夜明けのバス停



『浅見。俺、葉山だけど覚えてるか?』

  ある日突然かかってきた電話に、陽一は一瞬言葉を出すのが遅れてしまった。
  まさか向こうが今さら連絡を取ってくるなど、思いもしていなかったから。


  葉山怜(さとし)は、陽一の高校2年時代のクラスメイトだった。
  陽一がその外貌そのままに、クラスの中で目立たないように浮かないようにしている物静かな人間だったのに対し、葉山は屈託なく誰にでも話しかける、明るく行動的な人柄を有していた。背の高い、自信に溢れたその表情は常に周りを惹き付けていたし、女子生徒にも大層人気があった。
  そんな葉山は自身と正反対の陽一に何かと声をかけてくる事が多かった。
「浅見、お前明日ヒマ? 俺ら皆で映画観に行くんだけど」
「悪いけど……」
  一体何度そんな会話を繰り返したことだろう。いい加減、「学校外でまで付き合いをしたくない」という陽一の心意を汲み取ってくれても良さそうなものだったが、陽一が時にひどく面倒臭そうな態度で接しても、彼は臆する風もなくしょっちゅうどうでもいいようなくだらないことで話し掛けてきては、最後に「今度何処か遊びに行かないか?」と誘ってくるのだった。
「俺、用があるから」
「………」
  陽一は人と話をするのがあまり好きではなかった。自分に自信がなくて、いつも下を向いていた。そんな卑屈な自分が嫌いだったが、だからこそ葉山のような人間と対するのは疲れると感じていた。
  けれど、葉山は陽一に対し、まるで遠慮というものがなかった。
「浅見さあ…俺のこと、嫌いだろ?」
  葉山は「お前のことなど全てお見通しだ」というような顔で時々そう言っては試すような目をし、最後には何故か楽しそうな表情を閃かせて小さく笑った。
「でもさ。俺はお前のこと好きだから」
  どこまで本気なのか、葉山はそんな事もよく言った。陽一はまるで取り合おうとはしなかったが。 
  ただそんな葉山とのやや一方通行的な付き合いも、高校二年の夏休み以降にはぱったりと途絶えた。


『おい、浅見? 聞いているのかよ?』


  なかなか返答を寄越さない陽一にしびれを切らせたのか、受話器の向こうから葉山の憮然とした声が響いてきた。
「あ…うん」
『あ、お前。ホントに俺の事忘れてるんだろ? ひっでーなあ。ほら、高校二年の時の! 突然学校辞めた奴いただろ!』
「覚えてるって…」
  忘れるわけがないじゃないか。
  そんな風に心の中だけでつぶやいたものの、やはり声にはならなかった。こちらがそんな事を思っていても、どうせ向こうは何とも思っていないのだから。陽一は久しぶりに聞く級友の明るい声を耳にしながら、ぼんやりとそんな事を思った。


  陽一に対する葉山の執拗な「遊びに行こう」攻撃は夏休みの終わりまで続いたが、その後は彼が突然高校を辞めたことで、一切なくなってしまった。
  葉山はどの教科に関しても人並み程度だったが、数学だけは桁違いにできた。周囲からは「怜は絶対東大に行けるよな」などと、悪意のない尊敬も受けていた。友達もクラス外にも多くいたし、何より彼はクラスの人気者だった。
  一体何が不満だったというのだろう。
  それは陽一などにはとても量れるものではなかったが、葉山が誰にも何も言わないで退学したことを担任から知らされた時は、何故という思いと同時に怒りも感じたし、「ズルイ」とも思った。

「浅見ってさ。ホント、変わった奴だよな」

  クラスの中でそんな風に自分を評価してくれ、声をかけてくるのは葉山だけだったから、陽一はそんな彼の過干渉をうっとおしいと思う一方で、どこかで支えにもしていた。それなのに、突然姿を消してしまった葉山に、陽一はどうして良いのか判らなかった。
  自分が葉山の家に電話をしようとか、ましてや会いに行こうなどという考えは及ばなかった。どうせ気紛れで相手をされていただけであろうし、仲の良かった親友(と陽一やクラスメートは思っていた)にさえ一言も相談しないで学校を去った葉山に、自分などが連絡を取れるはずもないと思った。
  その親友や他の友人たちは葉山の家に電話をしたりしたようで、時々「あいつ大検受けるんだって」とか、「ガソリンスタンドでバイトしてる」とかいう話を耳にしたりもしたが、今となってはそれもどうでもいいようなことだと陽一はいつものように知らぬふりをして過ごした。


