誰も知らない場所 |
「ありえない。消えて」 葉山のその一言は鋭利なナイフのように鋭かった。 そのせいで浅見は自分が言われたわけでもないのに、当の台詞を投げかけられた女の子たちより大きなショックを受けて僅かに身体を震わせた。 「何なの、ムカツク!」 「ありえないのはお前だっての!」 むしろ言われた当人たちの方がよほどパワフルである。最初はとても感じ良く、笑顔で浅見らがいる席へと近づいてきたのに、葉山の拒絶を受けた途端、忽ちその表情を憎々しいものに変えた。おまけに悪態まで吐いて去って行ったのだから……こういった人種にただでさえ耐性のない浅見は、彼女たちの豹変ぶりにただただ驚いたし、反して一向に堪えた風のない葉山にも狼狽えてしまった。 しかもその後の葉山の機嫌の悪さと言ったらない。 「気分悪い。出ようぜ」 暫くはその場に留まりグラスを傾けていたのに、結局は苛立ちを抑えきれなかったらしい。葉山は吐き捨てるようにそう言うと、浅見を振り返ることなくさっさと会計へ向かってしまった。テーブルの上には注文したばかりで殆ど手をつけていない料理が並んでいたし、そもそもこの店に入ってからまだ30分と経っていない。週末、都心の居酒屋はどこも混んでいて、ここもやっと席を見つけて落ち着けたところだったのに。 しかしこうなっては浅見も葉山を止める術はない。仕方なく立ち上がると後ろ髪を引かれる想いで自らもテーブルを後にした。きっと今日の葉山はもう他の店を探そうなどとは考えないに違いない、これはアパートへ戻るまで食事は取れないなと浅見は小さくため息をついた。 その日の夕方、浅見は日中バイトがあるという葉山と、普段は行かない都心中央部の駅ビルの中で待ち合わせをした。 浅見は大学で受講している文化史のレポートを作成する為、その駅前付近にあるという美術館へ一人で行くことを前々から決めていた。どうせ葉山はバイトだし、そもそもそういった方面には興味がないだろうし、誘ったところで面倒がるだろうからと、そのことを特に言ったりもしなかった。第一、大学の講義内容のことなど、これまでとて互いに話したことなどなかったのだ。 けれどその日になって、「今日はバイトが早く終わるから部屋へ来ないか」という葉山に、浅見がその以前からの予定であった美術館行きの話をすると、案の定というか何というかで、葉山は子どものようにへそを曲げた。いつでも暇なはずの恋人の予定が空いていないことが面白くなかったのは勿論、葉山は浅見の行為そのものに納得がいかなかったらしい、「そういう所へ行くなら、どうして事前に俺を誘わないのか」と文句を言ったのだ。 それで浅見は先の理由を並べながら「わざわざ付き合ってもらうのも悪いし」と付け足したのだが、それがまたいけなかった。「何でそういう遠慮をするの?」、「何処だろうが、浅見から誘われたら嬉しいに決まっているだろ」、「何で浅見はそうなんだ!」等々――。そんなやりとりはこの2人にとって「いつものこと」と言ってしまえばそれまでなのだが、とにかくそんな経緯もあって、出だしからして気まずい「デート」であったことは間違いなかった。葉山がバイトを終えてからそこへ向かえる時間も遅いということで、結局、美術館も浅見一人で見て回ったし。 そして極めつけは、先刻の女性陣による「お誘い」である。 浅見は葉山が昔から女性を引きつける人物であることを重々承知しているし、それを葉山が鬱陶しく思っていることも知っている。葉山と一緒に街を歩いていて、何だかんだと理由をつけて話しかけられた経験など山ほどある。無論、今日のように「一緒に飲みませんか」的な声掛けを受けることも同様だ。浅見としては、全く身も知らない人間にあんな風に気楽に声を掛けられる人というのはほとほと理解できないのだが、それでも「葉山なら仕方ないか」と納得している部分も往々にしてある。浅見は、葉山は自分の恋人にしておくには勿体ないくらいにいい男だと思っている。