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「陽一。また来たわよ、で・ん・わ」 ベッドに寝転んだ状態で大して読みたくもない文庫本を開いていた陽一の所に姉の光がやってきた。かったるそうな顔でドアにもたれかかり、陽一に心底呆れたような目を向ける。 「保留にしてあるから早く行きなさい」 隣の部屋にあるだろう電話の子機を顎で指し示す姉に、陽一は上体を起こしながら力なく首を振った。 「……いないって言って」 「自分で言えば?」 「それおかしいだろ…」 多少むくれたようにそう抗議したが、光は「怒っているのはアタシ」とキツイ目を向けた。 「一体何回電話取らせる気よ? いい加減めんどくさい。さっさと取って、『お前とは話したくない』ってきっちり言えばいいでしょ」 「煩いな…」 「はあ? ウルサイ? 何それ、あんた誰に向かって口きいてんの? そういう態度でいいわけ? ああ、そう!」 「ごっ…ごめん。悪…悪かったから…。だから、電話――」 「何で出たくないのよ。仲良しだったんじゃないの? 喧嘩?」 「そんなんじゃないよ、今は具合が悪いだけで…」 「だったらそう言えばいいでしょ。一言声きかせてやれば葉山も納得するわよ。――ね、葉山?」 「なっ…!」 その口調に陽一がはっとした時にはもう遅かった。 「姉さ…!」 「聞こえた? ああ、そう。はい、じゃあ代わるから。しかし君ね、こんな夜遅くにそう何度も電話しないでくれる? うちの人たち、みんなそういうのあんまり好きじゃないんだから」 真っ青になっている陽一に構わず、姉は部屋に来る前から後ろ手にちゃっかり持ってきていた子機を持ち上げて受話器向こうの葉山にそうのたまった。確かに就寝の早い陽一の両親は既に寝ていたが、その分この姉が近所迷惑なのではと思う程の騒がしい長電話をする事はしょっちゅうだった。だからそんな姉が本当に家族の迷惑を考えて葉山に抗議したのかは甚だ怪しい……が、それでも彼女がこの状況を面白く感じていない事だけは確かだった。 下手投げで子機を陽一に向け放り投げた姉は、慌てたようにそれを受け止めた弟に対し実に力強い口調で言い放った。 「いい? ちゃんと言いな。『お前と付き合うのキツイからもうやめる』って。『お前、メンドクサイ』って」 「姉さん!」 「私もしつこい奴らにはそう言って切ってきたのよ。いつまでもだらだら付き合っててもそいつにも悪いじゃないの? そうでしょ?」 「もう姉さんは出てってくれよ!」 「あーあ! ったく頭にくるわ…。はー寝よ寝よ!」 「……っ」 姉は一体何をカリカリしているのか。しかしそんな彼女に何を言っても無駄な事は陽一自身が一番よく分かっていた。どうしようもない気持ちで顔を真っ赤にさせながら、陽一は手にした子機を見据えたきり暫し何も言えなかった。 葉山のアパートから逃げ帰るようにして帰宅してから今日まで既に3日。 それから毎晩のように葉山からの電話は掛かってきたが、陽一は1度も取る事ができなかった。こんな風に露骨に避ける自分を本当に大嫌いだと思ったが、どうしても葉山と口をきく気持ちになれなかった。 どんな情けない事を言ってしまうか、自分でも予想がつかなかったから。 「……もしもし」 それでも姉が部屋を出て行った後、陽一はようやく意を決して子機を耳にあて、声を出した。弱気な、ひどくか細いそれだった。 『………』 葉山の息遣いがすぐ近くで聞こえた。なかなか声を発しない。当然だ、相当頭にきているのだろうと、陽一はごくりと唾を飲み込んだ。 『俺と』 それからどれくらいが経ったのか。 ようやく葉山が声を出した。 『俺と付き合うのキツイのか』 「え……」 『もう俺のこと嫌いになった?』 「は、葉山……」 『お前の姉さん凄いな。さっきだって、会った事もない俺にさんざん好き勝手な事ほざいてたよ。愛されてんだ』 「な、何…?」 『うちのは何も知らない箱入り息子なんだから、俺みたいな奴はふさわしくないって。身を引けって』 「ね、姉さんが、そんな事…?」 