駅までの道 |
「会いたい」 いつでも勝手に、その電話の主はそう言った。 「あれ以来」、予告していた通り葉山は実に頻繁に陽一に電話をしてくるようになった。それこそ、あの始発の電車に乗って別れた日の夜には、もうその電話は鳴ったのだ。 「一応、『おやすみ』って言っておこうと思ってさ」 実に馴れ馴れしく、実にあっさりと葉山はそう言って笑った。携帯などという気の利いた物を持っていなかった陽一は、毎日のようにかかってくるその「友人」からのとりとめもない電話に対し、両親や姉から「いつからそんなに仲良くなったのか」と害のない質問を受けたりもした。 陽一は葉山の声を聞く度に戸惑いを覚えてしまった。 「なあ浅見…今度の土曜日、会えるか」 そして葉山は、週末になると決まって陽一に会いたいと訴えてきた。それ以外でも何度となく「会いたい」攻撃は続いていたのであるが、陽一はそれをすぐに受け入れる気持ちにどうしてもなれなかった。 どこまで本気なのか、葉山は「自分と付き合え」と言った。 その中で冗談みたいな告白もあったけれど、それよりも何よりも突然されたキスに驚いたし、何だかあの思いつめたような葉山の目を陽一は怖いと感じてしまった。だから、葉山に会いたいとせがまれても、すぐに分かったと頷くことはできなかった。 けれど、何度となく繰り返される曖昧な陽一の態度に業を煮やすと、ある日葉山は思い切りむっとしたような声で吐き捨てるように言ったのだった。 「お前だって俺に会いたいくせに」 そしてその後三日間、葉山からの電話はぱたりと途絶えた。 「ねえ、葉山君…だっけ?」 陽一が大学から帰ってくると、いつもは家を空ける事が多く、忙しない感じの姉が、珍しくリビングから声をかけてきた。ソファでくつろぎ、雑誌を開いていた姉は、多少短すぎるとも感じられる髪の毛をさらりとなでてから、自分とは正反対の大人しい弟を見てにやりと笑った。 「この頃電話きてないんじゃない? 喧嘩でもしたのー?」 「別に……」 外泊ばかりのこの姉が何故そんな事が分かるのだと思いながら、陽一が無視して二階に上がろうとすると、姉はそんな弟をびしりとたしなめた。 「ちょーっと待ちなさいよ。たまにはこの美しいお姉さんと団欒でもしない?」 「いいよ……」 「いいよじゃないわよ。私がしたいのよ。座りなさい」 「………」 そう言われてはもう敵わないと、陽一は諦めてのそのそと姉のいるリビングへと足を向けた。大人しく向かいに座ると、姉はよしよしといった顔を向けて大袈裟に足を組んでからじっと陽一の顔を見やった。 「お母さんも言ってたわよー。仲良しの友達っていう友達がいないアンタに、こう頻繁に電話をくれる子ができて嬉しいってねー。そういう友達は大事にしなきゃね」 「………」 「で? どういう子なの、葉山君って」 「どういうって……」 「可愛い弟のお友達としてふさわしい子か、アタシが品定めしてあげるってのよ。同じ大学?」 「違うけど……」 「あら。じゃあ、どこつながりなのよ。バイトもしてないあんたに、それ以外の交友範囲があるとも思えないし」 「高校の時の―」 「え、そんな古い付き合いの人がいたの」 姉は弟に対してなら何を言っても許されると思っているのか、ずけずけとそう言い放ち、それから心底驚いた顔をして前屈みになった。 「それにしちゃあ、今まで何の連絡もなかったじゃない? あ、同窓会にでも行って急激に仲良くなったパターン?」 「うん」 面倒臭くなって陽一は適当にそう答えた。姉は喋り続けると止まらない。いいように話させて、早く解放してもらおうと思った。 「あ、そうなの。ま、それはいいけど。ね、カッコいい子?」 「何で……」 陽一はほとほと呆れつつも一応そう聞き返した。 姉の男好きは病気だと陽一は思っている。本人にそんな事を言えば何をされるか分かったものではないが、少なくとも陽一が意識していないうちに、姉の「恋人」と名乗る人物がころころと変わることはしょっちゅうだった。 そんな姉だからこそ、恐らく自分の「めったにいない友人」にも特に興味を示しているのだろうが……。 「あの声は美形ね」 陽一の考えをよそに姉はあっさりとそう言ってふふんと笑った。 「線が細くて、でも凛々しい顔だち。芯は強いけど、繊細。ね、そんなところでしょう、どうよ?」 