―2―



  時刻は朝の4時を回ったところだった。陽一はごくりと唾をのみ込んだ後、「おはよう…」と言葉を出した。室内は暗い。時間などよく見えたなと思うのだが、その時は葉山の背後にある置時計の光が、いやに煌々と浮かび上がって見えたのだ。
「おはよう」
  挨拶なんてどうでもいいだろうとは、葉山も思っているはずだった。それでも律儀に返答してから、葉山は陽一が手にしている自らのスマホを顎で指し示しつつ、もう一度言った。
「今夜撮った1枚以外は消さないで。お願いだから」
「……いつから撮っていたんだよ…。こういうの」
「日付見れば分かるんじゃない。正確な日時は俺も忘れた。かなり前からだと思うけど」
  貸してと手を出されたので、陽一は引き寄せられるような所作で自らも腕を伸ばし、葉山の手へスマホを返してしまった。
「……はい、消した」
  すると葉山はスイスイとスマホの画面を操作してから、未だベッド下で固まっている陽一にアルバムのフォルダを見せ、例の裸体写真を削除したことを告げた。
「他のも…」
  陽一は何となく納得がいかず、ぐっとカーペットを見つめながら絞り出すように訴えた。
「同じようなのは要らないだろ…。似た感じのやつ、多いし」
「結構消しているよ。その中でイイやつだけ残してんの」
「大体っ…! 何でそんなの、撮るんだよっ。しかも勝手に…!」
  そうだ、酷いじゃないか。
  陽一は率直にそう思った。自分が達しそうになったところをいきなり撮って笑ったことは勿論、これまでもずっと黙って隠し撮りしていたこと。そもそも陽一は自分の姿が好きではないから、写真自体が嫌いだ。恐らく葉山に言わせれば「それが分かっていたから隠し撮った」というところなのだろうが、そんなことは言い訳にもならない。
「冗談じゃ―…」
  しかし陽一は強く葉山を責めることができず、その場で口ごもった。情けないことに、とにかく「1番駄目なやつ」を消してもらえたことに安堵していたし、正直これ以上責めても無駄だろうと分かっていた。だったらもう、この話は長引かせたくない。
  だから陽一は憂鬱を振り払うようにぶるんと一度頭を振り、勢い、傍に落ちていたシャツを拾ってその袖に腕を通した。とにかく一刻も早く服が着たかった。
  するとスマホに目を落としていた葉山がふと顔を上げて口調を変えた。
「シャワー行く?」
「え…? あぁ…」
「一緒に行っていい?」
「嫌だ!」
「何その即拒否。傷つくわー」
「俺の方が傷ついているよ!」
  思わず声を荒げると、葉山は笑っていた顔をすっと真顔に戻し、「やっぱバラさなきゃ良かった」と言いながら陽一にスマホを差し出した。
「…何?」
  陽一がその光景を認めたまま眉をひそめると、葉山はもっと不機嫌な顔で答えた。
「そんなに嫌なら消していいよ。全部」
「なん…で。だって、嫌なんだろ」
「嫌だけど」
「たった今さっき、消したら本気で怒るって」
「言ったね」
「俺が消した途端、本気で怒ってくるわけ? 罠なの、これは?」
「何だよ、信用ねえなぁ」
  まぁ当たり前か…と、再びベッドに倒れ込んだ葉山は、両手を頭の下で組んでからハアと嘆息した。
「俺がヤバい奴だなんてことは、俺自身にだってとっくに分かっているよ。これだって、アホみたいな必死さでお前のこと撮り溜めして、独りの時のオカズにしてる。別に裸じゃなくたって、俺は浅見の顔見ているだけで抜けるんだ。浅見の目とか口とか、動きとかさ…。とにかく全部。お前のこと、想像するだけでイけるの。こんなしょっちゅう見ているのにな、やっぱ病気だよ。俺、絶対浅見より浅見の顔とか身体、見ていると思う。今や外側も内側もかなり詳しいよ。――ドン引いた?」
「……かなり」
  陽一のその正直な返答に葉山は嗤った。
