屋上で2人仲良く昼を取っていただけなのに、京一は気づけば龍麻を押し倒していた。
「どうしたの京一」
それでも「ニブイ」の頭に超がつくくらい自分の事も京一の事も分かっていない龍麻は、両手首を顔の横でそれぞれ縫いとめられているその異様な状況にも、キョトンとしたまま微か瞬きをするだけだった。
「どうしたのじゃ…ねーだろ…」
「何? 突然こんな事するから頭打っちゃったよ。僕、石頭だからコンクリートの方が割れたかもしれないけどね。ふふっ」
「なわけねーだろッ!」
このシチュエーションで何と色気のない言葉を吐くのか。
この龍麻だから、京一とて「やめて」とか「どうしてこんな事」とか、そんな少女趣味的な台詞を期待していたわけではないけれど。
だがしかし。
「お前さ、こんな事されて何も感じねーの?」
「こんな事って?」
「……俺、お前の事押し倒してんだけど」
「うん?」
それがどうしたのとでも言いたそうな龍麻の顔に、いい加減京一も不意にイラッとした負の感情が湧きあがった。
ぎゅっと痛いくらいに手首を抑える手に力を込めてやる。何故分からないのだ、普通の奴なら気がつくだろう、そう、普通なら!
こんなに普段からお前の事しか見ていない俺が、今こうしてお前の身体を拘束しているのに。上から熱く見つめているのに。
「バカ野郎…!」
「京一…?」
自分を呼ぶ声には答えず、京一は殆ど反射的に怒った己の顔を近づけ、そのまま龍麻の唇にキスをした。
「―………」
これにはさすがに龍麻も驚いたようだ。キスも目を見開いたまま受け入れていたが、その後も更に驚いたように間近にいる京一を見つめ、暫し声を失っている。
「…龍麻」
多少溜飲の下がる想いがして、京一は声のトーンを少しだけ下げた。
「分かったか。念の為言っとくが、フツーのダチ同士はこんな事やらねえぜ」
「うん…」
「分かったんだな?」
「うん。京一、今僕に口つけた」
「……本当に分かったんだろうな……」
淡々としたその物言いに意図せず額から冷や汗が浮かぶ。
初めて見た時から何処か浮世離れしているとは思っていた。そしてその雰囲気に惹かれたから、初対面でいきなり喧嘩を売って無理矢理自分という存在を刻み込ませたのだ。今まで誰にも興味を抱けない、何もかもがどうでもいい存在だったのに、龍麻の事だけは一目見たその時から、蓬莱寺京一という、自分という人間を認めて欲しいと感じていた。
京一は龍麻を「好きだ」と思った。
そしてその感情は龍麻を知れば知る程募っていき、今ではもう胸の内から沸き起こるその衝動で己の身が爆発しそうになっていた。
それなのに。
「京一、手がじんじんしてきたよ。そろそろ離して」
下から龍麻が少しだけ膨れたようにそう抗議してきた。しかも愛しいはずのその眼差しは今ではもう横に置かれた苺牛乳に注がれており、解放してくれないとそれが飲めないじゃないかと言外に不平を訴えているのが分かった。
「……お前」
やっぱりコイツは分かっていないのだと失望し、京一は思い切り舌を打った。
「龍麻…! あのな、お前な…! その。女と、キスした事とかねえの?」
「キス?」
「ああ。おい、ちょっと待て。まさか『キスって何?』とかは、言わねえよな?」
「バカにしてるの、京一。知ってるよ、キスくらい」
別段気分を害した風でもなかったが、龍麻はすぐに言い返して、「好きな人同士がするんだよ」と小さな子どもに教えるように答えてみせた。
その当たり前という回答に京一は何故だか「分かってるんだな」と安堵するよりも「だったら何故」という想いで頭をいっぱいにして、より一層眉間に深い皺を刻んだ。
「じゃあ何で今俺がしたそれに、お前はそんなノーリアクションなんだよ!」
「わっ、京一酷いよ、唾が飛んできた! いきなり叫ばないでよ…」
「はあッ!? るせえッ! お前、俺がこんな真面目にお前に―」
言いかけて京一は、しかしぴたりと動きを止めた。
お前に―…、何だろう?