「分からない」 「分からないってことはないでしょ。あんた、友達でしょ?」 「………」 「ああ、そういえばその友達のことなんだけど、今日、17時にF公園で待ってるって」 「………え?」 突然、何事もないかのようにそう言った姉に、陽一は耳を疑った。 今がもう17時である。 「F公園って……?」 「知らないの? Y駅の傍にある結構大きい公園じゃない。こっからだと、まあ…1時間はくだらない場所ね」 「何で……っ」 「早く言わないかって? だってどうせ17時は過ぎちゃってるし。携帯に電話でもして、間に合わないって言いなさいよ」 葉山の携帯の番号など知らない。 陽一は自分から向こうにかける気などさらさらなかったし、葉山もそれが分かっているのか、自らの番号を陽一に教えてくることはなかった。連絡手段はいつだって、葉山から陽一にくるだけなのだ。 「行くの?」 焦ったようになっている陽一に、姉は意外だと言わんばかりの顔を閃かせたが、「じゃあ急ぎなさいよ」と続けて笑った。 「何か悲壮な感じだったしねえ…。あんたが行ってあげないといつまでも待つわよ、あれは」 背中越しにそうつぶやいた姉の声を無視し、陽一は何も考えずに家を飛び出た。 F公園は都心の近くにある割には、のどかな雰囲気を持った市立公園だ。大きな噴水に、季節ごとに咲く色取り取りの花。桜並木の散歩コースや芝生でくつろげるスペースなどもあり、天気の良い日にはそこかしこでフリーマーケットや駅伝大会なども開催されたりする。陽一自身がこういった場所に足を運ぶことはあまりないが。 ただ、行った事が皆無というわけではなかったから、急いで家を出たのもあって割とすぐにそこに着くことはできた。…その時点でもう待ち合わせの時間はとうに1時間以上も過ぎてしまっていたが、普段行動の鈍い陽一にしては上出来だ。 そして葉山も、まだそこにいた。 「………」 陽一も、何故か葉山は自分を待っていてくれるのだろうなという確信があったから急いだ。あそこまで会うことをためらっていた自分が、どうして今になってこんな風に焦って葉山の元へ行こうとしているのか、それは良く分からなかったが、それでも陽一は公園の入り口から1番近いベンチに腰を下ろしている葉山を見つけて、ほっと息を吐いた。 「………葉山」 葉山は陽一が来た事には気づかずに、手にしていた文庫本に目を落としていたが、傍に寄って声をかけてきた相手の姿に気づくと、顔を上げてから「…―ああ」などと間の抜けた声を出した。 「遅いじゃん」 そうして、耳にしていたヘッドホンを外してから本を閉じる。怒っているようには見えなかったが、いつもの笑顔はなかった。 「………遅いって」 だから陽一も急に襲いかかってきた不安と闘うように、努めて冷静な声を出して抗議するような目を向けた。 「勝手に…17時とか言われても。俺、帰ってきたのがその時間だったし、それに――」 「ああ、分かった分かった。嘘だよ、別に怒ってないしさ」 葉山はそこでようやく苦笑したようになってから、陽一に隣に座るように目だけで訴えてきた。陽一がおとなしくそれに従うと、「浅見は冗談が通じないからな」と独り言のように言った。 「でもさ、来ると思ってた」 「………」 「焦っただろ? 俺が待ってるって知って」 「そりゃあ……」 「うん」 葉山は陽一のその返答に満足したような声を出してから頷き、それからようやくいつもの笑顔を見せた。 「浅見が会ってくんないからさ。こうでもしたら会えるかなって」 「そ……」 そんな、勝手な。 言おうとして、けれど陽一は喉の奥でその言葉を遮ってしまった。どうしてか、葉山を前にすると言いたい事がなかなかうまく出てこない。自分が何を言い出すか分からない事が怖かったのかもしれない。 「何の…用?」 だからか、そんな素っ気無い台詞が代わりに出て来た。 「何でそんな……急に。人の事呼びつけて…」 「別に。だからただ会いたかっただけ」 「………葉山」 「お前こそ、何で会ってくれないわけ。大した事じゃないだろ、俺と会うくらい。それとも、やっぱり俺のことは嫌いなわけ?」 「………」 「キスしたのがマズかった?」 「!!」 実にあっさりとそう言われ、陽一は咄嗟に反応を返す事ができなかった。それどころかみるみる体内の温度が上昇していくのが分かる。