  そして何年か経った現在、大学生となった陽一の中では、葉山怜はただの思い出のクラスメイトとして、時々思い出す程度の人間になっていた。


「覚えてるよ、忘れてないよ」
  陽一は受話器に向かってもう一度言った。
  自分の反応が遅れた事に向こうが心底怒っているようだったので、心の中で狼狽した。いつも陽一の中の思い出の葉山は、明るくて優しくて、常ににこにこ笑っている印象しかなかったから。
  もっとも久しぶりに聞く葉山の声は、当たり前だけれどやはり聞き覚えのある声だとは思った。
  陽一の焦ったような台詞を聞いてひとまず落ち着いたのか、葉山は軽くため息をついた後、言葉を継いできた。
『ホントかよ? 今思い出したんじゃねえの? ま、いいか。それより元気だったか? 大学生やってるんだろ。文学部だって? 浅見にぴったりだよな』
「……何で知ってるんだ?」
  不審に思って聞き返すと、電話の向こうの声はハハッと明るい声で笑った。あの時の、葉山だ。
『お前のことなんか何でも知ってるよ。…なーんて。この前久々田辺に会ったの、偶然。で、浅見のこと聞いたんだよ』
「ふーん…」
『けどさ、やっぱりお前は同窓会とかやっても顔出さないって。結構みんなお前に会いたがってたみたいだぜ? たまには連絡してやればいいのに』
「別に……」
  会話の弾まない陽一に、葉山は受話器の向こうで苦笑したようだった。「変わんないなあ」などと独り言のように言う。
『なっ、ところで俺さ。ヘンな夢見たんだよ、昨日。普段は夢なんか見ないで朝まで爆睡する奴なのに。しかも初めて夢の中に歴史上の人物が出て来たんだよな』
  葉山は電話してきたのも突然なら、振ってくる話題も突然で、訳の分からない夢の話を実に楽しそうにしてきた。
  それは本当にどうでも良いような話だった。
  その夢に出て来た歴史上の人物とやらも、徳川家康とかエジソンとかいった誰でもが知っているような人間ではなくて、「ワイヤー」という大昔の医者で、陽一がそんな人知らないと言うと、葉山は大袈裟に驚いた後、「お前、歴史の教職免許取るんだろ? それで知らないのかよ、ちゃんと勉強しろよな」などと、ひどく偉そうな物言いをしたのだった。
  葉山は、夢の中でワイヤーが師の犬を散歩させているところに出くわしたと言った。ワイヤーは町の人々から師の犬を悪魔の犬だと責めたてられ、石を投げられていたらしい。葉山はそれが可哀想なので何とか助けたいと思うのだが、どうしても身体が動かなくてただ見ていることしかできなかったのだと言った。
『すっごいじれったい夢でさ。よく早く学校に行かなきゃいけないのに、思うように身体が動かなくて遅刻しちゃうとかいうイラつく夢があるだろ。それに近かったな』
「………へえ」
  こいつは一体何が言いたいのだろうとは思ったものの、陽一は暫く黙って葉山の話を聞いていた。
  そのワイヤーが生きていた頃というのは、まだ魔女狩りが残っていた時代らしく、そういうものに反対していたワイヤーの師匠は、飼っていた犬共々「魔術師と地獄犬」として人々に迫害されたのだそうだ。つい先日までそんな内容の本を読んでいたから、頭の中に残っていて見た夢なんだろうなあと葉山は最後に言った。
『大勢の意見に逆らってまで自分の主張を孤独ながらに通す。アウトローな奴だよな、浅見みたいだろ』
  突然、そう言った葉山に陽一は面食らって言葉を失っていると、葉山は受話器の向こうで微かに笑ったようだった。
『だから電話したくなったんだよ。田辺に会って懐かしくなったってのもあるけど』
「……何言ってんだよ」
  つぶやくように言うと、葉山は「えー」といやに間延びした声を出してから、「浅見は反体制的なところがあるだろ」と言った。
『結構、真面目なふりして社会に逆らって生きているから。それとも、もう変わってそんなこともないの?』
「逆らって生きたことなんて一度もないよ…。お前の方が…」
『ん?』
「いきなり学校辞めたり」
『それとこれとは違うだろ』
「でも俺はそういう周りと違う事ってできな―」
『ああ、何か浅見に会いたいなあ』
  陽一の話を聞いているのかいないのか、葉山は会話を中断させると、突拍子もなくそう言ってきた。
『今って休みだろ? 俺、明日のバイト19時頃終わるから、その後会わない? 場所はさ、Y駅の北口改札で。な、決まり』
「俺、明日は―」
  しかし陽一が先を続けようとした時、電話は一方的に切れてしまった。



