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  すでにランチのピークは過ぎているのに、指定されたカフェは多くの女性客で賑わっていた。ここはスイーツの美味しい店として割に有名らしい。が、葉山はすぐに陽一を見つけられた。本来、こういう女子向けの場所は無駄な視線を浴びることが多いから嫌なのだが、陽一の顔を見たら、そんなネガティブ思考はあっという間に消え去った。
「葉山」
  陽一も葉山に気づいて手を挙げた。それに頷きで返し、思わず笑みを零す。とても今朝がた別れたばかりとは思えない、もう何年も姿を見ていなかったかのように葉山の胸は締め付けられた。陽一と会えて嬉しい。こうなると葉山にとって周りの雑音など何ほどのこともない。
「姉さんが急に呼び出してごめん。大丈夫だった?」
「なにそれ。私は葉山が嬉しいだろうと思って呼んであげたのに。ねえ?」
「どうも」
  2人は店内奥、窓際の4人席に向かい合って座っていた。空席それぞれにはすでにあちこちで買い物したのだろう、光の「戦利品」がたくさん置かれていたが、陽一が自分の隣にあったその紙袋をさっと取って脇へ置いてくれたので、葉山はその通路側の椅子に腰かけた。本当は陽一の隣ではなく、その姿がよく見える向かい側に座りたかったのが、無論、この女王様然とした光の前でそんな我がままは通用しない。
「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます」
  葉山が席につくとすぐに、洒落た黒のペプラムエプロンを着た店員が注文を取りにきた。陽一は葉山にメニューを渡したが、光が「ここのお勧めは石窯焼きのホットケーキとキャラメルフロスティ」などと言うから、それだけで胸焼けがしてしまい、ついブレンドと即答してしまった。頭では「素直に言うことを聞いておく方が得だ」という命令が飛んでいたのだが、本当に食欲がなかったし、そもそもここへは陽一に会う為だけに来た。葉山としては陽一が食べているところを見られるだけで十分だった。
「葉山、こういう甘いもの、好きじゃないもんな。違う店で待っていれば良かったのに、ごめん」
  再会してから2回目。陽一がまた謝った。そんな恋人をまじまじと見やり、葉山はふと、陽一の格好に気が向いた。朝方別れた時とは服装が違う。光に呼び戻されて一度自宅へ帰ったのだろうから、着替えをしていても何ら不思議はないのだが、明らかいつもと雰囲気が異なる。服装だけではない、髪型も。
  それで謝られたことはとりあえず脇に置き、「何か…」と口ごもった。
「え?」
「いや…そういうカッコ、するんだ」
「え、変!?」
  葉山のぽっと出た感想に陽一は焦って胸元を掴み、自身の格好を見るべく俯いた。白シャツとグラデ―ションのVネックニットという組み合わせは、そこらの大学生の定番というか、一見何の変哲もない格好である。しかしそこにテーラードジャケットを羽織ってモノトーンで統一させているから、普段と差が出て見えるのだ。ほんの少し色合いを意識して、着る物を一つ変えるだけでここまで変わる。いつもの陽一ならTシャツにパーカーの重ね着とか、ポロシャツにジーパンというスタイルで、どちらかというと地味だし、華やかさに欠けるのに。髪型とてそうだ。今日も、別段ワックスを使っているわけでもなく、自然に流しているだけなのに、間違いなく「一緒に連れ歩くにあたり、お姉様がセットしました」というのが分かるくらいには上品に整えられている。それだけで見た目が格段に違う。葉山としては陽一の服装や髪型など無難で冴えないことこそ何より、下手に着飾られても困るという気持ちがあったから複雑だ。「あぁやっぱりな、こいつは磨けば光るんだ」というどこか誇らしい気持ちと、「目立たせたくないのに、余計なことしやがって」という気持ち。その両極端が胸の中で蠢く。
「葉山。見過ぎ」