葉山の隣にいるだけで、視線を送られていると感じるだけで、何だかすごく熱くなっていってしまうのだ。 これは一体何なのだろうと、陽一はただ混乱してしまう。 「浅見はやっぱり可愛いなあ。そんな赤くなっちゃって」 それなのに、そんな陽一をからかうように、馬鹿にするように、葉山はまた平然とそんな事を言って笑った。急にそんな葉山が腹立たしくなって陽一は勢い良く立ち上がった。 「帰る…!」 「何で」 「………っ」 答えたくないとばかりに、陽一は無視して葉山から去って行こうとした。 「待てよ」 けれども葉山は素早く陽一の手首を掴み、行くことは許さないという目をして陽一のことをじっと見据えた。 「な、何するんだよ、離せよ…!」 「お前が帰るとか言うから」 「帰るよ…! 用ないんだろ!」 「来たばっかりじゃん」 「知るかよ!」 吐き捨てるようにそう言ったものの、けれど陽一は葉山の視線ともろに交錯して息を飲んだ。 やっぱり、葉山は怒ったような顔をしていたから。 「お前、いい加減にしろよ」 「え………」 そして、ひどく冷めた声で葉山はそう言った。 「俺だっていつまでもそんな優しくはないよ。ちょっとからかったくらいでそんなむかつかれても、こっちだってイラついてくんだろ」 「な…な……何だよ……」 「………」 陽一が感じた通りの、怖い葉山の目だった。 高校の時には見せなかった、けれどこれが葉山の本当の姿。陽一は何も言えなくなり、ただその場にいるしかなかった。 そして結局、陽一は葉山の言うなりになってしまうのだった。 黙ってついてこいと言われて連れてこられたのは、葉山の住むアパートだった。 「何か飲む?」 ほとんど無理やりの体で陽一を自分の住処に連れてきたくせに、葉山はもう上機嫌でキッチンに立つとその場に立ち尽くしている陽一に声をかけた。 葉山の部屋は一部屋8畳にキッチン、バス、トイレが別々についている、男の大学生が1人で住むには十分に広い贅沢な空間だった。陽一はおどおどしながら部屋の中央に立ち、葉山に言われてようやく腰を落ち着かせるまで、ただ辺りを見渡した。 「そんなきょろきょろしなくても、珍しい物なんかないって」 葉山は苦笑してから、持ってきたグラスに入ったお茶を陽一に差し出した。陽一が黙って受け取ると、自分も手にしていたそれを口にする。 「高校辞めてから割とすぐかな。家、出てさ」 「………」 「元々鬱陶しかったからってのがあるんだけど、まあ、バイトも色いろやって金にもそんな困ってないし。割と快適、かな」 「………ふーん」 「浅見は実家にいるんだよな。一人暮らしとか興味ない?」 「分からない…」 「何だそれ」 陽一の返答に的を得ないような顔になり、葉山はまた馬鹿にしたように笑った。 1人になりたいと思ったことはたくさんある。家族が嫌いではない、むしろこんな自分に過ぎた干渉もしてこない、楽にさせてくれていると思う。 それでも、時々は1人になりたいと思う事はあった。 「うちに来る?」 「え……?」 その時、葉山が実に何気ない口調で言った。陽一が驚いて顔を上げると再びあの目と視線が合わさった。 葉山は言った。 「浅見ならいつでも来ていいから」 「………」 「言っとくけどさ、俺、基本は一人が好きな人間だよ?」 「なら……」 何故と問おうとして、陽一はやはり口を閉ざした。また言葉が出なくなってしまった。 葉山の真っ直ぐな視線が本当にすぐ側にあったから。 「な……浅見」 葉山は言いながら、陽一に接近してきたかと思うと、陽一が何かを言う前にそっと陽一の唇に自らのそれを重ねてきた。 「ん……っ」 完全に意表をつかれて、陽一はもろにそれを受け止めてしまった。抵抗するように葉山の肩を掴んだが、それでも相手の拘束は緩まず、余計に身体を押さえつけられ、何度も何度も口付けをされた。 「ん…ぅ、ふ……」 「浅見……」 唇が離れた瞬間、つぶやくように名前を呼ばれて、陽一はぞくりと身体を奮わせた。今までに感じたことのない感覚が身体中を巡っていた。 「い……やだ、離……」 「………」 うっすらと涙が出てきてしまい、それでもぞくぞくとした身体の熱は止まらなくて、陽一は必死に葉山を押しのけようとした。それなのに、それに逆らうように葉山は陽一を力任せに押し倒すと、上に覆い被さってじっと見つめてきた。 「……嫌って言われてもさ……。