「ほらよ」
京一がぞんざいに言って白い紙ざらに山盛られたソース焼きソバを差し出すと、その場にぼうと座り込んでいただけの龍麻は、きょとんとした顔を向けてからやがてほんわかとした笑みを浮かべた。
「ありがとう、京一」
「……おう」
嬉しそうに両手で受け取るその仕草全部が可愛いと京一は思う。
それなのに何故だろう、こんなにも「愛しい」と思わせる術を持つ青年は、不思議な事に学校でも何処でも恐ろしく影が薄くて、恐らくはその「凄さ」を知っているのも京一唯1人だった。
それを京一はとても誇らしい気持ちでいるし、このまま誰も気づかなくても良いとは思うのだけれど。
「これ、2年の屋台のでしょ。食べたいと思ってたんだ」
「知ってる」
「え?」
龍麻が不思議そうな顔をするのを京一は隣に座りながらそ知らぬ顔で素通りし、「人気だからな」と適当な嘘で誤魔化した。
お前の事なんか、ずっと見ている俺が分からないわけないだろうが。
「……フン」
本当はそう言いたかったのだけれど、この鈍感過ぎる相手にそんな事をわざわざ言うのは癪に障ったし何より照れくさかったから、京一は「いいから食えよ」と乱暴な口調で言って頬杖をついた。
「お金は?」
「俺の奢り。どうせ朝からこき使われて何も食ってねーんだろ? それに、まあ? 文化祭だの、クラスの出し物なんつーもんに一切協力・参加する気がねえ俺が、唯一良心の呵責に苦しんでやった事だ。遠慮なんかいらねえよ」
「ふうん?」
どこか納得しかねるような顔をしたものの、それでも龍麻は柔らかい微笑はそのままに、「それなら遠慮なく」と言って、京一が次に差し出してきた割り箸も素直に受け取った。
「ありがとう。じゃあ、いただきます」
「あーあー、さっさといただけ」
「美味しそう!」
龍麻は本当に嬉しそうだった。恐らく、京一にとっては騒々しくてうざったいとしか思えないこの「文化祭」という学校行事を心底から楽しんでいるのだろう。元々前の学校からずっと友達という友達がいなかったと言うし、こういったイベントでも殆ど除け者扱いだったらしいから、それを考えれば確かに今の状況は龍麻にとって「破格の扱い」という事になるのだろう。
「宣伝ちらし。まだこんなに残ってるのかよ」
「ふへ…?」
「……食いながら喋るな。いいから、食ってろ。今のは俺の独り言」
「むぐ。うん」
もくもくと焼きソバを頬張る龍麻を横目で呆れたように見やりながら、京一は次に忌々しそうな様子で龍麻が横に置いた数十枚にものぼる紙の束に目を落とした。
京一がこの人気のない体育館裏に龍麻を引っ張ってくるまで、龍麻はずっとクラスの出し物…確かお化け屋敷だった…の宣伝の為、構内を練り歩き、カラフルな宣伝ちらしを配っていた。
『緋勇クンは天然ボケだし、ボーッとしてるうちにお客にも素通りされるだろうから、お化け役には向かないでしょ。な・ん・で! 客寄せ係ね!』
そう言って女子たちの筆頭に立ち、龍麻に一番きつい仕事を押し付けたのは桜井小蒔だ。前準備の時から「緋勇クンなら協力してくれるよね」、「緋勇クンは嫌とは言わないから」と、龍麻を良い様にこき使っていた桜井に、京一はほとほと頭にきていた…が、当の龍麻がニコニコと「うん、僕やる」などと嬉しそうにするものだから、何も言う事が出来なかった。
ただせいぜい、自分はそんな輪に入る事を頑なに固辞するくらいで。
ああ、思い出したらまたむかっ腹が立ってきた。あいつら、龍麻が何も言わないからって調子に乗りやがって!
心の中でクラスメイト兼一応戦闘上の「仲間」をさんざ罵倒しながら、京一は龍麻の持っていたちらしをぐしゃりと乱暴に握りしめた。
「ったく、こんなもん真面目に配る必要なんざねーんだよ。あっ! しかもお前! これ、B組のちらしもあるじゃねえかよ! アンコの奴だな!?」
「ん? ああ、うん。アンコちゃん、新聞部の仕事が忙しくて、クラスの仕事が出来ないからって」
「それを何でお前に頼む!? 全然関係ねーじゃねーかっ!」
「別にいいじゃない。同じ配る仕事だもん、A組もB組もC組も一緒だよ」
「……ったく、お前はお人好し過ぎるんだよ……」
京一が怒れば怒るほど、龍麻の静けさがいやに際立つ。
ハアと大きく溜息をつき、京一は己の髪の毛をまさぐって項垂れたが、龍麻が「こう」である事はとうに知っている事だし、自分が何を言おうが彼がこのまま与えられた仕事をまっとうするであろう事も想像がつく。
それでも。
「………」
それでも、横で呑気に焼きそばを頬張る龍麻をちら見しながら京一は思った。
お前が怒らないから、俺が代わりにむかつくんだよ。腹が立つんだ。
そして、そんなどうしようもないお人好しだから。優しいお前だから。
だから多分、俺はどうしようもなくお前に惹かれるんだ。
「京一」
その時、龍麻が何をか察したように言葉を切った。
「僕はお人好しじゃないよ。好きだからやってるんだ。本当に、やりたいからやってるんだ。だって嬉しいんだから」
「……分かってんよ。こういうの、憧れだったって言いたいんだろ」
思考を読まれたと心内でドキリとしつつ、それでも京一は冷静に答え、そっぽを向いた。
すると隣で龍麻がふっと笑みを零すのを感じた。きっと今物凄く綺麗な顔をしているんだろうなと思った。
「そ。だから。本当は京一にもドラキュラ役やって欲しかったのに」