  光から呆れたように声を投げかけられて、葉山はハッと瞬きした。見ると目の前の陽一が酷く居心地悪そうに視線をあちこち飛ばしている。一体どれくらいそうしていたかは不明だが、葉山はテーブルではなく、隣のいる陽一に身体を向けてその姿を凝視していたらしい。見られ過ぎて照れたのか焦ったのかは分からないが、陽一の耳は仄かに赤くなっていた。
  可愛いなと思った。
「だから見過ぎだって言うの」
  光が再度声をかけた。嫌だな、そっちを向きたくない。そう思ったが、2回言われてさすがに葉山も身体の向きを変えた。葉山から見て左斜めの席に座す光は、相変わらず居丈高な雰囲気があり、また美しい女の「オーラ」があった。上から目線で腕を組み、鋭く葉山を見やっている様も、悔しいながら迫力がある。久しぶりに会ったが、改めてこの人は本当に陽一と血の繋がったきょうだいなのだろうかと疑わしく思う。見るからに派手で、ゴージャスで、そして全身から自信というものが満ち溢れている。そう、この人は自分を信じきっていて、まるで疑うことを知らない。「だから苦手」なのだと葉山は思うわけだが、愛しい恋人の姉である以上、そのことを悟られるわけにもいかない
「陽一好き好き光線、出過ぎ」
  その光は特に声を潜めるでもなく、いつものトーンでそう言った。これに焦ったのは陽一の方で、葉山が何かリアクションをする前に「姉さん、何言ってるんだよ!」と立ち上がらんほどの勢いですかさず諫めてきたが、姉の方は全く悪びれる風もない。葉山がちらりと視線を送ると、隣のそんな無力全開な恋人は、今度は確実に赤面していた。あぁやっぱり可愛いと、また思ってしまった。
  だからもう別に隠さなくても良いのかなという気になった。何故って、この人が「こんな態度」なのだし、と。
「好き光線、出過ぎていたら悪いですか」
「葉山!?」
  陽一は2人の反応に翻弄されっぱなしだ。少し可哀想かとも思ったが、仕方がないとすぐに振り払う。お前はこういう人間(達)に捕まる性なんだよと、酷な、そしていつもの「虐めたいモード」をこっそり発動させて心の中だけで苦笑する。
「悪いわよ。何かむかつくもの」
  そして光も問答無用に話を進める。
「まぁ、あんたがガン見しちゃうのも分からないでもないけどね。我が弟ながら、今日のこのカッコは可愛いもの。そしてフツーに、中味も可愛い。従順に荷物持ちもするし、連れ歩くのに最適」
「ちょっと姉さん!」
「煩い。それに、私が偶にこういう格好させてあげると分かるよね。普段は地味で冴えないけど、やっぱり基本は私と同じパーツ持っているだけあって、ちょっと手間かけるだけでこんなになれちゃうのよ。大学もこういう感じで行けばいいのにね。モテるわよー、この子。ちょっと根暗だけど」
「だから姉さん、もういいって!」
「……そうですね」
  何故かは分からないが、光が挑発してきているということは、葉山にもすぐ分かった。実際葉山は光のたったそれだけの煽り文句ですでに落ち着きがなくなったし、胃の底がグラグラと煮えたった。想像するだけで不快だったから。光に着飾られるまま、今日のような格好をして大学へ行く陽一。それにより、これまでずっと目立たなかった男子学生の変化に驚きの声をあげる周囲の反応、それに乗じて無駄に群がってくるであろう、自分のような図々しい何者かの存在。
  それを思い浮かべるだけで――。
「お待たせ致しました」
  思考が黒く塗り潰されそうになる直前、店員がコーヒーを運んでくる声で我に返った。途端、全く気にならなかったはずの店内の喧騒が耳に入ってきて驚く。と同時に、いつもの慣れ切った、しかし鬱陶しくて堪らない好奇の視線も感じてしまい、一気に身体が冷えてきた。努めてカップの中の液体を見ることで気を紛らわそうとしたが、見られていることを感じるほどに、気分が落ちていくのを止められない。
「とは言え、こういう所で注目されるのは、やっぱりあんたみたいなタイプなのよね」
