単純に龍麻の泣くところが見たいと思ってOKした「日曜デート」だったが、本当にまんまと予想通りボロ泣きだったものだから、京一としてはむしろその事に感心して、自分が期待していたような感慨はあまり沸かなかった。
「お前、泣き過ぎ。目ェ真っ赤だぞ?」
「京一こそ、何で泣かないでいられるの?」
あんなに感動的なストーリーなのに、と、龍麻は鼻をぐすぐす言わせながら手にしていたハンカチを使い、涙で濡れる目元をぐいと拭った。その仕草は一見すると涙脆い華奢な女の子のようだ。戦闘になると顔つき自体変わって誰よりも勇ましく強くなるこの男が、殊こういった日常の中に溶け込むと驚くほどに軟弱で「ほわほわ」とした人物に成り下がる。
勿論、京一はそんな龍麻も好きだと思っているのだけれど。
劇場を出た入口付近で何となくそんな龍麻を観察していた京一は、しかし「さてと」と言ってからさり気なく龍麻の腰に手を掛け、抱くような所作を取った。
龍麻が何と思っていようが、京一にとってこれはれっきとした「デート」であって、いつまでも進展しない自分たちの仲を決定づけたい「勝負の日」でもあったから。
だから、いつまでも映画の世界に浸っている龍麻では物足りない。早く自分の方にも意識を向けて欲しい。
「これからどうするよ。飯行くにゃ、まだちょっと早いだろ?」
「ん…? うん…」
未だハンカチが手放せない龍麻は京一のその問いに曖昧に答えた後、ようやっと今の自分たちのいる場所に気づいたようになって不思議そうに辺りを見回した。
「でももう大分日が傾いてるんだね。映画館って不思議だね」
「あん…? 何だそりゃ」
龍麻の言っている意味が分からなくて京一は顔をしかめた。…というよりも、どうして俺がお前に「こういう事」しているのに、それに対して何のツッコミも照れもないんだと、却って腰に当てた手を放せなくなる。
それでもそんな京一の葛藤に気づかず、龍麻はにっこりとした笑みを浮かべて微か首をかしげた。
「僕、映画館って初めて行ったから。観た映画が凄く良かったからって言うのもあるかもしれないけど、時間経つのがあっという間に感じた。それなのに外に出たらこんなでしょ。びっくりするよ」
「初めて…だったのか? 映画館が?」
「うん」
「親とかと行った事ないのかよ」
あの子煩悩そうな両親なら、龍麻が望めばいつでも連れて行ってくれそうなのに。田舎過ぎて映画館がなかったのだろうかと考えていると、そんな京一に龍麻は何という事もないように答えた。
「映画館って暗いでしょ。ちっちゃい頃って暗闇が特別怖かったんだ。だから」
「暗闇が…?」
「今はもうそんな事ないんだけどね」
旧校舎だって、だから全然平気だしねと龍麻は笑い、それからようやっと京一の手つきに気づいたようになって「あれ」と下を見た。
その露骨な視線に京一は焦って考えこもうとしていた作業を完全に中断させた。
「な、何だよ…っ」
「ん? 何でもないけど……京一、気づいてたの?」
「は…? 何が?」
そろそろ手を放そうか、いやいや龍麻が嫌がっているわけでもないから、ここまできたらこのままでいようとか、京一の頭の中では物凄いスピードで色々な考えが巡りに巡っている。
それでも龍麻の方は平然としたように、けれど少しだけ苦笑したようになって、ぽつりと言った。
「僕、やっぱりちょっと怖がってたのかな?」
「……は?」
「だから捕まえてくれてる?」
ちょいちょいと自分の腰に触れている京一の手に触れて、龍麻は依然困ったような顔をした。
「………何だ?」
それで京一はそこで初めてはっとしたようになり、無意識のうちに龍麻から手を放した。
「お前……何か、怖がってたのか?」
「え? そう思ったからこうしてくっついてくれてたんじゃないの?」
「いや、俺は別に……」
ただ単に龍麻に触れたかったからだとバカ正直に答えるのもおかしな話だと思い、京一は思い切り言葉を濁した。
それでも龍麻の話を流す事も出来ず、わざと問い詰めるように声を荒げた。
「それより、怖いってどういう事だ? 別にホラー映画ってわけでもなし……お前、あの映画の話に夢中になってこんだけボロ泣きしてたし。別に、怖がる素振りなんてなかったじゃねーかよ」