  高校の頃とて、学校以外で会ったことはない葉山だ。
  制服姿しか記憶に残っていないあいつが分かるだろうか、と陽一は多少不安な気持ちだった。
  ――が。
「浅見」
  待ち合わせの場所周辺で落ちつかな気にきょろきょろしている陽一を葉山の方がすぐに見つけた。
「久しぶり。ホント、全ッ然! 変わってないのな!」
  顔を合わせた途端、葉山は大きく笑って半ば呆れたように言った。そういう葉山の方も、大して陽一の記憶から外れる姿ではなかったけれど、やはり背は断然高く感じたし、短く刈った茶系の髪、洒落た色彩の服に身を包んだ葉山は、テレビに出ている有名人のようだった。そして高校の時には見られなかった銀色のピアスが目に付いた時、陽一は安物のTシャツにジーンズという格好の自分がひどく幼く見えた。
「何じろじろ見てんだー?」
  葉山が不思議そうな顔をして覗きこんできたので、陽一は慌てたようになって、「髪、黒かったから」と一番見た目の変わった箇所を指摘すると、相手はまたおかしそうに笑った。
「そういう浅見は相変わらず真っ黒だな。肌は白いのにさ」
  そして葉山は陽一の髪の毛を、まるで自分の後輩を扱うかのような仕草でぐしゃりとかきまぜた。


