「もしもし…浅見ですけど……」 『………』 「あの、もしもし――」 『……っ』 ガチャンと乱暴に受話器を置いた後はいつも少しの後悔と大きな胸の高まりを感じていた。学校でも滅多に聞く事のできないその声は無理矢理話しかけた時に途惑いながら紡ぎ出すそれと同じようだが少し違う。電話越しに聞いているせいか耳元に掛かるそれはひどく艶があって色っぽくて妙ないやらしささえ感じた。 高校2年にもなって今さら悪戯電話をするなんて。それも同じクラスの男子生徒に。 「はっ…ホント、大バカ」 葉山は近所の電話ボックスの中でため息をつくと、自らを嘲るように唇の端を上げた。 |
君は僕を知らない |
葉山怜が高校に進学した事を心底後悔したのは入学して3日後の事だ。もともと人に合わせてうまく笑う事だけは得意だったので新生活においても特別浮いたりする事はなかったが、いつも何もかもが煩わしいと思っていた。しかも葉山は無自覚なところで他人に「合わせ過ぎ」なところがあり、違った意味で目立ってしまって余計にいつも気が抜けなかった。自分に期待し集まってくる新しい「友人」たちに、「本当の自分」を見られるのは嫌だった。 ああ、けど何て鬱陶しいんだ。面倒臭ェ…。 心の中ではいつもそう思っていた。楽しくもないのに可笑しそうに笑う、興味もない話題に熱心に頷いてみせる。とりたてて可愛いとも思わないクラスの女子を仲間が可愛いと言えばそうだなと同意する。バカらしい、俺は何故こんな事をしているのかと思いながら、それでも葉山は以前からずっとそうやってかわしてきた人との関わりを新しい場所でも黙々と続けていた。 本当は畏れてもいるのだ。この集団の輪からはみ出て独りきりになる事。誰からも見られず孤独で「学校」という枠の中に身を置く事を。 そんな矛盾した自分には中学校に入った時点で既に痛いほど気づいていた。だから中学3年の進路の時もさんざん高校進学については悩んでいたのだが、体裁を気にする両親から「大学まで行ったら後は好きにして良いから今は親の言う事を聞け」と言われ、渋々近くの公立高校に籍を入れたのだ。両親はもう2ランクほど上の私立高校へ上がって欲しかったようだが、それだけはと突っぱねた。 お前ら皆煩ェんだよ。どっか行っちまえ。 何故こうも誰かと共にいる事に苦痛を感じるのか葉山自身分からなかった。別段適当にあわせている「友人」という名の連中が大嫌いというわけでもない。それなりに付き合っていくには心地良い奴らも何人かはいる。社会の常識に囚われただけの頭の固い両親は、尊敬はできなかったが憎いと思う程でもない。皆、ある程度我慢できる事だ。何て事ないはずだ。 けれど毎日は何だか憂鬱だ。 スタートしたばかりの高校生活はまだまるまる3年も残っている。考えただけでぞっとする話だった。 そんな葉山が浅見陽一を初めて目にしたのは、高校1年も一学期を終えようとしている夏前の事だ。 「怜ー。先行って席取っとくな」 「怜、手伝う?」 「ああ、いいよ。先行ってて。俺Aランチ、頼んどいてよ」 「OK!」 その日、地学の授業でグループ研究をする事になっていた葉山のクラスは、4時限目に図書室で各々調べ物に従事していた。 仲間たちが先に食堂へ行くのを見送った後、葉山はやっと一人になった空間にほっと息をついた。昼食時の図書室は初めて見たが、なるほどこんな時間だと当然の事ながら極端に人が少ない。自習をしたり本を探しに来る生徒がここへ来るのも、恐らくは昼食を済ませた20〜30分後なのだろう。そんな事を考えながら、葉山は改めてガランとした空間を何ともなしに見渡した。 「ん…?」 けれどまるきり誰もいないというわけではなかった。 「あ、じゃあ浅見君、それはそっちの本棚に入れておいて!」 「はい」 中年の司書教諭の忙しない声に誘われ視線を移すと、分厚い図鑑を何冊か持った生徒が図書室奥にある書庫へフラフラしながら入っていくのが目に入った。