俺は、最初っからこうするつもりだったから」 「葉――」 「こうでもしなきゃ、お前は俺のこと考えたりしないだろ」 「え……?」 言われた事の意味が分からなくて、陽一は混乱したまま葉山を見つめた。葉山もじっとそんな陽一を見つめ返し、それからまたそっと触れるだけのキスをしてきた。 「あ……」 「そういう反応も…すげー好き」 葉山はふっと笑んでからまたキスをする。何度も何度も唇に触れられて、陽一はぼんやりとした視界の中でただ葉山のことを見つめ返した。 「初めてだろ…? 浅見はこういうの、ないよな?」 「……っ」 「あってたまるかって……」 陽一に話し掛けているという感じはなかった。葉山は自身に問いかけるようにして1人で答えを出すと、今度は陽一の服に手をかけた。 「や……やめ……」 「いいからおとなしくしてろ。別にさ…それほど気持ち悪いもんでもないと思うぜ」 「い……」 ゾクリと悪寒が走った。そして陽一はその瞬間、自分の中で何かがぷつりと切れるのを感じた。 こんな。 葉山が自分の服を脱がしにかかり、再び首筋に唇を寄せてきた時、陽一は自分でも驚くくらいの声を発していた。 「離せ!!」 「……ッ!」 耳元で思い切り叫ばれた事と、精一杯の力で押しのけられた事で、葉山は驚いたようになって身体を引いた。陽一はその隙をついてがばりと上体を起こすと、未だに思うように動かない身体を引きずりながらぜえぜえと息を切らせて後退した。背中はすぐに部屋の壁に突き当たってしまったのだが。 「……うるっせェ声……」 片手を耳に当てながら、葉山が腹を立てたような声を出した。そんな不機嫌な葉山に途端にびくりと肩を震わせながらも、陽一はこみあげる怒りで自分の方こそどうにかなってしまいそうだと思った。 お前にそんな顔をされる謂れはない。 怒りたいのはこちらの方だ。 「……ッ」 それでも、やはり陽一は思っている言葉を表に出す事ができなかった。ただ、震えが止まらなくて。 「そんなにさ…怖がるなよ」 参ったな、とつぶやく葉山の声が遠くの方で聞こえた。途端に視界がじわりと濁り、何もかもがぼやけて見えた。混乱する気持ちをどうする事もできず、陽一はただその場にいる事しかできなかった。 「浅見……」 その時、不意に肩越しに温かい感触が襲い、はっとするとすぐ側に葉山がいるのが分かった。陽一は思い切り身体を強張らせてそれを払おうとしたがうまくいかない。 「! や…離…ッ!」 「ああ、何もしない。何もしないから」 「触…!」 「分かった、離した。ごめんって。もうしない。な?」 「………」 降参というように手を挙げた葉山が微かに視界に映り、陽一は沈黙した。 突然人の前に現れて、突然訳の分からない話をして、突然付き合えと言ったりキスをしたり。 抱こうとしたり。 「勝手……なんだよ……」 消え入るような声でそれだけ言ったが、それでも呼吸するのが苦しくて咳き込んでしまった。 「だから悪いって」 「何で……」 「ん……」 「こんな事するんだよ…?」 電話さえこなければ、きっとこのまま自分は一生葉山を想う事などなかったと思う。昔の同級生で終わっていたのに。 「どうして」 「………そういう事ができる年になったっていうか」 「え……」 意味が分からなくて陽一がようやっと顔を上げると、そこにはやはり困惑したような葉山の顔があった。 葉山は陽一のすぐ側で胡座をかくと、ぽつりと言った。 「年齢は関係ないかもしれないけど。欲しいものは欲しいんだって、我慢しないで言える人間になったって事だよ。俺が」 「………」 「俺はずっと前からこうしたかった。お前と一緒にいたかったし、お前にキスしたいって思ってた」 「葉山…」 「高校辞めてからさ。初めて女とセックスしたの、16歳の頃かな。でさ、今までも色んなのと寝てみたんだけど。その度にさ、お前とやったらどんなんだろうって想ってた」 あまりにもあっさりとそんな事を言う葉山に、陽一はただ絶句してしまった。再びかっと身体中の熱が上昇し、どうか赤面していませんようにと願う。 「俺さ…あんま周りの奴とか信用してないし…親とかも嫌いだから。そもそも俺って、誰かのことをすげー好きだって思ったこともないんだよな。……でも、お前のことは思い出してた。