Complete defeat



  集中できなくて、葉山は目を落としていた本を乱暴に閉じた。
  葉山は無趣味な男ではない。好きな事も、これまで熱心に打ち込んできたものもたくさんある。幼い頃から家族やその他の人間関係は煩わしいと感じていたが、その鬱屈を紛らわせる為の手段を葉山はたくさん持っていたのだ。それはバイクに乗る事だったり、数学を解く事だったり。今、大学で専攻している学問も嫌いではない。むしろこれを将来の仕事に選ぶだろう、選びたいなという希望もあった。
  素っ気無いけれど、きっと悪くはない人生。葉山は自分で自分の生き方をそんな風に評価していた。だからこれからも適度に「頑張り」、適度には手を抜いて。
  他人には薄情なほどに、距離を取る。
「あいつ…」
  それなのに、と。
  葉山は本の横に置いていた携帯をちらりと見てから、小さく嘆息した。
  この、一見くだらないけれど「悪くはない」人生において、浅見陽一という元同級生がするりとその自分の懐に入り込んできた事によって、葉山は変わった。
  自分は駄目になってしまったと思う。
「何で」
  一度目にするともう視線を逸らせず、唇から漏れる独り言も止めきれなくて、葉山は携帯を睨みつけたまま、今はもう恋人となった元級友の顔を思い浮かべた。
  気がつくと目で追うようになっていたあの頃から、「これはやばいな」という予感は常々頭を過ぎっていた。あまり関わり合いにならない方がいい、こいつといるときっと俺はこれまでの俺を全部否定しなくちゃならなくなる。そんなのはごめんだ。何故ってそれはとても面倒だし、腹の立つ事だし、メリットが何もない。こいつは自分と比べても取り立てて何が出来るわけでもない、至って平凡な男。何を気にする必要がある、黙って素通りして、いつものようにその他大勢の奴らと同じように、適当に笑って適当に相手して、そうしていつか忘れてしまえばいい人間でしかないのだ。
  そのはず、だったのに。
「バカじゃねえ…」
  ローテーブルに肩肘をつき、それに頭を寄りかからせるような格好をして、葉山は眉を寄せながらぎゅっと目を瞑った。最近はどうにも駄目だ。離れていると、こういった中途半端な空き時間があると、どうしたって浅見の事を思い浮かべてしまう。そうしてつい先日抱き合った時に見せた、相手の熱に浮かされた顔とか、白い肌とか。苦しそうに葉山と呼んで、もうやめてと懇願していた艶っぽい声とか。
  そんな記憶ばかりを蘇らせてしまう。
「……ちっ」
  そうこうしているうちに身体に熱が灯ってきて、葉山は耐え切れずに傍にあった携帯を投げつけた。気になるならメールの1つも送ってみればいいと冷静なもう1人の自分は言うけれど、それは癪に障るから出来なかった。

  つい数日前の出来事だ。

  あまりに乱暴なセックスを強要した葉山を、翌日浅見は珍しく責めた。
  …否、「責めた」というのは葉山の被害妄想でしかない。浅見はただ訊いただけだ。昨夜はどうしたの、何か嫌な事でもあったの、と。それを葉山が「物凄く責められた」と勝手に感じて、逆に「別に何もないよ、浅見がああいうの好きかと思って。お前だってそんなに嫌がってなかっただろ」―…と。そう、思わず言い返してしまったのだ。
  そのせいで、現在は久しぶりの冷戦状態が続いている。付き合うようになってから何度かこういった喧嘩らしき事は経験していたが、浅見は普段からあまり怒る方ではないし、葉山自身もすぐに折れて浅見に甘えたから、それほど深刻なケースに発展する事はなかった。葉山は浅見に嫌われて捨てられる事が何より怖い。だから基本的に意地悪をする事はあってもまずいと思えばすぐに謝ったし、浅見もそれをよくよく了解していて、仕方がないなという風にすぐに許容してくれた。
  そんな関係だから。だから今回の事とて、きっとすぐに仲直りできるはずだった。
「けどたまには…お前から言ってこいよ」
  元々は自分が悪いくせに、葉山はそう毒づいて、投げてしまった携帯を再び手に取った。
  いつも仲直りのきっかけを作るのは自分だと葉山は思っている。許してくれるのは浅見なのだけれど、率先して近づき、許しを請うのはいつだって葉山の方だ。…それは葉山自身に罪があるからに他ならないのだが、葉山はそれを素直に認められる時とそうでない時がある。浅見が悪い、あいつがのらりくらりとして俺に対してもどこかドライだから、だからいけないんだ、と。だから酷く冷たくしてやりたくなる時があるんだと、セックスの時の過度な暴力を正当化してしまう事がある。
  葉山は浅見をとても愛しく、自分にとって決して手放してはいけない相手だと認識しているが、一方で常に苛めてやりたい、めちゃくちゃにしてやりたいという破壊欲求も抱えている厄介な性格をしていた。