見た顔ではないが、横顔をちらりと見た感じでは自分と同じ一年なのだろうなと思った。何となく目だけでその背中を追っていると、その「浅見」と呼ばれた男子生徒はカウンター横に積まれた数十冊もの図鑑を書庫へ運ぶという作業を一人で黙々とこなしていた。恐らくは図書委員か何かなのだろう。 「浅見君、本当に先にご飯食べてきていいのよ?」 先ほど指示を出していた司書教諭が上着を羽織ながら遠慮がちにそう声を掛けている。自分はこれから食事に行こうとしているようで、一人で地味に働く浅見を心配しているようだ。入口の方を見ながら、「他の当番のコはどうしたのかしらね」などと言っているのも葉山のいる位置からよく聞こえた。 「いっつも浅見君しか来ないじゃない。今度の委員会でちょっと文句言った方がいいわね」 「俺…別にいいです」 遠慮がちにそう言う「浅見」は、何冊もの本を胸に抱えたまま少しだけ笑って見せた。 「ここで仕事したら書庫の中の本読ませてもらえるし。得だから」 「そう? でもねえ…」 司書教諭は気まずそうな顔をしながらも、何だかんだと自分も早く休憩したいのか、浅見に奥の鍵を渡すとそのままいなくなってしまった。葉山はその一連の出来事を他人事に傍観しながら思わずすっと眉をひそめた。貸し出し係もこの浅見一人でやらせたら、それこそ彼は本当に昼食が取れないではないか。あの話しぶりでは他の当番の奴らが来るとは思えないし、あの司書教諭とて何だかだとたっぷり休憩を取ってくる事は間違いない。 「………」 葉山はさっと図書室の入口の方を見やった。誰かが来る気配はない。 時々いるよな、こういうバカな奴。 「ねえ」 けれど自分でもどうしたのだろうと頭の隅で思いながら、葉山は気づけばその浅見に声を掛けていた。 「え…?」 葉山が近づいてきた事にも、そもそも図書室に人がいる事にも彼は気づいていなかったらしい。突然声を掛けられて浅見は驚いたように振り返った。たくさんの本を抱えているせいで身体をぐらりと傾ける。何だか危うげだった。 「………」 しかしそれよりも何よりも、葉山は自分をどこか怯えたような警戒したような目で見る浅見の表情にこそ面食らった。瞬時、むっとした気持ちが沸きあがる。普段からそういった眼差しを向けられる事に葉山は慣れていなかった。 「あの…?」 もっともそこはいつもの無難なスマイルで乗り越えられた。 葉山は親し気な様子で更に近づくと浅見に屈託なく話しかけた。 「忙しいの?」 「え……あ、貸し出しですか?」 「別に」 その場に本を置いて慌ててカウンターの所へ来る浅見を無視し、葉山はその横に未だ山のように積まれている図鑑を7、8冊、まとめて抱えて奥へ歩き出した。 「あ、あのっ?」 途惑うような声が背後から聞こえたが、葉山は構わず「これ、どこに運ぶの?」と訊いた。何故手伝おうと思ったのかはよく分からなかった。また混雑した食堂へ行って仲間たちとバカ話をするのが面倒だったからかもしれないし、本当に気紛れに親切心が沸いたのかもしれない。 「あの、大丈夫です…」 けれど遠慮がちに浅見は葉山のその好意を断ろうとした。委員でもない見知らぬ人間を書庫に入れるのはまずいと思ったのか、それともただ単に迷惑だと思ったか。 「は…」 それでも葉山は退こうとはせず、逆にバカにしたような笑いを浮かべた。 「もう持っちゃったし。戻すのも損だろ。どこに置くの?」 「あ…じゃ、じゃあ、あそこの棚の下に……並べるのはいいんで…」 「うん」 電気もつけていない書庫内は昼間なのにいやに暗くてひっそりとしていた。けれどそのせいだろうか、余計に本の匂いが鼻先をすっとくすぐり、ああこういう所は好きだなと思う。言われた通り本を置いて何となくそれらを眺めていると、なるほど表には見られないような文芸作品がずらりと揃っていて読み応えがありそうだった。 