「どうしたの浅見」
  ページを手繰る手はそのまま。テーブルに置いた本からは目を離さず葉山が訊いた。
「どうしたって?」
  だから陽一も平静を装った。
  葉山の問い掛けは自分にはまるで見当がつかないというような、そんなわざとらしい声色で聞き返した。そんな態度は長続きしないと自身で分かっているくせに。
「お前、英語得意だっけ」
「!!」
  驚く陽一に葉山はあっさりと言った。
「よく吹き替えなしの字幕なしで見てられるなと思ってさ」
「………ッ」
  葉山は別段からかう風に言ったわけではない。何気ない口調で、視線も依然として分厚い専門書に注がれたままだ。先日同じ大学の院にいる先輩から借りたというそれは、陽一にはまるでちんぷんかんぷんな代物だった。元々がコテコテの文系人間である陽一は葉山の専門である物理などという学問とはまるで無縁で、仮にそれに関する話題を振られたところで欠片も理解できないという自信があった。
  ましてや彼が執心しているらしい宇宙物理学などという壮大なものとは、生涯縁がないだろうと思っている陽一である。
「浅見」
「あ…」
  そんな事をつらつらと考えていた陽一に葉山がようやく顔を上げた。整ったそれがこちらを向くと自然緊張状態に駆られる。
  最近ではもう何度も間近で見ているものだというのに。
「浅見さ」
  葉山が言った。
「つまんなかったんなら、ちゃんと言えよ」
「べ、別に…」
「………」
  テレビのリモコンを持ったまま口篭る陽一を葉山はまじまじと見やった後、開いていた本をぱたりと閉じた。それから先刻までただついていただけのテレビ―海外ドラマ―にちらと視線をやる。
「これ、向こうではかなりヒットしてたらしいよ」
「ふ、ふうん…」
「………」
「な、何だよ…」
  無表情のまま葉山に黙り込まれてしまうと陽一はいつだって焦った。それでもそんな自分に気づかれるのが怖くて、陽一は強がった態度でふいと視線を逸らした。
  そうすれば葉山がすぐにいつもの優しい態度に戻ってくれる事を知っていた。
「もうこんな時間か」
  案の定口調を変えて、葉山はすぐに陽一に言ってくれた。
「そろそろメシにするか。外行く? それか、俺が作るか」
「………」
「どっちがいいよ?」
  気まずそうにしていると葉山が笑って聞き返してきた。それはこの部屋に来て今日初めての葉山の柔らかい笑顔で、陽一は心の中だけでほんの少しほっとした。葉山のアパートにいても互いが別々の事をして過ごす事は珍しくない。それは別に良いのだけれど、それでも今日は明らかにそのいつもとは「違った」から。
「おーい、浅見君?」
「あ」
「あのなあ。早くどっちか言えって」
「い、家がいい…」
「了解」
  陽一の返答に葉山は再度笑顔を見せ、すぐにすっくと立ち上がった。陽一は台所へ向かうそんな葉山の姿を追いながら、今の返答で本当に良かったのだろうか、本当はこいつは面倒に思っているのじゃなかろうか…と、今更不安な気持ちがした。いつもの事とは言え、そして葉山の「俺は好きでやってんだから」という言葉があるとはいえ、陽一は葉山に甘え過ぎている自分を嫌という程自覚していた。
  それでも陽一は葉山と並んで人の多い場所へ出かけるのが嫌だった。
  何処へ行くにも人の目が気になった。「本当にそうなのだろうか?」という疑いすら抱き、未だに陽一は慣れなかったのだ。

 葉山怜と「恋人同士」でいるということ。



だから明日も…



「ホントマジでむかついてきたよ、あの女」
「ははっ。もうあの女呼ばわりかよ」
「お前、あの子のこと散々惚れただ何だ言ってたくせに」
「だってよぉ」
  大教室の隅に陣取っていた3人組の声に陽一ははっとして顔をあげた。