……以前、ついそのことを口走ったら物凄く機嫌を損ねられて、その後こっぴどく「苛められた」ので、その手のことはもう二度と言わないと決めてはいるが。 つまり、そうやって日々一つ一つ、「葉山に言ってはいけないこと」、「してはいけないこと」を学んでいる浅見なのだが、それでもこうしたことはなくならない。女の子たちからの誘惑に関しては、浅見には何の非もないとしても。 「葉山、待ってよ」 店を出てからもスタスタと足早に街中を過ぎる葉山に、浅見はようやっと声を掛ける気になった。駅へ向かっているのは分かるが、折角ここまで遠出したのだ、少しはゆっくり歩いても良いではないか。 不機嫌なまま帰路に着くというのはあまりに寂し過ぎる。 「葉山って」 「浅見が悪い」 「俺!?」 足を緩めることなく、振り返りもせずに葉山が言ったことに浅見は思わず高い声を上げた。何故って「ナンパされた」ことは自分のせいではない。それは偏に、人目を引く葉山の容姿が原因ではないか。勿論、そのことも葉山自身のせいではないが……。 けれど葉山は浅見を責めた。 「浅見があんな店に入ろうなんて言うからだ。居酒屋行くなら個室のあるとこ選べよ。お前に任せたのが間違いだった」 「し、仕方ないだろ、そんなの! どこも混んでいたし、あちこち歩くより、ああいう駅ビルにまとまって入っている店の方が選ぶのも楽だろ! 大体この辺の店のことなんて詳しくないんだから……それに、葉山が俺に適当に選んでいいって言ったんじゃないか!」 「ああ、そうだよ、こんなのただの八つ当たりだよ。馬鹿じゃねえの、いちいちムキになって言い返すんじゃねェよ」 「なっ……」 「けど浅見、あの気色悪い女の一人をやたらじろじろ見ていたし」 「はっ…? 何言って」 「見えたんだろ」 「な、何が?」 つらつらと続ける葉山に浅見は完全に自身のペースを崩されながら、ただ機械的に後を追い、言葉を返した。葉山の長い歩幅についていくのはいつだって大変だ。しかも怒っている葉山の相手をするのも並大抵ではない、それを同時にやっているのだから堪らない。 「わっ…」 その時、不意にようやく、葉山がぴたりと足を止めた。それで浅見は勢いこんでいたこともあってそのまま葉山の背中にぶつかりそうになったのだが、寸でのところでブレーキをかけることに成功する。 「胸」 「は?」 けれど葉山の冷めた声にはただただ困惑するよりなかった。 「胸の谷間、見てただろ。浅見はエロいからな」 「なっ…何言ってんだよ、俺、見てないって!」 「嘘だね、見てた。浅見は胸のでかい女が好きだから、最初っからあの2人だったらあっちの露出狂がいいと思っていただろ。たぶん、あの女もお前狙いだったと思うぜ」 「何言ってんだよ、あの2人とも、完全に葉山しか見てなかったじゃないか! むしろ巻き込まれたのは俺の方だろ!」 「巻き込まれた?」 興奮して口走った浅見の言葉を目敏く拾って葉山は眉を吊り上げた。 浅見はそんな葉山の表情には気づかなかったけれど。 「そうだろっ。いつもいつも、一緒に歩いていても葉山が女の子たちに声かけられる度に足止めされて。しかも、葉山はそれで勝手に不機嫌になって俺に当たるし! 迷惑被ってんのはいつだって俺の方じゃないか!」 「ああ、そうかよ! じゃあ浅見は俺と歩くのが嫌だってことだ!? 迷惑なんだ!? 悪かったな!!」 「……っ。何でそんな言い方しか出来ないんだよっ!」 浅見が葉山との交際において成長した面があったとしたら、それは少なからずこのような反撃が出来るようになったことだろう。以前の浅見であったなら、恐らく葉山が気分を悪くした時点で困惑して、どうして良いか分からぬままただ俯いていたに違いない。そういう意味では、浅見も葉山という男にいい加減「慣れた」と言って良いのかもしれない。 だからといって2人の中がいつでもうまくいくわけではないというのは、この毎度毎度の不毛な喧嘩からしても明らかである。 