「図書委員の特権だな」 「え?」 「手伝ったらここの本、読めるんだろ?」 「あ…は、はい」 「委員じゃない奴も手伝ったら読めるのかな」 「………」 どう答えて良いか分からないという顔を見せて、浅見は困ったように俯いた。実際その許可を出すのは司書教諭だから何とも言えないのだろうし、本当に誰かと話すのに慣れていないというのもあるのだろう。 「……昼飯行かないの?」 それでも何故かこの浅見と会話するのをやめたくなくて葉山は何気なくそう訊いた。これも珍しい事だった。自分から誰かと話したいと思うなんて。 いつでも葉山は誰かから来てもらう方だったから。 「あ…後で……」 「え? あ、ごめん。聞いてなかった。何?」 「ひ、昼…後で行きます。ここが終わったら」 「あ…ああ。そう」 「………」 「でも、当番の奴来るの? ちゃんと?」 「大丈夫です」 「……本当?」 「はい。あの、どうもありがとうございました」 「……いや、いいよ」 ああ、こいつは俺を先輩だと思ってるんだな。 オドオドとした話しぶりと丁寧に頭を下げる浅見の様子に今更ながら勘付いて、葉山はふっと苦笑した。黒々とした艶やかな髪の毛が視界の真ん中に飛び込んできていて、それはなかなか上がる気配がない。そうして、コイツはいつまで頭を下げている気だよと呆れて口を開こうとしたしたその瞬間、それはそろりと上がって最初に見せた時と同じ怯えた容貌が葉山の瞳に飛び込んできた。ああ、そんなに怖がらなくても大丈夫、俺は同じ一年だからとすぐに言ってやりたい気持ちと、このままびくつかせておくのも面白いという気持ち、そんな相反する感情が葉山の中を物凄いスピードで行き来した。 「あのさ…」 そして葉山がようやっとそれらの気持ちに折り合いをつけて再度浅見に声を掛けようとした時だ。 「怜ー? いねえのー?」 「怜っ! みんな待ってるよ!!」 「………」 先に行ったと思っていたはずの仲間のうち2人が図書室の入口から声を張り上げているのが聞こえた。葉山がなかなか戻ってこない事に痺れを切らせたのだろう。ちっと心の中だけで舌打ちをし、葉山は「いるよ」と荒っぽく返事しながら浅見の横を通り過ぎた。さよならともまたなとも言わなかった。何となく仲間たちに浅見といるところを見られたくないと思ったから焦っていた。 「………」 去り際、ちらりと振り返ったが浅見の姿はもう見えなかった。まだ作業が途中だから書庫に入って行ったのだろう。しかし本当にあいつは昼食をどうするのだろうと、それが後々まで酷く心に引っかかった。 彼の名が浅見陽一で、所属クラスがA組の自分とは一番遠い位置にあるE組だったとは後で知った。葉山はその後も何とか浅見と会話するきっかけを作りたくて隙を見つけては図書室へ行ったのだが、それが出来た日に限って浅見はいなかったり書庫に引きこもっていたりで、なかなか2人きりになる機会は得られなかった。 それでも目で追っていく毎にどんどんと少しずつ、浅見の事は分かっていった。 図書委員で部活には所属していない事。 クラスの中で特に親しい友人はいない事。 クラスメイトからはいじめとまではいかないが、「根暗でおとなし過ぎる奴」と見られ避けられている事など。 面倒見の良い人間というのはクラスに1人か2人は必ずいるもので、恐らくは浅見が徹底的に浮かないで済んでいるのもそういった連中の力によるものらしかった。それでも傍で見ている限り、浅見という生徒は誰かと群れて何かをするのが苦手なのだなと思わせた。その代わり本は好きなようで、暇さえあれば色々な種類の物を読んでいる。字も綺麗だ。いつだったか図書委員が記述する連絡ノートを見てそれを知った。教師の受けはそれなりに良く、頼まれ事をする事も多いようで時々買い物などで外に行かされる事がある。体育は持久走が得意で、これも教室の窓からグラウンドを見ていた時に気がついた。