  努めてそちらへ意識が向かないようにしようとするも、どうしても耳は背後にいる彼らの会話を聞いてしまう。
  陽一が所属している文学部は元々男子学生が極端に少なかったが、その日は後期試験の真っ最中で、普段の講義には全く姿を現さないような顔も大勢見受けられた。後ろで話している学生たちも恐らくはその部類に入る。未だ試験監督の現れない教室の後方席で、彼らの1人はしきりに自分が現在付き合っている恋人の悪口をまくしたてていた。
「付き合い始めてもう半月だぜ? そろそろヤらせてくれてもいいんじゃね?」
「まあなあ」
「そうか? お前が甘いンだよ。ナオキなんて半年間お預けだったって言うぜ」
「バカ、そりゃナオキがおかしんだよ。あいつ遊ばれてたんだな」
「ひでえ」
  わいわいと言い合う3人の会話がすぐ前の席にいた陽一の背中に否応なく降りかかった。手にしていた講義用のノートはもう目に入らなくなっていた。
  要するに彼らの議論は、口火を切った学生の彼女―付き合いはじめて半月らしい―が、いつまで経ってもセックスさせてくれない、それは何故かという事だった。件の学生の友人らしい残りの2人は、その事に同情のフリをしつつ、彼女は遊び過ぎで何らかの性病にかかっているのではないかとか、実は処女で単にもったいぶっているだけなのではないか等々、実に好き勝手な憶測を投げかけては面白そうに笑っていた。これには陽一の近くに座っていた女子学生たちも露骨に嫌そうな目を向けていたが、それでも彼らはそんな周囲の迷惑そうな視線に全く気がついた様子がなかった。
  そうしてようやっと試験監督が入ってきてその場が静まり返った時、騒いでいたうちの1人が小声で囁くように言った。
「まあそんなふざけた奴なら、いっその事別れて次いっちまえ」
  それを聞いた瞬間、陽一は握っていたシャープペンシルの芯をぽきんと折ってしまった。





  一浪までして入った大学だが、それでは入学してからの約1年間そこで何をしていたかと問われれば、果たして陽一は自分が何と答えるか自身ですら見当がつかなかった。
  元々が小心者というか「レールからはみ出した人生」というやつが出来ない性質なので授業には真面目に出席したし、レポートもそれなりのものを作ったりして勉強もしていた。しかし他の人間がやっているように就職の為にと何か資格を取る勉強をしたかと言えばそんな事はしていないし、サークル活動やアルバイトをして共通の趣味を持つ友人を作ったりお金を稼いで好きな物を買ったりという事をしたかというと、陽一にはこれといった趣味も、そして欲しい物もそんなにはなかった。
  陽一は自分の事をこの上なくつまらない人間だと自覚していた。
  性格も明るくないし、頭もそれほど良くない。何かスポーツが出来るかと言えば、球技は駄目だし足も遅い。せいぜい身体が柔らかいくらいだ。芸術に秀でているわけでもなければ流行りの物に敏感だとかそういう事もない。どちらかというと1人でいるのが大好きで、誰かと群れて何かをするのを苦痛と感じる方だ。陽一と正反対の性格である姉などはこんな自分を事あるごとに「将来が心配」と余計な事を言ってくれるが、そんな事は誰に言われなくとも当人である自分自身が一番よく分かっていると陽一は思う。
  だから本当は未だに信じられないのだ。
  あの葉山怜が自分のことを「好きだ」と言ってくれたこと。
  「付き合おう」と言ってくれたこと。
「ねえ浅見君」
「え?」
  その時、何となく物思いに耽っていた陽一に声を掛ける者があった。
  弾かれたように顔を上げると、そこには同じクラスの女子学生2人が立っていた。クラスと言っても高校の時のような感覚で何もかも同じ授業を受けるというわけではないから、本当にただの顔見知りというだけだ。2.3度会話を交わした事はあるが、陽一がキャンパス内でこうして1人ベンチに座っていたとしても、自ら話しかけてくる程親しい間柄ではない。