「だよな? だから俺だって今日まで黙っていたわけだし。けど、もしかバレても、浅見が『別にいいよ、恋人の写真くらい普通に撮るだろ』って反応してくれたら、俺は異常じゃないって確かめられるし、これからは公然とお前のこと撮れるかもしれないと思ったし。だからコレ、さっきはそこに放置して寝たふりしたの。浅見の反応が見たかったから」
  ペラペラとまくし立てるように喋る葉山に混乱しながら、陽一も必死に舌を動かした。
「だ…ったら別に、これまでのだけ普通に見せればいいだろ!? あんな…っ。とりあえず今夜の、あ、あれは、どう考えても最悪じゃないか!」
「まぁそうかもしれないけど」
「かも!? 確実にそうだよ! なのに、『けど』って何だよ!?」
「やっぱり、俺が1番欲しいのは今日みたいなやつだからさ。どうせバラすならレベルマックスから挑んでみようかなって。イチかバチかってやつだな。これって破滅思考に近いのかね? いや、けど…どうせ駄目だとは分かっていたわけだから、やっぱそれも違うかなぁ…。とすると、うん、単純に欲望に負けただけなのかも?」
「……葉山」
  茶化した口調ながら、そのどれもが葉山の本音と分かっていたから、陽一もすっかり脱力してしまった。返す言葉が見つからない。腹の中では、呆れているし、怒りたいし、何よりとてつもなく恥ずかしいし。いろいろな感情がない交ぜになって、だからこそ処理が追い付かない。いつも葉山はこうして自分をかき乱す。何がレベルマックスだと、愚痴の一つも零したくなる。
  ――が、そこで陽一はふと思う。もし今日の写真がなくて、あのアルバムのものだけだったら、それはレベル1とか2とかの問題なのだろうか?と。今日の写真がなくとも、あれだけの「アルバム」を見せられれば、どちらにしても葉山が言う「ドン引いた」態度を自分は取ったであろうし、どう転んでも、やはり写真を勝手に撮るな、こんな風に沢山残すのもやめてくれと言ったのではないか、と。
  そして結局、そういう陽一を葉山の方もとうに見越していて、だからこそのこの「嫌がらせ」なのかも、と。
  だからと言ってそんな恋人を「可哀想」などとは、さすがの陽一も思わないが。
「で、俺は絶望の真っ最中」
「え?」
  不意に声を出した葉山に陽一がハッと我に返ると、とうにこちらを見ている目とぶつかった。
「分かってはいたことだけど、一縷の望みは断ち切られて、やっぱり浅見は思いきり引いているし、別に裸じゃない写真も全部消したがっているし。だから絶望している最中ってこと」
「………別に全部消せとは言ってないだろ」
「じゃあいいの? これは残しておいても?」
「いい……けど」
「けど?」
「ちょっと多いから、もう少し減らして欲しい」
  精一杯の妥協点で陽一がそう言うと、葉山は暗闇の室内でじっとした視線を送りながら実に平坦な声で「俺には選べないから浅見が選んで」と言った。
「俺っ?」
「だって俺にはどれもベストショットだから。通常なら、こんなイイ写真はSNSに上げて仲間に共有しまくっているね」
「ちょっと葉山!?」
  ぎょっとして陽一が身体を揺らしながら声を荒げると、葉山はそれ以上の声で「してねーよ!」とすぐさま返した。
「通常ならって言っているだろ? フツーはしているだろうけど、俺たちの関係はフツーじゃないもんな? お前はそんなだし。だからやってねェけど、本当はやりたいって話だよ。まったく、世間のフツーの奴らはいいよな。どいつこいつも、浅見と比べもんにならねえブス撮って、これオレの彼女、アタシの彼氏とかって、こともあろうにそれを世界に拡散してんだぜ? すげえおぞましいよ、はっきり言って」
「……葉山って時々辛辣だよな」
  陽一の困ったような反応に、葉山はいよいよムキになって目を剥いた。
「どこが!? 俺なんてフツーのフツーだよ! 大体、そいつらは他人に見せたくて外にアップしてんだから、ドブスだろうが不細工だろうが、言われるの覚悟でやっていることだろ。それを、率直な感想言っただけでケチつけられてもこっちが困るぜ。けどさ、俺は所詮、そいつらに嫉妬しているわけだ。クソ羨ましいんだ。堂々と彼氏彼女自慢をしている連中がさ。ホントに。むかつくほど羨ましい」