「誰がやるか」
それだけは龍麻の頼みでも絶対に断固としてやるものかと思いながら、京一はまた忌々しくもあの「聖女」の顔を浮かべてしまって舌打ちした。クラスメイトたちは皆一様に京一がクラスの出し物に協力する気がないと知ると諦めて(特に桜井などは烈火の如く怒り狂って)何も言わなくなったのだが、あの聖女―美里葵―だけは、その後もしつこく京一に「きっと楽しいから」とクラスの中に入るよう勧めてきたのだ。
龍麻にはあんな雑用ばかりさせていたくせに。
「けっ……むかつく」
「なーにが?」
思わず発してしまったその毒に龍麻が珍しく早く反応した。京一はそれを憎らしく思いながらも「何でもねーよっ」と子どものように拗ねて返し、それからまた頬杖をついて龍麻の事をじっと見つめやった。
「お前さあ。こんなのの何が楽しいんだ?」
「ん? 楽しいじゃない。皆と何か一緒にやるって」
「それはむかつく奴と一緒でもか?」
京一の厭味に、しかし龍麻はびくともしなかった。
「むかつく奴って誰? 僕は嫌いな人なんていないよ?」
「かっ。へーへー、そうですか。優等生はこれだから…」
「京一だって」
「あん?」
京一が不審の声をあげると、龍麻は涼しい顔をして惚けたように笑った。
「本当は、嫌いな人なんていないくせに」
「はあ? ……何言ってんだよ、俺は―」
「分かるよ。京一、性格いいもん」
「……やめろって」
少なくとも、いい奴を演じているのはお前の前だけだぜ。
「……。……ち」
けれど、わざわざそんな風に自分の株を落とす必要もあるまい。京一は口を噤み、それからまた気を取り直したようになって、「美味いか?」と焼きソバの味を訊いた。
「うん。凄く美味しいよ。ありがとう、京一」
「礼ならさっき貰ったからいい」
「うん? うん。……あのさ、京一?」
「あ?」
「美里さんにも買ってあげたら、きっと喜ぶと思うよ?」
「…………テメエ」
何故そこでまたあの女の名前が出るんだと京一はあからさま顔を引きつらせてしまったのだが、当の龍麻に気づかれた様子はなかった。恐らく本心で言っているのだろう、龍麻は特にこのところ、京一と美里をくっつけたがるような言動をする。
恐らくは美里を思い遣っての事なのだろうけれど、だがしかし。
「龍麻。お前は俺の気持ちはどうでもいいってのか?」
「んー?」
「んー、じゃねえよ。俺は、あの女だけは嫌だね。一番嫌いなんだよ」
「そこまで嫌うのは、好きの裏返しかも」
「龍麻、お前いい加減にしろよ……。それ以上言いやがったらこの場でおま―」
「ん?」
「…………。…………いや」
この場でお前を襲うぞと実に自然の流れで言いそうになった京一は、さすがに寸前で思い留まって口を閉ざした。それから、誤魔化すように激しく咳き込む。龍麻はそれに対しまた単純に「大丈夫?」などと心配していたが、京一としては実際ちっとも大丈夫ではないし、その責任は龍麻にあるのだから、本当に何とかしてもらいたいと思わずにはいられなかった。
「京一」
それなのに、この非情な、それでいて恋しい人は、無理に咳き込んだせいでやや涙目の京一に言ったのだ。
「僕はさ…。多分、ずっとこうだから」
「あ……?」
「皆の事が大好きだけど。京一の事も大好きだけど。僕の行く道は、誰とも重なる事はないから」
「…………」
「この先も、ずっとね」
にこりと笑った龍麻の笑みは、いつものあの純粋なそれではなかった。
何かを全て悟っていて受け入れていて―……そしてどこかで諦めているようにも見て取れた。
「おい龍麻―」
「京一。喉乾いちゃった。苺牛乳買ってくるね?」
けれど龍麻が見せる「素」はいつも「そこ」までで終わりなのだ。
決して最後までは見せてくれない。
「……いい」
「え?」
一人立ち上がろうとした龍麻を制して、京一は自分こそが「今は」諦めるとばかりに嘆息して重い腰を上げた。
そうして子どもにやるように、慰めるようにぽんぽんと龍麻の頭を撫で、それから―もう一度、さっと屈んで龍麻の額にキスをした。
「京、一?」
「苺牛乳なら俺が買ってきてやるから。お前はここで食ってろ」
「でも」
「いいからそこを動くな! いいな! 俺がいいって言うまで、何処にも行くんじゃねえぞ!」
半ば怒鳴るように言ったのは、そうでもしないと本当に龍麻はこのまま何処かへふっと消えてしまうのじゃないかと思ったからだ。決してそうさせるつもりはないけれど、龍麻にはそれくらい危げで不確かで、儚い感じを抱く時があった。
「……うん」
その龍麻は京一の怒声に最初こそ驚いたように目を見開いていたが、やがてゆっくりと頷き、……それからちらりと泣き出しそうな顔をした。
そして目を細めて京一を真っ直ぐに見上げた。
「うん。僕、京一を待ってるよ」
「……よし」
だから京一もすぐに踵を返すと、振り返る事なく足早にその場から距離を取った。今の龍麻を直視できないからではない、一刻も早くあいつの好きなものを持ってきてやる為だと言い聞かせながら―…京一は歩を進めた。
龍麻の時々垣間見せるあの哀しさが堪らなかった。
堪らなく京一の胸を締め付け、そして次にはどうしても欲しいと思ってしまった。
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