周りは既に大部分リタイアしてうだうだと意味もなく管を巻いていたのに、浅見は独り黙々とトラックの周りを走っていた。その姿は葉山にはとても綺麗なものに見えた。 浅見とは一度しか言葉を交わしていない。それもほんの数分だ。 けれど葉山はあの日から浅見という同じ学年の生徒の事が気になって仕方がなかった。 それに、それはきっと向こうも同じだろうと思った。俺が浅見を見つめているのと同じくらい、浅見も俺を見つめている。……そう感じられる時が葉山には何度もあった。目が合ったと思うとすぐ気まずそうに視線を逸らしてしまうけれど、きっとアイツも俺の事を気にしているのだろうと。 葉山は普段から他人を訳もなく忌避しているくせに、元来男にも女にも平等に人気があったせいか、そういった根拠のない自信は割といつでも持っているタイプだった。現に今までも「あの女、俺に気があるんだろうな」と思えば案の定「好き」と告白されたし、「あいつは俺を頼ってくるつもりだな」と思えば「怜にしか言えないんだけど」と友人から悩みを打ち明けられたりした。 だからあの浅見が俺を気にしている、その勘も恐らく当たっているだろう、と。 それがただの妄想だったと気づかされたのは2年にあがってからだ。 「こんな事あるんだな…」 5クラスもある中で同じクラスになれる事などないと思っていたのに、2年に進級した時、葉山は浅見と同じA組になった。この無為な高校生活に唯一望む事があるとすれば、恐らくはあの浅見と同じクラスになる事だけだ……葉山はそう考えていた。入学して3日で辞めたいと思った学校に1年間通ってしまったのも全てはあの浅見のせいだ。結局あれからまともな会話をする事は1度としてなかったけれど、いつだって見てきた。向こうも俺を見ていた。それが今年は同じクラスだ。これで何の気兼ねなく声が掛けられる、向こうもきっとそうしてくるに違いない――…。 新しいクラスが貼り出された掲示板を前に、葉山はらしくもなく胸をわくわくさせていた。 「……え」 けれど始業式後、何の躊躇いもなく浅見の席へ近づき声を掛けた葉山に、浅見の方は思いもよらぬ反応を寄越してきた。「同じクラスだな」…――そう親しみを込めて声を掛けた葉山に、浅見は訳が分かっていないという顔で困惑した様子を示したのだ。突然声を掛けられて何事かと思っている雰囲気だ。 いつもと同じように警戒しているのが分かった。 「………同じクラスになったんだから、よろしくって意味」 何とか気を取り直してそう言ったものの、浅見の硬い表情はそのままだった。 「あ…。う、うん。……よろしく」 たどたどしいその話しぶりはいつもクラスの連中に見せていたのとまるで変わらない。浅見にとって自分は今までと同じ、「単なるクラスメイト」なのだ。 コイツは俺の事を知らない。 その瞬間、葉山はざっと全てを悟った。 浅見はあの図書室での事を覚えていない。何度か目が合っていると思っていた事も、浅見が自分を気にしていると思っていた事も全ては錯覚だったのだ。 「……俺、葉山っていうの。お前は?」 平静を装いながら会話を続けたものの、葉山は顔から火が出る想いだった。こんなみっともない思い違いをした事はない。浮かれていた自分は本当に滑稽だ。 同時に、自分にこんな惨めな想いをさせた浅見がとんでもなく嫌な奴に思えた。 「お、俺…浅見。浅見、陽一」 葉山の動揺と怒りには気づかず、浅見はおずおずと自己紹介をしてきた。 知ってるんだよ、そんなこと。 「ふうん。浅見って言うんだ」 それでも今この時、浅見に真実を知られるわけにはいかない。 心の中で唱えている事と表で取り繕う笑顔とが真逆の状態で、葉山は必死に己をコントロールしようと努めた。そんな自分が可笑しくて仕方がなかったが、勿論うろたえるのも自己嫌悪になるのも全部後だ。やっと言葉を交わせた浅見を前に、葉山は依然として平静を装って害のない笑顔を閃かせた。 「よろしくな。