「……世の中に堂々と交際を言えるから?」
  ちょうど葉山のアパートへ来る道すがら、自分たちの将来もとい、「この先のこと」に想いを馳せていた陽一は、微かに感じる胸の痛みにそっと手を当てた。
  葉山はそれに気づかずに続ける。
「そんなもんは些細なことだ。勿論、それも羨ましいのかもしれないけどな。違う、俺が一番羨ましいのは、そいつらはちゃんと互いに許し合った上で相手を撮っているってこと。俺みたいにコソコソ隠し撮ったりしてねえよ。どっちも撮りたい、撮られたいって関係でそういう写真が存在しているってことが羨ましいんだよ!」
  最後は熱が入ったのか、葉山の声はとても力が込められていた。陽一はそれに「怖い」というより、その時は何だか「唖然」としてしまった。そしてその後は、「じゃあ、写真を撮らせない、撮られたがらない俺が悪いって話なのかコレは?」と思ったり、「葉山は自分を異常って言ったり、普通って言ったり、結局どっちなんだよ?」と腹立たしく感じたりもした。
「……とりあえず。一人で考えたいから、シャワー行ってくる」
  これは一度リセットせねばなるまい。そう思って、陽一は本当に「とりあえず」葉山のスマホを押し戻すと、シャツを羽織ったままの格好で立ち上がった。本当は剥き出しの下半身を葉山の前に晒すのは抵抗があったが、正直、着替えを漁るよりも早く浴室へ行きたい気持ちが強かった。
  それなのに葉山は「何でそんなエロい格好見せるの…」と文句を言った。
「はぁ…?」
「いっそのこと全裸で行ってもらった方がすっきりするよ。浅見エロ過ぎる。絶対俺のこと煽っているし」
「何言ってんだよ!? もう訳分かんないよ、行くよ、俺…!?」
  しかし怒った瞬間、向こうがまたパシャリとスマホを向けて撮影するものだから、陽一は仰天して「葉山!?」と叫んでしまった。
  ただこれには葉山も「違う!」と素っ頓狂な声を上げて片手を振った。
「下は撮ってない、浅見の怒り顔とかレア過ぎて! しかも正面から撮れるなんてめったにないから、本能が逆らえなかっただけ!」
「意味分からないよ、今すぐ消せよ!」
「見ろよ、ほら! 上半身だけだろ、こんなイイの、めったに撮れない」
「嫌だよっ!」
  慌てて取りあげようとするもそれを阻まれて、陽一は意図せず再びベッドへ向かい、自然、葉山へ覆いかぶさるような格好を取ってしまった。拍子、葉山に両腕で抱きしめられる。しかもそれを抗議しながら退こうとしても、それによって余計に拘束は強まり、背中に回された腕に力を込められた。
「ちょっと、葉山!」
「浅見! なぁ浅見、聞けって! 好きだよ」
  窘めるように、陽一は葉山の右手で髪をまさぐられた。それから顔を寄せてきた葉山に頬をキスされる。陽一は何とか顔をあげてそんな葉山を正面に見据えようとしたが、抱きしめられた格好で思うように顔を動かせず、その後もいいように頬や耳元に唇を寄せられた。
  そして葉山は囁くように、しかしいやに早い口調で言い切った。
「一緒に暮らしてくれるなら写真は全部消すし、もう撮らない」
「えっ…?」
  逆らう身体をぴたりと止めて葉山を見据えると、目の前の恋人は真面目な顔で、今度はいやにゆっくりとした調子で告げた。
「俺の仕事が決まったら一緒に暮らそう? 浅見の大学の近くに越してもいい。浅見はあと一年大学あるだろ」
「そうだけど…って、ちょ…!」
  すかさず起き上がった葉山は態勢をくるりと変えると、あっという間に陽一を下に、自分が上になって爛々とした目を落とし、繰り返した。
「頼むよ。俺と一緒に暮らして? 写真を撮るのは離れている時間が多いからだ。けど、これからいつも浅見が傍にいてくれるって言うなら必要ない。約束してくれるなら、今この時点で今撮ったものは勿論、これまでの物も全部消す。浅見を信用しているから、今ここで口約束してくれるだけでいい」
