店内にて
店に入ると、見知らぬ若い男とぱっちり目があった。
「 あれ……」
「 やあ。いらっしゃい」
長い黒髪を肩まで垂らしたその男は、龍麻を見ると涼し気な目元を薄っすらと細めてそう言った。男はダークグレーのスーツをきっちりと着こなした見た目二十代程の青年で、その悠々とした佇まいはどこぞの高貴な貴族を連想させた。
「 あの……」
「 何か入用かい」
しかし龍麻のその印象とは裏腹に、男はこの店…如月骨董品店の上得意でも取引先の同業者でもなく、一介の店員のような態度で接してきた。龍麻が来るまでは店の台帳に目を通していたのか、開いていたそれをぱたんと閉じると、男は改めて龍麻を見やった。それからすっと姿勢を正して立ち上がった。
「 可愛いお客さんだ。何が欲しい?」
龍麻は男のその言葉に思い切り面食らったが、躊躇しながらも何とか口を開いた。
「 あの…翡翠は?」
「 翡翠?」
「 ここの店の…主の」
「 ああ……翡翠ね」
男は本当に納得したのか、曖昧な口調でそう言ってからまた薄い笑みを張り付けて龍麻を見つめた。そうしていつまでも入口付近に立ち尽くしている龍麻に自らの腕をつと伸ばすと、子供に接するような仕草で来い来いとその手を振った。
「 まぁいつまでもそこにいないで。こちらへおいで」
「 え…でも、あの……」
「 翡翠は昼寝中だ」
男は困惑する龍麻にきっぱりと言って、再び余裕の眼差しでこちらへ来るように繰り返してきた。
龍麻は根負けし、そろそろと男に近づいた。それで男は満足したようににっこり笑うと、傍にあった如月愛用の椅子を引っ張り出し、まるで自分の物のように龍麻に勧めた。
「 座るといい。今、お茶を淹れよう」
「 あの…貴方は?」
「 奈涸」
「 え?」
「 俺の名さ」
男…奈涸はそう言ってふっと笑むと龍麻から背を向けて部屋の奥へと消えて行った。本当に茶を淹れてくれるようだと龍麻が思ったのはその時で、奈涸のその動作はいつも如月が自分にしてくれる仕草にそっくりだと思った。
如月は龍麻が店に顔を出すと、いつも美味しいお茶を淹れてくれた。
その如月翡翠は、今日は一体どうしたというのだろう。奈涸は昼寝などと言っていたが。
昼寝。
あの如月が。何だかイメージではないのだが。大体、自分の知らない人間に店を預けて眠りこけるなど、初めての事ではないだろうか。
龍麻はぼんやりと店の中を眺め回してから、不意に不安な気持ちになって表情を翳らせた。せっかく放課後と同時に学校を飛び出て来たというのに。
「 待たせたね」
「 あ……」
そんな事を考えていると、間もなく奈涸が戻ってきて龍麻に湯気の上がった湯のみを差し出してきた。
「 少し熱いかな」
「 あ…でも」
自分は熱い方が好きだから、と言おうとして、けれど龍麻はその声を途中で止めてしまった。
「 あ…あの…?」
「 …………」
奈涸は何を思ったのか、湯のみに手を伸ばした龍麻のその手をすっと握った。それからじっと何やら思惑ありげな顔で龍麻の顔を覗きこんできた。
「 あの…な、何ですか…?」
見知らぬ男に手を握られて、いよいよ龍麻は困惑した。
ただどうしてか、その手をすぐに振り払う事はできなかった。彼の纏う空気が何だか似ていると感じたせいかもしれない。
翡翠、に。
「 君。名前は?」
不意に奈涸が訊いた。龍麻ははっとして顔を上げ、そう訊いてきた奈涸の顔をまじまじと見やった。そうして、そういえば自分は相手の名前を訊いたのに、こちらはまだ名乗っていなかったという事に気づく。
「 緋勇です……」
それで恐る恐るながらもすぐに返答した。
「 緋勇」
「 はい……」
「 緋勇……」
奈涸が繰り返す。その声色が何だか今までになく張り詰めたもののような気がして、龍麻は慌てた。だから訊かれてもいないのに再度繰り返した。
「 はい、緋勇です。緋勇龍麻」
「 そうか」
短く答えて、奈涸は何か得心したようになって頷いた。それからすっと龍麻の手を放すと最初に見せたような笑顔になって言った。
「 それで龍麻君はうちの常連なのかな」
「 え…ええ、それはまぁ…」
「 それはありがたい」
おどけたように奈涸は言ってから、畏まった会釈をして見せた。それから龍麻の目の前の椅子に再び腰を下ろすと、先ほど閉じた帳簿を開いてとぼけたように続けた。
「 ここ最近、店の経営状態が今ひとつでね」
「 は…はあ……」
「 これはいけないと思って、柄にもなく顔を出してきたと言うわけだ。俺はこの店が好きでね。潰れると困る」
「 え…そ、そんなに赤字なんですか、この店?」
「 そうさ」
困ると言いつつも、奈涸はどことなく楽しそうだった。
ぱらぱらと帳簿をめくりながら、「あれはいい品だ、これは面白い」などと言ってはいちいち目を輝かせている。龍麻はそんな奈涸に不審な目を向けつつも、しかしなかなか声を出す事ができなかった。
貴方は何者?