「うん。観てる時はもう忘れてた。特にラストは凄く感動的だったし」
「だったら―」
「うん。平気なんだけどね。けどふとした時に、ね。その一瞬の闇だけでも、何だかもう……、震えちゃうんだ」
「……闇、に?」
発せられた言葉を反復すると、龍麻は「うん」と何でもない事のように頷いて笑った。
「情けない話なんだけどさ。どこで何をしていても、暗闇からは逃れられないでしょ? 影とかもさ、どこにでもあるでしょ? だからこそ慣れなくちゃって思って、今はもう大分平気にはなってきたんだけど。やっぱり僕は暗いのが駄目なんだ」
「………どうしてだ?」
「うん…。やっぱり子どもの頃のトラウマなのかなぁ…? 自分でもよくは分からないんだけどね。痛い思いをしたらしいんだけど、そういう記憶自体はもうなくてさ。本当、どうしてか自分でも分からない。でも、何だか何かに飲み込まれるような―…昔、そういう危ない目に遭ったんだと思う。その感覚だけはリアルで。うまく言えないんだけど」
「龍麻…お前、そんな昔から異形と戦ってたのか」
「覚えてないんだよ」
困ったように龍麻は笑い、それから「今は大丈夫なんだよ?」と京一を安心させたいのだろう、何度も繰り返した。
「………」
けれど京一としては釈然としない。
龍麻は普段ぼうっとしているようで、実は意外に悩み性だ。けれどそれを他人には見せないように徹底しているし、だからこそかなり無理をしていると思う。
そんな龍麻だから、こんな日くらい極力ストレスを感じさせたくはないのに。
だって今日はただの「デート」なのだから。
「だったら何で映画館に行きたいなんて言ったんだよ。暗いのが駄目ならもっと他に行く所なんてあっただろ? 映画が観たかったってなら、レンタルして部屋で観たって良かったしよ。別に今日観たやつだって…俺はお前が何か観たいって言うから、これならお前絶対ボロ泣きだろうって思っただけだし」
「京一、僕を泣かせたかったの?」
「べ、別に、ちょっとそう思っただけだ!」
何せ映画館に行く事を決めてはいたが、観る作品はその場で適当に選んだのだ。映画が観たいと言ったのは龍麻だし、京一も「龍麻が映画で泣くところが見たい」と単純な興味があったから了承はしたものの、2人共昨今のヒット作などにも全く疎くて分からなかったから―。
「…休みの日にわざわざストレス感じる事もないだろうが」
ただ、ほのぼのとした休日を過ごさせてやりたかった。勿論、自分にはそれ以外にも立派な「邪な想い」があるわけだけれど…それでも、龍麻を休息させたいと思ったのは本当なのだ。
京一が憮然としていると、龍麻はしかし「ごめんごめん」と軽く謝った後、やや俯きがちになりつつそっと微笑んだ。
そして言った。
「京一となら怖くないかなって思ったから」
「……は?」
「暗闇でも平気かなって」
「―……ッ」
さらりと言われたその台詞に京一が思わず絶句すると、龍麻は何も考えていないようなへらりとした笑顔を湛えながら尚も繰り返した。
「京一が隣にいてくれるなら平気かなと思ったんだ。……実際平気だった」
「………」
「映画にも凄く感動したし。でも、京一が僕の事引き寄せてたでしょ? だから、自分では平気と思ってても、やっぱり駄目だったのかと思ったんだけど」
「…っ。あれは、別に―」
どう言って良いか分からず、京一はカッと赤面しつつ咳き込んでもごもごと曖昧な事を口にした。自分でも何を言っているのか分からなかったし、龍麻にも届いていなかったようだ。「何?」と再度訊かれたのを「何でもない!」と適当にかわし、京一は不思議そうな顔をしている相手に誤魔化すように強い口調を発した。
「そうならそうと前もって言っとけよ…っ。知ってたらずっと……手でも握っててやったのによ!」
「えー? あはは、そうだね。そうしてもらえたらきっともっと安心だったね。言えば良かった」
「……よくもまぁ、そういう台詞を考えもなしにお前は……」
「え? 何?」
「何でもねえよッ!」
これだから鈍感天然男は始末に負えない。
「……ったく」
それでもそんな龍麻に惚れてしまったのは自分だ―…京一は半ば諦めの境地に至りながら、一方で龍麻が時々垣間見せる「哀しさ」を思ってぴたりと動きを止めた。
こうして見ていると、本当に何の悩みもなさそうな平凡な高校生なのに。