「……でも」
「そういうのは要らない。言って、浅見」
  まるで脅迫のように、葉山は迫りながら繰り返した。
「『いいよ』って言って。今すぐ」
「……っ」
  戸惑う間に、そう迫る声が、顔が、どんどんと近づいてきて、最終的にその声の元は陽一の唇へ到達し、深く重なった。言わせようとしているはずなのに、塞ぐ。いつだって葉山の行動は矛盾していた。
「……陽一」
  けれど本当に大切だという風に葉山はその名を呼び、それから再び唇を重ね、重ねては離しを繰り返した。そしてそれを何度も優しく繰り返した後、葉山は遠慮がちに陽一の上唇を食んだ。
「ふっ…」
  陽一は全身を熱くして葉山からの口づけを受けながら、「どうしよう」と思った。
  否、答えはすでに出ている。ただ了承しろと葉山は言うけれど、こんな状況で簡単に返事できることではない。葉山と暮らしたくないわけではなく、いずれはという気持ちは陽一自身の中にも確かにあった。けれど、姉の光に言われるまでもなく、陽一はそれを「今すぐにでも」とは考えていない。それはやはり最近の葉山が強引過ぎることもあるし、今後の自分の進路が定まっていないことも大きかった。
「――ごめん。今は約束できない」
  だから陽一は正直に答えた。葉山は怒るかなと思ったが、信じると言われているのに、この場をごまかすようなことは言えない。そもそも葉山に適当な態度はとれないし、とりたくなかった。
「……浅見ってバカだな。嘘でもとりあえずいいよって言えば、写真を消せるのに」
  ふっと重しが取れたようになり、陽一がハッとして目を開けると、葉山が身体を逸らしてベッドの端に腰かけ、陽一を解放していた。均整の取れた背中が薄闇にくっきりと見えて、陽一は柄にもなくギクリとした。男らしいその背中なのに、それに反してどこか泣きそうに弱く見えたせいかもしれない。
「あ、あのさ…。就職のことだけど…」
  今このタイミングで訊いて良いことだろうか。それでも思い立ったらいてもたってもいられず、陽一は上体を起こすと急いた気持ちで口を切った。
「これ前にも訊いたけど…。でもやっぱりまだ引っかかっているんだ。だから今日やっぱりもう一度訊きたくて。俺、どうして葉山が急に進路変えて就職って言ったのか、何か心配で」
「…それ? 今日来た時に話したいって言ったことって」
「え? ああ…うん…まぁ…」
  もごもごと肯定する陽一に対し、葉山は自分が先に着替えを始めると、背を向けた状態のまま淡々と答えた。
「前と言うこと変わらないけど。進学より、就職した方が早くあの親から離れられるし、浅見にも見直してもらえると思って」
「そっ…。俺、そういうのも、何か気になって! 俺、別に葉山が進学でも就職でも見直すとか見直さないとか関係ないし」
「関係ないの?」
「ないよ! スーツが似合う男がどうとかも…前から意味分かんないと思っていたし!」
  陽一が強く言うのに、葉山はシャツのボタンを留めながらそれを軽く笑い飛ばした。
「意味は分かるだろ。浅見、あの教会にいたスーツの男を見てカッコイイって呟いていたんだから。あれが好みなのかって、俺、何回も訊いただろ」
「その度に違うって言ったよ、俺だって! とにかく、葉山だって本当はまだ大学でやりたいことあったはずだろ? それを上回るほどやりたい仕事ができたって言うならともかく、見た感じそんな風でもないし。何ていうか、手当たり次第履歴書出している感じで」
「実際そうだけど」
「そんなの…っ。そういうの、勿体ないって言うか…!」
「勿体ない? 何が?」
  お前の話ってよく分かんねーよと吐き捨て、葉山は今や自分だけが元の服装、元の状態に戻った形でベッドに片手をつき、焦った風の陽一にずいと顔を近づけ、怒りのこもった声を向けた。
「俺の何を分かっていて、お前は俺のやっていることに駄目出しするの? 俺の就活に反対だったの? これまでも何かごちゃごちゃ言ってはいたけど、そんなに反対って風でもなかったよな?」