いつもお節介なところがある姉だけれど、まさか葉山にそこまで言っていたとは。 ますます血の気が引く想いの陽一に、けれど葉山は自嘲したような笑みを零すと小さく言った。 『本当だよな。お前、俺といても何も良い事ないだろ。うぜえだけだろうし…。実際メンドクサイだろ』 「葉山…?」 どくんどくんと早鐘を打つ心臓の音と葉山の静かな声とが混じりあって、陽一の思考は完全に混乱した。葉山が言おうとしている事が分かって、けれどそれを受け入れたくなくて、でもそれも当然のような気がして。 何を言って良いのか分からなかった。 『元々、強引に付き合わせたみたいなもんだし。そのくせ俺はお前のこと考えないで好き勝手だ。確かに俺はお前に向いてない。この間も……』 一旦言い淀んだようになったものの、葉山はきっぱりと言った。 『この間も、お前傷つけて何もしなかった。あの時の俺はマジでクズだ』 「そんなことないよ…っ」 慌ててそれだけ言ったが、葉山は陽一のその言葉を完全に受け流すと、早口になって続けた。 『本当言うとあの時の電話、お前と付き合う前に結構一緒にいた女からでさ。実際、お前と付き合うようになってからも時々会ってたし。この間も………一晩一緒にいた』 「え……?」 最後の方だけ迷ったように言い淀んだ葉山だったが、陽一が反応する事を嫌ったのか、再びまくしたてるように続けた。 『そしたら余計しつこくなって、さっさと切ればいいものをだらだら適当に相手してたらどんどんややこしくなってった。俺は言えなかったんだ。そいつに、もうお前興味ないって。そいつ、最初ただのセフレでいいって、軽い感じなのが丁度良かったし、俺みたいのにああいうのこそが似合うって想ってた時期も確かにあったから』 「………」 何も言えずに沈黙の陽一に、葉山は尚も続けた。 『あの時お前にケータイでの会話きかれて…。俺は平気で嘘ついた。嘘ついてたんだよ。お前の反応見てばれてるってのはすぐ分かったけどな…。お前は誤解してないって言ったけど、実際そんなわけないよな。あんなの…最悪だろ、一番最悪な俺を見られた』 「葉山…」 『分かってたんだろ? 俺があの時嘘ついてるって。だから避けてんだろ。まあ…自業自得だ』 「……俺は」 あれが本当だとは思わなかったけれど、嘘だとも陽一は思っていなかった。 俺はお前が女の子と付き合っているなんて知らなかったし、考えもしていなかったよ。 「………」 その想いを頭で浮かべつつ、けれど陽一はただバカみたいに子機を耳に当てたまま葉山の声を聞いていた。葉山がいつ女の子の方をまた好きになって戻ってもそれは仕方ないと思っていた。覚悟だってついていると何度も何度も思っても、本当にそうだと思うとやっぱり駄目だった。 こんなに胸が痛くなったことはなかった。 本当に葉山が好きなんだと分かった。 「ごめん……」 しかしこれは、全部自分のせいなのだ。 「ごめん」 謝れば葉山は気分を害するだろう、それが分かっているのに陽一はそう言わずにはおれなかった。葉山は何も悪いと思う必要はない。悪いのは自分だ……。それだけは確かだ。 『何で…そこで謝るんだ…』 案の定葉山は耐えられないという風に嘆息し、やがて「勘弁してくれよ」とひどく陰の篭った声で呟いた。またズキンと胸が痛み、けれど陽一はいよいよどうしようもない気持ちがして、遂に葉山に向かってはっきりとした声を上げた。何からも逃げて、全てを誤魔化してきた自分は何が葉山の恋人だ。葉山を傷つけたまま終わりにしたくない。 だから陽一は声を上げた。 「明日会える? 俺…お前んちに行くから」 『………』 「俺が行く…。行きたいんだ、葉山のとこ」 葉山がどういう返答をしたか、この時の陽一は覚えていない。 ただ拒絶されても、明日だけは絶対に行こうと思った。葉山のアパートへ。 本当は会いたかったのだ。このままこの気持ちを話さずにさよならするのは絶対に嫌だった。 セックスなんて付き合う上ではキャラメルのおまけみたいなものだと以前葉山は言っていた。そういうものは二の次で、本当に大事なのは自分の事を分かってくれる人が傍にいてくれる事。