  試験後、未練がましくもノートを開いていた陽一は、だからそんな2人がやたらと嬉しそうな顔でこちらを見下ろしてきたのが不思議で仕方なかった。
「何?」
「あのさ、あの人知り合い?」
「え……」
  そう訊かれながら促された方向を見て、陽一は「えっ」と思わず声を上げた。
  一体いつからそこに座っていたのか。そこには葉山がいた。
「葉山…」
  陽一が座っているベンチのすぐ真向かいの席、同じような木造のベンチに腰掛けていた葉山は、両手をポケットに突っ込み長い足を思い切り伸ばした格好でじっとこちらを見やっていた。
  そうして陽一が気づいたのを認めるとすぐにニッと笑いかけてきた。
「ねえっ!」
  これに先に反応を返したのは陽一の前に立っていた女子学生2人だったのだが。
「あの人凄くカッコイイ。全然見ない顔だけど、どこの学部の人?」
「文学部には絶対いないよね? ね、浅見君の知り合いなんでしょ?」
「あ…う、うん…」
  やたらとはしゃいでいる2人を見やって、陽一は「ああやっぱり葉山はどこにいても目立つんだよな」と頭の隅でぼんやりと思った。高校の時からそうだった。葉山はいつでもどこでも群れの中心的人物で、他とはどこか一線を画しているところがあった。それでいてそれに奢ったところがまるでない。そんな葉山を浅見はどこか遠い、自分とは違う世界の住人だと避けて見ているところがあったが、一方でそんな彼を尊敬する気持ちがどこかにあった事も事実だった。
「浅見」
  陽一の硬直したような様子を見てようやく立ち上がった葉山は、相変わらずの柔和な笑みと共に軽快な口調を発した。
「お前、気づくの遅過ぎ」
「い、いつからいたんだよ…」
  陽一が消え入りそうな声で言うと葉山は軽く肩を竦めて見せた。
「随分前。面白いからお前が気づくまで黙ってようと思ってたんだけど」
「浅見君のお友達ですか?」
  横から入るようにして傍の女子学生が葉山に声を掛けた。葉山はそんな彼女らを一瞬は警戒するような目で見たものの、すぐにそれを気づかせない素早さで人の良い顔をすると「うん」と親しげに頷いた。
「えーと、学部は?」
「俺、ここの大学じゃないから。浅見を迎えに来ただけ」
「あーそうなんだあ。これから2人で遊びに行くの?」
「良かったらアタシ達も一緒していいですか?」
  最近の女の子は積極的だなあと陽一が引き気味になりながらも感心していると、葉山は「ふ…」と微かに笑った後、困ったように指先で口元を掻いた。
「ごめん、それできない。俺こいつに会うの久しぶりだし。今もかなり時間勿体ないから」
「え? 何が?」
「は、葉山…?」
  瞬時に嫌な予感を抱いた陽一だったが、そんな不安を嘲笑うかのように葉山は言った。
「誰だって好きな奴とは2人だけで話したいものじゃん」
「ばっ…!」
「ええ…? それって…」
「それってつまり…」
  2人の女子学生がはもるようにして言葉を出すのを葉山はバカにするような顔でただ眺めていた。陽一はそんな葉山の人を卑下したような態度や、こんな所で大して親しくもない彼女たちにそんな事を言ってしまう葉山が信じられず、また許せなかった。
「はやっ…。来いって…!」
「ああ。じゃあね」
  ぐいと腕を引っ張りその場から逃げようとする陽一に、葉山は素直に従った。けれども焦りまくる陽一とは対照的に、手を引かれている葉山は依然として余裕の態度で、ぽかんとした顔で自分たちを見送る彼女らに空いている方の手を振って挨拶までしていた。
