―3―



  そもそも最初からケチのついた旅行だった。
  出発の前日、葉山は実家に急用が出来たと言って、当日の待ち合わせ場所を駅から空港に変えてきた。それ自体は陽一も構わなかった。国際便に乗るのは初めてだが、独りで空港へ行くくらいどうということもない。ただ、以前から、葉山は両親と折り合いが悪いと聞いていたから、「大丈夫かな」という心配はあった。
  そして案の定というかで、約束の時間に遅れてきた葉山の機嫌は底辺だった。
  葉山は「今、機嫌悪い、ごめん」と謝ったし、「でもそれは浅見のせいじゃないから」とも言った。それでも仏頂面の無口な葉山と長時間に渡るフライトは正味きつかったし、居心地も悪かった。「まぁ向こうへ行ったら何とかなるよな」と楽観はしていたが、何を言っても「別に」か「ああ」の反応しかない相手に、「これって葉山が言い出した旅行だよな?」と思わずにはおれなかった。
「え、ちょっと…?」
  しかも、葉山は現地のホテルへ着いて早々、陽一をベッドに組み伏せた。
  折角、長い時間をかけてようやく辿りついた異国の地だ。本来なら、「まずは美味しい紅茶を一杯」とか、ガイドマップを見ながら、「今夜の夕食はどこで取ろう?」とか。そういう楽しい相談をして然るべきだ。或いは、近場の公園を散策するでも良い。そういうささやかな、けれどきっと楽しい小イベントを全て飛ばして「それ」が1番だなんて。さすがの陽一も面くらったし、率直に「それはないだろう」と思ったし。
  だから、いつもはあまり逆らわないけれど、その時は「ちょっと待って」と言ったのだ。
「今着いたばかりなのに、ちょっと…それはちょっと」
  それは恐らく、実にまっとうな抗議だったはずだ。別に葉山と抱き合うことが嫌なのではないし、陽一とて2人きりの旅行で「それ」が全くないとは考えていない。あったっていいし、そもそも「いちゃいちゃする」為に来ていることを自覚している。
  でも、ずっと不機嫌でロクに会話もなかった相手から、部屋で2人きりになった途端、はいではやりましょうと即物的に求められたら、「ちょっと待て」となっても、それは当然である。
「何で」
  けれど葉山の方はそうではなかった。陽一のその感覚と同じではなかった。
「嫌なの。やりたくないの。俺はやりたい。今すぐ浅見が欲しい」
  急くように発せられるその台詞は文字通りで、葉山は言いながら問答無用に陽一の服を脱がせにかかったし、キスすることも止めなかった。陽一がどう言おうが絶対にやると言う風だった。
  こういう時の葉山を、陽一はいつもどうしようも出来なかった。
  本当は嫌だった。
  嫌なのかと言われたら、そうだ、と言う他ない。
  やりたくないのって、そりゃあやりたくない。だってこの国を楽しみたい。美味しい物を食べに行きたい。そういうものを堪能してからの「それ」で良いじゃないか。
「ねえ浅見」
  多分、葉山もそういう陽一の気持ちには気づいていたはずだ。それなのに葉山は待ってという陽一を待たなかったし、逆らおうとする手首を強引に掴み返してベッドに縫い付けたし。早々に剥いた身体に愛撫を与えて、陽一が身動き取れないようにしてしまった。
「飛行機でさ」
  陽一の性器を口に含みながら、葉山はその合間に話した。
「ずっと考えてた、早くこうしたいって。日本を離れるのは良いけど、着くまでが長過ぎ、それは失敗だった。だからさ……かけた時間分は、楽しまなきゃ損だろ」
  何が「損」なのか、陽一にはさっぱり分からなかった。
  けれど葉山は宣言通り、フライト時間分くらい陽一を自分の好いようにして、食事やシャワーはおろか、睡眠もロクに取らせずのセックスを強要した。お陰で朝には機嫌の悪さも霧散していたが、逆に今度はハイテンションで、「朝市見に行こう」などと言い出すから堪らなかった。
  だから、つまり。
  陽一が不平の一つも零したくなったのは、至極当然の成り行きだった。