  光も気づいて指摘してきた。最早「気に入られておかなくては」などという打算は完全に消え失せ、葉山は露骨に眉をひそめて見せたのだが、目前の女性には全く効果がなかった。やはり間違いなく、葉山と同じか、もしくはそれ以上に、この強気な恋人の姉も実は虫の居所が悪いようだった。
「入ってきた途端だもんねぇ。『ナニあの人、カッコイイ〜! モデル!?』みたいな周囲のリアクション。『えーやだー、何か厚化粧の年増がいる席に行っちゃった〜、まさかあれが彼女じゃないよね〜!? 嘘〜!?』みたいな?」
「誰もそんなこと言ってないだろ…。何言ってんだよ、さっきから」
  陽一が深いため息と共にぼそりと反論した。辛うじて文句は言えても、先ほど「煩い」と叱られただけで、もう大きな抵抗はできないらしい。「そんな弱い浅見も可愛い」などと思ってしまうから葉山は末期なのだが、精一杯逆らって見せたところで、陽一がこの姉を慕っているのは知っているし、実際2人の間に流れる空気をこうして直接感じると、その事実を再認識する羽目になり、落ち込む。
「確かに年増というキーワードは我ながら自虐過ぎたけど、そんな空気を感じたのよ」
  そんな葉山をよそに光は続けた。
「陽一だってよく言っているじゃない、葉山と一緒に歩いていると必ず女の子達が葉山を振り返ったり、声かけたりしてくるって」
「そ、そりゃ言ってるけどっ」
「そういう話してるの?」
「え」
  葉山が思わず聞き返すと、陽一はびくんと肩を揺らして仰け反るように身体を退いた。別に責めるつもりで訊いたわけでもないのにと葉山は率直に傷ついたが、もしかすると後ろめたいから逃げたのかと思うとさらに聞かずにはおれなかった。
「俺と一緒に歩いていると女が寄ってきて嫌だって話してるの? 光さんに」
「そんな、嫌だなんて言ってないよ!? ただ、事実を言っているだけというか…」
「そうよ。むしろそれで、『だから葉山はスゴイ』、『あれだけカッコイイんだから当たり前だけど』って毎度デレる方向へ飛ぶんだから、妙な誤解しないでよね」
「姉さん!」
  陽一の困ったような呼びかけに光は無視して、改めて葉山を見やった。
「そう、いっつも葉山のこと聞くと、この子ってあんたを誉めることしかしないのよ。葉山はスゴイとかカッコイイとかさ、そればっかり。語彙貧困かっつーの。あー、やだやだ、腹立つ。でも、そんな完璧人間なんて胡散臭くて仕方ないじゃない? この子、基本的に世間ズレしていて人を見る目ゼロだし。だから、偶にこうやって私が直接あんたのこと見ておかないとと思って、それでここへ呼ぼうって言ったのよ。可愛い弟が疲れた顔で帰ってきたら、そりゃ心配もするしね。何でかこの子、今日は葉山呼ぶの駄目だからやめろやめろって煩かったんだけど」
  光の不機嫌な理由はやはりそれだったか。ちらとだけ思ったが、敢えて葉山はそこには知らないふりをした。それより気になることがある。
「無理にって、浅見が呼んでくれたんじゃないの」
  葉山の単調な物言いに陽一はまた無駄にびくついていた。ぴょこんと跳ねた身体は見るからに弱々しい兎のようだ。
「だって今日は大学行くって言っていただろ? 葉山は忙しいと思ったし、実際今って進路考える大事な時だし…。こんな姉さんの訳分からない言い分で無理やり来てもらうなんて悪過ぎだと思ったんだよ。それに、何でか知らないけど、この人変に機嫌悪いし、会っていきなりこの最悪な態度はないよな、本当にごめん! 気にしなくていいから!」
「……あんた後で覚えてなさいよ」
「知らないよ! 姉さんが悪いんだろ!」
「浅見、俺、全然大丈夫だよ。浅見に会えて嬉しいし」
「えっ」
  すかさず言った葉山の言葉に陽一はぴたりと動きを止めた。やっと自分を真っ直ぐに見てくれたと思い、葉山はそれだけで心が落ち着いた。
「今日別れたばっかりで、また当分会えないのかなとか思っていたし…。でも俺は会いたくて、連絡しようかどうしようかって迷っていたから。だから誘ってもらえて嬉しかった。本当は浅見からのメールが欲しかったけど」