  陽一は校舎を出るまでずっと赤面したままだった。そして葉山がいくら話しかけてもまともに答える事ができなかった。バカな事を言う葉山なんかとは口もききたくないと思った。


  けれど。


「なあ…。葉山…」
「ん?」
  ぐつぐつと鍋の中の物が美味しそうに音を立てている。
  台所で菜ばしを手に夕飯の支度をしている葉山の背を眺めながら、陽一は恐る恐る声を掛けた。自分は何もせず、ただ部屋の卓袱台の所で座ったままだ。何か手伝うと言っても葉山はいつも「邪魔だからいい」と言って陽一の事を追い払った。
  しかし今日はそれだけではない理由もあるような気が陽一にはしていた。
「まだ…怒ってんの…?」
「はあ?」
「だから…怒ってんのかって…」
  そうなのだ。
  陽一は落ち着かない気持ちで葉山の後頭部を一心に眺め、声を掛けていた。
  あの時、構内を出るまで怒っていたのは確かに自分の方だったのだと陽一は思う。友達でもない知り合いの前であんな際どい発言をされて、明日から大学で妙な噂を立てられたりなどしたら、居た堪れなくなるのは葉山ではない、陽一なのだ。それなのに葉山は平然と自分たちの事を勘ぐられるような事を言って可笑しそうに笑っていた。あの時の葉山の表情も陽一には許せなかった。
  だから葉山の手首を掴み大学を出て、最寄の駅に行くまで無視してずっと怒りの表情を湛えていたのは陽一なのだ。
  そのはずだったのに。
  それなのに今、何やら静かに怒っているのはどうやら確実に葉山の方らしかった。
「なあって。葉山」
「何だよ」
「なっ…て。だから! 怒ってるのかって訊いてるんだよっ!」
「何で?」
「何でって…。ずっと…無視してるじゃないか」
「はぁ? バカ、してねーよ」
「してる!」
「…ったく。はいはい」
「な、何だよその態度!」
「………」
「葉山っ」
「………」
  葉山は振り返りもせず、遂には面倒臭くなったのか相槌すら打たなくなった。確かに葉山は陽一の「無視している」という意見とは反対にきちんと陽一に答えている。理不尽な問いかけに答える義理はないだろう。しかし一方の陽一としては、自分が言いたい葉山の「無視」というのは、「そういう類」のものではなく、もっと核心部分に触れるところでの「無視」だった。
  陽一が黙り込むと2人の間に沈黙が流れた。 
  葉山はただ鍋の中をこねくり回し、一方ではもう片方の空いたガス台で作った味噌汁の味見をしている。まるで一家の主夫のようにてきぱきとした動作は感嘆に値した。
  陽一はそんな葉山を背後から見やりつつ、じれったい思いを抱きながらそれでも強く言えず、かといって傍にも寄れずにただぐっと唇を噛んだ。
  「好きだ」と言ったのは葉山が先だ。
  「付き合おう」と言ったのも葉山が先で。
  こうして時々1人暮らしの葉山の家に「遊びに来いよ」と言ってくれるのも葉山で、陽一はどちらかというといつも待っている方だった。あのクリスマスイブの時は勢いに任せて葉山を特別に想っている事を白状させられ、また付き合う事を了承させられたが、その後自分から葉山を好きだとか何処かへ一緒に行きたいだとか言う事を陽一は言う事ができなかった。
  そもそもそれを言い出す前にとても気まずい思いをしてしまったせいなのだが。
  そう、あのクリスマスイブの夜に。
「浅見、テーブル拭いて」
「あっ」
  いつの間にか葉山がこちらを向いて、洗って絞ったばかりの台布巾を陽一に向かって投げてきていた。陽一は慌ててそれを両手でキャッチし、言われたように卓袱台の上の物を片付けてその布巾でテーブルを拭いた。
「飲み物は自分で用意しろよ」
「う、うん…」
  あたふたと立ち上がって冷蔵庫へ向かう。中にはビールや焼酎、赤ワインなども入っていた。
