京一とて持っていても普段からそんなに使う方ではないが、龍麻が「それ」自体持っていないと聞いた時はさすがに驚いた。
「エーッ、緋勇クンって携帯持ってないのー?」
「今時珍しいな」
「やっぱりミステリアスな転校生だわ…!」
けれどそれをクラスメイトの桜井や醍醐、何かと言うと龍麻を追っかけ回す新聞部のアンコが一様に騒ぎ立ててバカにしたような態度を取ったのには、いつもの事ながらカチンときた。
しかしそんな京一の苛立ちなどマイウェイに過ぎる彼らに通じるわけもない。
「何でぇ? 緋勇クンなんて親元離れてこっち来てるわけだし。携帯ないと何かと不便でしょ?」
「そうよう、メールとかしないの?」
「さ、桜井さん、自分は携帯持ってますが! メールも結構マメにする方ですが!」
約1名、話の主旨とは逸れた発言をする者もいたが、基本的にその場にいた女子たちはとりあえず「携帯電話を持たない龍麻」が不思議で、その理由を知りたくて仕方がないようだった。特に話の中心に立っていた桜井はずずいと龍麻の席に顔を近づけ、何故か偉そうな顔立ちで言い含めるように口を切った。
「緋勇クンが何で単身こっちに来たのかは知らないし、ボクも別に知りたいとも思わないけどさ。ご両親にマメに連絡していないんだったら、それは良くないよ? 携帯なんてそんなに高くもないんだし、これを機会にイイの買っちゃったら?」
「そうねッ! その時はこのアンコさんに1番にメルアドを教えてねッ! “謎の転校生・緋勇龍麻の携番&メルアド、遂に明らかとなる!!”って今度の新聞の見出しにするからッ」
「ア、アンコちゃん…? それはちょっと…個人のプライバシーの侵害かなぁって」
ここで初めて今まで黙っていた美里が苦笑したように口を出した。その横では未だに醍醐が桜井に向かって「自分は桜井さんにならいつでもメルアドも携番もお教えしますが!」と唾を飛ばさん程にアピールしている。
「………」
やや遠い場所からその光景を黙って見ていた京一は、一体このくだらない会話がいつまで続くのだろうと思っていたが、当の龍麻がただにこやかに笑んでいるだけでうんともすんとも言わないものだから、いい加減痺れを切らせてしまった。
「おい龍麻!」
だから多少強い口調で呼んでしまったのだが…そのお陰か、龍麻も素早く顔を向けた。ついでに他の連中も一緒に。
「行こうぜ」
それを無視して龍麻だけに視線をやり、京一は言った。授業の終わったこんな教室にいつまで残っていても何も良い事などない。いつも龍麻が帰り支度をのんびりやり過ぎるから、気紛れに近づいてくる桜井らの相手などするハメになるのだ。
先に教室を出てもう一度龍麻を顎でしゃくった京一は、しかしその横柄な態度のせいで今度は自分が桜井に捕まってしまった。
「ちょっと蓬莱寺! 何なんだよ、今ボクたちが緋勇クンと話してるんだろ!」
「小蒔…」
キンキンとした声を発する桜井が今にも京一に喰って掛かりそうだと思ったのだろう、親友である美里が遠慮がちに制止の声をあげた。
「葵は黙ってて」
けれどそれが余計にこの桜井小蒔の神経を逆撫でするという事に美里はいつでも気づいていない。
「親友」であるはずの美里葵に分かりやす過ぎるくらいの恋慕を寄せている桜井は、何かと言うと京一を庇うような態度を見せる最近の美里に苛立ちを感じ、またその怒りを京一の方にぶつけてくる傾向があった。
京一にしてみればいい迷惑と言う他ないのだが。
「あいつ、いつだって緋勇クンを自分の子分みたいに従えてるけどさ、ホント勝手だよ! 何なのあの態度は、前っからむかついてたけど、最近本気でぶち殺したくなるよ!」
「テメエに出来るのかよ」
無駄に挑発してもこの不毛な会話が長続きするだけだと知っているのに、京一はついつい桜井の女子とは思えぬその乱暴な喧嘩口調に腹が立って言い返した。
「俺はお前らの無駄な会話に付き合わされてる龍麻を助けてやってんだよ。そうだろ、龍麻。行こうぜ」