「お前さ。家では平気なのかよ」
「え?」
「こっちに独りで出てきて、一人暮らしだろ。その……夜、とか。独りで、平気なのか?」
「あぁ…うん。だから、今はもう大丈夫なんだよ。凄く駄目だったのは昔の話。今は慣れたよ。だって嫌でも周りは闇ばっかりでしょう?」
「……しょうもねえな、それも」
京一が釈然としないような顔を見せると、龍麻はまた破顔した。
「うん。でも、仕方ない。僕は特にそれを引き付ける体質だから」
「………」
「だから、凄く不思議。京一が傍にいてくれるのは」
「あ?」
龍麻がふと見せた寂しそうな顔にどう応えようかと思っていたのに、突然龍麻がその表情を消して笑ったものだから、京一はまた反応を一歩遅らせた。
すると龍麻はそんな京一ににこにことして「だって」と続けた。
「京一は光の側にいる人でしょ。……僕の傍にいてくれるのは不思議だよ」
「……何だそりゃ」
「分からない?」
急に真面目な顔をした龍麻に京一は途惑った。不意に見せる龍麻のこんな表情が、ドキリとして、でも不安になる事がある。
だかららしくもなく、思わずどもってしまった。
「分か…分かんねェよ。俺はどっちかって言うと闇属性だからな…。新宿の夜の街を闊歩してよぉ、用心棒なんかやってるんだぜ? そりゃあもう―」
「ううん、京一は【陽】の人だよ」
「………」
「僕とは、違う」
「おい―」
呼びかけたのに龍麻はふっと離れて先を歩き始めてしまった。その事が猛烈に悔しくて居た堪れなかったのだけれど、呼び止めるよりも追う方が早かったから、京一は慌てて足を前へ動かす事を優先した。
そうして、責めるように先を行こうとする龍麻の手首をがつりと掴んだ。相手が痛いと言うかもしれないと思うほどに強く。
「京一…?」
案の定龍麻は驚いたように振り返り、眉をひそめて掴まれた手首に視線を落とした。痛いとは言わないが、きつい拘束だと感じてはいるだろう。困ったように京一の手を振り解こうと、自由な手をそちらに添える。
それでも京一は手を放す事はせずに龍麻に顔を近づけて言った。
「先に行くな」
「京、一…?」
「俺がどっち側の人間だろうが、そんな事はどうでもいい。お前がどんな奴かって事もな。けど……先には行くなよ。勝手に線引きすんな」
「……僕は」
「分かってんのかよ? 俺はこれからもお前の傍にいるぜ?」
「………」
「たとえお前が嫌だっつってもな」
唇が触れあうほどの距離でそう告げ、京一は龍麻の言動を一つも漏らすまいとその綺麗な顔を凝視した。目元は相変わらず赤いままだ。あんな風に、ただの作り話に子どものような素直な涙を落とせる龍麻が、一方で誰一人届かないような高みから誰も経験した事がないような孤独で激しい戦いを強いられている。
そしてその戦いの終焉の時には、誰一人連れて行こうとしていない。
京一すら、置いていこうとしている。それが分かる。
全く冗談ではないけれど。
「……ったく、こんな呑気な休みの日に当たり前のこと再確認させんなよ」
「え…?」
「あと! 大丈夫っつっても大丈夫じゃねーんだよ、お前は! ……だから、今夜は泊まりに行ってやる」
「え? 僕の家に?」
「そ、そうだよっ。文句あるか!?」
「ない、けど」
「けど、は余計だ! そうと決まったら行くぞ!」
龍麻が拒絶したらどうしようと思い、京一は問答無用の態度を取って今度は自分が先に歩き始めた。
ただし、龍麻の手は掴んだままだ。今度は絶対に放すつもりはなかった。
「京一…いたっ…。手、痛いよ」
これには龍麻も初めて抗議するような声をあげたが、京一はそれを無視した。振り返るのも嫌だった。龍麻が言ったんじゃないか、俺と一緒だったら平気だと思う、と。だったらそれ以上の言葉は必要ない、黙って俺についてくればいい―…、そう思った。
「京一、行くから! 分かったから、手、放してってば」
「……うるせ!」
それでも京一は龍麻に「それ」を言う事は出来ず、耳まで赤くしながらただ龍麻の手を引き続けた。
もうそろそろ本当に限界だ。
部屋についた途端、龍麻に何かしそうな自分が、正直とても怖かった。
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