俺、前もA組だったんだけど。お前クラスは何だったの? 部活とかやってる?」 「俺…っ」 しどろもどろになりながら一生懸命答えようとする浅見。 想像していた通りだった。慣れないながら、それでも決して人が嫌いというわけではない。何とか相手に不快な思いをさせまいと懸命に話そうとしている。 思い描いていた通りの浅見陽一。 違うのは自分を忘れてしまっていた事だけ。 「そうなんだ」 適当に相槌を打ちながら、葉山は浅見に対する憎しみとどうしようもなく惹かれていく気持ちとに苛まれながら、それでも笑顔を向け続けた。 「まあ、とにかく折角同じクラスになったんだし。今度どっか遊びにも行こうぜ? これからよろしくな、浅見」 「もしもし…あの…っ。誰なんですか?」 『………』 「切りますよ…!」 『………』 「……本当に…切りますから」 泣きそうになりながら必死に抵抗する浅見の声に葉山は今日も複雑な思いを抱いてため息をつく。 この頃浅見は「表」の自分には何とかどもらず言葉を返せるようになった。他のクラスメイトよりも懐いてきているような感触もある。 けれどこうして毎晩悪戯電話をする「裏」の自分は、やはりそんな浅見だけで満足できない。浅見をいじめてやりたい、浅見を苦しめてやりたい。俺のこの気持ちを素通りして、自分ばかりが尊いところにいるずるいお前を――…。 俺はお前をめちゃくちゃにしてやりたい。 「どうして毎日…もうやめてください…」 浅見の小さな声は家族の心配を慮っての事だろう。何度も切ると言っているくせにこうして受話器に向かって必死の声を上げるのも、何とかこちらの機嫌を取ってもう掛けてこさせないようにしようと懸命だからだ。…そんな言動は逆効果でしかないが。 「もう…本当に…」 『………』 教室での浅見はこんな萎れたような声は出さない。どこか憂鬱そうではあるが弱気なところは決して見せない。相変わらず葉山が話しかけてこない限りは一人で本を読んだりノートを取ったりと静かである。しかしその凛とした横顔は葉山にとって本当に気高くて、近くにいるのに時々酷く遠い所にいるような…そんな気にさせられた。 でも、この時の浅見は違う。俺だけがこの弱い浅見を知っている。 この浅見は俺だけが握っているんだ。 いつまで続けるつもりなのか皆目見当もつかない。それでも葉山は昼間は途惑う浅見に親切顔で近づき、夜はこうして浅見の家に電話を掛けては相手の困惑した悲しそうな声を聞いて時を過ごしていた。 「浅見……」 公衆電話のボックス内で、葉山は己の中の爆弾が今にも破裂しそうになっているのを感じていた。 「ん…?」 ふと身じろいだと思ったらその瞳がゆっくりと開いて、葉山ははっとし表情を改めた。 「葉山…?」 ぼんやりとしたように呼ぶその声は未だ夢の中にいるようだ。葉山はそんな恋人の前髪を愛しげに指先で掻き分けながら「ん」と返事にもならない反応を返し笑ってやった。 「……どうした」 「ん…目が……」 「覚めちゃった?」 「うん…」 耳元に唇をつけ囁く葉山に、浅見は少しだけくすぐったそうにして身体を縮こまらせた。葉山のアパートにある一人用のベッドは当然の事ながら2人で寝るには窮屈過ぎる。だからこそこうして事が終わった後もぴったりと抱き合っていられるわけだが、身じろぐ浅見の方はやはり少しだけ息苦しそうだった。 昨晩の葉山がひどく乱暴だったせいもあるかもしれないが。 「葉山…寝てないの?」 その浅見は未だ覚め切っていないような目を何度か片手でこすりながら自分の髪の毛を撫で続ける葉山をすっと見上げた。ベッドが狭過ぎて寝苦しいのではないかと心配しているらしい。 葉山はそんな浅見の目蓋に何度もキスをして「違うよ」と笑った。 「寝てたよ。ほんのさっき偶々目が覚めた」 「………」 「浅見はもう少し寝てろよ」 「うん」 言われてすぐ素直に目を閉じた浅見に葉山は目を細めた。