「何を…っ。緋勇クンッ! あんな奴の言う事聞く事ないよ! ボクたちといたかったら、こっちにいればいいんだから!」
普段は龍麻の事など気にも留めていないと言うのに、都合の良い時だけこんな言い方をする。そんな桜井が心底許せなくて、京一はいよいよ眉を吊り上げ、「言わなくてもいい事」まで口にしそうになった。
けれどそれが声になって相手にぶつかろうとした直前。
「えっと、今日は京一と帰るね。みんな、さようなら」
龍麻がそう言ってさっと立ち上がった。
あれほどのろのろと帰り支度をしていた龍麻とは思えぬほどの、それは実にあっという間の所作だった。
「あ…さ、さようなら、京一君、緋勇君!」
慌てて美里が2人に向かって声を掛けたが、その時にはもう龍麻も京一の横を通り過ぎて廊下に出ていた。龍麻は性格的に律儀だから、美里に声を掛けられてもう一度「さよなら」と振り返りながらへこりと礼をしたが、その人の良い綺麗な笑顔を見ていたのは、多分その場では京一だけだった。当の美里は親友である桜井の発言で京一が怒っていないかという事を気にしていたようだし、桜井は桜井で、心配そうな美里の横顔にキリキリしていた。その桜井を見ていたのは醍醐だし、アンコの方はその微妙な人間関係を観察したり、自分は自分でやっぱり美里同様、京一の表情を追うので必死になっているようだったから。
コイツらは皆、バカだ。
龍麻の事を分かっているのは、やっぱり俺しかいない。
「おい龍麻。待てよ」
そんな事を思いながら京一は先を歩き始めていた龍麻に声を掛けた。ようやく煩い喧騒から脱出出来て2人きりになれる。ほっとしたし力が抜けたし、何より龍麻が「連中より自分を選んだ」事がとても嬉しかった。
「ん…。おい、帰んねえのか」
けれど、これから先2人きりの帰路を思って浮かれ始めていた京一は、龍麻が想像した方向へ足を進めないのを不審に思って声を上げた。
「うん。ちょっと寄り道していい?」
龍麻はそんな京一にちらと振り返ってからニコリといつもの笑みを向けたが、京一が「いいぜ」と答える前に更に足早になって「PCルーム」というプレートが掲げてある教室に入って行った。
「何だぁ…?」
京一はそのドアの前で立ち尽くし、もう一度そのプレートを見上げて首をかしげた。
3年の必修授業には「情報A」という教科があるが、京一は今まで数度しかそれに参加した事がない。教室にいて寝ている間に出席扱いになるなら良いが、その授業は教師の講義だけではなくPCを扱う事も多々あるので、このPCルームにまで移動しなければならない日も少なくないのだ。
―で、そうなると億劫で面倒臭くて、ついつい欠席を重ねてしまって。
「おい、宿題でも出てたのか」
だから龍麻がここへ来る事情を京一はさっぱり飲み込めなかった。
龍麻は「すぐ終わるから」と言いながら、ガランとして誰もいない一番端の席に座った。何台にも並ぶPCルームは一見とても圧巻だが、ネット規制が設けられているせいか学生の利用頻度は高くないらしい。そういえば学校は授業の一環として一人一人にメールアカウントも貸与したが、それこそ今日びの学生は自分のパソコンや携帯電話を所持しているから、その学校指定のアドレスを私的に使う者は珍しいと言えた。現に京一も一度も利用した事がない。
けれどそこまで考えて、京一はようやく龍麻がここへ来た理由を知った。
「誰かにメールでも送るのか」
「うん。父さんと母さん。学校からメールアドレス貰ってから、毎日交換してるよ」
龍麻は目をキラキラさせて嬉しそうな顔を見せた。龍麻は京一と違って親想いだし、親が大好きだと誰憚る事なく堂々と言う。以前、上京してきたその龍麻の両親を一目見たくてこっそり後をつけた時は龍麻もかなり恥ずかしがってはいたが、3人が家族としてそれぞれに思い遣っている図を見た時は、京一もらしくもなく心の温まる想いがしたのだった。