言ってみれば男女の結婚も出産も子育てして家族になっていく事だって、全部全部おまけなんだ。形なんて関係ない。お互いが寄り添ってただ必要なのだと認識していて。それが大事なんだと。 だからお前が傍にいてくれれば俺は大丈夫だと。 でも実際はそうじゃなかった。 いつまでも男同士だとか世間の目だとか、自分に対する引け目だとか。陽一がそんなものにこだわってうじうじとしている間に、葉山との距離は少しずつ離れていった。確かにセックス自体は愛を語る上でのおまけみたいなものだったのかもしれないけれど、まるきり意味がなくてくだらないものというものでもない。子孫を残すとか生理現象だとか、そういう方向とも違う大切な何かがあるからこそ、葉山だって陽一をひたすら求めていたのではないか。 キャラメルのおまけとは違う。少なくとも自分たちには、それは必要な行為だったのだ。 「本当にバカだ」 そんな事とっくに知っていたはずなのに、陽一はいつでも葉山の優しさに甘えていたのだ。本当は陽一の方こそが自分という存在を認めてくれた葉山を甘えさせてやるべきだったのに。 「お前には嫌われたくない」 そう言った時の葉山の顔を陽一は思い出していた。 その外見や周囲との良好な人間関係とは裏腹に、内面にひどく陰鬱的なものを隠し持つ葉山。あんなに楽しそうにして過ごしていた高校生活とて、突然誰にも何も言わずあっさり捨てて振り返らなかった。唯一引きずっていたとしたらそれはお前の存在だったと、葉山は後に陽一にそう言った。 そんな葉山を誰よりも愛しく思うと、今、陽一ははっきりと己の気持ちを自覚した。 夕刻過ぎにアパートのチャイムを鳴らすと、葉山はすぐにドアを開けて「よう」と言った。いつもの温和な葉山。それで陽一は少しだけほっとした気持ちになり、肩に入れていた力を抜いた。 「何か買ってきた方が良かった?」 「いいよ。適当なもんでいいなら飯はあるから。ビールも何本かあるし」 「そっか…」 久しぶりの葉山の部屋は随分こざっぱりとしていた。いつもなら大学で使っているという本やらパソコンの資料やらが乱雑に放り投げられている時もあるのに。 まるで生活臭のないその風景に陽一が途惑っていると、葉山が台所でコーヒーを淹れながら察したように言った。 「引っ越そうと思ってさ。どんどんいらないもん捨ててる。結構すっきりしたろ」 「引っ越すって…?」 「俺のこと誰も知らない場所に移りたいから」 葉山は軽く言い放つと、陽一の傍に寄ってきて湯気の立つコーヒーカップを差し出した。そこからたゆたう白い煙を眺めながら、陽一は隣に座った葉山を思い切り意識しつつそっと眉を寄せた。 2人は暫くの間、そうして沈黙の中コーヒーを飲んだ。葉山の淹れるコーヒーはいつだって美味しかった。葉山は既に陽一の好みを熟知していて、砂糖の数は勿論、ミルクの量とて、陽一の家族以上に具合良く入れてくれた。 けれどそこまで考えて陽一はふと顔を上げた。 「よく考えたら…。俺が葉山にコーヒー淹れる事ってなかったな」 「ああ…」 陽一の何気ない言葉に葉山もそういえばという顔を見せた。 「大抵この部屋で会うからだろ。俺、自分ちの物いじられるの、そんなに好きじゃないしさ」 「………」 「まあお前が淹れてくれるって言うなら頼むけど? 得意? こういうの」 「そうでもないよ。ただ姉さんによくこき使われるから、ひと通りの事はできるかな。コーヒーも紅茶もインスタントとかだと怒るから」 「凄いなそれ。じゃあ割と本格的じゃん」 「うん…」 こんな話がしたくて来たわけではない。分かっているのにあまりに穏やかな時間に昨日までの事を全部忘れてしまいそうになる。 しかしそれでは駄目なのだと、陽一は手にしていたカップを目の前のテーブルに置いた。 「あのさ」 「うん」 陽一が口を開くと葉山はすぐに応じてきた。恐らくは同じ気持ちだったのだろう。 「昨日、謝ったことごめん」 「……何だ。結局謝るのか」 「そうじゃないけど」 「そうだろ」 やや失望したように葉山は言い、嘲るように唇の端を上げた。完全に拍子抜けしたような顔をしていた。