「葉山は何にする…」
「俺はビール」
  葉山は言いながら味噌汁の鍋とゴハンジャー、それに鍋の肉じゃがを皿に盛って、それを次々と居間の卓袱台に運んで行った。いつの間に作ったのだろう、葉山はその後グラスを求めて台所をウロウロする陽一を尻目に、冷蔵庫の中に入っていたポテトサラダもボールから小綺麗なガラスの器に盛り、それも運んだ。葉山は陽一が自分たちの飲み物―ウーロン茶と350mlのビール缶―を用意するうちには全てを揃えてしまった。
「味噌汁に具いっぱい入れたしさ。おかず、もう一品入れなくていいよな」
「い、いいよ。十分だよ」
「そ。じゃ食おうぜ」
「うん…。いただきます」
「ああ」
「………」
  葉山は怒っているはずだ。
  親に怒られた子どものように上目遣いでその顔を覗きこむ陽一だったが、葉山は済ました様子で箸を動かしている。おもむろに変えたテレビのチャンネルからは、7時のニュースが流れていた。陽一はそれを何となく耳に入れながら、仕方なく自分も箸を手に取った。
「怒ってるよ」
「わっ…!」
  すると突然葉山がそう言った。驚いて陽一が箸を取り落とすと、葉山は無表情のまま黙々と飯を口に運びつつ続けた。
「お前、何であんなびくびくしてんの。俺といること恥に思ってるし」
「恥…?」
  急に核心をついた話をし始めた葉山にも仰天したが、何より彼のテンションがやはり怒っているものだと感じて陽一は動揺した。
  あがあがとしながらも震える唇で音を出す。
「は、恥って…」
「だろ。バレんの怖い? 俺と付き合ってんの」
「そん…だってそんなの…当たり前だろ…?」
「そう? …まあいいけどな」
「な、何だよそれ…」
「お前がそういう奴だって知ってるし。別に俺だって誰彼構わずそういうの話すの好きじゃないし。たださ…」
  葉山はそこまで言うと自分も箸を止め、はーと深くため息をついてから陽一を真っ直ぐに見やってきた。黒い瞳がいやにキラキラ輝いて見える。やっぱり葉山はハンサムな男だと陽一は思った。
「おい。今違うこと考えてただろ」
「えっ…」
「俺、真剣な話してんだけど」
「わ、分かってる! 聞いてるよ。ただ、何なんだよっ」
「ホントにお前、俺と付き合ってんの?」
「………」
  言われてしまった。
  陽一は葉山に真正面から鋭い刃物を喉元に突き立てられたような、そんな緊迫した状態に追い込まれた。勿論葉山自身にはそんなに激しい気持ちはなかったかもしれない。けれど「葉山怜と浅見陽一は恋人同士なのか」という疑問は、陽一自身があのクリスマスイブの夜以降ずっと持ち続けた疑問だったのだ。
  本当ならばあの夜、葉山に誘われるままこのアパートへ来て。
  その確信を得られるはずだったのに。
「………」
「……悪い」
  黙りこんでいる陽一に葉山が先に折れた。陽一がはっとして顔を上げると、葉山は決まり悪そうな顔をして明るい茶系の髪をぐしゃりとかきまぜた。困った時にやる葉山の癖だ。
「ごめんな。お前にそんな顔させるつもりなくて…ホント、別に怒ってもいないんだぜ? たださ、今日のあれは…確かめたかっただけ。お前がホントに俺と付き合ってるのかどうかっていう、そういうのをさ。何か…確認したかったんだよ。でも…うん、確かにあれはまずったよな。本当悪い」
「葉山……」
「だーから、そんな泣きそうな顔するなっての。前にも言っただろ、こういうのお前苛めてるみたいで嫌なんだって」
「苛めてんのは…」
「え?」
「俺だ…」
「ええ?」
  ぽつりと漏らした陽一の言葉に、葉山が目を丸くした。いよいよ身体を揺らし、席を立って陽一の傍に寄ろうとする。
  陽一はそれに焦ってずるずると後ずさった。
「葉山…葉山は…もう俺なんかと、もう付き合いたくないだろ?」