(俺は頭がおかしい……)

  それを葉山自身が強く自覚するようになったのも、浅見と知り合い、浅見と深く繋がるようになってからだ。だから葉山は時々自分でも自制が利かなくなる。己が悪いと分かっていはいるが、その原因が浅見だから、浅見を責めてしまう気持ちを止められないのだ。
  今日、浅見はやって来るだろうか。着信を告げない携帯の画面を眺めながら、葉山はぼんやりとそんな事を思った。いつもこの曜日は葉山のバイトがない日だから、浅見が夕刻大学から直でこのアパートに寄って、一緒に夕飯を食べることが常になっていた。律儀な浅見は大抵事前に携帯に連絡を入れてきて、「今から行くけど、何か要る物はあるか」と訊いてきた。だから葉山もそれに応えるように、駅まで迎えに行っては、一緒に近場のスーパーで夕飯の買い出しを楽しんだ。
  けれど今日は…あんな事があってから、まだきちんとした仲直りをしていない。
  そしていつもならもう浅見から連絡があって良い時間だけれど、携帯はびくりとも動かない。
「……っ」
  憂鬱な気持ちを抱えたまま、葉山はごろりと仰向けに横たわった。もし今日浅見が何の連絡もなく来なかったら、夕飯は抜きにして酒を飲みに行こう。いや待て、わざわざ外に出るのは面倒だから、家にあるものを何か漁ろう。確かまだビールは数本残っていたし、バイク仲間の誰かが置いて行った日本酒も残っているはず。それを全部空けてしまおう。
  そんな事を考えながら、葉山はいつしか意識を眠りの底にしまってしまった。よくよく考えたら、浅見と喧嘩をしてからというもの、まともに眠れていなかった。