この店の何?
翡翠は何処?
「 …………」
色々訊きたいはずなのに、どうしてか言葉が出ない。ただ奈涸の放つどことなく飄々とした空気に飲まれ固まってしまっている。
それどころか。
一方で龍麻は奈涸の、どことなく静かで落ち着いた雰囲気に徐々に警戒心を緩めている自分を自覚していた。何だか安心だと思う。少なくとも危害を加えられる心配はない。責められない。安全だ。
それは、いつも自分が鬱々としている時にこの店に来て如月に対して思う感情に似ていた。
何もせずにこの店にいるのが龍麻は好きだった。
「 …………奈涸、さん?」
何気ない口調で呼ぶと、相手はすぐに顔を上げた。直後、緩やかな声が龍麻に向かって返される。
「 何だい、龍麻君」
「 えーと……」
「 何でも話してくれて構わない。君の声が好きだ」
突然奈涸はそんな事を言ってくすりと笑った。
「 俺はこういう商売をしているから。良いもの、良い人間には目がない」
「 は、はあ……?」
「 だから、今日ここに来られて良かった」
「 あの……」
マイペースな人だと龍麻は赤面しつつ思いながら、1人で焦っている自分が何だかとても恥ずかしかった。だから誤魔化すように言葉を継いだ。
「 あの……お店、赤字なんでしょ。どうするんですか」
今訊く事はそれじゃないだろうと自分で分かっているのに、何故か飛び出た言葉はそんな事だった。
本当に訊きたい事は、実は訊きたくない事のような気がしたから。
「 この店、儲かっているって思ってました。翡翠があんなだから」
「 あんな、とは?」
奈涸が興味深い顔を向けてきたので、龍麻も後の言葉を続けやすかった。
「 俺、いつもここで物買ったり売ったりするんですけど、翡翠、一度もおまけしてくれた事ないんです。物を買ってくれる時だってすごくシビアだし。みんなも翡翠はこの店の事になると友情だの仲間だのって感情は一切持たないって。だからこの店の経営が苦しいなんて意外」
龍麻がそう言うと、奈涸は少しだけ目を見開いて驚いたような表情をしてから、やがてくっと小さく笑った。そして帳簿を閉じると、改めて龍麻を見つめた。やはり翡翠に似ていると龍麻は思った。
「 経営が苦しいのは翡翠が無能だからさ」
「 え」
「 龍麻君が幾らこの店に貢献してくれても、経営者が無能ならば店は傾く。これは仕方のない事だ」
「 ………翡翠は無能じゃない」
むっとして奈涸を見たが、相手は全く動じていなかった。優しく見えていた瞳が、この時は既にひどく冷たいものに見えて龍麻は心の中でたじろいだ。
それでも如月を悪く言われた事には腹が立っていたから負けずに見返して。
「 あいつ、学校も店も頑張って…それで俺にもすごくよくしてくれて、いつも助けてくれる。あいつは、すごい奴なんだ」
「 そうかい」
「 そうだよ…! 俺が辛い時とか…いつも、何も言わなくても分かって傍にいてくれる。翡翠は何も言わないけど、ただいてくれるんだ。俺、だからすごく楽で」
一体何を話しているのだろう。
得体の知れない男を前に、龍麻はムキになっている自分を意識しながらも、けれど止める事ができなかった。湯のみには手を触れていたが、まだ一口も飲んではいなかった。
「 そりゃあ翡翠は時々こうるさいし、金にがめついし…。黙って自分が犠牲になろうとするところとか、むかつくとこもいっぱいあるけど…でも、あいつはいい奴なんだ」
「 ふぅん」
「 ふ、ふぅんって…!」
奈涸の何だかバカにしたような可笑しそうな目に、龍麻はいよいよかっと身体が熱くなるのを感じた。がたりと椅子を蹴って立ち上がると、奈涸を睨みつけて怒鳴った。
「 俺、帰ります!」
「 翡翠はもうすぐ起きると思うが。待たないのかい」
「 待ちません! だ…だって何かむかつくから!」
「 俺が?」
「 そうですよ!」
それはすまない、とまるで悪びれもせずに奈涸は言って、立ち上がったまま顔を赤くしている龍麻にいきなりすっと何かを差し出した。龍麻は意表をつかれて思わず口を閉ざした。
それは紺色の布も擦り切れてすっかり汚れてしまっている、何かのお守りのようだった。
「 ……これは?」
「 護符だよ」
「 ……見れば分かります。これが何なんですか」
「 買わないか。俺は翡翠と違っておまけもする」
「 は?」
「 これを買ってくれれば、うちの店も大分助かるんだけどね」
値段は大きく負けてこれくらい。
奈涸は指で机に数字をなぞる所作をしてからそう言うと、後はがたりと自分も立ち上がってすっと上体を龍麻の方に寄せてきた。そうして龍麻の耳元に自らの唇を近づけると、実にさり気ない所作で龍麻の耳にかぶる髪を指でかき上げ、悪戯っぽく囁いた。