「そりゃっ…。だって、それは、葉山の将来のことだし」
「俺の将来だから、お前には関係ないってことで傍観していたってこと? それはそれでひでぇけど、だったら今は何で口出ししてきてんの? 俺が急に一緒に暮らそうとか言ったから、仕事持たれて自活でもされたら、こうやって同棲迫られんのか、やべーって思って反対してきた? そんなにイヤなんだ、俺と暮らすの?」
「そうじゃないよ、そうじゃなくて…」
「だったら何で、すぐにいいって言ってくれないんだよ!?」
  間近で怒鳴られたので陽一はビクンとして押し黙った。すると目前の葉山はそんな陽一の表情に途端怯んだような様子を見せたが、すぐに確かめるような所作で陽一の頬をざらりと撫でた。
  そうして逃げるなとでも言わんばかりの眼を向けたまま、陽一へ噛むように口づける。
「…っ…」
  実際陽一はそれを痛いと感じた。それでもそのキスはすぐに止まず、何度も角度を変えては重ねられ、舌も差し入れられ口腔内を蹂躙された。しつこい。そんな単語がさっと脳裏を過るほど、それはとても粘着質なキスだったが、一方で陽一はその「痛い」という感覚が自分ではなく、実は葉山のものなのではないかという妙な感覚に囚われて、どうにも強く逆らうことができなかった。
「何でおとなしくキスさせるの」
  それが分かったのか、長い口づけの後、唇を離した葉山がいじけたようにそう言った。陽一はここで自分が自分の濡れた口を拭いたら葉山はまた傷つくだろうかなどと考え、重い片手を敢えて葉山の頬へ向け、先刻自分がされたのと同じような感じで撫でてやった。
「……そうやって優しくしてもいいことないよ」
  大人しくされるがままのくせに、葉山はぽつりとそう言った。しかし陽一がその回答にむっとして手を浮かしかけると、それを良しとしない葉山は咄嗟に陽一の手首を掴み、再び自分の方へもっていった。内心、陽一は呆れてしまったのだが、それを許容していると案の定、葉山はすっかりおとなしくなって、「ごめん」と謝ってきた。一応、急に怒鳴ったことを言っているのかと確かめると、葉山は全く悪びれずに「いや」と返し、ぞんざいに続けた。
「とりあえず謝っておかないと浅見に嫌われると思って。今の一連の流れ自体を俺が悪いとは思っていないと思う。本当に単純に、浅見に嫌われたくないから、反省したフリしているだけ…と、思う。多分ね」
「…それ言っちゃったら、折角謝ってみても台無しじゃない?」
  思わず陽一が突っ込むと、葉山はここで初めて表情を和らげた。
「うん。そうだよな。そこも黙ってなきゃ駄目だよな、謝るんなら。浅見の前だとつい本音が出まくっちまう。最近、特に酷いな」
  陽一は葉山のその台詞に心内で「えっ」と驚いた。自覚があったのかと咄嗟に思ったし、同時に、やはり最近の葉山が「変わった」と感じていたのは、やはり別段、彼の変化などではなく、元々の性格が長い付き合いによってより鮮明に出てきただけなのだと、ストンと納得いった。
  しかし、それならそれで、もっと全部出しきってしまえばいいのにとも思う。
「え? 何か言った?」
「え…ああ、いや…」
  不満が顔に出たのだろうか。声には出していないはずだが葉山にそう問われて、陽一は少し迷った末、自分も言わないのはフェアではないだろうと思い直した。何にしろ、互いを出すというのは「今後」を考えたら、やはりどうしたって必要なことなのだからと。
「しつこいと思うだろうけど、言うよ…。確かに最近の葉山って、結構自分を見せているというか、あけすけなところも増えたけど…、就職のことは違うだろ? やっぱりそこは自分殺して妥協していると思うし、でもそれは俺に言わないし、とにかく心配なんだ。葉山って肝心なところは隠している。……親のことも」
  親のことまで持ち出す気はなかったが、つい口が滑った。けれど焦る陽一と並行して、これには葉山も驚いたようで、そのお陰か、却って怒るとか気分を害する方向へは行きづらくなったらしい。