告白しようとでも思っていたのだろうか。そういえば好きだもアイシテルも何もなしにいきなり事に及んでしまった。あまりに龍麻がぼけっとした顔をしているのが気に食わなかったし、自分ばかりが焦っている風なのが許せなかったから。
けれど別に、何をか考えて龍麻を押し倒したわけではなかった。
ただ、龍麻が。
「あのね。比良坂さんと」
その名に京一がハッとして我に返ると、相変わらず抑えつけられたまま横たわっている龍麻は怖い程穏やかな顔をして言った。
「僕、前に…ちょっとだけね。…そういう雰囲気になった事あるんだ」
「何……」
「えっと…。でも、結局は何もなかったんだけどね」
えへへと照れたように笑う龍麻は、どこにでもいる高校生男子そのものだった。
京一の怒りの炎はそれで最大限にまで立ち上がった。無論、顔には極力出さないようにしたが。
「……惚れてたのか」
龍麻が九角天童の鬼道で命を繋げていた少女と一方ならぬ関係があったと知ったのは、その彼女の命のともし火が消えるほんの数分前の事だった。
龍麻の危機を感じて京一がその戦いの場へ向かった時、龍麻はその少女を失った怒りと悲しみで傷つき、どこか理性を失していた。幸か不幸か身体の傷が九角を深追いする事を許さなかったが、龍麻があの一件でその比良坂という少女に何らか感じるものを持ち、それを京一や他の(一応の)仲間達に告げようとしなかった事には、何かとても重要な意味があるように……少なくとも京一には思えた。
あれから龍麻が時折一人で彼女の為に花をたむけに行く事を知っている。
そしてそれを面白くないと思っている黒い心を持つ己の事も。
「彼女の事は……笑わせてあげたいって思ってたんだ」
京一の問いに龍麻はそう答えた。
「いつも笑顔で、僕が何か言ったりやったりするとね。どんな事でも楽しそうに笑ってくれる優しい子だった。……でも、本当に笑うところを見た事はなかったから」
「そんな事ねえだろ」
少なくとも最期の時、身体を失い想念のみで己を具現化させていた時のあの少女は、龍麻を誰よりも大切な存在だと、愛しているのだと訴えているように見えた。
龍麻は京一が彼女のその最期を見たとは気づいていないようだけれど。
「僕、一緒にいる人をいつも怖がらせたり悲しませてばかりだった」
京一の手の力が緩んだ事を素早く感じ取ったらしい。龍麻は軽く身じろぎをしてから、遠慮がちに京一を自分の上から退かせてゆっくりと上体を起こした。
京一もそれに逆らう気が起きず、素直に言う事を聞いてしまった。
「小さい頃から友達も出来なかった。女の子にはいつも『ひーちゃん怖い』って言われてたし。何でかな。僕は笑っているつもりだったんだけど」
「周りがバカなんだ」
吐き捨てるように言うと、京一の怒りが自分の代わりにそうしてくれたものだと分かったのか、龍麻は「ありがとう」と寂しげに微笑みながら礼を言った。
そしてどこか遠くを見つめるように龍麻は続けた。
「だからっていうか。僕……女の子の事は、好きとか嫌いとかそういう以前に、笑わせたいんだ。僕を見て笑ってもらいたいんだ」
「………」
「だから、京一が想ってる事とは違うよ?」
「何が」
「比良坂さんが好きなのかって話」
「あ、ああ…」
それでもお前はあいつと「キスしそうな雰囲気」になったんだろ。
「―…っ」
そう言いたいのに、何故か声は出なかった。
代わりに違う言葉が口を出た。
「男はいいのかよ」
「え?」
「女だけかよ、笑わせたいのはよ。それって男女差別じゃねえか」
膨れたようにそう言う京一に、龍麻ははじめこそぱちぱちと驚いたように瞬きを繰り返していたものの、やがて―…とても可笑しそうに破顔した。
「あはは…勿論、いいって事はないよ。皆が笑ってると嬉しいよね。京一も」
「ついでみたいに言うな」
「九角天童の事だって」
「!」
「本当は……」
「………」
救いたかったという言葉は出さず、それでも龍麻はにへらと気の抜けた笑顔を向けて、京一に不思議そうな目を向けた。
「ねえ京一。何でさっき、あんな事したの」
「あんな事?」
「口つけたじゃない」
自らの唇を指先で触って龍麻が訊ねた。
「あ」
京一はすっかり忘れていたという風になり(実際忘れていた)、心内で密か思いきり動揺したのだが、龍麻から「こんな話」をされた今となっては、己の感情をぶつけるだけの我がままはすっかりする気を失っていた。
例え龍麻から発せられた台詞が色々気に掛かっていたとしても。
「煩ェな…」
「何それ。お昼食べてる人の事いきなり押し倒しておいて。お陰でやきそばパン、落としちゃったし」
「煩ェってんだよ! んなの後で幾らでも買ってやる!」
恥ずかしさを隠す為に大声を上げ、それから京一は思い切り決まり悪そうに咄嗟に頭に浮かんだ適当過ぎる言い訳を口にした。
「……俺だって、お前を笑わせてやりたいからだよ」
「え?」
「お前がいつまでも他の奴の事考えて落ち込んでっから! だから、忘れさせてやろうと思ってやったんだよ! どうだ、あんまりびっくりして余計な事全部どうでも良くなっただろ!?」
かなり強引だと思ったものの、京一は自棄になったようにそう言い切り、ふいといじけたようにそっぽを向いた。
龍麻を笑わせてやりたいというのは本音だけれど、だからキスしたというのは意味が分からない。自分でも分かっていた。
けれど。
「お前の事は俺が笑わせてやるよ。これから、幾らでも」
「京一?」
「だからあんま…独りで抱えんてんじゃねえぞ」
「……うん。ありがとう」
龍麻がほっとしたように微笑む顔は見なくても分かった。京一は途端己の頬が紅潮して全身に熱が高まるのを感じてしまい、ああ何だってあんな子どものようなキス一つ思い出したくらいでこんなになってしまうのかと、重症の自分を殴りつけたい気分になった。
そういう気分になって―…。
「龍麻」
「…っ。京一?」
京一はおもむろに龍麻の身体を引き寄せるとぎゅうと片腕だけで抱きしめ、その耳元に口をつけるようにして「よく聞けよ」と囁いた。
これくらいは言わないといつまでも通じないのだからと思いながら。
「龍麻、いいか」
「どうしたの?」
体勢を崩して京一の胸に手を当てている龍麻が何の警戒心もなく顔を上げてくる。
京一は無表情のまま不敵な態度で言ってやった。
「俺の事は、お前が笑わせろ」
情けなくも内心ではドキドキしていた。
けれどその言葉を発した直後、ふわりと綻ぶその笑顔を見て―…、京一は自分がそれほど失敗していない事を悟り、ほっと肩から力を抜いた。
そしてそのまま暫くは、龍麻を抱きしめる腕を解く事ができなかった。
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