  葉山がずんずん歩いて行く先を陽一が黙ってついて行くと、実に自然な感じで二人は駅近くの居酒屋に落ち着いた。
「浅見はそこそこは飲めるの?」
「普通」
「あ、そう? じゃ、ナマでいいか?」
  葉山は慣れたようにさっさとビールと数品のつまみを頼むと、改めて陽一の方に視線をやってきた。久しぶりに見る級友は、やはりどことなく大人びて見えて、陽一は慣れない状況下もあってか、何故かどぎまぎとしてしまった。
「浅見。もしかして緊張してんの?」
「え…っ」
「いやあ…固まってるからさ」
「別に…っ」
  努めて虚勢を張ってそれだけを応えると、葉山はまた楽しそうに目を細めてから、「ホント、変わってない」と満足そうにつぶやいた。
「それって…」
「ん?」
  あまりにも余裕な態度の葉山が面白くなくて、陽一はやや表情を曇らせて精一杯言葉を出した。
「誉めてるのか? 何かバカにされてるように聞こえるんだけど」
「まさか。誉めてるんだよ」
  しかし葉山は陽一のその言葉で心外だとばかりに焦って両手を振ると、「お前、怒ってんの?」と困ったように苦笑した。
「俺は、嬉しくて言ってんの。どいつもこいつもちょっと年くっただけで急に色気づきやがってさ。俺はそういうのが嫌いだから」
「葉山は随分変わったくせに」
「えーそうかな」
「ピアスとか」
「え? これ? ああ、そういや。だって高校は禁止だったろ、こういうの」
「何で開けたの」
「は? 別に珍しくもないだろ、こんなもん」
「そうだけど」
「何、浅見も開けたいの」
  とんでもないと首を振ると、葉山は軽く笑ってから、自分のピアスに少し触れて「まあ、浅見はやんなくてもいいんじゃない。これは俺自身としては、ふらふらしてる人の印だから」と軽快に言い放った。
  そう言った葉山は、どことなく寂しそうだった。それから適当に酒や食べ物が並べられていくと、ようやく陽一も力が抜けてきて口数が増えていった。ただ単に葉山の次々に浴びせられる質問に答えただけではあるのだが、それによって陽一は普段は特に話しもしない日常の出来事や、大学の友人についての思いなどを語ることになった。
  しかし一方で葉山は自分のことは何も語ろうとしなかった。さすがに陽一も段々と黙っていられなくなり、隙をみてそのことを指摘してやると、葉山は鼻で軽く笑ってから「大した事してないよ。浅見みたいに勉強もしてないし」と言った。 
「毎日バイトして、金たまったらバイクにつぎこむとか、そんなことばっか」
  自分をばかにするみたいにつぶやいた。
「でも、働いているならふらふらしてないじゃないか」
  ピアスを指差してそう言うと、「お前、これにこだわるね」と葉山は苦笑した。けれどその後は割と真面目に答えた。
「俺がやってるバイトなんて、金が入る以外何もいいことないよ。時間のむだ。適当やってても通用するし、一緒に働いている奴らはヤな奴ばっかだし」
  そうして葉山はバイト先にいるよく遅刻してくる後輩のことや、口うるさい女子高生などの悪口を言った。
「しつけー女なの、これが。タイプじゃないってはっきり言ってやってんのにさ。お友達が先頭に立って告白してくるパターンとかよくあるだろ。あれをやってくるんだよな。俺がバイトの日、必ず来るんだぜ」
「………ふーん」
  葉山は高校時代もよくもてたが、そんな風に女の子のことをあしらうところを陽一は見たことがなかった。どんな子にも親切にしていたから、突然葉山が普通の男みたいに他人のことを悪く言うのでさすがに面食らった。ただ、やはり会っていない間に人間って変わるものなのだなぁと半ば諦めにも近い感情を抱いた。
  そんな陽一の思いに気がついたのかどうなのか、葉山は突然ぴたりとその話を止め、代わりに違う事を口にした。
「浅見はあからさまに女に言い寄ったりしないんだろうな。お前はああいうのと違って図々しくないしさ。ところで彼女とかいるの」
「え…っ」
「彼女じゃなくても、好きな奴とか」
「……別に」
「あ、やっぱりいないんだ」
「お、大きなお世話だよっ」
  陽一が思い切りむくれて唾を飛ばすと、葉山は何でもないことのようにその攻撃をかわしてそれを無視すると、おもむろにライターと煙草を出してちらと視線を寄越してきた。
「吸ってもいい?」
  多少むっとしていた陽一は、「嫌だ」ときっぱり言った。煙草の煙が特別嫌いというわけではなかったが、要は単なる嫌がらせだった。葉山は渋い顔をしつつも割とすぐに煙草をしまい、代わりに「これだから女できねんだよ」と余計なことを言った。
「周りでこんな吸ってんだから関係ないじゃん」
「うるさいな、嫌なもんは嫌なんだ」
「分かった分かった。言う事聞きます」
  葉山は降参という風に両手を少し挙げてから、にっこりと笑った。
  あ、昔の顔と同じだと陽一は思った。