疲れているのだろう。依然として指先をその恋人の髪の一筋に絡ませながら、葉山は何度求めても己の昂ぶりを鎮められなかった昨夜の自分に嘆息した。 浅見とこうして身体を重ねられるようになってからもう大分経つけれど、いつまで経っても慣れるという事がない。浅見を裸にしてその肌にむしゃぶりつく度に自分の卑しさを知る。己の貪欲さを思い知らされる。葉山の前で足を広げ恥ずかしそうにしている浅見はおよそ普段の潔癖さからは想像ができない淫靡さがあった。そのくせ浅見の方も葉山との性交にいつまでも躊躇いがあって、受け入れるくせにどこかで抵抗を示すような声を漏らすのだ。 それが特に顕著な時、葉山はつい浅見を乱暴に抱いてしまう。本人が驚き泣いて嫌がっても、決して許さずに激しく奥を突き、たとえ許しを請うてきても身体を揺さぶる事をやめない。相手を満足にイかせてもやらない。 「………」 やっぱり今謝ろうかな。 そう思いながら、しかし葉山は無言のまま浅見の髪を撫で続けた。浅見に捨てられたくない、そんな恐ろしい事は想像も出来ないと思っているくせに、表の顔の自分は浅見にはいつでも余裕の表情で優位に立っていたいと考えている。 浅見は今、俺の手の中にいる。こんなに近くにいる。 あの時はあんなにも遠くて、それが許せなくて壊してやりたいと思っていた。実際本当にそうしてしまいそうな自分が怖くて、逃げ出した時はほっとした。高校を辞めた理由の全てが浅見ではないけれど、あの頃は確かに「アイツから離れられて良かった。これで俺も正気に戻れる」と思っていた。 「葉山…」 「……!」 不意に呼ばれた声に葉山がハッとして我に返ると、いつの間にまた目を開いたのか、浅見がじっとこちらを見やっているのが分かった。1度覚醒してもう目が冴えてしまったのかもしれない。その声色に寝惚けたようなものは一切なかった。 「何…どうした…」 「うん……。あのさ……」 「……何?」 昨夜の事を責められるのだろうか。 咄嗟に思って心内で冷や汗が流れたが、それでもまだ冷静な声を出す事ができた。 「何だよ? どうした?」 「うん……」 なかなか先を続けようとしない相手に躊躇い、葉山は少しだけ笑って見せながら指先を浅見の口元へ移動させた。セックスの時にも何度も重ねたその柔らかい唇は、未だ仄かに朱を帯びていて色っぽい。誘っているようにすら見えた。だからか、つい執着したようにそれに触れていると、ようやっと浅見は意を決したようにその唇を開いた。 「葉山」 「……何」 「あの、さ…。えっと…今日、ありがとう…」 「え…?」 何が、と問おうとすると浅見は瞬時自分の言葉に真っ赤になり、視線を葉山の胸元へ移動させた。その後もちろちろと目を泳がせ、どうしよう、後を言うべきかと逡巡している。 葉山はいよいよ不審に思ってそんな浅見の髪を再びぐしゃりとかき回した。 「何だよ、意味分からない。何なの?」 「……うん。でも、これ言ったら葉山笑う」 「はぁ…? 笑わないよ、何? 何がありがとうなの?」 「だから…今日、泊まってけって言ってくれて!」 「え?」 思い切ったようにそう口走る浅見に葉山は目を見開いた。 葉山のその様子には気づかず、浅見は必死になって続ける。 「今日さ…。約束した時から、俺、泊まりたいなって思ってたんだ。でも、言えなくて…何か言いそびれて…。でも、そしたら葉山が泊まっていけばって言ってくれたから」 「………」 「だから嬉しかった」 言いたい事を全部言えてすっきりしたのか、浅見がようやく顔を上げてにこりと微笑んだ。思わず息が詰まる。葉山はそんな浅見をじっと見据えたまま、何と言って良いのか分からずただその場で固まってしまった。 そうとは知らず勢いがついてきたのは浅見だ。照れくさそうにしながらも尚続ける。 「今日のはちょっと…葉山、意地悪だったけど」 「………ごめん」 「ははっ」 ぽっと謝った葉山に浅見はここで思い切り破顔した。 