  正直、陽一は葉山ほどセックスが好きではない。挿れられる方で負担が大きいからということもあるかもしれない。ただ、それより何よりも、抱き合う時の葉山は時にひどく意地悪だから。それが大きいのだと思う。ひたすらに気持ち良く優しく抱いてくれることもないことはないが、こういう強引に始まった時というのは、大抵前者の営みとなる。
  そしてそういう時、陽一は葉山にどう返して良いか分からず、行為の最中はほとんど無抵抗になってしまう。終わってからやっと冷静になった葉山と向き合って、せいぜいが「今日、ちょっと意地悪だったね」とやんわり言うくらいで。
  陽一はそういう自分と対面せざるを得ない状況になることが本当に嫌だった。





「浅見を全部手に入れようと思ったらさ」
  いまだ陽一の首に手をかけている。その葉山が言った。
「もう駄目だよな。結局、全部取り上げないと。全部奪って、完全に閉じ込めでもしない限り無理でしょ? 違う?」
  陽一が意を決して目を開くと、暗闇の中でそう言った葉山の顔がくっきり見えた。爛々と光る眼、というのは、きっとこういうことを言うのだと初めて知った。
  これは野生動物だ。獲物を捕らえて決して離さない。決死の覚悟で挑む気迫に満ちた――。
(……でも)
  ああ、やっぱりそれとは違うかな、とも思う。
  陽一は心臓の鼓動を騒がせながら、一方で冷静にそう考えもした。葉山が怖い。それは否定し難い事実だけれど、この鋭い眼光の中に、やはり依然として恐々とした気配がこびりついているのも分かるから。
「はや…」
  だから陽一は葉山が「俺のことが分かっていない」と言った台詞を「失礼だ」と思った。失礼な、分かっているつもりだ、お前のことなんて。そう言ってやりたい。さすがに首を絞められたことは想定外としても、こうとなっては葉山がここまで思いつめるのも「そうきたか」と納得だし、だからこそ、この後のことを考えると、「これくらいでやめさせなければ」と急いた気持ちになる。
  陽一は自分がどうとかいうよりも、こんなことをしでかして、後でとんでもなく悔やむであろう葉山のことが心配だった。
「ねえ、何考えてんの」
  最初こそ恐怖と困惑のみに染まっていた陽一が、ふと「違う種類」の悲しみを浮かべたことに気づいたらしい。葉山は、ちゅっと唇を重ねあわせてから、目を細めて訊いてきた。
「泣くのやめたの」
「……うん」
「何で」
「葉山。手、どかして」
  なるべくゆっくりと、平静なトーンで言えたと思う。葉山は相変わらず片手を陽一の首筋に当てている。俺がお前の命を握っているのだと。だから従えと、自暴自棄の体勢を続けている。
  それをとにかくやめて欲しくて、陽一は頼んだ。
「手、どかして」
「……俺の話、聞いてなかったの」
「かはっ…!」
  けれど葉山はやめなかった。それどころか今度はもう片方の手も添えて、ぎゅうっと陽一の首を絞める。
「全部取り上げるって言ったでしょ」
「か……ぁ……」
「それって、お前にはもう自由を与えないってことだよ」
「……ッ…!」
  苦しい。
  頭の中が真っ白になりかけて、陽一はここで初めて葉山の手首をがつりと掴んだ。まともに抵抗するのが遅い。そしてそれはあまりにも無力だった。自らの意思とは関係なく涙が零れて、再度視界は遮断された。
  ただ本当に殺す気なのか、と思った瞬間、またその力は緩められた。
「ハアッ! …はッ、は、はぁ…ゴホッ…かはッ…!」
  激しく咳き込みながら反射的に身体を捩ろうとしたが、既に覆いかぶさるようにして跨る葉山がいて、それは叶わなかった。逆に動かそうとした腕を強く掴まれ、元の仰向けの体勢に縫い止められる。
  しかもその後はまたあのしつこい口づけが始まった。
「んっ…ふ…ん…!」
  もうされるがままだった。手が離された後もそれを動かせず、荒れた息を整えている間に服を剥がされた。しかも陽一は全く逆らっていないのに、葉山は尚足りないとばかりに、タオルを使って陽一の両手首を頭の上で縛り上げた。そこまでされて驚愕する陽一の顔を見たくないのか、或いはその逆か。最後に葉山は、陽一の鼻から上に服をのせて、陽一の視界すら奪ってしまった。
「ひっ…ん、んぅ…ッ…!」