陽一が葉山と話したいという内容はきっと自分を責めるものだと葉山は考えていたのだろう。覚悟していたような表情が一気に不快なものへと変わっていく。陽一が苦手な、怖い時の葉山だった。 「お前、俺が昨日電話で話した意味分かってなかったのか。お前の事さんざ好きだって言ってしつこく口説いてた俺が他の女と寝たって言ったんだぜ。お前に連絡しないで、携帯も解約したって嘘ついてさ。軽い口調でアイシテルなんて他の奴に言った俺だぜ。そんな状況でそうやって謝るお前、絶対おかしいよ。何でキレたり泣いたりしないんだ。それともその程度の存在なのか、 お前にとって。俺は」 「そうじゃないよ」 まくしたてるように言う葉山に押されながら、それでも陽一は必死になって言い返した。 「謝ったのは…その事じゃない」 「じゃあ何なんだ。そうか、やっぱり面倒なんだな。お前は、何もかもがメンドくさいんだ。人と付き合うのも、人に依存されるのも。だから適当に謝ってこの場を収めようとしてるんだ? 俺がみっともない自分をお前から隠そうとして早々謝る時みたいに」 「な、何だよそれ…。どうしたんだよ葉山…」 「どうした、じゃねえよ。お前と言い合いになる時、俺はいつでもすぐお前にごめんって言った。お前に嫌われたくなかったからだ。俺って汚い奴をお前に知られるのが怖かった。だからさっさとその場を締めようとして、俺はいつだって誤魔化してた。その場を。あんな俺にだって呆れてただろ」 「違うっ。そんな風に思った事はないし、俺は俺こそ、いつも葉山には悪いって思ってた! それに…! ああ、違う、そうじゃない…っ。俺が謝った事とそんな前の事を持ち出して比べるなよ…!」 「………悪い」 真っ赤になって身体を震わせながら叫んだ陽一に我に返ったのだろうか。葉山はぴたりと動きを止め、やがて困ったように俯いた。勢いこんで声を出し続けたせいか、はっと小さく殺すように微かな息を吐く。 「ちゃんと…俺の話聞いてくれよ」 それでようやく陽一も落ち着いた声に戻り、ちらと葉山を窺い見た。何て辛そうな顔をしているのだろうか。これが全部自分のせいなのだと思うと陽一はただ堪らなかった。 「いつでも、逆だよ…。本当に怒らなくちゃならないのは葉山の方で…。責められなくちゃいけないのは俺だろ」 「バカ、何だよそれ…。ああ、もういいよ。もう何だっていい。俺はお前のそういう優しいところが好きだし、嫌いなんだから」 「………優しいのは葉山だ」 「煩い。俺はお前よりお前って奴を知ってる。だから、もういい。分かってる。けど昨日のは……マジで耐えらんなかった」 「………」 「謝るなよ。俺に」 「なら葉山だって――」 「お前に触れられないからって別の奴と寝たって言ってんだろ? しかもお前の顔想像しながら、俺は…」 「葉山は……もう俺と別れたいのか」 自分を責める葉山を止めたくて陽一はその声を遮断するようにキツイ口調で言った。 どうして話させてくれないんだ。俺がこの部屋に来た理由をどうして葉山はまるで逃げるみたいに聞いてくれない。 それがもどかしくて陽一は表情を崩したまま初めて抗議するように詰め寄った。 「どうなんだよ。もう嫌なのかよ。勝手に好きだって言ったくせに…俺、やっと自覚したのに。なのにもう嫌なのかよ、高校の時みたいにまた急に消えて…この何もない部屋みたいに全部やり直したいって? 俺のこと置いて?」 「置いて…?」 陽一の言葉に葉山が訳が分からないという風に顔を上げた。 陽一はそんな葉山に再度問いかけた。 「俺と別れたいのかよ」 「………」 「はや―」 「別れたくない」 葉山が言った。 目は陽一から逸らしていたが確かにそう言った。 「………俺」 陽一はほっと息を吐いてから、伏し目がちになっている葉山に向かって恐る恐る手を伸ばした。その指先にそっと触れると、殆ど反射的にだろう、葉山がその手を強く握り締めてきた。 「俺、いつも自分に自信なくて」 葉山の手の温もりを感じながら陽一は言った。 「葉山は俺が誰とも群れない、それを強いって言ったけど、本当は全然違うんだ。俺は自分を護ってるだけだよ。