「えっ…いや…その…」
「顔近過ぎ。そしてまた見過ぎ」
  光のむすっとした口調にも、今度は葉山も腹が立たなかった。目線は相変わらず陽一を見つめたままだったが、「光さん」と呼んでやっと明るい声で言えた。
「今日、ここへ呼んでくれてありがとうございます。こんな可愛い浅見も見せてもらえたし、ラッキーだった。感謝しないとね」
「……そうでしょ。そう言われると思った」
「でも、しょっちゅうこういう格好はさせないで下さい。大学行く時なんかは特に。俺が心配でしょーがなくなるから」
「……そう言われることも想定済みだから安心して」
  光の返答にはかなりの間があったが、回答自体は葉山も満足のいくものだったから思わず笑みが漏れた。それからすかさず携帯を取り出し、陽一にも笑いかける。
「とりあえず、撮っていい?」
「えっ、何言って――」
「この浅見とパンケーキなんて、インスタ映えとか通り越してやば過ぎる」
  茶化して言えば逆に撮らせてもらいやすくなるかと努めて軽く言ってみたのだが、折角のそうした柔らかな空気もすぐにかき消えた。光が狙ったかのように容赦なく、さっと割ってきたからだ。
「そんな可愛過ぎる陽一と早く一緒に暮らしたいから就職するの?」
  その声はピンと張り詰めていた。何だ、それが最も確認したかったことなのかと葉山は得心したのだが、視線の先の光は厳しい顔をしていた。やっぱりこの人は嫌いだと思う。今まで散々陽一を独り占めしてきたくせに、これからもそうであろうとしている。自分の一番の敵だ。
「浅見の負担にならないように、浅見の大学の近くで部屋探すつもりです」
「まだどこの会社に入れるかも決まってないのに?」
「東京以外の勤務地になる可能性が少しでもある所は受けないですし。都内なら多少遠くても俺は構わないんで」
「じゃあ陽一との同棲の為に進学やめて就職するって本当なんだ」
「はい」
  この即答には陽一がぎょっとして異を唱えた。
「葉山!? でも進路については考え直すんだよな? 今朝そう言っただろ、今日だって大学行って先生と話してくるって――」
「大学には行ってない」
「えっ…何で…」
「急に知り合いに呼ばれたから」
「そんな、でも」
「先生には近いうち会いに行くし、一応今後のこと相談しようとは思っているよ、それはホント。けど、現時点では就職する気持ちの方が強いってのは変わらない。――卒業したら浅見と一緒に暮らしたいって気持ちも」
  陽一は絶句したように葉山のことをただ見つめた。葉山はそんな恋人を自らも見返しながら、やっぱり嫌そうだなと改めて痛感した。陽一としては、同棲の件はすでに断ったはずなのに、そんな事実などなかったかのようにまた持ち出されて困惑したのだろうし、半ば失望もしたのだろう。陽一は葉山が就職することには、どちらかと言えばきっと反対だから。それに、光の前で堂々と宣言されたこともショックだったに違いない。仲の良いきょうだいとは言っても、陽一が昨晩の話をこの姉にしたとは思えない。同棲の件は恐らく光が勝手に察して鎌を掛けてきているのだから、それに乗る必要は本来ないし、それは陽一の望みではない。そんなことくらいは葉山にも分かる。自分が決意していないことを家族の前で宣言されても困るのは当たり前だ。
  それでも葉山は光の方を向いて堂々と言った。
「浅見の両親にも頼みに行きますから。ちゃんと」
「何て言うの。『息子さんとお付き合いしていて、来年には一緒に暮らしたいんです』って?」
「まぁそんな感じです」
「うちの両親より、まずは私の許可を得られるかってことの方がハードル高いと思うわよ」
  当然のようにそう言った光は、葉山がここへ来てから初めて手元のカップを口に運んだ。間を取る為だったのか、葉山の反応を待っているのかそれは分からなかったが、その仕草に葉山自身はとりあえずイラついた。
