のんびりとした朝の教室内で、担任のマリアが「今日は皆さんにまた一人、新たな転校生を紹介するわ」と言うと、クラス中はにわかに盛り上がった。
春先に龍麻が転校してきてからまだ三月ほどだが、クラスメイトたちは既に緋勇龍麻という新顔の存在に「飽きて」いた。龍麻は男子らしからぬその可憐な容姿で一部余所のクラスの女子生徒などには人気があるのだが、何故かクラスでは影が薄い。学園の聖女である美里葵や、部活の後輩に絶大な人気を誇る桜井小蒔、それに全校生徒憧れの的である一匹狼・蓬莱寺京一がいるせいで目立たないというのもあるだろう。龍麻自身の性格ものほほんとして自ら表に出るキャラではないし、兎角彼には「華がない」と思われがちだ。
転校生ならば、もっと派手で面白味のある奴が良かった。
龍麻に対するクラスの大半の感想はそれだった。
だから龍麻のクラスメイトたちの多くは、その「新たな刺激」を手放しで歓迎した。
「葵ッ。転校生って男かな、女かな? 仲良く出来る女子がいいね!」
自席から親友の美里にそう話しかけたのは桜井だ。傍にいる醍醐もそれにうんうんと激しく頷き、「自分も女子の方が…! あ、でもそれは自分のライバルが増えなければいいという意味で、決して邪な意味ではありませんから!」などと、一人で勝手に呟いている。
「うふふ…そうね。でもどちらでも、きっと仲良く出来るわよ」
それに対し、美里は桜井に笑顔でそう答えながら、他のクラスメイト同様、期待に満ちた目で教室の入口を見やっている。新たな仲間が増えることにわくわくとした気持ちでいるようだ。
「葵、葵っ! でも、どんな子が来ようと、ボクの親友は葵だけだからね!」
その間も桜井のアピールは続く。当然のことながら醍醐の独り言に彼女が耳を傾けている様子はない。桜井はいつでも「葵大好き」を誇示することのみにご執心なのだ。
「さあ、入ってきなさい」
そうこうしている間にマリアが廊下に控えていた転校生を促すように声を掛けた。途端、クラス中にわっと声が上がる。それに興味を示さず目を瞑っているのは、後方の席に座している京一くらいだろうか。
「皆さん、紹介するわ。何と、中国からの留学生、劉弦月クンよ」
「なあんだ、男かぁ!」
「でも留学生だって!」
「やだ! 結構カッコいいんじゃない!?」
教室へ入ってきた劉に対し、クラスメイトがそれぞれの感想を漏らす。
マリアに呼ばれて教壇前にまで来た劉はそれらの声を受けてにっこりと笑って見せた。すると、「やっぱりカッコいい!」と色めきたつ女子たちの黄色い声が辺りに響き渡った。
「つっまんない。男子なら興味なし! ねえ、葵?」
桜井は心底失望したようにそう言い、今度はその男子転校生が学園のアイドルである美里に一目惚れなどしやしないかと敵対心まで出し始めている。
「そんなこと言わないで、小蒔。折角縁あってわたしたちのクラスに転校してきた人よ。仲良くしましょう?」
一方、美里はゆったりと微笑んで桜井を窘め、マリアと並んで立っている劉に優しげな視線を送った。桜井としてはそれだけで相当不満そうだったが、醍醐は醍醐で、「桜井さんに手を出したら承知せんぞ!」などと、またまた早まった発言をぶつくさとかましている。
龍麻はそんな桜井たちや他のクラスメイト同様、興味津々な眼差しでその劉という転校生を見やっていた。
――が、ふとした拍子にその相手と視線がかっちり交錯して、龍麻はきょとんとした。
劉はゆるりと見回していた教室内から龍麻の姿を認めると、既に湛えていた笑顔を更に全開にして、にっと白い歯を見せ、嬉しそうに笑ったのだ。
まるで以前から龍麻のことを知っているかのように親しげに。
「劉クンはおうちの事情でこの東京へやって来ました」
マリアがざわめく教室を静かにさせてそう言った。
「でも皆、心配は無用よ。劉クンはお知り合いに日本人の方がいて、既に日本語も堪能なの。だからこの学校のことなんかを中心に色々と教えてあげてちょうだい。分かったわね?」
「はーい」
「劉クンよろしく〜!」
「ねえねえ、劉君の好きな女子のタイプは〜?」
「中国ってどこらへんに住んでたの〜」
「こらこら、いっぺんに訊いても答えられないでしょう。じゃあ劉クン、簡単で良いので自己紹介してちょうだい」
「はいな! 皆さん、はじめまして! わいの名は劉弦月!」
すると劉はマリアに促されるまま、にこやかにそう名乗った。
クラスはそれで一瞬だけ静まり返り、直後爆笑の渦に見舞われる。劉がそのシャープな顔立ちには似合わぬ妙なイントネーションで妙な関西弁訛りを披露したからだ。
「好きなことはボケとツッコミ! お笑いのない人生なんておもろないからなぁ、ははっ! あとはわい、可愛いぴよちゃんがごっつぅ好きで、うちでもよう飼っとった。そんな感じや!