人と関わって傷つきたくないから人に近づかないだけなんだ。むしろ俺は葉山の方をいつも凄いと思ってて、だから…怖かったんだ。そんな葉山が俺を好きだって言ってくれるなんて…」 「何だよ…それ」 「だってそうなんだ」 むっとして口を尖らせる陽一に葉山はふっと嘲るような笑みを落とした。 「俺はいい加減な自分を隠す為に適当に良い奴のフリしてただけだよ。みっともない自分を晒すのが嫌だった。俺も自分を護ってる」 「じゃあ俺たち…逆だけど、同じだ」 「………」 「あっ…。葉山の方が…かっこ良くて、凄いけど」 「ふっ…ばあか」 ようやく葉山が自分を卑下するものではない笑みを浮かべた。 「葉山…」 それで陽一もようやく安堵して、自分も情けないくしゃくしゃの表情ながら目尻を下げた。 「浅見…」 「ん……」 するとすぐに葉山からのキスはやってきて、陽一は素直にそれを受けとめた。1度触れ合うと久しぶりのそれは陽一の胸を、そして仕掛けた葉山自身の身体も熱くした。 「浅見…浅見…っ」 「んっ」 めちゃくちゃに唇を重ねてくる噛み付くようなそれに陽一は思い切り面食らった。それでも逃げては駄目だと、陽一は逆に葉山の肩をぐっと掴んで反射的に逸らそうとする己の身体をその場に留めさせた。 「俺、だって…」 そして陽一は言った。 「別れたくないよ」 「………」 唇が離れた事でようやく葉山の瞳を真っ直ぐにとらえ、陽一は潤んだ目のままきっぱりと告げた。 「葉山の事が好きなんだ」 「あ…浅見…。けど、俺は――…」 「葉山」 陽一は尚も贖罪の言葉を吐こうとする葉山を止めたくて、この時初めて自分からのキスをした。葉山の驚き動揺した様子がもろに伝わってきたけれど、構わなかった。 「浅見…」 すると葉山はようやく吹っ切れたのか、照れたように唇を離した陽一に今度は自分がと深いキスを求め舌を絡めてきた。同時に陽一の腰にも腕を回し、強く引き寄せ抱きしめる。 「ん…んっ……」 異常な程長い時間、2人は唇を貪りあった。どちらの唾液とも分からないものが口元から零れ落ちたけれど、陽一も葉山もそんな事はちらとも気にしなかった。 「俺……」 やがて顔を上気させた葉山が陽一の身体をまさぐり出した。陽一の方はそれに一瞬はハッとしたものの、すぐに余計な考えを振り払うように葉山の首筋に唇をつけ、そのままぎゅっと縋りついた。 「……んっ」 「浅見…!」 荒く息を吐く葉山に陽一は完全に自らの身体を預けた。葉山の事を好きだと思い、葉山も自分を好きだと想ってくれていると強く感じた。 それがあれば、他の事なんてもうどうでも良かった。 「俺……硬くなってる」 「そう、だな…」 葉山にズボンの衣越しから触れられて、陽一は恥ずかしさで目元を紅く染めながらも冷静にそう発した。葉山はそんな恋人にクスリと笑ったもののその事実には心底嬉しそうな顔をして、何度も何度も愛撫を繰り返し、更にその合間合間に熱いキスの雨を降らせた。 「はっ……」 「浅見…すごい色っぽい」 「バ、バカ…! いいからっ…」 「……うん」 陽一の言いたい事が分かったのか、葉山は頷くとズボンのジッパーを下げ、すぐにそこを大きく押し開いた。そのまま手を差し入れ下着越しに1度の愛撫を加えた後、陽一が恥ずかしがって逃げようとするのを止めるように、すかさずキス。 「ん……」 「…浅見」 そうして葉山は陽一がその口づけに翻弄されている間に、触れていた下着の更に中へと己の指先を忍び込ませた。 「わっ…」 「ふ…興冷めな声出すなって…」 「だっ…だって…。ひっ…」 「陽一」 突然下の名前を呼び、葉山は戒めるように声を上げた陽一に向けてもう何度目かも分からないキスを唇の上にちょこんと落とした。陽一がそれで途端大人しくなると、葉山は調子に乗ったようになり、ようやく触れられた陽一のものを優しく包み込むように撫でてからきゅっと掴んだ。 「はっ…葉山…」 首を振って尚も身体を逸らそうとする陽一に焦れたのか、葉山は遂に陽一をその場に押し倒すと、そのままその反撃を止める為に中途に脱がしていたズボンと下着をズルリと一気に引きずり下ろした。 