  暫しの間があった後、葉山は穏やかな口調で言った。
「そうかもな。確かに、出さなきゃいいところを出して、出さなきゃいけないところを引っ込めている。バカだわ。けどそれもこれも、やっぱり全ては浅見に嫌われたくないからに尽きるんだよ」
  言いながら葉山は陽一の手を何気なく取り、ごく自然な動きでその甲にキスをした。陽一はその気障な所作に思わず赤面してしまったが、葉山が怒っていないのは好機と思い、自らも先を続けた。
「嫌うとかそういうの……本当に、ないから。だから、進路のこと、もう一度よく考えて欲しい」
「………」
「どうしても駄目?」
「……いや」
  葉山は顔を上げてさっぱりと答えると、「分かったよ」と素直に了承した。陽一がそれであからさまほっとすると、葉山も泣き笑いのような表情を浮かべて、浅見は本当にお人よしだなと、陽一に言うでもなく呟いた。
  その後、シャワーを浴びて、2人で早すぎる朝食をとって、今日一日のスケジュールを互いに確認し合った。陽一はこの日も大学等特に予定はなかったが、何かを推しはかったかのように昨晩から姉が立て続けにメールを寄越しており、自分の買い物に付き合ってもらいたいから今日は午前中のうちに帰ってこいと言われていることを告げ、葉山は大学の研究室へ行って担当教授と話をしてくると言った。
  天気予報を見る為にテレビをつけたが、陽一はこうして2人、テーブルを挟んで向かい合い、穏やかに食事をし、何となく聞こえてくる自分たち以外の声―テレビアナウンサーの快活なそれ―を耳にしながら、これまた何ということもなくそこから漏れた言葉を拾って会話する自分たちのことを、「何だかいいな」と感じた。「恋人」というのはやはりどこか照れくさいし、世間の常識がちらついた時にはやっぱり葉山が望むようなオープンな関係をすんなりとは受け入れられないけれど、こうして一緒に過ごすのは居心地が良いな、と。葉山が一緒に暮らそうと言ってくれたことも前向きに考えていいかもしれない、姉は猛反対するだろうけれど…そんな風にも思うことができた。
「皿はいいよ、洗わなくて。俺が帰ってから片づけるから」
  朝食を済ませた後、空いた皿やコップをキッチンへ運ぶ陽一に葉山はそう声をかけた。メニュー自体が葉山の家にあったトーストを焼き、後は卵とプチトマトをつまんだくらいの簡単なものだったから、洗う枚数は然程ない。だから陽一は「これくらいやるよ」と言ったのだが、葉山は頑として「そういうのは俺がやるから」と譲らなかった。
「じゃあ…ありがとう」
  普段から陽一が来た時にこの部屋で手伝えることはあまりない。夕飯を中で食べる時もほとんど葉山が作って陽一は運ぶだけだし、風呂掃除だの部屋の片づけだのも、大抵葉山がやってしまっていて陽一はお客さんのようにもてなされるのが常だ。一緒に住んだら、そういうことは分担になるのだろうかとぼんやり思いながら、陽一は葉山がやっているように、自分も帰り支度をしようとカバンのある方へ向かった。
  けれど部屋の隅に置いてあるそれに手を伸ばそうとした時、不意に葉山が「ねえ浅見」と至近距離で話しかけてきたものだから、陽一は思い切り意表をつかれてびくっと肩を揺らしてしまった。
「び…っくりした…」
  何だよと言って振り返ったすぐ後、陽一はバンと壁に身体を押し当てられるような格好でその場に閉じ込められた。葉山が両腕を壁についてその場にいた陽一を挟みこむように覆ってしまったからだが、その様子が先ほどのゆったりとした空気とはまるで違うものだから、陽一はただ驚いて言葉を失った。
  それでも葉山がその恰好を取ったまま、そして自分を呼んだまま黙りこむものだから、陽一は必死に息を整え、狭い空間から声を絞り出した。
「何…? どうしたの?」
「………」
  けれど葉山はすぐに答えない。急に不安な気持ちがせり上がり、陽一はその場から脱出しようと葉山の腕に手をかけた。