「光さんはどっちみち反対でしょ。俺が就職しようがしまいが関係なく、俺が浅見と一緒に暮らすこと自体がNGなんでしょ」
「何でそう思うのよ」
「だって光さん、自分が浅見を手放したくない人でしょ。普段から全然隠してないけど、ブラコンの権化みたいな人じゃないですか」
「それは否定しないけど、一番は、単純にあんたと一緒にさせるのが不安なだけよ」
  最早陽一が口を差し挟む余地はなかった。葉山は隣の恋人がハラハラと居た堪れない想いで自分たちを見ているだろうことは肌で感じ取っていた。陽一をこんなことで困らせたくはない。しかし今は光から目を離すわけにはいかないし、この話をやめるわけにもいかない。
「俺のどこが駄目ですか。男だから?」
「そんなこと私が気にするわけないでしょ」
  葉山の問いに光はふんと鼻を鳴らし、突如ぐいと前のめりに端正な顔を近づけてきた。そして威嚇するように葉山を鋭く見据えてくる。葉山は怯まなかったが、これから嫌なことを言われるのだろうことは分かった。だから嫌だった。しかもそれは恐らく光が悪いからではない、自分のせいで起こることだとも分かっていたから、余計に胸が苦しかった。
  光は言った。
「私が不安って言うより、陽一があんたといることに不安を感じているから。私はこの子の気持ちを代弁してあげているだけ」



  気まずい雰囲気のまま店を出ると、光は化粧室へ行くと言って2人の元を離れた。「2人きりにしてあげる」などと気を利かせたのではないだろうが、陽一が憔悴しているのを見て、少しは悪かったと思ったのかもしれない。葉山はいいと言ったのに、会計も全て光がもった。
  駅ビルの8階にあったカフェはレストラン街の一角にあり、周辺に幾つもの店舗が並んでいて、一番奥まった場所にトイレとエレベーターがあった。光を待つ為にそちらへ移動した葉山と陽一は、傍にあった休憩用のベンチに荷物を置き、どちらが話すでもなく、暫しその場に佇んだ。休憩スペースを取っているこの建物の端は外の景色を見やすくする為だろう、壁一面ガラス張りになっていて、葉山のいる位置からも周辺のビル群が一望できる。気を紛らわそうとそちらへさらに一歩進み、葉山は何気なく灰色のビル群を見下ろした。もう少し遅い時間ならば夜景が楽しめるのかもしれない。そんなことを思っていると、同じように陽一が横に並んできて「ごめん」と謝ってきた。これでもう何回目だろうか。
「何で」
  わざと素っ気なく返すと、陽一はため息交じりに「姉さんが」と呟いた。葉山がそれでも黙っていると、陽一は外を見ながら「姉さんの言うことは気にしないでいいから」とつけ足した。
「気にするよ」
  陽一を見ずにそう答えると、明らか隣からは困ったような空気が流れてきた。
「今日は最初から、俺が買い物付き合うの面倒とかいろいろごねたから機嫌が悪かったんだ。だからそういう時はすぐ俺に当たるっていうか、だからさっきの…俺が不安だからとか何とかは…違うから」
「違うの」
「違うよ!」
  はっきり否定されたお陰でようやく陽一を見られた。本当はもっと早く目を合わせたかったけれど、葉山は自分の弱さを知っている。こんな時はどうしても怖い。今日はやたらと自分の真意を読まれるし、陽一にも同じように見透かされたら嫌だから。
  けれど本当はこの優しい恋人が、そんな残酷な真似をしないことも知っている。
「不安とかそういうのとは違うよ。ただ葉山のこと、心配はしてる」
「何の心配」
「分かるだろ。何で今日大学行かなかったんだよ…」
「知り合いに呼ばれたからって言っただろ」
「知り合いって」
「どうでもいいだろ、知り合いは知り合い。バイク関係の…先輩みたいな人。最近会ってなかったから顔出せって言われて、世話になっている人だったから断れなかっただけ」
  平気で嘘をつく。それでも今度は陽一から目を離さず、「それより」と手首を掴んで引き寄せた。一気に距離が縮まって、陽一の驚いたように目を見開く様がよく見えた。