「……ッ」 フローリングの上で下半身だけ全部晒してしまった陽一は葉山の予想通り途端息を止め、そのまま動けなくなった。ただぎゅっと目を瞑り、もう逃げてはいけないと呪文のように唱えながら、陽一は葉山が与えてくる刺激にだけ身を預けた。何が何だか分からない。自慰もめったにする事のない陽一は元々こういう行為自体に頓着がなかった。だからこれから自分がどう変わってしまうのか全く予想がつかなかった。 「え……はっ!?」 「静かにしてろ…」 「ちょっ…駄目…!」 そうこうしている間に葉山は陽一の性器を1度大きく口に咥えこむとそこで何度か出し入れを繰り返し、その後自らの舌で丁寧に舐め始めた。 「やっ…葉……はぁ、や…あ…あぁッ」 「………陽一」 初めて聞く陽一の嬌声に驚いたのか感嘆しているのか、葉山は一旦は口を離して陽一を見上げ、それからまたしつこく舌を絡めては陽一の性を煽り始めた。卑猥な音が陽一の耳に届き、おかしい、おかしいと頭の中でただ同じ単語が頭を巡った。 「おかし…よ…?」 だから思わずそう口にした。 「何が…」 葉山もそんな陽一の発言を不審に思ったのだろう。顔をあげ、陽一の方を見やる。 陽一は薄っすらと目を開けると、ちらとだけ葉山に目を向けた後は、もう自分の勃ち上がり興奮しているモノを見たくなくて横を向いた。 「だって…俺が…」 「浅見が?」 「俺が…葉山に、あげに…きた、のに」 「え…?」 「何で…俺がしてもらうの、おかしい…」 「………」 「これじゃ…俺ばっかり」 「大丈夫」 何だそんな事かと小さく笑う葉山は心底安堵したように息を吐き出した。最中に突然意味不明な事を発した陽一に何を言われるか不安だったのだろう。葉山は最後まで陽一をイかせた後、すぐさま上に覆いかぶさってきて陽一の鼻の頭に優しいキスをした。 「俺は貰ってるよ。お前に貰ってばっかり。だから謝ったり…気を遣うの、よせよ」 「葉山が…」 「ん……」 気配を感じて瞳を開いた陽一は、すぐ傍で自分を見つめる葉山に恨めしそうに言った。 「いつも気を遣ってるの、葉山の方だろ…」 「……そうかな」 「そうだよ…だから…っ? ぃっ…!」 「当たり前だろ…そんなの…。先に惚れた弱み」 「は、葉山…あ、待っ…ひ、ぃ…んんっ」 こちらを見つめていた葉山が一旦身体を下げた事を不審に想う間もなく、陽一はその深奥にいきなり指を突き入れられ声を上げた。痛い。想像はしていたけれど、予想以上だ。本当にあんなところに葉山を受け入れる事なんてできるんだろうかと、途端猛烈な恐怖に包まれた。 するとふっと身体から葉山の気配が消え、え、と思って目をあげると葉山は何を思ったのか陽一を置いて隣の部屋へ消えてしまった。 「なん……」 それにショックを受けていると、しかし葉山はすぐに戻ってきて「これ」とこれみよがしに陽一に手にしてきたものを見せた。 「何…?」 「通販で買ってみた。具合良さそうかなと思って」 「え……」 「というか、いつかできますようにっていう願掛けの意味で買っただけなんだけど」 「ばっ…」 葉山の照れたような顔に思わず陽一もかっと首筋まで赤くなった。 葉山が手にしていたものは男性同士の時に使う専用ジェルだった。何をかくそう陽一自身もそういったサイトをこっそり見に行って、自分でも買うべきだろうかと逡巡した夜があったのだ。 だからそれを見た瞬間、用途はすぐに分かった。 「は、葉山……」 「やっぱりやめようって言われたら…俺、どういうリアクションするんだろ」 「……な…んだよ、その前フリ」 「違うよ今真剣に考えてんの。お前も見て分かる通り、俺は今かなり限界。分かる? お前見てこんな感じてるの俺」 「………」 確かに葉山の下半身は既に相当張り詰めているのがズボン越しにも容易に分かった。陽一はこくりと喉を鳴らした後、ただ金縛りにあったようにだらんと横になったまま、葉山の行為を見ている事しかできなかった。 「……俺…もうやめようなんて言わないよ」 「ん……」 せめてそれだけ口にすると葉山はまたなぜか急に泣きそうな顔になった。