いっつも、それこそしょっちゅう、何かお前のことだけは忘れられなかった」 「………」 「だからこの間お前と会った時、お前が変わってなくて…さ。もう何かさ、うまく言えないけど、どうしようもなくなったんだ」 「何…だよ、それ……」 「何だじゃねえよ。そういう事だよ。このままお前を放っておいて、誰かに取られるのなんて我慢できないって思ったんだよ。せっかくさ」 葉山は再び陽一に対して腹が立ってきたのか、多少声を荒げて言った。 「せっかくお前は、お前でいてくれてるのに」 「わ、分からないよ……」 「いいよ、俺が分かっていれば」 葉山はそう言ってから、陽一の頬を伝っていた涙をそっと自らの指で拭い取った。陽一はそれに逆らうことができなかった。 「こういう風にさ…泣くのも、反則だと思うぜ?」 「………葉山」 「お前…凄く可愛いから」 「や……」 けれど陽一は再び迫ってきた葉山の影を追い払う事ができなかった。 多少首をすくめたものの、すぐに顎を指でとられて上を向けさせられ、唇を取られた。 葉山の何度目かの口付けだった。 「……ッ」 ぎゅっと目をつむったままそれを受け入れてしまうと、葉山は調子に乗ったように何度も陽一の唇を奪ってきた。陽一が石のように硬くなって動けなくなっているのを知っているはずなのに、それはとても強引なものだった。 「お前も悪いんだぜ」 そうして葉山は陽一の耳元でそっと囁いて、それから少し自嘲気味に笑った。 葉山のアパートを出た時は、もう夜も大分更けていた。 「泊まっていけって」 何度となくそう言う葉山に陽一は頑なに首を振り、それから夜の空を見上げてぶるりと身体を震わせた。何だかいやに冷える夜だった。 「あ、これ着ていけよ」 葉山はすかさずそう言って、陽一が断る間もなく側にかけてあった自分のジャケットを投げて寄越した。それから玄関越しから呆れたように、「何にもしないって言ってるのに」と、すっかり帰る準備万端な陽一をせせら笑った。 葉山は陽一に何度となくキスをしたが、もうそれ以上の事を強要しようとはしなかった。陽一が恐怖と混乱で自分に対して抵抗できなくなっていると分かっていたからだろうが、ただ当の陽一にとっては、それが本当に自分が動けなくなった理由なのだろうかと疑うところがあった。 陽一は、葉山の自分を見る眼は確かに怖いけれど、嫌いではないと思った。 「またさ。呼ぶから。俺の夕飯、結構うまかったろ?」 はっとして顔を上げると、物思いに耽っていた陽一に、葉山はもういつもの人当たりの良い笑顔で接してきていた。陽一は慌てて頷いた。 「うん…美味しかった」 「だろ」 葉山はようやっと声を出した陽一に嬉しそうに笑ってから、「駅まで送るって言ってもお前は断るだろうな」と独り言のようにつぶやいた。 警戒するなと葉山はしきりに陽一に言った。…が、実は恐る恐る手探りで進んでいるのは、その葉山の方なのかもしれなかった。葉山のそういうところも、陽一は嫌いではないと思った。 やっぱり口には出せずにいたけれど。 「なあ、今度さ」 その時、葉山が既に駅へと向かい始めている陽一に声をかけてきた。 「何」 「………」 「何?」 なかなか声が返ってこないので陽一が再度言葉を出すと、葉山は迷ったような顔を一瞬だけ見せたが、やがて軽快な口調で言った。 「今度さ。携帯の番号教えるから」 「え……」 「今日は教えても、何かかけてくれそうもないし」 「………」 「だからまた今度」 「……うん」 「…へえ。そう言ってくれるんだ」 陽一のその返答に、葉山はほっとしたようになって笑った。陽一は自分はこんな時きっとうまく笑えないだろう事を知っていたから、ただ硬い表情のまま、困ったように俯いた。 「それじゃ、またな」 そんな陽一に、葉山はもう一度笑いかけ、相手の答えを待たずに自分から先にドアを閉めた。会いたいと連呼していた割には、別れは案外あっさりしていると陽一は思ったが、自分にとってはその方がありがたかった。今夜はやはり、葉山の顔をずっと見ていられそうにはなかった。 ただどうしてか。 「………帰ろう」 何故か急に何かをつぶやきたくて、陽一は声を出してからゆっくりと歩き出した。葉山に借りたジャケットを羽織り、それから今日のこの時だけで、また色いろな顔を見せてくれた元同級生を想う。 そうして、陽一は。 駅からここまでの道のりを、きちんと覚えたいと思った。 |