  前戯もほとんどないまま奥を貫かれてそれは始まった。引き裂かれると錯覚するほどに下肢を開かれ、立て続けに突かれ続ける。音と気配だけ。陽一は葉山が自分の中で激しく律動するのを嫌というほど味あわされたが、何も見せてもらえない状態だからこそ、その行為は余計に耐え難いものだった。
  葉山は行為中、むしろ自分を見ていて欲しいと頼むことが多い。陽一は毎度その要請が堪らなく恥ずかしくて、本当はいつも抵抗があった。
「いぁっ…んッ、あ、あっ…」
  けれどこうとなっては、あのセックスの方が何倍もマシだ。
  ベッドの軋む音と葉山の息遣い、自らの苦悶する声を聞く聴覚。
  肌が擦れ合い、体内を蹂躙する葉山の雄を直で感じる触覚。
  この2つの感覚だけがどんどん鋭敏になる。それはこんなにも恐ろしい。
「ひっ…や…あんッ!」
  せめて愛を紡ぐ声でもあれば違うのだろうが、葉山は陽一の蕾を攻め続けるだけで何も発しようとしなかった。陽一としては、ならばせめてと、その挿入の痛みにだけ集中しようと思うのに、葉山はそれすら許さない。時折思い出したように陽一の胸の粒を指で弄り、執拗に触ってくる。しかも陽一が悲鳴を上げると、それを怒るようにぷつりと押し潰し捻り上げるのだ。その度、びりりとくる電流のような刺激に、陽一は殆ど無意識に身体を跳ねさせた。
「ん、んぅ、ふ…!」
  すると次はそれすら諌めるような口づけが始まる。身体を折り曲げられた状態で受けとめねばならないそれはとんでもなくきつい。陽一は元より身体が柔らかい方だが、葉山の欲望全て受け止めるにはいい加減限界がある。第一、こんな無茶な体勢を強いられれば、後でひどい痛みに悩まされるのは想像に難くない。
「ん、んんっ!」
  けれど葉山はお構いなしだ。陽一の唇に自分のそれを何度も重ねあわせ、散々締め上げてきた首筋にも舌を這わせる。それと同時に、依然としてまるで赤子のように陽一の乳首に執着し、指先をそこへ這わせ続ける。
  陽一のすっかり萎えた性器も意固地になって扱く。陽一には痛いだけなのに。
(もう嫌だ……早く終われよ……)
  陽一は率直にそう思った。葉山の腰の動きは全く衰えを見せない。どれだけ保つのかと呆れるほどだ。挿入が繰り返される度に、ギッ、ギッ、とベッドが揺らされ、それと併せて、陽一自身の剥き出しの尻も激しく揺さぶられる。見えないとはいえ、あまりに惨めなその痴態を思って、陽一は心底情けない気持ちがした。
  そして思った。
(葉山のバカ…!)
  身体と共に、気持ちの部分もカッとなった。
(バカ、バカ、バカ…! 早くイけよ、早く出せ…!)
  挿入される度に声を上げていた陽一は、いつしかぎゅっと歯を食いしばってそれを堪え始めた。頭の中で葉山を罵倒していたらどんどん頭に血が上って、「こうなったら絶対声を殺してやる」と妙な意地も生まれた。身体は葉山に負けた。ならば心は折れていないのだというところを見せたかった。……本当はほとんど折れていたし、絶望もしていた。もう葉山とは駄目だなとも思った。
  それでもぎりぎりまで追い詰められ、視界まで遮断されて。
  散々に攻められるこの時間がとても長かったことで、陽一は鈍麻された痛みの向こうで、その状況に順応しようとし始めた。
(これ終わっても手首を解かなかったら……今度こそ、葉山を殴ろう)
  無抵抗に中を突かれているくせに、陽一は固くそう決意した。陽一は人を殴ったことがない。誰かを傷つけるなど恐ろしい。そこまで人と密接に付き合ったことがないし、その必要も感じて来なかった。思えば葉山と出会う前は、波風の立たない、至って緩い人生だったのだ。葉山と出会わなければ、葉山を好きにならなければ、こんなにも怒りや悲しみといった感情に翻弄されることもなかった。
  何の問題もなく、この先も生きていけたはずだ。
  そうだ、だったら、今からでも遅くない。また葉山のいない生活を送ればいいじゃないか。
(そうだよ…もう、葉山、なんか…)

  ただ、「ぽたり」と。

  その時、陽一の唇の横に、一粒の水滴が落ちてきた。
(………?)