「葉山…っ…なに…」
「この後、2人きりになれる?」
「ちょっと、人が…! 葉山、離し…っ…」
「付き合ってくれるなら離す。まさかここでお別れじゃないだろ、折角来たのに」
「でも今日はもう…。多分、姉さんは家に帰るって言うと思うし、俺にも来いって言うと思うから」
  ちらちらと周りを見ながら陽一は早口でまくしたてた。その合間も何とか葉山と距離を取ろうとする。それだけで葉山の気持ちは不安定になってきた。
「そんなの断ればいいだろ。光さんがブラコンなら、浅見もシスコンなわけ」
「そういうんじゃないけど…。ちょっ…葉山、近い!」
  顔を寄せてさらに迫ると陽一は本気で嫌な顔をした。そんな風に避ける態度を取られたら余計離せなくなるし、もっと嫌がらせしたくなるのに。それでわざと耳元に唇を近づけると、陽一はいよいよ全力で逃げようと身体を捻った。当然の反応である。けれど葉山はそんな常識人・陽一の態度を許せなく思った。あっという間にカッときた。それでより強く手首を掴むと無理やり腕を引き、そのまま隣の男子トイレへ陽一を連行した。
「葉山…っ」
  我ながら凄い怪力だと感心したが、個室に引っ張り込んでドアを閉めると、陽一は真っ青になって責める口調で呼んできた。構わず壁に身体を押し付け口づけすると、陽一はぎゅっと目を瞑りながらも腕を振り上げ尚逆らおうとした。だから葉山は逆にその手を捻り上げて再度壁に身体をぶつけさせると、自らを密着させながら強く押し潰すように陽一の唇を食んだ。
「……っ」
  陽一が声にならない悲鳴を上げた気がした。それでも離せず口づけを続け、依然としてもがき逃げようとする陽一の動きを封じる為、ズボン越し、股間を下から掴むように握りこんだ。陽一はそれにダイレクトに反応し、びくびくと身体を跳ねさせ、じわりと目に涙を滲ませた。
「浅見…」
  こんなことをしたらまた怯えられるし、嫌われる。分かっているのに、しかしこうなるともっと虐めてやりたくなった。
「ここでやろうか…」
  耳に唇をつけて囁くと、陽一はさっと顔を白くしてぶるりと震えた。それから黙って首を振る。小さな声で「嫌だ」とも言った。
  それでも葉山は陽一を解放したくなくて髪の毛をまさぐり、額に押し付けるようなキスした。そしてもう一度唇にも舐るようなキスをして、「今すぐしたい」と言ってみた。
「葉山…」
  陽一は泣きそうだ。否、すでに泣いている。陽一としてみたら、確かに葉山は姉に挑発されて同棲もはっきりと反対されて、その上、「反対するのは私の意思じゃない、陽一が不安だから」だなんてことを言われて。腹が立つ気持ちも分かる、しかしこんな些細なことでお前は乱れるのかと――。そう思っているに違いない。きっとそう思っている。と、葉山は勝手に断じた。勝手に、「陽一に失望されている」と感じて、気持ちが波打った。
「分かったから」
  しかしその時。
  陽一はそう言った。
「えっ…?」
  驚いて聞き返すと、陽一は途端むっとして、これまでで一番強く葉山の胸を押した。意外な抵抗に思わず身体を離すと、陽一はそんな葉山に怒ったような目を閃かせながら、しかしはっきりと言った。
「ちゃんと付き合うから」
「………」
「この後、付き合う。2人きりになるよ、だから今はやめて。本当に、お願いだから。姉さんにもちゃんと断らせて」
  葉山が何も言わずにいると、陽一はさらにもどかしそうに顔を歪めた。
「いきなり2人で消えたら本気で怒るよ、あの人。というか、何しでかすか分からない。葉山は知らないと思うけど、姉さんは怒ると本当に怖いんだ」
「……俺より?」
  くぐもった声で訊くと陽一はぴくりと反応を返した。朝、「怖い」と言ったことを指している、根に持たれていたのかと陽一も気づいたのだろう。はっと息を吐いた後は、しかし「圧倒的だよ」と言って、陽一はここで初めて微苦笑を零した。葉山の負のエネルギーが下がったことも感じ取ったのかもしれない。