皆さん、よろしゅう頼んますなぁ!」
しかも劉が周囲の笑いに巻き込まれず更に淡々とそう言ったものだから、余計に教室内は盛り上がった。「ノリがいい!」、「最高!」、「変な奴〜!」と、口々に感想が上がる。大勢は劉の気さくな人柄を感じ取って、あっという間に好感を抱いたらしい。
「ケッ、何あの軽そうな男! ねー、葵!」
「……ふん」
つまらなそうに悪態をついたのは、桜井小蒔と蓬莱寺京一くらいか。
「あー、あと、さっき訊かれた好きなコのタイプやけど! これ、めっちゃ重要やんなあ!」
しかし劉は構わない。ふと思い出したように人差し指をぴんと立て、これだけは言っておかねばという顔をして一瞬真剣な顔をする。
「まさに、こんクラスに、わいの好みジャストミートなお方がおるわぁ!」
そして再び嬉々として、劉は堂々とそんなことを言い放ったのだった。
「えー!?」
「キャー、嘘ォ!」
「だれだれー!?」
「美里さんじゃない?」
クラス中はもう収拾がつかない程にどよめいた。担任のマリアはあまりの騒音に呆れ果てて止める気も失くしているようだ。桜井は「何だって!」といきり立ち、つられて醍醐も「お、お前まさか桜井さんを…!?」と顔を赤くして立ち上がる。周囲もそれを煽るようにして「美里さんだよ」、「桜井さんかも」などと口々に言うものだから、肩をつつかれ冷やかされる美里も困ったように微笑みながら窺うように劉を見ている。京一は依然として目を瞑っているが、教室の煩さには不快なようで、表情全体に苦々しいものが宿っていた。
龍麻はというと、大騒ぎな教室が珍しいのか、きょろきょろと辺りを見回して嬉しそうだ。
「へっへ〜!」
しかし劉がさっさと歩み寄ったのは、まさにその龍麻がいる席の前だった。
「ん?」
いきなり覆いかぶさるようにかかった影に龍麻が正面を向くと、すぐ目の前にまで来ていた劉は、実に清々しい笑顔を閃かせ、いきなり龍麻の髪をぐしゃぐしゃと撫で繰り回した。
「わっ」
そしてそれに戸惑い、目をぱちぱちさせる龍麻に、劉は爽やかに笑った。
「ほんっま、近くで見るとさらに別嬪さんやなぁ! 兄さん、わいが想像していた以上や! もぉ、嬉しくって堪らん!」
「え? ……僕?」
「そ! 兄さんはもろに、わいの好みストライク!」
最初こそしんとして二人の動向を見やっていた周囲は。
「ええ〜!」
「なになに、緋勇クンなの〜!」
「キャー! すごーい!」
「いや〜ん、何だかときめく〜!」
「マジかよ、俺も緋勇ちょっと狙ってたのに……」←誰だよ
まさにお祭り状態である。いよいよクラス内は手がつけられない程の大騒ぎとなった。
しかしそれもそのはず、クラスの殆どは美里が目をつけられたものと思い疑っていなかったのだから、突如として現れた外国人の劉がいきなり目立たない緋勇龍麻という男子生徒に矢印を向けたことはこれ以上になく面白いビッグニュースであった。
とはいえ、同じように思っていたのにその予測が外れて唖然としている人間もいる。桜井だ。醍醐も、本来ならば桜井でなくてほっとすべきところだが、呆気に取られて無言。美里も驚いたような顔で言葉を失い、じっと龍麻たちの方を振り返り見ている。
「おい」
そして、もう一人。
「ん?」
先刻まで席で居眠りを決め込み、転校生の劉になどまるで興味を見せていなかった京一が。
気づけば龍麻のすぐ横に立ち、いきなり酷く怒った風な眼をしながら劉の胸倉を掴み上げた。
おまけに口から出た声色もとんでもなく物騒である。
「テメエ……何舐めたこと言っていやがる…!」
「京一?」
一方、龍麻は突然傍に来て殺気立った雰囲気の友人に驚き固まっている。
冷静でいるのは今まさに掴みかかられている劉だけだった。
「ははっ! 何や、あんさん」
劉は暫しされるがままになっていたものの、やがてがつりとその手を握り返し、あっという間に京一からの拘束を解いた。
「いきなし喧嘩売るんは良くないで」