結局2人は一緒に電車には乗ったものの、その間も一言も口をきかなかった。 (はぁ……何でこんなことになっちゃったんだろ……) ガタガタと揺れる電車の中、浅見はすぐ傍でじっと目を瞑ったままだんまりを決め込む葉山の横顔を見つめた。葉山は混雑する車内でも素早くドア横の角の場所を確保すると、そこで腕を組んだままさっさと狸寝入りを決め込んだ。仕方がないなと思いながら、その時ふと、浅見は先日読んでいた本の一節を思い出した。人が今の葉山のように両腕を組む体勢を取るのは、生物の防衛本能とでも言うべきものだが、当人が無意識のうちに周囲に対して構え、壁を作っている証拠なのだと言う。まさに、ぴったりじゃないか。それはこの葉山にそのまま当てはまる。傍にいるだけで分かるこの雰囲気、全身からピリピリした空気を発している葉山は、もうこれ以上浅見から文句を言われることに耐えられないし、自分がまた浅見に何を言い出すか分からない恐怖にも耐えられない。だからこんな風に頑なな姿勢で内にこもってしまうのだ。 ……そう考えると、この神経質な恋人が可愛いと思えなくもない……が、それでも、あそこまで理不尽に責めたてられたことは如何なお人よしと称される浅見でも腹立たしいし、自分から「ごめん」と言う気にもなれないのだった。 かと言って、このまま「じゃあ」と自宅のある最寄駅で一人降りることも躊躇われる。 たぶん、暫くしたら葉山の方から謝ってくるのは明白だ。葉山はすぐカッとなるくせに、弱気になるのも早い。それがいつものパターン。けれどそれは浅見とて同じ気持ちで、今日とて折角葉山がバイトを早く終えられるから会おうと言ってくれたのだから、その貴重な時間を無駄にしたくないし、少しでも一緒にいたいとは当然のように思う。 じゃあ、やっぱり俺から謝ろうかな……。 「俺も葉山ん家に行っていいだろ?」と持ち掛けるだけじゃないか。 「浅見」 「えっ……」 そんなことを考えていたら、葉山が急に声を掛けてきて浅見はびっくりした。いつの間にか目を開けている。思考の波に攫われて葉山の姿を認めていなかった自分に、浅見は慌ててぱちぱちと瞬きした。 「何?」 「俺、次で降りるから」 「え? でも……」 次の駅など、葉山の自宅アパートからはまだ遠いし、それは浅見の家とてそうだ。 「浅見はどうすんの。帰る?」 「えっ……」 それはどういう意味なのか。咄嗟に思ったけれど浅見はすぐに返事が出来なかった。ニュアンスから言って、「お前は来るな」ということでないのは分かるが、逆に積極的に「お前も来い」と言っているわけでもない。 葉山は、“お前はどうするのか”と訊いているのだ。 「……じゃあな」 そうこうしているうちに電車はホームへ滑りこみ、大勢の人間が一斉に動き出した。大きな駅だ。葉山はその中で何とも反応のない浅見を暫くは見ていたが、来ないと踏んだのか、そう言って自分はさっと降車してしまった。 「あ」 だからだろう、それで浅見も殆ど反射的に電車を降りた。 「あぶなっ…」 ちょうど発車のベルが鳴り終わってドアが閉まる寸前だったから、浅見はほとんど扉に挟まれかける格好で電車を降りる羽目になった。それに胸がどきんとなって浅見は咄嗟に声を出したのだが、葉山の方はと言えば、そんな浅見をちらりと見ただけで、そのまま黙って改札口へ向かって歩き出してしまった。 「ちょっ……」 何なんだ。 葉山の勝手さはいつものことだけれど、ここまで無視するなんてあんまりじゃないか。 浅見は身の危険も感じながらの下車だっただけに、余計むっとした気持ちになった。 「葉山!」 それでも折角ついてきたのだ、このまま喋らないでいるなんてさすがに耐え切れない。 「葉山、いい加減にしろよ」 「何が」 すいすいと改札を抜ける葉山は、珍しく声を尖らせる浅見をちらりとだけ振り返った。 それで浅見もますますキンキンしてしまう。 