「葉山より姉さんの方が断然怖いよ。あの人、何でも自分のいいようにするし」
「そんなのは俺だって…」
「葉山はちゃんと俺のいうこと聞いてくれるよ。聞いて、くれるだろ?」
「……うん」
  そんな風に言われたら離れるしかない。葉山の中で暴れかけていた怒りの熱は呆れるほどの速さで引いていった。いよいよ完全に離れて、それでも名残惜しくて片手だけ陽一の頬に指先だけ触れさせると、優し過ぎる恋人はきちんとその手を取り、あまつさえそこにキスしてくれた。しかもそれに仰天して葉山がその手を引っ込めようとすると、陽一はいよいよ穏やかに微笑んだ。「すぐに葉山ばっかりやるから、お返しだよ」――そんな風に言う陽一を見て、葉山は「やっぱり駄目だ、敵わない」と思った。
  光は散々ぶうたれていたが、買い物袋を全部持って必ず今夜中に帰宅すると約束したら、思いのほか粘ることなく解放してくれた。光が持っていた買い物袋は葉山が持ち、陽一と2人、駅の周辺をぶらりと歩き始めた。いよいよ外は薄暗くなってきて、人々の歩く速度も忙しくなっていたが、葉山と陽一は努めてゆっくりと歩いた。
  葉山はちらりと横を歩く陽一を見て、先刻の自分の所業を今さらながらに後悔した。陽一はまた許してくれたけれど、さっきはどう思っただろう、すぐにあんな風に怒って乱れる自分に本当は心底愛想を尽かせているのではないか。そんな不安が去来した。
「どこか店入る? 葉山は何も食べてなかったし」
  不意に陽一が気遣うように訊いてきた。
「……浅見は入りたい?」
「んー、俺は別に。お腹すいてないし、むしろちょっと歩きたいかも」
「なら俺もそれでいいよ」
  陽一が一緒に歩くことを選んでくれて良かった。少しほっとしてまたわざと歩みを遅くした。それから駅の西口へ回って地下広場から高層ビル街へつながる地下道を進み、都内でも有名な都市公園まで歩を進めた。別にそこへ行こうと言ったわけではなかったが、人ごみを避けて歩いていたら何となくそこへ辿り着いた。ただ、まだ夜になりきっていないせいか、家族連れやカップルの姿もちらほらあって、構内はどこも割に賑やかだった。
「薄闇だけど、ちょっと星見えるね、ここからだと」
  その時、遊歩道を歩いていた陽一がふと立ち止まり、何気なく空を指してそう言った。えっと思って葉山も思わずそちらへ視線を合わせたが、本当は空などどうでも良かった。心底散歩を楽しんでいるような陽一の声が、半ば落ち込んだり緊張したりしている自分とは真逆過ぎて、だから内心で心から安堵して。空より星より、そんな気持ちにさせてくれた陽一だけを見たいとすぐさま思った。
  それで葉山は星を見ているフリをしつつ、陽一の横顔をこっそりと盗み見た。
「俺はあまり詳しくないけど、葉山は星見るの好きだよな。でもここからだとあまり見えないし、物足りない?」
  そうとも知らず陽一はそんな話をする。
「もうちょっと遅い時間ならもっとはっきり見えるかな。葉山は最近、星見たりするの」
「俺、星が好きなんて話したことあった?」
  今日は霧島からもそんな話をされた。霧島には勿論、陽一にさえそんな話をしたことはないし、そもそも自分自身が「好きだ」と思って眺めていた記憶がない。別に嫌いというわけでもないけれど、何故、2人がそんな指摘をするのか少し不思議だった。
「特別好きって聞いたわけじゃないけど、前、話してくれたことあっただろ。バイクで遠出した時、綺麗な流星群見たって」
「ああ…まぁ…」
「海外行った時も、天気悪くてはっきりは見られなかったけど、ミルキーウェイのスポット連れて行ってくれたりさ。俺、趣味って言ったら本読むくらいだし、外の世界ってあまり目を向けたことなかったから、葉山のそういう興味が広いところは尊敬してる。自分の知らない話聞くのは面白くて好きだし」
  どう反応して良いか分からず葉山が無言でいると、陽一は首をかしげつつ笑いかけてきた。