「いいよ。葉山が時々そうなるの、もう分かってる」 「………」 「とにかく…嬉しかったって話だよ。今日、誘ってくれて」 それに、と浅見は途端お喋りになって黙りこくる葉山に言った。 「思えば葉山って高校の時からそうだよな…。あの頃も、いっつも葉山の方からきてくれてさ…。俺、分かりにくかったと思うけど…そりゃ、途惑ってた部分もあったけど…。あれ、嬉しかった」 「何が……」 「え? だから、いっぱい話しかけてくれたこと」 「嘘つけ」 「え?」 反射的に出た反論の言葉に浅見は驚いて口を閉ざした。 すると今度は葉山の方が勢いがついて、あからさまむっとしたように唇を尖らせた。先刻までの自分の心配が嘘のようになくなり、代わりに浅見に対して恨めしい気持ちになってしまう。 本当は信じられないくらい嬉しい気持ちもあるのに。 「あの時の浅見はいつも迷惑そうだった。俺が煩くまとわりついてさ。どうしていいか分からないって顔してたよ、いつも」 「そ、そんなこと」 「そんな事あるの」 だから苦しくて、どうして良いか分からなくてマイナスの感情がどんどん大きくなってしまった。 今だって何がきっかけで壊れてしまうか分からない。自分は何て不安定で弱い奴なのだと思うけれど、浅見を手に入れて強くなったと思う反面、余計に弱くなったと感じる部分もある。 「ごめん」 葉山が埒もなくそんな事を考えていると、浅見が心底申し訳なさそうに眉尻を下げた。 「でも、嬉しかったよ。本当に」 「………」 「でなかったらあの時会いに行こうなんて思わなかったし…。うん…だから何か…今こういう事になったのちょっと信じられないけど…でも嬉しい」 「………」 「はは…何言ってんだろ」 照れたように笑い顔を背けようとする浅見に、葉山は突如沸きあがった衝動を抑えられずにその顎先を捉えた。目を逸らすなと咄嗟に思い、ただの照れ隠しでそうしようとした浅見を責めたい気持ちになったのだ。 「は、葉山…?」 「……全部こっちの台詞」 「え…? んっ…!? んぅっ」 そうして突然がばりと上から押さえつけ口づけを仕掛けてきた葉山に、浅見の方は思い切り面食らってびくりと身体を震わせた。 「んっ…ふ…」 それでも逆らったりはしない。必死に葉山に応えようと、一生懸命両手を上げて葉山の首筋にそれを絡ませようとする。 それを察して葉山の熱もより一層上昇した。唇を少しだけ離すと、至近距離のままその目を見つめ、少しでも自分の気持ちが伝わるようにと願いを込めて囁いた。 「陽一」 「う…うん…?」 「好き」 「あ…っ」 相手の反応を待たず再び唇を重ね、葉山は更に二度、三度と啄ばむようなキスを繰り返した。 浅見が好きで好きでどうしようもない。 俺は頭がおかしくなっている。……そう思った。 「浅見…もう一回、していい?」 「え…でも……」 「駄目?」 「だ……駄目じゃないけど、でも…」 もうすぐ朝だし、というもごもごとした台詞は、けれど葉山は再度唇を塞ぐ事で封じ込めた。 「んっ…はや…!」 「堪んないよ、浅見」 恥ずかしそうに喘ぐ恋人の痴態を片手で撫でながら、葉山は不意に泣きたい気持ちになった。やっぱり駄目だ、こいつと少しでも離れたら俺は終わる。……瞬間的にそう感じてしまった自分が恐ろしかった。 「好きだよ…」 ただ、今はあの頃一度として言えなかった言葉を紡ぐ事が許されている。そうしてそれを言う度、こんなに酷い自分を浅見は全て許して笑ってくれる。全てを差し出してくれる。それを幸せと言うのなら、今のこの胸の中に燻る焦燥も自分はやり過ごす事が出来るのだろう。浅見が傍にいてくれる限りは。 葉山は必死になって浅見を求めた。あともう数時間ほど経てば朝が来る。その時にはこの愛しい人に完璧な自分を見せていたい、そう思った。 だから葉山は浅見を強く強く抱きしめて、もう一度「好きだよ」と告げた。 |