「何がじゃないよ。いつまで不貞腐れてんだよ」 「怒ってるの、浅見じゃん」 「葉山がそういう態度だからだよ。こんなの嫌だろ」 「こんなのって」 「だっ…だからっ。こんな、折角会っているのにさ、こんな気まずいのがだよっ。分かっているんだろ?」 「浅見だって俺のこと分かっているはずだろ」 「分かっ…分かっているけどっ」 夜も大分更けていたが、ネオン街にはまだ多くの人が通りを行き交っていた。季節はもうすぐ新年である。直始まる束の間の休日を想って浮かれて羽目を外したり、偶の外食を楽しむ人も多かったのかもしれない。 けれど葉山はそんな人ごみをむしろ忌避するように、周囲にある飲食店やカラオケなどがひしめく繁華街には一切目をやらなかった。もしかしたら夕食がダメになった分をここで飲み直す気なのかもしれないという浅見の安易な予想は見事に裏切られた。 「葉山」 それに加えて、声を掛けても返事はなしのつぶて。 「ねえ、葉山!」 自分の方からは一生懸命働きかけているのに、相手からは何のリアクションも得られない寂しさ、虚しさ。そういった感情を、浅見はこれまでまともに実感した事がなかった。人間関係を円滑に築くのが苦手で引っ込み思案である一方、自分の世界というものを色濃く持つ浅見は、家族からの愛情に恵まれていた事とも相俟って、これまでは誰かと関わりを持つ為に自ら積極的に何かしようなどという気持ちにはなりようがなかったのだ。 それを全部教えてくれたのが葉山。 葉山怜という男と付き合うようになったから、浅見は今、その今まで知ることのなかった気持ちを味わっている。初めて知り得た。 「……っ。返事してくれないなら、もう帰る!」 けれど今ここで抱く感情は葉山への「感謝」ではなく、「苛立ち」である。 当然であろう、浅見も今どきの若者の一人には違いがなく、幾ら根が大人しいとは言っても、早々葉山の勝手を許してはおけない。それは浅見が根底で「自分は男なんだ」という妙なプライドとでも言おうか、世間一般が抱く「男性」に対するステレオタイプ的イメージを当の浅見自身が持っていたからに他ならない。それは同性である葉山と性関係を持ったことで一層増幅し、「ただ相手に従うだけなんて男らしくない」という浅見の価値観に依るものが大きかった。 「……別についてこいなんて言ってないじゃん」 葉山は再びそんな憎まれ口を叩いたが、浅見のその言葉によって初めて足を止め、完全に振り返った。街並を離れ、街灯の数も減っきたせいだろう、この時の葉山の表情はよく見えない。けれど、明らかにいじけているのは夜目にも分かった。 浅見は思わず大きなため息をついてから軽くかぶりを振った。 「そうだけど。あのまま別れるなんて嫌だって思ったから。葉山はそうじゃなかった?」 「何が」 「何がじゃないよ…。俺、葉山と気まずいまま今日を終わりたくなかったからついてきたんじゃないか。それなのに葉山……全然、何処へ行くとも言ってくれないし。呼んでも返事しないし。あまりに冷た過ぎるよ」 「浅見の方が冷たい」 「無視する方が冷たいよ!」 「煩い」 葉山はぴしゃりと言ってから急につかつかと浅見に近づいた。その距離はあっという間に縮まり、そのまま腕を引かれて口づけされる。 「……っ」 浅見はそのあまりの早業に目を瞑る暇もなかった。しかも葉山の整った顔がすぐ傍にまできて自分の唇を吸おうとしている瞬間は、まるで映画のスローモーションを見るかのように鮮明だった。 だからか、不覚にも身体が震えた。 「ふっ…ん…」 幾ら人気がないからと言って、「こんな所では駄目」と言いたかった。けれど浅見は自分の腕を痛いくらいに掴み、一方でもう片方は優しく頬に触れてくる葉山のひやりとした手を感じて、ゆっくり目を閉じた。 「んっ…んぅ…」 葉山のキスについていくのはいつでもとても大変だ。特に、こういう時の葉山は常にどことなく悲壮感が漂っているし、唐突だし、乱暴。