それからぱっぱと胸元から埃を払うような仕草を取り、劉は不敵な笑みを浮かべて京一を見据えた。
「その様子からすると、アンタ、わいのライバルかいな? まぁ無駄なことはやめや。兄さんには見込みのない戦いや思うで」
「何だと…!?」
「この人とわいはなぁ、赤い糸で繋がっとるんや。それこそ、わいらが生まれる前からな。だから悪いけど、兄さんはお呼びでない」
「テメエ……何もんだ! 表出ろ!」
「えぇ〜? はぁ、転校早々揉めたないんやけどなぁ。わいって、そうそう因縁つけられるタイプでもないんやけど」
「ちょっと蓬莱寺クン、何なの!? 劉クンも! 授業が始まるんだから、二人とも席につきなさい!」
京一を取り巻く不穏な空気に、ようやくマリアがハッとして口を挟んだ。もともと京一は龍麻の転校初日にもいきなり喧嘩を吹っかけた前科があるだけに警戒はより強いものとなる。京一にとってはあの時とはかなり種類が違うのだが、マリアには同じノリに見えたのだろう。はあと深いため息をつきながら、彼女は大きくかぶりを振った。
「何だか分からないけれど、また校舎内の器物を破損されるのはごめんだわ。喧嘩なら私の見ていない放課後にしてちょうだい!」
「京一君、席につきましょう?」
美里がマリアのそれに乗じるようにして声を掛けてきた。桜井も不貞腐れたように頬杖をつきながら、劉へ「そもそもあんたがつまんない冗談言うから、ややこしくなるんでしょ」などと文句を言う。
龍麻はどうして良いか分からずに、ただ困ったように京一と劉を交互に見やった。
するとそれにいち早く劉が気づいた。
「ああ、アンタにそんな顔させたない。喧嘩はせんよって、安心してな?」
そうして龍麻に優しく笑いかけると、劉はもう京一を一切見ずに、さっさと自分の席だと言われた方へ向かって行ってしまった。
「ちっ…!」
それで京一もぶすくれながら荒々しい足取りで席に戻る。教室内に広まっていた緊張感はそれによって忽ちほっと安堵したものに変わった。
「まったく…。それじゃあ皆さん、今日も一日頑張りましょう」
そうしてマリアがその場を締めるように言い、生徒たちは「はあい」と気の抜けた返事をした。
しかし騒動は勿論それで終わりではなかった。
「アニキ。一緒にお昼食べよ?」
「アニキ?」
昼になって自分の元へ近づいてきた劉の言葉に、龍麻は不思議そうに首をかしげた。
劉はただにこにこしている。
「そ。わいなぁ、めっちゃ美味い地鶏マン持ってきてん。アニキにも食わしたるさかい」
「僕、君のお兄さんじゃないよ?」
「いんや! アニキはわいのアニキや! だって緋勇龍麻、やろ?」
「うん」
「ほなやっぱり、アンタはわいのアニキや。間違いないで!」
「何で?」
「んー? ハハッ! その質問は、自分の親に『何で自分、アンタの息子なん?』って訊いているのと同じやで?」
「そう…なの?」
「おい、龍麻!」
戸惑う龍麻を教室の出口から京一が呼んだ。
「早く来いよ!」
それは誰の目から見ても不機嫌な顔だった。昼はいつも京一と外で出前のラーメンを食べたりしていることが多いから、今日もきっとそのコースのつもりなのだろう。
そして何より、京一は龍麻と劉が話しているのが面白くないのだ。
「先行くぜ!」
ただ、朝のような「みっともない」真似を繰り返すのも嫌なのだろう。京一は吐き捨てるようにそう言うと、本当に足取り荒く先に教室を出てしまった。それにすかさず美里がついて行く。京一に一方ならぬ恋心を抱いている彼女としては、心乱している京一を放置してはおけないのだろう。
「あ、葵、待ってよ!」
「桜井さん、自分も…!」
するとそれに釣られたように、桜井と醍醐が後をついて行く。見る者が見れば全く異様な光景であった。
「何やありゃ」
まさにその「見る者」のグループに入る劉が多少呆れたような顔で苦く笑う。
龍麻はそんな劉をまじまじと見やりながら、やがてのんびりと笑いかけた。
「あのさ、劉君。お昼、京一も一緒でいい?」