指先にたっぷりつけたジェルを陽一の中へと丁寧に塗りこんでいる時も、まるで何かの作業をしているように黙々としていた。 陽一は必至に唇を噛み、おかしな声が出ないようにひたすら耐えた。本当は何かにしがみつきたかったけれど、頼りない指先はカリと床を掻くだけでまるで意味を成さなかった。 下半身だけが狂ったように熱い。 「浅見、痛い…?」 「………」 黙って首を横に振ると、葉山はそれならもっとと自分の腿で陽一の股を開かせた後、更にその奥へ指を突き入れ中をまさぐった。 「いっ…」 「痛い?」 「へい、き……」 「………」 無理をして大丈夫だと返事をする陽一に葉山は深く嘆息した。それでも動きは止めない。目を細め、まじまじと陽一の肢体を観察している。 そして露骨に言った。 「……信じらんねえ。浅見のこんな姿見られる日が来るなんてさ」 「そっ…」 「ごめん。でも…お前、本当凄い」 ため息交じりに葉山は言い、さんざ好きに動かしていた指を引き抜くといよいよ自分もズボンを脱ぎ出し、陽一の前に全てを晒した。 「……っ」 その大きさに陽一が思わず息を呑むと、葉山はまた照れたように笑い、わざと一旦覆いかぶさって陽一にキスをした。 「なあ。する時はちゃんと俺見てて」 「え……」 「目、瞑るな」 「葉山……」 「な」 「……うん」 じっと見つめられて本当は目を逸らしたいのに、陽一はただ催眠術を掛けられたかのように従順に頷いた。既に十分開かれた両足に葉山の手がもっと開けと触れてきた。陽一が大人しく言う事をきいてそうすると、葉山はその間に自らの身体を割りこませ、陽一自身が見つめる中、己の熱く猛った雄をゆっくりと先刻馴らした場所へ挿し込んだ。 「んんっ…!」 さすがにきつくて陽一は苦痛の声を漏らした。けれどそれで咄嗟に目を閉じると、すかさず葉山の責めるような声が飛んできた。 「浅見…目、閉じるなよ…」 「だ…っ」 「俺、見てて…」 「ん…あぁッ、ひ、ぁ…!」 「陽一っ」 「んぅ…!」 懇願するようなそれに、陽一は物凄い衝撃にショックを受けながらも何とかゆっくりと目を開いた。 「………っ」 そこには葉山によって高く掲げられた自らの両足、葉山の性器が突き刺さっている己の痴態そのものがあった。 「まだ…」 けれど完全にはまだ挿入しきれていないのか、葉山がやや顔をしかめながら尚も腰を動かしてきた。ぐいぐいと奥を突かれ、葉山のものがどんどん中に入ってくるその感触に、陽一は遂に我慢できなくて大声を上げた。 「んあぁ―ッ…!」 「……っ…!」 葉山自身もきつかったのか、陽一の上がる声に反応できず、微かに眉を寄せる。それでも陽一の足を掴む手は強いままで、ジェルの助けを借りながら葉山は陽一の中に全て己を入れてしまった。 「はぁ、はぁ……」 「陽一……」 感極まったように呼ぶ葉山に陽一はまたいつの間にか閉じてしまった瞳を開いた。その拍子に涙が落ちて視界がぼやけるのも感じたけれど、葉山が自分を見ている事は分かった。何とか笑おうとしたものの失敗し、陽一はあてどもない風に片手だけ葉山の元へさし伸ばした。ただ、無理な体勢のせいでひどく身体が痛かった。 でも幸せだと思った。 「……好きだ」 その時葉山が言った。 「好きなんだ」 「うん…。俺も…」 遅れて陽一も同意すると、葉山はまた泣きそうな顔になった。それから試すように軽く腰を振り、その震動で陽一が「あっ」と声を漏らすと、困ったように苦笑した。 「ゆっくり動くから」 「う、うん……」 「陽一…っ」 「あっ…ん! あっ、あっ」 「好き…好きだっ…。行…かないでくれ…!」 「やあっ、はやっ…葉山っ…あぁっ!」 「陽…陽一っ!」 「ひっ…ん!」 女みたいに声が出る自分をどこか別の所から冷静に観察しているもう1人の自分がいるのが分かった。それでも思考の大半は葉山の事で、陽一は葉山が自分に与えてくる攻めと熱と切なげな声だけでやがて胸の中がいっぱいになった。 気持ちいい、と思った。 「あっ、あ、あ、あ…!」 「陽…っ、ふっ、陽、一…!」 「あ、ぁんっ…や、あ、あっ」 揺さぶられ続けて頭がぼーっとして、何度ももう駄目だと思ったけれど、葉山の動きはなかなか終わらなかった。