「毎日よくそんな書く事あるな」
それでも何となくからかわずにはおれなくて、京一は隣の席に座ると横向きになって龍麻にニヤリと笑って見せた。
「うん。いっぱいあるよ」
けれど龍麻はそんな京一の鎌掛けにもあっさりと頷いて、「メールって便利だね」と言った。
そして直後には、とんでもない発言まで。
「最近は壬生君ともメール交換してるんだよ」
「………は?」
最初は何を言われたのか分からなくて京一もきょとんとした顔をしてしまった。
「壬生君だよ」
けれどPC画面を見つめたままこちらを見ようとはせず、その名前だけを繰り返した龍麻には急激に焦りの感情が沸き起こってきて聞き返した。
「壬生…? 壬生って、あの壬生か。拳武館の」
「うん」
龍麻は頷きながら、メールを読んでいるのか嬉しそうに目を細めた後、カタカタとたどたどしくそれの返信を打ち始めた。
それで京一もいよいよ落ち着いてはいられなくなった。
「何だよ。一体いつからそんな事してんだよ? 大体お前ら、あの勝負からいつまた会ったりしたんだ? 俺がいた時じゃないだろ? 何であいつがお前のこのメルアドなんか知ってんだよ? 2人で会ったって事だろ?」
「うん。壬生君がうちに来てくれたから」
「はぁ!?」
「きょ…京一、耳元で煩いよ…」
思わず叫び声を上げてしまった京一に龍麻がここで初めて抗議するような目を向けた。そうして心底「何故そんな顔をしているのか」と不思議そうに首をかしげた後、また嬉しそうに画面へと視線をやって続けた。
「壬生君とは初めて手を合わせた時から、何か自分と近い人だっていう感じがあった。壬生君もそうだったみたいだけど……当然だよね、先生が同じだったんだから」
「……おい龍麻」
「あれは正々堂々のちゃんとした勝負だったのに。壬生君、あの後僕が怪我とかしてなかったかって心配して来てくれたんだ。それに、仕事で使わないプライベート用のだって携帯番号も教えてくれた。それ以来のメル友だよ」
「メル友」
「うん。僕、そんな人、今まで持った事なかったから……何か、面白いよね、メールって」
「……あいつ、マメに返信とかしてくんの」
「たくさんくれるよ」
「………」
京一は自分が今一体どんな顔をしているのか知りたいような知りたくないような、そんな気分だった。声色だけは何とか冷静を保ってはいる(つもりだ)が、これ以上龍麻が他の男の事でこんな笑顔を浮かべるのなら耐え切れない事だけは確実だった。
大体、何なのだ。あの壬生紅葉なる男は。
初めて対面した時から面白くなかった。絶対に邪魔者だと思った。自分と龍麻の間を割って入ってくる、「招かれざる客」だと瞬時に感じた。
だから2人が純粋な気持ちで勝負をしようとあの海岸で会っていた時も、いてもたってもいられなくてついつい後を追ってしまったわけで。
「何て打ってんだよ」
京一がくぐもった声で訊くと、龍麻は「え?」と意味が分からないという風に訊き返してきた。
「あの色男に何て打ち返してんだって訊いてんだよ!」
だから余計むかっときて更に声を荒げてしまったが、龍麻はこれには批難の色は浮かべず、ただ困ったようにもう一度首をかしげた。
そして答えた。
「今度また2人で会えないかって言ってくれたから、『いいよ』って。場所と時間はどうするって今打つところ」
「………」
「……京一?」
いよいよ様子のおかしい京一にさすがに龍麻の手が止まった。それで京一としても少しだけは溜飲の下がった想いだったけれど、これだけ普段から「龍麻一筋」な、あからさまアピールをしている自分に対し、全く気づく風もなく他の男と「デート」の約束をしようという龍麻の無情さには、いい加減辛抱の糸も切れそうだった。
ただ、それでも。
「……ち」
その「許せない」と思った一秒後には、「仕方がない」とも思ってしまう。
だって相手は龍麻なのだから。
「龍麻」
「ん?」
だからと言って、このままにしておくわけにもいかないのだけれど。