  小さなものではあるけれど、がやがやと大勢の人間が騒ぎはしゃぐ声が聞こえて、葉山はハッと目を覚ました。
  気付けば辺りはすっかり暗くなっていた。
  何故か「しまった」という思いで上体を起こすと、騒ぎ声の正体はテレビだった。見覚えのあるお笑い芸人が司会をしていて、自分ですら見知っている有名なバラエティ番組だと分かり、今の時刻を知る。そうして、ふとそのテレビ横の窓に視線を移すと、閉められたカーテンの小さな隙間から、夜の闇に転々とついている街の灯が見えた。数時間も眠ってしまったようだ。がしがしと頭髪をかきむしって溜息を漏らす……と、突然自分が座る斜め後方の辺りから「おはよう」という声が掛かって、葉山は飛びあがらん程に驚いた。
「な…っ」
  声の主は浅見だった。
  見るとローテーブルの上にはいつの間にか夕飯の支度が整っており、浅見がそれを一人だけで食べていた。夕飯を作るのはいつも決まって葉山の仕事だから、浅見がこれらを作ったとは思えない。なるほど、よく見れば主食の米はコンビニのおにぎりだし、味噌汁もインスタントのようだ。コロッケや漬物も近場のコンビニで売っているやつで、全部買ってきて並べただけのものだと分かる。因みに、傍にはビールの缶も何本か置いてあった。どうやら葉山が居間でぐうすか眠っている間、浅見は勝手に部屋に上がりこみ、勝手に一人で食事を並べてバラエティ番組をつけ、缶ビールでの晩酌を楽しんでいたようだ。
  ふと、葉山は自分の身体にタオルケットが掛けられている事に気がついた。浅見が寝室から取ってきてしてくれたのだろう。
「起こしちゃ悪いかと思ったから、先に食べてたよ」
  ボー然としている葉山に浅見は平然と答えた。
「メールしたけど何の返事もなかったし。まだ怒ってるのかと思ったから、来るのやめようかとも思ったけど、もう駅まで来ちゃってたんだ。だからやけくそで来てみたんだけど、葉山寝てるし…ははっ…。で、もう一回外行って、コンビニでこれ買ってきた。葉山のもあるよ。何がいいか分かんなかったから適当だけど」
「……いつ来たの?」
「ん? いつもと同じくらいの時間だと思うけど、覚えてない。メール見てよ。それで時間分かるから」
  言われて傍の携帯を探り当てると、確かに眠りに落ちる前にはうんともすんとも反応していなかった端末がチカチカと煩くランプを灯していた。開いてみると確かに浅見からのメールが来ていて、遠慮がちに「今日行っていいだろ? 何か買っていく?」というメッセージが打たれていた。
「寝てるからさ。テレビはまずいかと思ったけど、しんとしているところでご飯食べてるのも気まずいっていうか。普段は別に感じないんだけど、何か今日はテレビつけたかったんだよ」
  浅見は申し訳なさそうに言ってから、テレビのリモコンを葉山に渡した。葉山はそれを何となく受け取り、もう一度、別に大して見たくもないバラエティに視線をやった。
  わいわいと大勢の出演者が何やら楽しそうに喋っているが、何を話しているのかはさっぱり分からない。そもそも音量自体も小さいのだ。浅見が自分を気遣ってそうしたのだろう事が分かって、葉山は急に胸がざわざわするのを感じ、反射的にテレビの音量をぐっと上げた。
「わっ」
  それに浅見が驚いたように声を上げる。葉山はけれどそれには構わずリモコンを傍に投げ捨てると、浅見が飲んでいたであろうビール缶を奪い取って自分がぐびぐびと豪快に煽った。寝起きで喉は渇いていたけれど、そういう時にビールはなかった。余計喉がひりひりすると思い、葉山は思い切り眉間に皺を寄せた。
「おにぎり、選べるよ。俺、まだこのごま鮭しか取ってないし。どれがいい?」
「………何があんの」
  ぼそりとしゃがれた声で聞き返すと、そんな葉山に浅見は何故か急に焦ったようになって身体を揺らしてから、慌ててテーブル上のコンビニおにぎりを並べて見せた。
「え、えーっとね。シーチキンと焼きたらことキムカルビ。何か新商品でさ、“山の秘宝”って名前の大きいのが売り出されてたんだけど、よく見たらただの山菜おにぎりなの。何だこれ騙しじゃんと思って、いつものオーソドックスのにした」
「…ふうん」
「や、山の秘宝、食べてみたかった?」
「あのさ、ごめん」
  必死にどうでもいい会話を続けようとしている浅見を遮るようにして、葉山は唐突に謝った。頭はまだしゃっきりとはしていないけれど、だからこそ素直になれる気もした。
  勝手に部屋に入っていてくれた浅見が堪らなく嬉しかった。
「この間のこと」
「え……あ、あぁ……別に……」
  俺こそ、と小さく呟いた浅見は、葉山が真面目な顔をしているから余計反応に困ったのか、すぐに俯いて所在なげにテーブル上の箸にちょこんと触れた。
  葉山はそんな浅見を見つめながら、どんどん身体が熱くなる自分を感じていた。浅見が欲しい、どうしても欲しい。何故こうも貪欲に、こうやってもう既に手に入れたはずの人間をもっともっとと残酷なくらいに欲してしまうのかと不思議で仕方がなかった。
「今日、来てくれないかと思ってた」
「あ…うん」
  もごもごとしか返答しない浅見をじれったく思いながらも、葉山はもう目を離せなかった。立て続けに声が出る。
「俺、ちゃんと謝ってなかったし」
「い、いいよ、別にもう」
「毎回繰り返して、浅見がいい加減にしろってキレるのも当然なのにさ。俺、傲慢なんだ。それに頭おかしいし。お前とヤッてる時って特に変になる。浅見に意地悪したくて堪んなくなってさ、俺の好きにして何が悪いって真剣に思ってるから」
「葉山」
「だからお前がちょっとでも逆らうと、あんな風に逆ギレするし。いつもオドオドしてるくせに、偉そうにすんなって、頭くる」
「葉山…!」
  さすがに温厚な浅見も顔色を変えた。声に震えが伴っている。葉山を怒りの篭もった目で見つめ、どうしてそういう意味のない言葉を投げ掛けかけるのかと言外に訴えてきた。
  葉山はそんな浅見を見ていられなくなって今度は自分が俯いた。
  暫く流れる、きまずい沈黙。
  葉山がボリュームを上げたせいで、ブラウン管の向こうの騒がしい音だけがやたらと2人の耳に飛び込んでくる。甲高い女性の笑い声や野太いお笑い芸人たちのマシンガントーク。ああ何もかもが鬱陶しい、どうしてこんなものがあるんだろうと葉山が頭を掻き毟りそうになった瞬間―…、けれど、浅見が唐突に言った。
「俺、このお笑い芸人、好き…」
  あまりにこの場にそぐわない台詞で、葉山は驚いて顔を上げた。
「ふ…」
  すると浅見は小さく笑い、もう一度「あの人」とテレビを指差して、葉山に1番大きな声で喚き散らしている大柄の芸人を指差した。
「俺、お笑いのボケとツッコミだと、ツッコミ役の人の方が好きだからさ。だって面白いって言われて目立ったりキャラが立ってるのって、ボケてる人の方が多いと思うけど、ツッコミって難しいじゃないか。苦労してると思うんだよな」
「…何の話?」
  話題を変えてごまかそうとしているんだろうか。むかっときて思い切り不機嫌な顔をすると、浅見は軽く肩を竦めた。
「この間、このコンビが何かのトーク番組に出ててさ。で、そうしたらボケ役の人が凄く喋るの。コントの時はぼうっとしてて、ツッコミの人ばかりまくしたててる感じなのに。けど、普段は逆なんだって。ツッコミの人は本当は気が弱くて臆病で、二重人格なんだって。だからツッコミの人は、そういう面を知られてそのギャップを指摘されると困るし、ちょっと嫌だなと思う事もあるんだけど、でも結局どっちの自分も自分だと思うし、相方がそれを分かってくれているから、それでいいかあって。で、今のスタイルなんだって」
「……だから?」
「ん…」
  葉山の無感動なリアクションに、しかし浅見は予想していたとでも言うように静かだった。薄く笑いを張り付かせたまま今度はしっかりと箸を持って、既に用意していた皿に買ってきていた惣菜を取り分ける。
  そうしてそれを葉山に黙って差し出した。
「別に、特にオチはないよ? けどさ…二重人格って、葉山みたいだなって思って」
「俺?」
「うん。葉山って昼と夜の顔が違うじゃん」
「……………」
  その台詞に悪意は全くないようだったが、葉山はぐさりと胸を突かれて思わず苦い顔を浮かべた。
  それでも浅見は、既にビールが何本か体内に入っているせいか、先に言っていたように元々「やけくそで」ここへ来たせいか、平然として、むしろにへらと腑抜けな笑いすら浮かべていた。先刻は一瞬、葉山の酷い言葉に怒った様子も見せたのに。
  今はもうそれがすっかり消えている。
「このコンビって結成して10年だって。若く見えるけど。その間に何回も喧嘩したって言ってたよ。今もしょっちゅうしてるって」
「…俺らはお笑いコンビかよ」
  葉山のどこかいじけたような言い方に浅見は笑った。
「違うけど。けど、似たようなものじゃないのかな。どっちみち、自分じゃない相手を理解するのって大変だよ。……それが難しい人なら尚更でさ」
「………」
「葉山って難しい人だよね」
「……浅見だって」
「うん、そう思う」