くらくらとしてただ声を上げ続け、ただ手を彷徨わせた。葉山は途中でその手を握ってくれ、その甲に啄ばむようなキスもくれた。 けれど葉山が欲望を全て解き放ってきた時には、もう完全に思考が途切れ、陽一は生まれて初めて失神してしまった。 目を覚ました時、辺りは真っ暗だったが傍には葉山の視線があった。いつの間にかベッドにいる。どうやら葉山に寝室まで運んでもらったようだった。 「ん……」 「まだ寝ていていいよ」 くぐもった声を出した陽一に葉山が言った。何とか目を凝らして暗闇の中じっとその声の主を見つめると、葉山はそんな陽一に実に静かに、けれど凛として言った。 「もう二度とお前以外抱かない」 「葉山…?」 「死ぬまでお前しかいらない」 「……俺しか?」 「うん」 「………」 目覚めたばかりで身体も重く、思考がついていかなかったというのもある。陽一がすぐに言葉を返せずにいると、葉山は布団の中にある陽一の手を捜して握り、小さく掠れた声で訊いてきた。 「駄目かな……」 「駄目なわけないよ」 焦ってすぐにそう言うと、葉山はそんな陽一にはっと息を吐いて見せた。 そして暫くの後、「ありがとう」と言った。 「葉山も寝なよ…。隣…」 陽一がそう言いながら何とかベッドに隙間を作ると、葉山はそんな陽一の手をまるで崇めるように己の額にかざし、後は「ああ…」とだけ応えてそのまま動かなかった。陽一は葉山が泣いているのじゃないかと気が気ではなかった。 その夜、葉山は自分で掴んだ陽一の手を決して離そうとしなかった。 それから暫くして葉山は本当に引越しをし、携帯も新しい物に替えた。そうして陽一が反対するのもきかず、「俺がうざったいから」と今まで付き合いをしていた半数以上の人間と手を切った。 「もともとどうでも良かったんだ。面倒な繋がりでまた昔の奴とか近寄ってきたら冗談じゃないし。もう二度と陽一に辛い想いはさせないから」 「当然ね」 一体いつの間に親密な関係になったのか、陽一が葉山からその言葉を貰った数日後、姉の光はいばりくさった顔でフンと鼻を鳴らした。その時も光は陽一の部屋にノックもせずに入ってきたのだが、「聞いたわよ」と訳知り顔で偉そうに腕を組んだ。 「二股ってのはね、私みたいな器用な人間しかやっちゃ駄目なわけ。あんな不器用な男に出来るわけないって。ましてや、今まであんたの代わりにって抱いてきた女も、ねえ? もうどんなにあがいても駄目だわね。だってあいつホンモノを…あんたの味を知っちゃったわけでしょ」 「ね、姉さん…?」 さっと蒼白になる弟に、姉は平然として続けた。 「しかしあんたも、よりにもよってああいう屈折したのに何で捕まっちゃうかな。あんたトロイからしょうがないけど。まあ…でも、めんどくさくなったら言いなさいね。私が別れさせてあげるから」 「……ありえないよ」 「恋のはじめってのは誰でもそう言うものよ」 「葉山はいい奴だよ」 「……はーあ。やっぱりむかつく」 陽一の言葉に姉は心底がっかりしたように嘆息した後、「むかつくから寝る」と、入ってきた時と同様ばたばたと出て行ってしまった。 陽一はそんな姉の去って行く音を聞きながら思わず苦笑し、そして手の中の携帯電話を眺めた。 初めて持ったそれは先日葉山がプレゼントしてくれたものだ。これでいつでも連絡が取れる。 会いたくなったら自分から会いに行くと伝えられる。 お前はいつでも俺が呼ばないと…… 今はもう違う。 あの時のことを葉山は折に触れ言うようになった。お前が部屋に来たいと言ってくれたのが嬉しかった、俺と別れたくないと言ってくれたのが嬉しかった、と。もっと早くそうすれば良かった。緊張の糸が切れたみたいに、陽一は今葉山のそんな嬉しそうな言葉に素直に笑えるようになっていた。 本当に不思議だ。あんな「おまけ」がきっかけでこんな風に変われるなんて。 「今度…何処へ誘おうかな」 葉山との週末デートに想いを馳せながら、陽一はふっと笑んで手の中の携帯を握り締めた。自分たちの恋は今まさにこれから始まるのだと思った。 |