その後



 
(恐ろしい…)

  浅見はたった今読了した本をぱたんと閉じると、はあと一つため息をついた。
  いつもは推理小説しか読まないのに、何を間違ってこんな本を読んでしまったのか。
  いや、内容自体はぐいぐい引き込まれるものがあったし、普段、推理小説に求めているスリルとサスペンスも十二分に盛り込まれていたと思う。休みを利用してとは言え、600ページ余りの本を約2日で読み切ったことも、毎度1冊を読むペースが遅い浅見にしては早い方だ。だからきっと夢中になって読んだのだろう。
  ある意味、「夢中にならざるを得なかった」とも言えるが。
  浅見はちらりと、自分とは違い専門書の類に目を落としている葉山を盗み見た。葉山のアパートで一緒に過ごしていても、こうして2人して別々のことをして過ごすことは珍しくない。2人の間で沈黙は苦にならない。むしろ浅見などは葉山が喜ぶような気の利いた話題を何も持っていないという「勝手な負い目」を持っているため、長いお喋りには気づまりを感じる方だ。
  だから今日も互いに読みたい本を読む時間を確保できてほっとしていたくらいなのに。

「どうしたの」

  不意に葉山が口を開いた。浅見が「えっ」と口元だけで驚いたような返事をすると、葉山は顔を上げないまま素っ気なく答えた。

「ため息なんかついちゃって。つまんない本だったの」
「そういうわけじゃ、ないんだけど」

  この本の内容を話すのは嫌だな。そう思ったので、浅見はもごもごと曖昧な反応を示した後、ごまかすように「紅茶でも飲む?」と訊いた。夕飯の支度をするにはまだ早い。

「俺は要らない。ありがとう」

  けれど葉山はそう言うと、ここでようやく読んでいた本から目を離し、改めて浅見の方を見た。葉山は鋭い。浅見が纏ったどんよりと重い空気を感じ取ったようだった。

「それで、どうしたの。それのせいでしょ、今のため息」

  未だ浅見が手にしている本を目だけで指して葉山は言った。


「随分熱心に読んでいたようだけど」
「うん、まぁ。けど、バッドエンドだったからさ」

  この話はやめよう、やめてくれ。そう思うのに、浅見がそういうオーラを発すれば発するほど、葉山は逃がす気がなくなるようだった。
  まるでこの本に出てくる「彼」のようだ。

「どういう系の話?」
「え? 系統? うーん…。ふ、不思議系、とか?」
「何それ」
「悪魔か何かを召喚しちゃう少年たちの話だから…」
「へーえ。オカルト? 珍しいね、浅見がそういうの読むの」
「オカルトと思って読み始めたわけじゃないんだけど。それに多分、話のメインはオカルトじゃない。少年の逸脱した友情っていうか、狂気っていうか」
「狂気」

  葉山の平淡な言い方に浅見はすぐ(説明の仕方を間違った)と思ったのだが、時すでに遅しだった。
  ますますその話に興味を持ち始めた葉山に、浅見は結局物語のあらすじを事細かに説明する羽目に陥ってしまった。
  曰く、その小説は一人の少年が同い年の少年に異常な執着を見せるという筋書きで。
  そこにいわゆる同性愛を感じさせる直接的な描写はないのだが、「友情」というには明らかに常軌を逸したその少年の言動は、やがて主人公である相手の少年を蝕み、恐怖のどん底に突き落としていくという…何ともやり切れぬ話になっていくのだ。

「全寮制の学校を舞台にした小説って他にも読んだことあるけど、閉鎖的な空間っていう舞台設定のせいか、人間関係ドロドロになるパターンが多いみたい」
「依存度スゴイのとか?」
「まぁ…そう。自分以外の人間と仲良くなっちゃ駄目、とかさ…。そういうのって、小学生の女の子だけってイメージ強いけど」
「そう? ここにもいるじゃん、依存度スゴイ人が」
「え」

  浅見がぴたりと動きを止めると、葉山は依然として平静な顔で自分の胸を突つき、薄く笑った。

「別に閉鎖空間には身を置いてないけど、野放しだからこそ、余計に心配になるよな」
「……何の話?」
「だからこそ束縛したい気持ちも強くなるわけだけど」
「えっと、この話、もう……」

  やめたい、と言おうとして、けれど直後にいきなり手首を掴まれたものだから、浅見は思い切りびびってしまった。何せ小説のラストがあまりに凄まじくて、それがまんまと自分たちの関係とオーバーラップしてしまっていたから。
  違う、葉山はあの少年ほど酷くはないし、本質は全然違うはずだと、頭では分かっているのだけれど。