  しかしそれは堅牢な鉄格子のようにびくともしない。
「葉山……怖いよ」
  だから陽一は正直にそう言った。こちらを見ているようで見ていないような昏い瞳も不安を煽るし、何より何も言ってくれないのが分からない。そもそも自分から呼んでおいて何なんだといろいろな不満も頭をもたげる。
  それでも「怖い」という恐怖が先に立って、陽一はその一言の後は言葉が続かなかった。
「やっぱり帰したくないな……」
  一体どれくらいの間があったのか。葉山はぽつりとそう言って陽一に口づけた。その動きはスローモーションのようにゆっくりなものだったので、陽一も幾ら壁に縫い付けられている状態でも顔を背ければ避けることはできた。
「ん…」
  けれどそれを許さないような雰囲気が葉山にはあった。実際、一度重ねられたキスは途端性急に、そして勢いを増して繰り返され、陽一が何度その合間に葉山を呼ぼうとしても強く封じられ、好き勝手に唇を犯された。
「はあっ…」
  終わった時にはやっと息を吐けてほっとした。そしてその頃にはまた早朝の時と同様唇が濡れていたのだが、今度はそれを「拭いたい」と陽一は思った。葉山に悪いとかそういう気持ちよりも、急に迫られて「怖い」、帰したくないと言われて「怖い」、きつく口を吸われて「痛い」と思ったのだ。またあの時と同じ「痛い」だったが、今度ははっきり陽一自身が痛いと思った。ただ本能がそう思った。
  けれどもそうした感情の先にあった怒りと共に陽一が口に手を持っていこうとした瞬間、目前を覆っていた影は遠のき、窮屈に思えていた周囲の空気もふわりと晴れた。葉山が不意に距離を取って表情を変え、「冗談だよ」と言ったからだ。
「葉山…?」
  とてもそうとは思えず、警戒したように陽一は問いかけたが、葉山はもう口元に笑みさえ湛えて「ごめん、ただの我がままだし、言ってみただけ」と繰り返した。
「またすぐ会えるだろ? 連絡する」
「うん…。けど葉山―…」
「ごめん、先に出て。駅まで一緒に行こうと思ったけど、やめとく。また離れられなくなったら困るでしょ?」
  今やすっかり明るい雰囲気を漂わせて葉山はそう言った。陽一はどうしようと思いながらも「分かった」と何とか応え、本当に一人だけで部屋を出た。葉山は部屋の奥にいるのか、振り返っても玄関まで見送りに出て来ることはなかった。
  ドアを開けると、まだ早朝ながら明るい陽射しが直でやってきて、陽一は目を細めた。別世界だ。否、先刻までは葉山との穏やかな朝食風景でもこれと似た温かい空気を感じることができた。それなのに、ふと一瞬で。何かのスイッチで、葉山の周りには靄ができる。そしてそれに巻き込まれると陽一もそれを振り払えない。それはとてつもない不安感だ。
  折角、少しはお互いの気持ちを話せたと思っていたのに。
  陽一は一つため息をついて、やっぱり同棲のことをすぐに了承すれば良かったのかなと肩を落とした。
「あ……」
  それでも何となくもう一度と振り返った先、いつの間にか葉山が外に出てきていて、2階の手摺越し、こちらを眺めている姿が目に入った。陽一がそれに驚いて足を止めると、葉山は少しだけ決まりの悪そうな顔を見せながら片手をひらりと振り、「ごめん」と口元だけで謝った。陽一はそれに慌てて首を振った。それから、「また連絡する」と口を動かしてから同じように手を振った。戻っても何を話して良いか分からないし、葉山もそのつもりはないだろう。だから戻りはしない、でも良かった、気まずいままの別れでなくて。何とかそう納得して、陽一はどこかドキドキした気持ちで踵を返し、再び駅へ向けて今度は速足で歩き始めた。葉山はまた自分の歩く速度を計算して、家に帰りつく時間を計算したりするのだろうか…。そんなことを考えながら、陽一はとにかく、帰宅したら葉山に着いた旨のメールをしよう、それはした方が良いなと強く思った。




―完―