「ん? うーん。あのお人は、アニキのここでのお友だちかいな?」
それを受けると、劉はどっかりと龍麻の前の席に座り、どこか困惑したようにぽりぽりと頭を掻いた。あまり好ましくないとでも言いた気だ。
それでも龍麻はその質問が嬉しくて素直に頷いた。
「うん。京一は初めて出来た友だち」
「そうなん? はは……さよか。そんじゃあ、わいもそんな無碍な態度は出来んなぁ」
「うん。みんなで仲良くしたい」
「分かった、分かった」
龍麻を「アニキ」と呼ぶ割に、頼まれるようにそう言われて相槌を打った劉はとても大人びていた。どちらかと言えば彼の方が龍麻の兄のようだ。
「けどなぁ」
その劉は自らの狐目を一層細めて慈しむような柔らかい笑みを浮かべると、龍麻のさらりとした前髪に指を伸ばした。戯れのようにその一房を弄られて龍麻は不思議そうに首をかしげたが、この光景を遠目で眺めていた女子生徒たちには大事件だ。きゃあきゃあと異様にはしゃぎ、喜んでいる。
けれど劉はそんなギャラリーには一切構わず、ふっと真面目な声で言った。
「あんなぁ、アニキ。わい、アニキのこと攫いに来たん」
「攫う?」
「せや!」
「どこへ?」
「んー。遠く。遠い遠い、夢の国や」
「ディズニーランド?」
「んー? ハハッ! アニキ行きたいなら、そこも連れてったってもええけど」
「劉君は誘拐犯なの?」
冗談なのか天然なのか。どちらとも取れるあやふやな表情をする龍麻に劉は笑った。そうして、今度は慈しむような仕草で龍麻の頬をさらりと撫でる。
そして言った。
「せやな。それでもええで」
「……僕、この街にいなくちゃ」
けれど龍麻は暫し迷った風になった後、きっぱりとそう言った。
「ここにいなくちゃ」
そして、もう一度。
「アニキ」
すると劉は湛えていた笑みをさっと引っ込めるとおもむろに手を伸ばし、机の下に隠れていた龍麻の手を引っ張り上げて強く握った。まるでその答えでは駄目だとでも言うような、どこか訴えを感じさせる力で。
「なぁ。それがアニキの望みなん?」
「望み……とは、違うかも」
「なら義務か?」
「そう……思うのも、嫌だな」
龍麻はちらと笑って見せてから視線を自分たちの手元に落とした。劉の指先は細く綺麗だったが、ところどころにある傷やざらりとした皮膚の感触から、戦い慣れた者の手だとはすぐに分かった。
「劉君は……剣を握る人なのかな?」
「当たりや」
劉は目を窄めて嬉しそうに口元を綻ばせた。
「ただわいの剣は、アニキの為にのみ振るう剣や。他ではよう使わん」
「でも、敵が来たら」
「わいの武器は剣だけやないよってな。……まぁ、子どもの頃から戦い方は色々習った。不便はないよ」
「子どもの頃から……中国で?」
「せや。わいの故郷や。もうないけどな」
「え?」
さらりとそんなことを言う劉に龍麻は驚いて目を見開いたが、やがて一つのことを思い出したようになって唇を開いた。
「そういえば僕の本当の両親は、昔中国に行っていたって。そういう話を、今のお父さんからちょっとだけ聞いたことがある」
「そうなん?」
「だから劉君は僕の……弟、なの? 僕の両親と何か関係があるの?」
龍麻がそう訊くと、劉は静かな目をしたままゆっくりと頷いた。
そして実に嬉しそうに、とびきり明るい声で言い切った。
「わいはアニキの魂の家族や。生まれる前からのな!」
それは一見ふざけた解答のようにも見えた。劉の言いようは如何にも軽かったし、周囲でそれを聞いていた者もその大多数はまともになど捉えなかっただろう。
けれど龍麻は違った。劉の瞳に吸い込まれるようにじっとした視線を向け続け、やがてこれ以上ないくらいの笑みが顔いっぱいに浮かんだ。それは龍麻自身よく分からないような、何とも言い様のない幸せな気持ちだった。だから気づいた時にはもう微笑んでいた。
もっとも、二人のその至福の時もそう長くは保たなかったのだが。
「……っとお! ほんま、アブナイお人やなあ…!」
ガンッ、と。