「は? 何言ってんの」
「そんな確認なんかしなくても…さ。もう、想ってないだろ? だって嫌だろ?」
「おい浅見、お前何言って…」
「だ、だって俺なんか…」

  そんなふざけた奴なら、別れて次いっちまえ。

  ふっと、テストの時大教室の隅で嘲笑っていた男子学生たちの声が聞こえたと思った。かっと身体中が火照って、陽一は手から足から、そして顔から熱がぽっと帯びるのを感じた。
「俺…お前と、できなかったから…!」
「はあ?」
「だからっ」
  陽一は赤面している自分を誤魔化すように怒鳴り声をあげた。半ば自暴自棄になりかけたその声は葉山の意表を十二分についたらしい。葉山は唖然として口を開けたままやや身体を仰け反らせた。
「な、何だよ急に…。怒鳴んなよ…」
「だって! 俺、あの時…お前とできなくてっ。それからだって…何回もやろうとしたけど駄目だっただろ。そのうちお前も…もう、誘わなくなったし」
「……おい」
「なのにお前、俺に何も言わないし」
「――ああ。何だ」
  ようやく意を飲み込めたという風に葉山が答えた。
「……っ」
  真っ赤になったまま口をつぐみ、陽一は葉山を避けるようにして部屋の隅にまで移動してしまった。そういえば無理に迫られた時はいつでもこの壁にこうやって背中をつけて抗おうとしていた。今はそんな状態でもないのに、バカの1つ覚えのように同じスタイルを取っている自分を陽一は情けなく思った。
「浅見」
  そんな陽一に葉山は目で笑いかけながら言った。 
「お前、気にしてたの」
「あ、当たり前だろっ。俺、俺たち…」
  付き合っているのだから、という後の言葉を続けられず、陽一はぐっと黙り込んで下を向いた。
  あんな風に葉山が嫌がらせをしたのも、ずっと怒った風に妙に口数が少なくなっていたのも、全部自分が悪いのだ。それは分かっている。けれど葉山はその理由を陽一には言わず、また陽一自身も聞く事を畏れて何も言えずにいた。
  でも本当はずっと気になっていた。これで付き合っていると言えるのか?
  セックス1つ満足に出来ないくせに。
「俺…」
  嫌な雑音が入ってきそうで、陽一は両手でじんじんとする両耳を押さえた。
「俺はずっと気にしてて…。なのにお前、あの子たちに俺のことあんな風に言うし…。それで俺が怒ったら…お前、もっと怒るし…」
「バカ違うって。だからあそこでああ言ったのは、焦ったから。お前が女の子たちに声なんか掛けられたから」
「あれは…葉山目当てなんだ…。お前、凄くモテる、し…」
「おい、ちゃんと聞けって」
  葉山の声が遠くに聞こえた。浅見は手を外そうか考えて、けれど出来なくてうずくまっていた。
「浅見」
  葉山の声が大きくなる。
「何回も言うようだけど俺は怒っちゃいない。むしろお前の機嫌が悪くなったからどうしようって思って、それで思わず素になってたんだよ。あれが俺の普通なの。元々口数少ないの、俺は。分かる? いつもの俺は無理にお喋りなんだからな。お前を退屈させるんじゃないかって心配でさ」
「う、嘘つけ…」
「なあ。なあ陽一」
  珍しく下の名前を呼んで、葉山は這うようにして目の前の陽一の所にまで行くとさっと片手を指し出した。そうして陽一の手を取るとそのままもう片方の手では陽一の頬を優しく撫で自分の方をそっと向かせた。
「………」
  気まずい思いがしながらも陽一がそんな葉山を見つめると、葉山は情けないような笑みを浮かべて言った。
「言葉が足りなかったのはお互いさまだな。けどさ…。お前がそんなこと気にしてるなんて思わなかった」
「するよ…普通…」
「そっか…。でも俺も怖くてさ…また拒否られたらショックだろ。だから言えなくて。実際、今だって怖いんだろ? 俺と…男と寝るってこと」