  否、それは一度だけではなく、二度、三度と。ぽたぽたと雨のようにそれが立て続けに落ちてきて……陽一はすっと眉をひそめた。はじめは葉山の汗かと思ったが、それにしては何か不自然だ。
「……浅見」
  すると、行為の間中、一言も声を発さなかった葉山が初めて声を出した。陽一はどきっとした。思いつめたような暗い雰囲気は先刻のものと変わらないまでも、その自分を呼ぶ小さな掠れ声は、本当に今にも消えそうなほど微かなものだったから。
  けれどそれで、葉山が泣いていることに気が付けた。
「は―…ひぁッ!」
  ただ呼ぼうとした瞬間、陽一は思わず不覚な声を上げてしまった。呼ばれる気配を察知したのか、偶々そういうタイミングだったのか。葉山がまるで意図したように陽一の中で射精したのだ。
「……っ…」
  その余波に全身を刺激されて、陽一は単純に声を失った。出された後、すぐに引き抜いてもらえたものの、じわじわと体内へ沁み渡る葉山の精は、陽一の巡りかけた思考を忽ち停止させた。しかも葉山は達してすぐにそのまま覆いかぶさってきて、荒く息継ぎながら、陽一の胸に顔を埋めた。
「ちょっ……」
  重い、どけよ。――そう思うのに、言えない。
「葉山…っ…」
  かと言って、両手を使って引き離すことも出来ない。両手は縛られたままだから。
「葉山…!」
  それなら、せめて葉山の顔を見たい。でも、それも出来ない。顔を揺らして服をずらしても視界からそれは全て退いてくれなかった。だから依然として暗いままだ。
「葉山!」
  それでもようやっと「終わった」ことで、陽一は懸命に葉山を呼んだ。否、本当は終わっていないかもしれない。葉山の「闇」はまだ続いていて、「こんなことで解放されると思った?」と第二ラウンドが始まることだって考えられる。その可能性もあるけれど。
  でも、あの「水滴」が顔に何度も当たったから。
  やっぱりきっと、終わったのだろうと陽一には思えたので。
「痛い。早く解いて。タオル、取って」
「………」
  葉山はぴくりと動いたものの、すぐには返答しなかった。ただ、陽一が割と毅然とした声を出したことで自らも理性の波が戻ってきたのか、気配として狂気の葉山は消えていると感じられた。
  だから陽一としても心の中では相当緊張していたのに、あと一押しだと努めて冷静を装った。これが果たして「正解」かは、少し自信がなかったものの。
「今解いてくれたら、わ………別れない、から」
  何せ目が見えない状態だ。言った直後のしん、とした空気には、胃の辺りがズンと痛くなるのを陽一は感じた。
  ただもう、こうなっては後にも引けない。
「でも、解いた後はすぐに用心した方がいいよ。俺、葉山のこと殴ろうと思っているから」
「………」
「あっ、でもそんなこと言ったら、じゃあ解くのやめるって思っちゃうか…」
「浅見がそんなことするわけない」
  やっと葉山が返した。陽一は途端ほっとして、あからさまに息を吐いた。
「確かに俺、誰かを殴ったことなんてないよ…。でも、殴るよ。だから……だから、試してみれば!? それに、今すぐ解いたら別れないって言ってるんだよ?」
「………」
「捨てたりしないよ。葉山のこと」
「解かなかったら別れるの」
  この期に及んで子どものような甘えた声でそう言う葉山に、陽一は思い切り脱力した。ああ確かに狂気は去っていると安心も覚えたけれど。
「……もし本当にそっちを選ぶなら、もう別れるも何もないじゃないか。そんなの、つまり俺はこうやって縛られたまま葉山に殺されるってことだろ」
「殺さないよ」
  ようやく身体が浮いた。
  と同時に、あっと思うや否や、両目を覆っていた布がさっと取り払われた。未だ夜は明けきっていない、だから部屋は暗いままだ。
  それでもやっと。
  遂に葉山と見つめ合うことができた。やはり葉山の眼光から野生のそれだと思わせた鬼気は消えている。
「何回も言ってるじゃん」
  しかしそんな葉山の口調はまくしたてるように早かった。
「全部取り上げるだけ。浅見を閉じ込めて、俺以外見えない所に置く。それだけだよ」