  でも、それでも一緒にいるのは好きだから。
  好きだからこそ「大嫌い」になる事もあるのだけれど、それでも離れられない。

「本当は今日どうしようかと思ったけどさ…。でも、やっぱり来たかったから来たよ」
「………」
「俺、前はこんな性格じゃなかった。でも、葉山が変えたんだと思う。それっていい方に」
  だから理不尽な事されたら腹が立つけど、でも感謝もしているから、と。浅見は照れたように言った後、その恥ずかしさを誤魔化すように盛大にビールを煽った。
「……俺にも」
「ん? はい」
  だから葉山が自分も居た堪れなくなったように手を伸ばしたのを察して、浅見はすぐに自分が飲んでいた缶ビールを差し出した。
  葉山はそれを黙って受け取り、同じようにぐいっと一口飲んだ後、どうにか泣かないようにしないとと必死で自制しながらテーブルの端だけを見つめ、それから―…吐き出すように告白した。
「浅見、好き」
「……うん」
  浅見はすぐに頷いてくれた。近くにいるその空気はとても優しい。それでも葉山は顔を上げる事が出来なかった。
「もう酷い事しないって……言えない、けど」
「言えないんだ?」
  あはははと呑気に笑い、浅見はその後、すっかり突っ伏したようになってしまった葉山の頭をそっと撫でた。
  葉山はそれが堪らなく嬉しくて、けれどやっぱり悔しくて。
「バカ。浅見は本当に、バカ!」
  …そう、悪態をついて、そうして暫くの間そのまま顔を上げる事が出来なかった。
「そんなの分かってるよ。厭味だなぁ」
  浅見がのんびりとそんな風に言い返す声だけを聞きながら、葉山は「ああもう駄目だ」と観念した。

  もう降参だ、完敗だ、と。