「うん…」
  陽一が素直に頷くと葉山はふっと身体から力を抜いたようになった。
「なら、無理しなくていい」
「葉…んっ」
  唇を開こうとした陽一に葉山は軽いキスをちゅっと落とし、すぐにニコリとした。
「俺たち、こんな風にキスしたり身体に触りあったりはできんじゃん。何かさ、純情中学生の恋みたいで良くねえ?」
「……嘘つけ。もっと他の事もしたいくせに」
  葉山の言葉を信じられないわけではないくせに、陽一はまるで納得いかない事を言われたかのように食い下がった。照れくさくて意地を張らずにはいられなかったのだ。
「いいよいいよ」
  しかしそんな陽一に対し葉山の方はもうすっかり本来のペースを取り戻したかのようになっていた。
  葉山はおどけた風に言った。
「いいんだよ。俺は浅見が傍にいてくれりゃあ、それでいいんだ。溜まったらお前の良からぬ姿妄想して抜くし」
「なっ…!」
「だから。お前もエロ本卒業して俺で抜けるようになれよな」
「ば、ば…」
「お前が胸のデカイ女が好みなの知ってんだからな」
「ちがっ…。あれは、姉さんが勝手に…!」
「どうだか」
  葉山はくっと笑った後、焦りながら自分に突っかかろうとする陽一の手首を取り、出し抜け2度目のキスをした。
「んぅ…ッ…」
「……いいね。もう一回」
「……ッ」
  繰り返し行われるその葉山からのキスが恥ずかしくて、陽一はぎゅっと目を瞑った。
  葉山はそんな陽一をあやすように髪の毛を何度か撫でてやった後、不意にぎゅっと抱き寄せた。
「わっ…」
「な、浅見。いつか出来るよ」
「葉山…?」
「お前もさ。いつかは俺とやりたくてたまんなくなるって。だから、俺は大人しく待つからさ」
「………」
「安心した?」
  耳元に囁かれるようにそう言われ、陽一はまたしても身体の温度が上昇するのを感じた。
  けれど、それでも素直には答えられなかった。だからわざと不服そうな篭った声で返した。
「……そういうこと言われると余計に焦る」
「はは。じゃ、毎日ちょっとずつ試そうぜ。まずは服の脱がしっこからやるか?」
「そ、それは嫌だ…生々しい…」
「おいおい」

  裸も見せらんねーんじゃ、先は長いなあ。

  葉山は苦笑した後、それでもかぶりを振りながら陽一に微笑みかけた。
「まあいいよ。お前が俺と恋人関係にあるって自覚してくれてる事だけでも分かったから」
「本当にそんなんでいいのかよ…」
「いいよ」
「………」
「俺、案外そういう欲に走らなくても大丈夫な性格してんだな。いいんだよ、本当に。俺にはお前って奴がさ、ここにいてくれてるって事が重要なの。だからお前、いてくれよ。明日も明後日もずっと一緒にさ。絶対、俺の横にいろよ」
「うん…」
「好きだぜ浅見」
  ああ、どうしてこんな風に言えるんだろう。陽一は胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。そして、葉山は時々儚い顔をするけれど、こうして抱き寄せてくれる身体や声、それにこんな風に愛を囁いてくれるところは、自分などよりよほど男らしくてカッコイイと自然に思う事ができた。
「俺も…好き」
  だから陽一はやっと本当の気持ちを吐露する事ができた。そしてその瞬間、ほうっと全身から力が抜けた。
「うん」
  すると陽一のその言葉に葉山も背中をぽんぽんと叩いて答えると、「冷めるから早く食おう」と言ってまたずるずると席に戻って行った。それを何となく惜しいと感じながら、陽一は葉山のその背中に更に声を掛けた。
  さっきは一言も発せなかったくせに。
「……後片付けは、一緒にやる」
「ん…? ああ。分かったよ」
  そうして葉山は、そんな陽一の申し出にまた心底嬉しそうな顔で笑った。