「こっち向け」
「こっち?」
だから京一は龍麻に静かにそう命令し、龍麻がその言葉の意味を特に考えるでもなく機械的に繰り返してきたのを見やりながら。
「………じっとしてろよ」
龍麻の顎先に指をかけて、そのまま自分の唇を近づけた。
「京、一?」
龍麻は口づけをされるその瞬間まで、京一が自分に何をしようとしてきているのか分からなかったようだ。
「ふ…っ」
けれど、そっと押し当てられた時だけはびくんとして肩先を揺らしたものの、京一がガンとしてその肩を掴んで離さなかった事、角度を変えては舐るような口づけを繰り返していくと…、案外あっさりと、すぐにおとなしくなった。
「ん…っ」
喉の奥で龍麻が声にならない声を出した。気づけば目を瞑っている。それが嬉しくて京一は唇を離した後もう一度惜しむようにその上唇を食み、最後にぺろりと舐め上げてから龍麻の鼻をつまんだ。
「んっ。きょ…」
「ふん」
龍麻が驚いたように声をあげたが、京一は知らぬフリをした。顔が熱くて身体が火照ってどうしようもなかったから、わざと涼しい顔をする必要があった。
「そういやぁ」
だから今の行為を全て誤魔化すように、京一はすっとぼけた様子で言った。
「お前に伝言忘れてた」
「え?」
キスと鼻への悪戯から解放されて目をちかちかさせている龍麻に、京一はわざと真面目な口調で続けた。
「マリアちゃんから、お前に職員室の方へ来るようにって託、伝えるの忘れてたんだよ」
「マリア先生が…?」
「ああ。まだ帰ってないと思うからさっさと行ってこいよ」
「………うん」
「……何だ?」
龍麻がなかなか答えず、探るようにこちらを見つめるもので京一も居心地が悪くて仕方がなかった。
「早く行けよ」
それでもずっと知らばっくれてそっぽを向いていると、やがてふっと小さな息が漏れて龍麻が微かに笑ったのが視界の端に見えた。
「分かったよ。何だろ、先生の用って」
「…さあ、な。とにかく、ここは俺が見ておくから行ってこい」
「うん、分かった」
少し、どころか明らかに不自然な展開だというのに、龍麻はそれでも従順に頷くと席を立ち、急いだように教室を出て行こうとした。
「龍麻…っ」
けれど京一はそんな龍麻にもう一度声を掛けた。そうして龍麻が「え」と振り返った瞬間、焦った風に早口で言う。
「今度から携帯持てよ。俺が買ってやるから」
「え?」
「けど、他の奴にはそのアドレス教えるなよ」
俺は一体何の話をしているんだ。
しかも龍麻の反応が怖くて顔を上げられないだなんて。
「うん…」
けれど、分かっているのか、いないのか。
「分かったよ、京一」
龍麻はにこりと笑った後、京一のその「命令」にもしっかと頷いた。そうして後はもう本当に急がなくてはという風になって、今度こそパタパタと軽い足音を立てて通りの廊下を通り過ぎていった。
「………」
龍麻のその立ち去っていく音を最後まで聞いてから、やがて京一は「バカが…」と誰に言うでもなく呟いた。
そして。
「後出し野郎なんざ、お呼びじゃねェんだよ…」
すっくと立ち上がり、京一は据わった眼を画面に突き刺すように向け、ぽつりと残酷にそう言い放った。「同じ」だからこそ分かる。あの男―壬生―も自分と同じで、龍麻に対し一片ならぬ想いを抱いている。そして一度気づいてしまったらもう元には戻れない。まだあの男はそこまでには行っていないだろうけれど、今後気にすれば気にするほど、接すれば接するほどに龍麻にのめりこみ、龍麻から離れられなくなって。
やがて龍麻の事しか考えられなくなっていくのだろう。
それが、分かる。分かりすぎるほどに。
「冗談じゃねえよ」
言って、京一は龍麻が開きっ放しにしていったメールを何の迷いもなく削除した。気持ちは晴れなかったが、何もしないよりは随分とマシだった。
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