しかもこれが一旦始まるとなかなか終わらない。下手に逆らうと余計に長くなることも分かっている。 葉山は何度も角度を変えては唇を重ねあわせ、浅見を確かめるように、また自分を誇示するようにして浅見の口を吸う。 そうしてそれを続ける事でやっと得られるのだ、安心が。それで葉山もようやっと、いつもの冷静さを取り戻す。 「……浅見が悪い」 けれど今夜は。 「…え?」 何故かキスを終えた後まで、葉山は開口一番そう言った。しかも浅見がそれに面喰らいながらもムキになって言い返そうとしたのを察知し、すぐにまた口づけを再開して黙らせる。ともすればこのまま最後までいってしまうのではないかと思えるほどの、それは強引で傲慢なキスだった。 浅見はいよいよ焦ってきた。 「……っ、もう葉山、いい加減に…!」 「煩いって言ったろ!」 けれど浅見の言葉に葉山は半ば悲鳴のようにそう言うと、「黙れよ」と繰り返し、今度は両腕でぎゅうっと浅見の身体を抱きしめた。 「……っ」 完全拘束され、今度こそ浅見は動けなくなった。散々キスされて濡れた唇が気になったが、それを拭うことも出来ない。浅見は戸惑いながら、自分に縋りつくかのような抱擁をする葉山へ必死に視線を向けようとした。 するとどれだけその間があったのか、ふと葉山が動いた。 「来いよ」 「えっ?」 「いいから、来い」 焦る浅見に構わず、葉山は強く浅見の手を掴むと、そのままぐいぐいと引っ張るようにして歩き出した。浅見はただそれに引きずられるようにして動く他なく、もう後の言葉は続けられなかった。急くような葉山の背中だけが目に入り、結局翻弄され従う自分がいる。けれどその時はもうそんなことを気にしている余裕もなかった。度重なるキスで身体が熱く疼き出したせいだと分かってはいたが、それには必死に気づかぬフリをした。 「あ!」 そんな風に翻弄されっ放しの浅見が、しかしようやく「そこ」へ辿り着けた時。 「葉山……」 浅見はやっと葉山の意図を察して脱力したのだった。 「……もしここまで俺がついてこなかったらどうしてたの?」 「そこ」に着くとさっと手を放し、さっさと先に腰をおろした葉山に向かって浅見は立ったままそう訊ねた。 葉山はふいと横を向いたまま素っ気なく言った。 「別に。一晩ここで座っているつもりだったけど」 「寒いだろ」 「いいよ、そんなの。ここが一番落ち着く。俺はこれまでだって一人で何回もここに来てんの」 「最近も?」 浅見の問いに葉山は鷹揚に頷いた。 「もちろん。浅見と付き合うようになってからだって、一人になりたい時なんか何回もあったし。いや、余計増えたかな…。そういう時は、ここが一番」 「……ふうん」 何だか今とても酷いことを言われたような気がしたが、浅見はとりあえずその発言に関しては流してしまうことにした。 すっかり寂れているその「バス停」は、2人が数年ぶりに再会した日に訪れた思い出の場所だ。 葉山はその時もここへはよく来ると言っていたけれど、あの時この場所で、浅見は葉山の普段とはかけ離れた鬱屈した感情を垣間見て、明らかに自分の中がざわめくのを感じた。このバス停でのあの一夜があったからこそ、浅見にとって葉山はただの昔の同級生ではなくなった。好きだと確信して付き合うようになるまでにはまだそれからも随分とかかったけれど、それでも自分たちの原点は間違いなくこの場所だったのだと思い至る。 浅見は黙って葉山の隣に腰をおろした。ふっと吐く息が白い。それでもそれを苦痛には思わなかった。 「今日、浅見に相談したいことがあったんだ」 浅見が座ったのを確認してから葉山はすぐに切り出した。浅見がえっと顔を向けると、葉山はコートのポケットに両手を突っ込んだまま俯いていた。 「別に今日じゃなくても良かったけど、思い立ったのが昨日だったからすぐに言いたかった。何か凄く良い考えのような気もしたし……むしろ、何で今までこういうこと全然考えつかなかったんだろうってさ。