「 これを持っているとね。変な虫がつかないんだ」
「 変な虫……?」
耳元にかかる奈涸の息がくすぐったくて、龍麻は少しだけ首を竦めた。けれど奈涸の如何にも得だと言わんばかりの言葉にやはり興味を隠せなかった。
奈涸はそんな龍麻に更に楽しそうに続けた。誰もいない店の中で、やはり何故か小声で。
「 そうさ。君にはたくさんの虫がつく。翡翠もそれが毎日心配で、だから商売どころではなくなる」
「 な、何言ってるんですか…?」
顔を赤くする龍麻に構わず奈涸は続けた。
「 だが、これを持っていれば誰も近づけない。我が一族、以外はね……」
「 え……?」
君は、俺たちのものだから。
「 奈涸さ……」
瞬間、奈涸のそう言った声と同時に、何処からともなく激しい突風が店の中に巻き起こった。
「 な…っ!?」
突然のことに龍麻が思わず目を閉じ、その風に身を屈めると、轟々と鳴るその風の間で奈涸の声が木霊して聞こえたような気がした。
―残念だけど、翡翠が起きてしまった。
「 奈………」
そしてその声の後、ぴたりと風は止んで。龍麻は突然の事にただ呆気に取られ、しばしその場から身体を動かす事ができなかった。けれど不思議な事に、あれだけ荒れ狂ったような風が吹き込んできた割に、店内の品物はただの一つも棚から落ちてはいなかった。
「 龍麻」
そして、そのすぐ後。
「 あ…翡翠……」
気がつくと、店と家の中を繋ぐ引き戸を開けて、奥の間から如月が顔を出していた。立ち尽くしたままの如月は制服を着ていたがどことなく寝ぼけたような顔をしていて、これは奈涸の言うようにやはり昼寝でもしていたのかと龍麻に思わせた。
そんな如月は依然としてぼうっとしたような状態の龍麻をいつもの無機的な顔で見やってきた。
「 龍麻。いつからそこにいる?」
「 ………さっき」
「 気づかなかった。声を掛けてくれれば良かったのに」
「 翡翠は昼寝中だからって…」
何となく反射的にそれだけ返すと、如月は不審な顔をしてから引き戸を完全に開け、店に下りて龍麻の傍に寄った。
「 誰がそんな事を? 誰かここにいたのか?」
「 うん」
「 …………」
その答えに如月はいよいよ眉をひそめた…が、ふと視線を下にずらすと龍麻が手にしているものを見咎め口を開いた。
「 龍麻、それどうしたんだい?」
それは奈涸が龍麻に売りたいと言っていた護符だった。
龍麻はいつの間にか自分で握っていたそれにはっとして目をやると、困惑した顔で次に如月を見た。
「 ………これ、護符だって」
「 一体誰がそれを?」
「 これ、この店の商品?」
「 ……違うよ」
如月は言ってその護符を半ば奪い取るようにしてから、「龍麻、一体どうしたんだ?」と直接問い掛けてきた。龍麻は夢から覚めきれない顔のまま、如月を見つめて「
翡翠こそ」と言い返した。
「 僕が何だと言うんだ」
「 寝てたでしょ?」
「 ……ああ。何だか急に…意識が遠くなってね」
不本意な様子の如月に龍麻は淡々とした口調で後を続けた。
「 だから店に変な奴が来た」
「 な………だから何の話だ」
龍麻はつと下を向き、今やすっかり冷め切ってしまっている湯のみに入ったお茶を見つめた。自分でもこの短い時間に一体何が起きたのか理解できていない。ただ奈涸という男は確かにいて、自分と会話し、そしてこれを渡していった。そして言った。
この護符を持っていれば…。
「 翡翠。俺、その護符買いたいな……」
だから龍麻はぽつりとその言葉を出していた。そして如月が答える間もなく後を続けた。
「 おまけしてくれなくてもいいよ。それ、欲しい。駄目かな?」
「 …………」
「 赤字なんだろ? 高値で売ってくれてもいいよ?」
「 バカな……」
如月は龍麻の台詞でようやく我に返ったようになってそう言った。そうして「一体どうやってこれを見つけたんだ」とつぶやきながら龍麻の手を取ると、如月は取り上げたばかりの護符をやや乱暴な所作でがつりと龍麻に握らせた。
それは何だか照れを隠しているようでもあったのだけれど。
龍麻が手に戻ってきたそれを見つめていると、如月は少しだけ困ったような顔をして言った。
「 言っただろう。それは商品じゃない。……あげるよ」
「 ………いいの?」
「 君が要ると言うのなら」
「 うん。ありがとう」
龍麻が素直に礼を言うと、不意に背後の店の引き戸ががたりと揺れた。風に吹かれたせいだろう、けれどその音はどことなく可笑しそうだと龍麻は思った。
その日、龍麻はその護符と共に如月の家に泊まった。
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