二人が手を握り合っていた机の上を突如として木刀の尖端が降り落ちてきた。劉たちにはそこから咄嗟に手を引っ込められるだけの反射神経があったから良かったが、龍麻の机自体は無残なまでに真っ二つとなり、左右に割り開かれたそれはそのまま大きな音を立てて床に倒れた。
「京一」
龍麻が唖然としながら呼ぶと、既に怒り心頭の京一は荒く息をつきながらぎゅっと木刀の柄を握り直した。
そうして龍麻の腕を引っ張り上げると無理やり立たせ、劉を鋭く睨みつける。その後ろには京一をひたすら追っていた美里、桜井、さらに醍醐がいたが、その彼らも教室に舞い戻ってただならぬ惨状を目にしたことでただボー然と立ち尽くしている。
「京一君、どうしたの? 暴力はやめて!」
それでも何とか一番に立ち直った美里がそう言って京一に落ち着くよう必死に話しかけたが、京一当人は一切耳を貸さなかった。恐らくは美里の声自体、何も聞こえていないだろう。
「表出ろ」
そして京一は劉に木刀を差し向け、一言だけ発した。
「はぁ〜。アニキ。アニキの友だちはわいのこと嫌いみたいや」
一方の劉は机が壊れてしまったことには渋い顔をしたが、表に出ろと言われたことには大して心が動いた風でもなく、平然としていた。
ただ困ったように龍麻を見つめ、「喧嘩はしないと言ったのに、ごめん」とでも言いた気に小さく笑う。
「テメエ…ふざけてんじゃねェぞ…!」
京一には劉がそんな風にして龍麻へ笑いかけることすら許し難いことらしい。ますますドスの利いた声を発すると、いよいよもって早く来いとばかりに踵を返す。劉が共に外へ出ることは京一にとっては最早当然の理であるようだった。
「ほんま、大人げない兄さんや」
劉はそんな京一に肩を竦めた後、龍麻にもう一度笑いかけるとゆっくりとながら自らも教室を出て行った。
「何なの? 京一の奴、ずっとカリカリして」
二人が連れだって姿を消した後、ようやく桜井がふっと息を吐いて苛立たしげに言った。
「葵が親切に話しかけてやってんのも無視してさッ。ホント頭くるあいつ。けど緋勇クン、あいつら止めに行ったら? 何かよく分かんないけど、あの二人のいざこざって君のせいなんでしょ?」
「緋勇君、私からもお願い。私、京一君にこれ以上無駄な喧嘩をしてもらいたくないの」
すると桜井につられるようにして美里も龍麻の傍に来てそう言った。整った容姿の彼女だが、今は眉間にくっきりとした皺が刻まれている。
「緋勇! 桜井さんと美里さんがこう仰ってるんだ! さっさと行って止めてこい!」
最後にとどめを刺したのは醍醐だった。龍麻が言わずとも後を追おうとするのを更に急かすようにドンと背中を押す。龍麻はそれにふらりとよろけながら、三人を顧みずに慌てて外へ出た。
ただ頭の中では、未だ劉の「家族」という言葉だけがぐるぐると回って胸をくすぐっていた。
二人の姿は校舎裏ですぐに見つけることが出来た。
「テ、テメエ…」
勝負は案外あっさりと決まった。
未だ《力》に目覚めたばかりの京一は氣の制御に慣れていない。
反して、劉は生まれた時から氣剄の訓練を積んでおり、実戦経験も豊富だ。勿論、龍麻や京一にそんな事情など知る由もないが、劉の動きを見れば「戦闘のプロ」であることは一目瞭然だった。龍麻が地に膝をついている京一の元へ急ぎ近寄ると、劉は複雑そうな顔をちらと見せてからさっと自らの拳を引いた。いつの間に携えていたのか、そんな劉の背中には鋭い剣が伴われていたが、それを抜いた形跡はない。
「そんな酷い怪我はさせてないつもりやけど。アニキの友だちに痛い思いさせたんは謝る」
劉が言うと、龍麻に気遣われていた京一がキッと顔を上げた。
「ふざけんなッ! まだ…勝負はついてねェ!」
しかし受けた打撃は思った以上に強かったのだろう、未だ立ち上がることも出来ず、京一は怒声を上げたことで更に苦しそうに息を吐いた。
「京一、もう終わり。もう止めて」
龍麻はそんな京一を労わるように一生懸命背中を撫でたが、それでも不思議なことに視界の隅に映っている「友だちを傷つけた」劉にはまるで腹が立たなかった。