「俺も思ってるよ。俺以外の奴と仲良くしないでって」

  それなのに、葉山はまたもやそういうことを言う。ここ最近はこの手の発言が実に増えた。だから浅見は「葉山」と呼んで止めようとするのに、葉山は懲りずに続けてしまう。

「俺のこと必要として」
「……してるよ」
「そんな怯えた顔されながら肯定されても全く説得力ないんだけど」

  葉山は自嘲するように口元だけで笑い、それからぱっと手を離した。浅見は率直に安堵した。短い時間ながらぐっと掴まれた手首は、あまりに強い力を込められたせいで、確実に「痛い」と悲鳴をあげていたから。
  こういう時の葉山は怖い。
  最初はただ「スゴイ」・「完璧な男」と思っていた、そんな葉山怜が、実はこんなにも脆い人間だったなんて。
  そしてこんなにも執着し、依存してくるなんて――…浅見には想像もできないことだった。
  何故自分が?とも思うし。

「浅見」
「あっ…」

  無意識に俯いて視線を逸らしていた浅見は呼ばれたことでハッとし、慌てて顔を上げた。案の定、葉山は暗い眼をしていた。
  ただこの時は理不尽な怒りは湛えておらず、ひたすら静かな雰囲気で、今度はゆっくりと浅見の手を撫ぜた。
  そして言った。

「大丈夫だよ。お前が逃げさえしなければ、俺はこのままだから」
「こ…このままって?」
「普通でいる努力をし続けられるってこと。浅見が抱いている俺への幻想も、なるべくリアルっぽく見えるように頑張るし」
「それって……頑張らないとできないものなの?」
「うん? うーん……多分」
「何かそれって…あんまり、いい話じゃないね」
「そうかな? まぁともかく、浅見が俺の傍にいてくれればそれでいいんだよ」

  葉山は浅見の手の甲をぽんと叩いてから、またさらりと撫でた。
それを何となく目で追ってから、浅見は恐る恐るという風に訊ねた。

「あのさ、俺…葉山のこと、当たり前に好きだし…、だからこんな仮定の話、無意味だけどさ…。もし、お…俺が、葉山から逃げるって言ったら、どうなるの? その葉山の努力っていうのがなくなったら、どうなるって言いたいわけ?」
「……そういうことを訊いてくる時点で、浅見にはもう分かっていると思うけど」
「いや分からないよ…っ。だから念のため、訊いておく。葉山はどうなる? 俺が葉山の傍からいなくなったら?」
「月並なことだよ」
「何それ…」
「その本。そういう本を読んで、浅見はため息をついたでしょ。だからつまりは、そういうことだよ」
「葉山――」
「仮定の話なんでしょ? ならもういいだろ、こんな話は不毛だよ」

  それより今すぐ抱き合おう。
  葉山はそう言って笑うと、すぐさま浅見をその場でくんと押し倒した。きちんと警戒していたつもりだったのに、浅見はいともたやすく組み伏せられて、「しまった」と思った時にはもう葉山を下から見上げることになってしまった。
  爛々とした瞳は、今はもう笑っている。
  怖くはない。怖いはずがなかった。
  でも、葉山がわざと怖がらせるのがいけない、という風には思って、ちょっと癪に障った。

「浅見」

  すると葉山にはそんな浅見の恨めしい気持ちが手に取るように分かったようで。
  心底困ったような、どこか心細い顔をして、葉山は浅見の耳元で囁いた。
  俺のこと嫌いにならないで、と。

「……うん」

  脅しているのか懇願しているのか。
  まぁきっと、その両方なのだろう。
  どこか達観した想いで葉山のそんな「いつもの」甘えを受け取りながら、浅見は自らの内に燻る恐怖をするりと抑え込んで目を閉じた。葉山の不安が浅見には分からない。ただ、いつでも不安になっている葉山のことはもう知っているから。
  だから浅見は傍らに放っておいた本の気配を感じながらも、今はもう、葉山が与えてくる熱だけに集中することに決めた。
  いつまでも違うものに意識を寄せていると、この難しくも単純な恋人は、またへそを曲げるに決まっているから。







浅見が読んでいた本のイメージはP.レイモンドの『霊能ゲーム』です。
自分がずーっと放置していて年末にやっとこ読めたので、ネタとして使わせて頂きました。
全寮制というシチュエーションはホント色々な意味でおいしいっす。