー」
如月の台詞に龍麻はぶはっと噴き出すと、わざとらしく嫌そうな顔をしてバンバンと椅子の背を叩いた。
「 すっごい亭主関白。奥さんが外に出るの嫌なんだ?」
「 そうだよ。悪いかい」
「 ……ふふ。まあ、いいけどさあ…」
でも退屈なんだよなあと龍麻はようやく椅子に掛けていた手を離し、また試すような探るような目線を向けてきた。
「 ……龍麻」
それで如月も仕方なく、今日は仕事ももう終わりだなと諦めてパソコンの電源を切った。そうして部屋を出て行こうとする龍麻に背中を向けたままわざと何て事ない風に言う。
「 5分後に君の部屋へ行くよ。良ければ、だけど」
「 ……うん。待ってる」
すると龍麻は案外素直にそう応えると、「ありがとう」と何故か礼まで言って部屋を出て行った。如月はそんな不可解な態度の龍麻に嵐の前の静けさを予感して嘆息した。
そうして退屈な奥方を外に出さない為には、そろそろ家事の一つでも覚えさせる必要があるかもしれないなと思案するのだった。
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