「それだけって……」
「それだけだよ。それで十分だ、俺には」
「閉じこめるって、どこに」
「これから考える」
「犯罪…」
「どうでもいい」
  あまりの即答具合に、陽一は思わず詰まってしまった。頭の中では「ぜんぜん、まったく、どうでもよくない」と答えは出ているのだけれど。
  ただ、葉山が以前から言っていた、「俺が想っているほど、浅見は俺のこと好きじゃない」とは、きっとこういうことなんだとは、この時「初めて」陽一の中でストンと納得がいった気がした。
  だからこそ陽一は正直に言おうと思った。
「さっき…葉山にヤられている時さ…。正直、もう駄目だなって思った」
  葉山が露骨にびくんと肩を揺らしたのが夜目にもよく見えた。陽一は葉山のその肩を撫でてやりたかったが、当然の如くそれは叶わない。
  それでも、この時は縛られたままという事実を、陽一は然程怖いとは感じなかった。
「その前は、別れるなんて全然思ってなかったよ。あの時はつい勢いで付き合うのやめる?なんて言っちゃったけどさ…。すぐに、そんなの嘘だから、ごめんって言うつもりだった。でもあんまり葉山が人の話聞こうとしないし…具合悪いなんて言って寝るからさ…あ! 今、熱は平気なの? そういや、身体、熱かったような…」
「そんなのどうでもいい。それで?」
「え?」
「俺とはもう駄目って思って、それで?」
  急くように先を促されて、陽一は戸惑いながらも「うん」と応えた。
「だ、からさ……こんな、無理やり人のこと縛るし。く、首……絞めるし。ありえないよ。しかもこんな状態でそんな…好き勝手ヤって…さ…。そんなの、そりゃ、もうダメだって思うのも、もっともだろ」
「うん」
  あっさり素直に頷く葉山に、陽一は「代わりに」泣きそうになって、一瞬喉が詰まった。全く不思議なことに、この時の陽一は葉山の感情がするりと自分の内に入りこんできたような、そんな感覚を味わっていた。
「そう、だろ? 当然だよ、こんなの酷いよ。だからもう駄目だなって思ったし……葉山のこと、殴ってやろうって思ったし。……こんな風に思ったの、俺、初めてで」
「うん」
「でもさ…でも、俺、葉山のことを抱きしめたいよ…」
  言った瞬間、陽一はカッ頬に朱が走ったが、目の前の葉山がそれ以上に驚き、息を呑んだ気配を伝えてきたお陰で、すぐにその後も続けることが出来た。今度は陽一が早口になって。
「凄く抱きしめたいよ。だからこれ解いて欲しい。本当にもどかしい。これ嘘じゃないからな、本当に、今は殴るより何よりとにかく抱きしめたいんだ。これって何だろうな、俺ってMなのかも? 首絞めてくる相手を抱きしめたいなんてさ。でもつまりは……つまりは俺も、葉山と同じくらい、おかしな人間ってことだよ」
「浅見」
「だから、解いてくれたら別れないなんて言ったけど、本当はただ別れたくないだけだよ。俺が。葉山と」
  あ、と声が漏れた。
  言いながらその声は漏れた。もう葉山は動いていて、手品のようにあっさりとその戒めを解いてきたから。それは殆どワンアクションで、本当に固く縛っていたのかと疑うくらいの容易さで。
「……良かった」
  すぐに両手を下げてその手首を擦った陽一は、心からそう言った。それから悲鳴を上げる身体を何とか無視して起こすと、予告通り、葉山の身体をぎゅっと強く抱きしめてやった。
  葉山は呆れるほどおとなしくそれを受け取り、甘えるような仕草で陽一の首筋に唇をつけた。
  だから陽一も頼みやすかった。
「あのさ…1人で勝手に、どんどん暴走するの……やめてくれない?」
「……無理」
「む、無理でも…っ。その、努力、するとか」
「無理」
  あ、また泣いているかも。
  2回目の「無理」を聞いた時、陽一ははたとそう思って、それ以上言うのをやめた。
「陽一」
  すると葉山は陽一の背に腕を回し、抱きしめ返してきて――そっと、本当に大切なもののようにその名を呼んだ。本音では、葉山はいつもそうやって下の名前で呼びたいはずだった。以前にそう言っていた。けれど陽一の方がいつまで経っても「葉山」と呼ぶせいか、葉山もいつの間にか「浅見」呼びが定着していた。