不思議で」 「何? それなら昨日の時点で電話ででも言ってくれて良かったのに」 「浅見の反応直に確かめたかったし」 「反応?」 「うん。年明けさ……海外行かない?」 「……海外?」 一拍置いて目を丸くする浅見に、葉山はまじまじとした視線を寄越した後、「あーあ」とため息をついた。 「やっぱりな。そういう顔すると思ったよ」 「そ、そういう顔って、どういう顔だよ?」 「『何言ってんの?』っていう顔だよ。『そんな大それたこと突然言われても困るよ』って顔だよ」 「だっ…そんなの、別に大した事じゃないよ! 海外くらい、結構周りでも行っている人多いし…!」 「けど浅見はないだろ。旅行なんて、国内だってメンドクサイって柄じゃん」 「そこまで出無精じゃないよ」 「そう? じゃあ行く?」 「……どこの国?」 正直、葉山の言う通りだった。 浅見は海外旅行というものに「まるで」興味が湧かない種類の人間だ。まず、言葉が通じないことが不安だ。お金もかかるし、水も怖い。別段好きな国もない。嫌いな国もないが。――つまりそんな無関心もあって、浅見は大学の同級生たちが、そして仲の良い姉が長期休暇を利用しどんどん国外へ出る様子を、ただただ完全な他人事として眺めるだけだった。 無論、葉山と旅行するなんて楽しいかもしれないとは思う。葉山とは一度も、それこそ一泊とて一緒に旅行したことはない。葉山のアパートへならもう何度も泊まっているが、その他の場所は一度もないのだ。 けれどだからと言っていきなり海外とは、やはり浅見の性分としてはハードルが高いと感じるのも事実だった。 「葉山は行きたい国とかあるの?」 訊きながら浅見はぐるぐると考えを巡らせた。 大体、もし今日のように向こうで喧嘩になったら、一体どうなるのだろうかと思う。葉山なら一人でも何でも出来そうだが、浅見は見知らぬ国の見知らぬ街で葉山から放り出されでもしたら、間違いなく困り果てる自信があった。 けれど浅見が心の中でそんな葛藤を繰り広げているのにも構わず、葉山は飄々として答えた。 「俺は、基本的には浅見が行きたい国でいいと思っているよ。一緒に行くって言ってもらえるだけで御の字だから」 「でも、『基本的には』って? それってどういう意味?」 浅見のもっともな問いに葉山は微か言いづらそうにした。 「うん、まぁ…。基本的にはどこでもいいんだけど、ただ出来ればハワイとかオーストラリア、ニュージーランドあたりはパスしたいかなって。――あぁ、アメリカとカナダも嫌かも」 「それって嫌なとこ随分多いじゃん…。その基準は何なの?」 「いや、別に国として嫌いとかって意味じゃないよ。特に俺、アメリカには何回も行っているし、場所によってはアメリカでも全然いい。ただロスとか特定の地域は避けたいってだけ。カナダも」 「何で?」 「日本人が多いから」 葉山はまるで挑むような目をして浅見を見つめ、殆ど間を空けずに続けた。 「海外なら浅見は俺以外誰にも頼れないだろ。もし今日みたいなことがあっても一人で帰国とか出来ないじゃん。どう? できる?」 「で…出来ない、けど、それって葉山」 「俺は、俺たちのことを誰も知らない場所へ行きたいんだ」 浅見に言わせずに葉山はそう言い切った。 「そこで2人きりになりたいんだ。それだけだよ。それ以外に何がある?」 「何って……そりゃ……海外旅行って言ったら、世界遺産を見るとか、壮大な自然を体感する、とか…?」 浅見がぼそりと言ったその台詞に葉山は鼻で笑うと空を仰いだ。 「はっ、どうでもいいし、そんなの。……まぁ勿論、浅見がどうしても観光したいって言うなら、してもいいけど」 「そりゃ……わざわざ行くくらいなら、それなりの所は観たいよ」 「例えば?」 「……それは分かんないけど」 もごもごと歯切れの悪い浅見に、けれど葉山はここで乗り出すようにして身体ごと浅見に向けた。 