「だから、葉山はあまりバイクの知り合いのこと俺に話さないけど…、まぁ話したくないなら無理にとは言わないけど、好きなことなら、『どうせ浅見には興味ないだろ』とか気を遣わないで、普通に話して欲しいよ」
「……別に気を遣ってなんかいないよ」
  やっと声が出せた。しかし何て弱々しい。葉山は我が事ながら情けなく思った。
  そうとも知らず、陽一は清々しく続ける。
「そう? でも俺、本当はさ…、まぁどうせ聞いても分からないだろうけど、葉山の大学での研究内容とかも聞きたいって思う時あるよ。物理なんて高校のテストでも最悪だったけど」
「………」
「何か宇宙物理学って、名前の響きだけでもカッコイイじゃん」
「浅見は俺がカッコイイと思ってんの、本気で」
「何で? 本気で思ってるよ」
「………」
「姉さんは茶化すみたいに言っていたけど、宇宙飛行士になる葉山っていうのも見てみたいかもね」
  葉山なら何かなろうと思ったらなれそう。陽一は軽く言い放って、それから何が可笑しいのか独りでふふと笑った。勝手に葉山を宇宙へ飛ばして、その想起に笑えたのか、単純にどうでもいい与太話をするこの瞬間が楽しいのか。
  葉山の胸はむず痒くて、仄かに痛くて、でも温かくなった。
「…馬鹿じゃないの。宇宙飛行士とか。俺そんなこと、一言も口にしたこともない」
  それなのに口から出たのは皮肉気で嫌な声。陽一に主導権を取られているのが嫌だった。陽一がごく自然に自分を癒せてしまうのを実感してしまうのも嫌だった。これ以上好きになったら、一体この先どうしたら良いのか。
  それなのに陽一は容赦がない。
「そりゃ言ったことはないけどさ。でも葉山の好きなものって、バラバラなようでいて、結構みんな繋がっているし。……違った? 俺は見ていていつもそう感じていたけど」
「……好き」
「え?」
  もう駄目だ。だから思わずそう口走っていた。自分の声なのに自分が発したものではないかのようだ。それくらい、唐突にその台詞は出た。しかも訳が分かっていない顔の陽一に構わず、立て続けに繰り返した。
「俺、浅見が好き。好きだ。今は浅見だけが好きだし、浅見にしか興味がない」
「ちょ…葉山?」
  辺りを気にしたようにきょろきょろと見渡す陽一。けれど葉山は堪らなくなり、押し寄せる言葉の滝に自らも翻弄されながら尚言った。壊れた玩具のように、それしか知らないみたいに。
「浅見のことだけが好きだ。好きなんだよ。どうしたらいい? 苦しい、凄く。こういうの、嬉しいけど、苦しいんだよ」
「そ……葉山」
「あぁ何か。だから、浅見が悪いんだよ、全部!」
  おもむろに引き寄せて抱きしめると、また浅見は周りを気にして胸の中でもがいた。それでも離せない。抱きしめているから顔は見えず、髪の毛に何度もキスしてその度また「好き」と言った。こんな気持ち。何だろう、腹が立つ。でも嬉しい。こんな気持ちにならなかったら、俺はまだまともだった。今もまだ陽一が言うように星だのバイクだのを愛していれば。そう、こんな想いはしなくても済んだ。苦しい、苦しい、苦しい。
  けれど。
「俺も、す…好きだよ…?」
  限りなく小さいながらその声は帰ってきた。何故か問いかけるように語尾が上がっていたが、それから背中をきゅっと擦ってくれる感触がやってきて、葉山はそれに目を見開いた。と、周りから歓声のようなものが上がるのが聞こえた。陽一の懸念が見事的中している、やはり園内にいたギャラリーがどこか異質な2人に目を留めていたのだろう。ただそんなこと、今の葉山にはまるでどうでも良いことだ。
「浅見。好き」
  葉山は陽一を再度強く抱きしめながら顔を埋め、「やっぱり今夜も帰したくない」と思った。けれどその想いは明らか今朝がた感じたような昏い種類のものとは違うとはっきり分かったし、この愛しい、慈しみとも言うべき感情が胸の内から沸き上がる限りは、まだ自分は大丈夫なのではないか。そんな気がした。そう思えた。




―完―