  だから陽一と、そう呼ばれたことは陽一にとって凄く久しぶりで、そして新鮮で。
「……うん」
  本当は自分も怜、と呼んであげたら良かったのかもしれない。
  ――そう思いながら、それでもただ返事だけをして、陽一は葉山を改めて温かく掻き抱いた。ああ、やっぱりまだ熱があるのだなとは、その時ようやく確信した。





  翌朝、ホテルのレストランで朝食を取っていると、葉山が唐突に「もう帰る?」と訊いてきた。
「え?」
  あれから少し眠ったお陰か、葉山の熱は下がり、何より大きな「嵐」を越えたことで陽一はホッとしていたので、その提案には思い切り意表をつかれた。折角安心した気持ちで飲んでいたオレンジジュースも取り落としそうになったほどだ。
「何で…葉山、帰りたいの」
「浅見が帰りたいかと思って」
  葉山は何気なく手元のコーヒーカップを見つめながらそう言った。とりあえず元の鞘に収まったとは言え、居心地が悪いのは当然と言えばそうかもしれない。
  陽一はそんな恋人の様子をしげしげと眺めた後、すぐに回答を示すのは避けて「そういえば」と切り出した。
「葉山のこと殴るの忘れてた」
「知ってたよ。どうせ出来ないと思ってたから」
「……殴って欲しい?」
「もちろん」
  さっと顔を上げてそう答えた葉山は、一方でやはり「どうせ出来ないだろう」という光を放っていたし、「やれるものならやってみろ」と言った、ある種逆ギレの様相を呈してもいた。
「俺、考えたんだけど」
  そんな葉山の動向が手に取るように分かる、だから葉山はああ言ったけど、「やっぱり、俺は俺なりに葉山のことを凄く分かっているんだ」と思いながら、陽一は素知らぬ風でさらりと返した。
「もし俺がちゃんと殴ってあげたら、葉山はそれで楽になるわけだよな。昨夜、葉山が俺にやらかしたあれこれが、それで全部チャラになっちゃうのかと思ったら……それって、俺の方が損なんじゃないかなって。そう思ったんだ。殴る方だって手が痛いだろうし」
「……つまりそれってどういうこと」
  平静に返しているようでも、陽一の言葉に対して、葉山は明らかに戸惑ったようだった。いつも弱気な陽一がまさかそんな風に返すとは思わなかったという風だ。
  それを少し気分良く思いながら陽一は笑った。
「どういうことも何もないけど。予定より早く帰るとか気を遣えるくらい、俺に対してちょっとでも悪かったなって思ってくれたならさ…。この後の旅行は、全部俺の良いようにさせてもらいたいなって」
  その提案に葉山は目を丸くした。とことん想定外の返しだったらしい。
  だからそんなわけはないと確信しているのに、陽一は意地悪く尚も畳み掛けた。
「駄目なの?」
「……いや。けど、浅見の良いようにって?」
「そのままの意味だよ。俺の行きたい所に行って、食べたい物を食べる。休みたい時に休んで……ヤりたい時にヤる」
「はっ……そんなの、ないだろ?」
「そんなのって」
「4番目のやつ」
  珍しく葉山は言葉を濁して、手持ち無沙汰のようにコーヒー皿の上のスプーンを掴んだ。そうして特に必要ないのに、それを使ってカップの中をやたらと掻き混ぜる。
  陽一は笑った。
「ないことはないよ。だって俺、ここへ来る前そういうの…フツーに、想像してたし」
「嘘つけよ」
「嘘じゃないよ」
「嘘だよ。……けど、嘘でもいい」
  不意に思いつめたような顔を一瞬だけ閃かせた葉山は、しかし「分かったよ」と答えた後、ここでようやく小さな笑みを零した。
「何でも言って。残りの日数、喜んで浅見の奴隷になる」
「そ…その言い方、何か嫌だな」
「いいから、早く。じゃあ今日はこれからどうする?」
「ず、随分偉そうな奴隷だなぁ」
  陽一は苦笑しながら、それでも「大丈夫かな」と思いつつ、考えていたことを告げた。
「あのさ。昨日行った街があるだろ。あそこの教会へまた行きたいんだ」
「………教会?」
「そう。ラロ君に教えてもらったステンドグラスのこと、葉山にも話してあげたいから」
「別にいい。それ、俺も聞いてたし」