「でも、浅見は世界遺産とか自然が多い所なら行ってもいいってわけだ? じゃあ海外デビューとしてはスペインあたりがいいかな。そこも日本人多いけど、まぁ仕方ない、浅見が乗り気なら何処でもいいんだ、俺は。そこらへんのパンフ集めるよ、何なら他の欧州渡り歩いてもいいし」 「お、俺、まだ乗り気とは言ってないけど!?」 「何? それならやっぱり嫌なの?」 「う…」 急きたてるように問いかける葉山に浅見はすっかり困ってしまった。 何のてらいもなく「2人きりになりたい」という葉山も、自分たちのことを「誰も知らない場所」へ行きたいという葉山も。そのこと自体が嫌なわけでは勿論ないけれど、それでも「やっぱり葉山って難しい奴だ」と思わざるを得ない。 それに、最近ではちょっと暴走しがちだと思う。 「なら、国内の山奥でもいいんじゃない?」 けれど浅見はそんな葉山を無碍に出来ない、したくない自分がいるのも知っている。 それで精一杯の譲歩案としてそう言ってみた。ふと頭に浮かんだ代替案だったが、これは葉山の言っている条件も満たしているし、なかなかに良い考えのように思えたのだ。 「はあ、山奥? 何それ、最悪なんだけど」 それなのに葉山はそう言って浅見の意見を一蹴した。浅見はそれで思い切りむっとしてしまったのだが、確かに都会生まれの都会育ちである葉山にとっては、そういったサバイバル的なイメージが付きまとう旅など好みではないだろうし、似合わない。大体にして、浅見自身が無理だ。キャンプ等も、小学校以来一度もしたことがない。 「まあ、じゃあ、それは将来的にはやるってことにしない?」 しかし浅見の黙りこむ様子を見てさすがに言葉が過ぎたとでも思ったのか、葉山は突然そんな風に言って機嫌を窺うように顔を寄せた。 だから浅見もすぐに膨れっ面を消して葉山を見つめ返した。 「将来的には?」 「うん。俺らがそれなりに年とってさ。それなりに金貯まったら、海外のそういう所――湖があって、森があって、静かでさ。人がいない所。そういう所を探して終の棲家にするってのはいいかもね。……そしたらその時、俺も初めて浅見を独占できたって思えるのかも」 「――……っ」 何気なく言われたその台詞は、浅見を自分でも驚くほどに動揺させた。 そのせいで反応が一歩遅れた。 「……今でも、独占してるよ」 それでも何とかそう応えると、葉山はあっさり「どこが?」と笑った。 そうしておもむろに浅見の唇へちゅっとキスをし、手を握ってきた葉山は、そのままふいと前に向き直って真っ暗な夜の空へと視線を移した。 だからつられて、浅見も夜空へ目を向けた。葉山の手はさっきよりは暖かかった。 「あれ、何座かなぁ」 沈黙になるのが嫌で浅見は一番最初に目に入った星を見て呟いた。葉山はすぐに「熊猫座だろ」と適当な返事をしたが、浅見には葉山の声が返ってきたことが重要だったので、その反応に心の底からほっとした。 「……外国の空だと星ももっとよく見えるの?」 だからそろりとそう続けたのだが、葉山はそんな浅見にゆっくりと顔を向け、今しがたの浅見よりもよほど安堵したような顔を見せて笑った。 ああ、この顔が好きだなと浅見は思った。 「見えるよ。ミルキーウェイ一緒に見られる所に行こう? 俺、完璧な計画表立てるから」 「向こう行ったら喧嘩したくないよ? 俺ホントに、葉山いなきゃどこにも行けないんだから」 「はは……大丈夫、大丈夫」 浅見が観念したようにそう言ってふにゃりと笑うと、葉山もますます自らの笑顔を深くして、いやに自信たっぷりにそう言った。互いに触れあった手をさらにきゅっと握り直して。 そうして、確信に満ちた様子で。 「大丈夫だよ、浅見。そこでなら、喧嘩なんてしようがないから」 |
了
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喧嘩はすると思うなぁ……(ぼそり)。
2年ぶりの更新でも全く変化のない2人でした。