むしろ龍麻は劉の傍にも駆け寄ってやりたい衝動に駆られた。
何故って、自分たちの傍で立っている劉の方がよほど辛そうに見える。
「京一。もう劉と喧嘩するのは止めてね」
だから龍麻は言い含めるように京一へそう発してから、心持ち急いで劉の前へ移動した。
そうして、「大丈夫?」と訊いてみた。
「はは……平気や」
すると劉はそんな龍麻に忽ち破顔し、照れくさそうに頭を掻いた。
けれどその顔はやはり少しだけ泣き出しそうだった。
「劉、僕もね。転校してきた初日、京一とこうやって喧嘩したんだよ」
「ん? へえ、そうなん? じゃあアニキ、わいのこと怒ってへん?」
「え? どうして?」
「だってわい、アニキの初めての友だちに怪我させた」
「京一はこのくらいじゃびくともしないよ。ね、京一。京一も、もう怒ってないでしょう?」
「……ざけんな。俺はむかついてる」
とは言うものの、龍麻の優しい空気に当たって京一の怒りのボルテージは既にぐっと下がっていた。劉に負けたこと自体は余程悔しいのだろう、未だ唇をきつく噛みしめているが、先刻のように取り乱して怒鳴ろうという気はもうないようだ。
そうして京一はようやく立ち上がったかと思うと、劉の傍にいた龍麻の元へ向かい、ぐいと引き寄せ自分の方に抱き込んだ。
「きょっ…」
「いいか、テメエ」
劉をぎろりと睨む京一に、今は劉も酷く真面目な顔をしている。というよりも、むっとしている感じだ。
それでも京一は構わずに続けた。
「龍麻に近づくんじゃねえよ。龍麻は俺の……相棒だ。何かあるなら俺を通せ」
「全く飲めん提案や。それじゃ何の為にこの勝負受けたか分からんし」
劉はきっぱりそう断ると、ちらりと背後へ目をやりながら後ろ手に「彼ら」を指さした。
「アンタにはほれ、あっちにぎょうさんアンタのファンがおるやんけ。アニキのことはわいに任せて、あっちの姫さんたちを護ったらどうや」
「ざけんな! 龍麻を護るのは俺だ!」
「わいもこれだけは譲れんな」
劉は不敵に笑ってから、次に龍麻を見つめた。
龍麻もそんな劉の目を見る。そして「ああ、劉は本当に自分の兄弟かもしれない」と思った。
「劉……僕んち、来る?」
だからだろう、ふと気づいた時には、龍麻はもうそう言っていた。
「お。行く行く!」
それに対して途端に喜ぶ劉。
勿論、それに対して仰天するのは京一だ。
「なっ…龍麻! おま、何言っていやがる!」
「だって劉は僕の家族なんだ」
龍麻はきっぱりとそう言った。そして京一からの拘束をするりと解くと、「また明日」と笑って劉の元へ行った。それを見計らったようにして美里たちが京一の元へ駆け寄って行ったが、龍麻はそんな彼らを横目で見送りながら劉と連れだって校舎を出た。
「ねえ劉」
「んー? 何や?」
帰りの道すがらで龍麻はずっと訊きたかったことを口にした。
「僕の弟なのに、どうして同じクラスなの?」
「はあ? そんなん、簡単や」
すると劉は全く悪びれもせずに答えた。
「年齢イッコごまかしたった!」
「ええ?」
「ははっ! 余裕やろ?」
「……あはは、変なの。劉って、変だね?」
龍麻がそれに呆気に取られつつもすぐにふわりと笑うと、劉もまた嬉しそうに笑んだ。
「せや! わいはそうやってアニキに笑ってもらうために来たんやから!」
そして劉はそっと龍麻を抱き寄せた。
それで龍麻も、恐る恐るながらその劉の肩にそっと身体を寄せてみた。
その温もりはとても安心するもの。とても良いものだった。
「アニキ」
その温もりをくれた劉が呼ぶ。
「待たせてごめんな。これからは、わいが一緒におるからな?」
そうして劉は囁くようにそう言った後、龍麻のこめかみに軽いキスを落とした。
「……うん」
龍麻はそれにくすぐったそうに首を竦めながらも、きちんと返事をして笑った。
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