「なら尚のこと、もう一度、今度は一緒に見に行こう」
「………」
  陽一の予想通り、葉山はすぐに返事をしなかった。もっとも、すぐさま「行きたくない」とも言わなかった。さすがに昨夜の罪悪感が邪魔をしたのだろう。
  ただ、陽一にとって意外だったのは、葉山が気にしていた人物がラロではなかったことだ。
「俺、大学卒業したら、そのまま院に上がろうと思っていたけど」
  突然そんな話をされて陽一は驚いたが、黙っていると、葉山は顔を上げないまま続けた。
「やっぱ普通に、サラリーマン目指そうかなって思った。ビシッとしたスーツ着てさ…昨日のあの男みたいに」
「あの男?」
「朝の教会に立ち寄っていた男。浅見は、ああいうのがタイプなんだって改めて分かったから」
「……は?」
  陽一は何を話されているのか分からずきょとんとしたが、葉山の方はその反応をどうでも良いと思っているのか、変わらずカップの中身を見つめたまま淡々と告げた。
「それに、さっさと独立しないと色々な面倒が全然片付かないってことも実感したし。バイトして貯めた金があるって言っても、やっぱり親の援助なしじゃまだきついんだ。俺は、あいつらが俺に投資するのは当然だ、なんて甘く考えていたけど。それって、全く舐めた考えだよな」
「え…っと、それって…進路の話?」
「そうだよ」
「葉山が親のことを自分から話すなんて珍しい、ね?」
「本当は話したくないよ。けど、俺が不機嫌だったのって、つまりは、そういうことだから」
「え?」
  陽一はぽんぽんと何でもないことのようにその会話を進める葉山に「ちょっと待て」と言いたかった。とても大切な話をされているのに、自分がその展開についていけないうちに、葉山が振るだけ振ってその話題を終わらせようとしているから。
(つまりはそういうことだからって、全然、説明になってないよ…!)
  けれど陽一が頭の中だけでツッコミを入れている間に、葉山は不意に顔を上げた。
「なぁ、そうなんだろ? 浅見のタイプって、あの男みたいな、スーツの似合う社会人なんだろ。カッコイイって言ってたもんな。いかにも大人の男ってやつ?」
「……バカ」
「はぁ? 何だよ、人が真剣に訊いているのに…」
  陽一が思わず口をついて出した言葉に、葉山は露骨にむっと唇を尖らせた。
  しかしこうとなっては陽一も負けてはいられない。
「そういうことも含めて、とにかく、あそこでよく話し合おう。俺、信者じゃないけど…あの教会で、何だか気持ちが落ち着いたんだ。葉山もきっとそうなるよ」
「……どうせ俺はいつも落ち着きねェよ」
  ぶすりとする葉山に、陽一は肩を竦めながらまともに取り合うのをやめた。
  その代わり、きちんと自分の考えは告げることにした。
「俺、葉山と話したいんだ。もっと、たくさん」
「そんなの……別に、あそこじゃなくてもいいだろ」
「駄目。あの教会で話したい。……ちゃんと、葉山を見て」
  やっぱり、葉山はラロが話したステンドグラスの物語を聞いていないのじゃないか。そう想いながら、陽一は尚も強くそう言い切った。だからか、葉山はそれ以上反対の意を唱えず、不貞腐れることこそやめなかったが、朝食が終わる頃には、あの街での他の見どころも話しながら、陽一に「今夜は美味いもの食いに行こう」と言うことが出来ていた。
  そうしてその後、葉山はホテルの部屋を出る間際、一度だけ陽一に許可のないキスを仕掛け、エレベーターでも不意に手を握り放さないということをしでかしたが――それ以外は至って従順に、陽一の希望通りの恋人を演じきった。それは多少の無理もあったに違いないのだが、それをやり切れた葉山に陽一は心から安堵した。

  その安堵があったからこそ。

  2人は帰国してからも、何とか、変わらずの恋人関係を続けられている。






説明しないと分からないタイトル駄目過ぎるんですが、コーヤは文字通り荒野です。
漢字で「雨降り荒野」だと何だか堅くて暗いと思いカタカナにしたのですが、
どっちみちしょぼついた感じの話になりました…。折角の海外旅行が…日本出て余計酷くなった・笑。