  その後、二人は適当にどうでもいいような世間話とか高校時代の友人の話などをだらだら話しこみ、それなりの時間を過ごした。ただ陽一は、現在の葉山が具体的に何をしているのかということをなかなか訊けずにいた。女とバイト先の話しかしない葉山だったから、大検といっても難しいし、きっとフリーターか何かなのだろうと勝手に想像し、特に追求はしなかった。
  ところが帰りの会計の時になって、それは陽一の大きな思い込みだった事が判明した。
  陽一が何気なく発した先輩の就職話に、葉山が「俺の周りの奴らも卒論そっちのけで職探ししてるよ。きついからな、今」とあっさりのたまったのだ。陽一はそれによって葉山が大学に行けなかったどころか、自分と違って一年遅れることもなく現役で進学しているという事実に気づかされた。それも偏差値というものさしだけで見ても、やはり一流と目される理科系の大学に。
「何で言わないんだよ」
「訊かないから。俺の進路なんて興味ないのかな、と思って」
  素っ気無く葉山は言った。
  駅に向かうまでの短い道のりも、陽一は何となく呆れて後の言葉を続けることができなかった。葉山はただ飄々として前を歩いていた。
  時刻は23時を回っていたが、帰りの電車は割と混んでいて、陽一たちはドアの付近でお互いを見るでもなく、同じ空間に立ち尽くしていた。陽一は葉山との近すぎる距離を意識しながら、先刻言えなかった話の続きを再開させた。
「俺は自分が落ちた時にいろんな人に当然受かっただろ、って感じで訊かれまくって嫌だったから遠慮して訊かなかったんだよ。自慢すればいいだろ。高校辞めたくせに現役で入れたんだから」
「高校辞めたから受かったんだろ。勉強だけしてりゃいいんだから」
「え……じゃあ―」
「ま、別に大学受験のために学校辞めたわけじゃないけど」
「………」
  陽一が黙り込むと、葉山は高い目線からそんな相手を見下ろして、そっとため息をついた。
「浅見さぁ…」
「え…?」
「俺が辞めた時、何で何も言ってこなかったわけ?」
「……何でって?」
  陽一の問い返しに、葉山は少し怒ったようになった。
「高校だよ。俺、突然いなくなっただろ。あの時、クラスの奴、ほとんど電話してきて結構大変だった。みんな怒ってんだよな。何で一言も言わないで辞めたんだって半泣きで言ってくるのもいた。熱いよな。けどお前は」
「葉山…?」
  戸惑った時、電車がホームにたどり着いて、人の身体が勢いよく陽一の方に襲いかかってきた。肩を強く突かれて一旦電車を降りる。家がある最寄の駅まではまだ程遠い。
  その時、葉山もすっと降りてきて、ドア付近にいた陽一の腕を引っ張ると、ぐいぐいと人の波と一緒に出口に向かう階段の方へと押した。
  その間に電車のドアは閉まった。
「は、葉山…っ?」
「ちょっと付き合って」
  葉山はそれだけ言うと、後は陽一の腕を引っ張ったまま駅の改札を通るまで、もう何も言わなかった。


  まだ街は明るかったし、人の流れも多かった。あまり来ないけれど、久しぶりに来たこの駅付近はごみが散乱していて、雑然としていて、何だか居心地が悪かった。ゲームセンターとか24時間カラオケの店の看板とか、ピカピカ光るネオンがうっとおしかった。
  そういう通りを通って、葉山はその後割と広い道路がある方へ向かって歩いて行った。歩道の脇には石堤に囲まれた川が窮屈そうに流れている。川向こうには古びたようなビルがいくつか建っていて、そちらには人の通りはあまりない。道路の両端には慰め程度に植木が植えられていて、その先にぽつんと、寂れたようなバス停があった。今にも崩れそうな屋根の下に、ベンチが一つあるだけの。
  葉山はそこに来てようやく陽一の手を離し、埃だらけのベンチにどっかりと腰を下ろした。そうして自らの肘を背もたれに乗せて寄りかかると、背後に流れる川へと目線を向けた。
「この間、ここで一晩座ってた」
  何でもないことのようにいきなり言った。
「え…こんな所で?」
「そう。相当怖いよな。時々人が通るんだけど、俺がいるって分かるとぎょっとして、でも平静な顔して歩き去るんだよ」
「そりゃそうだろ。こんな所で一晩座ってたら、ヘンな人と思われるよ。バスの来る時間だってとっくに終わってるのに」
「そうだよなぁ…。でも、居場所がないってのは、すっごい嫌なもんだっていうのは分かった。心地いいところもあるけど。それにさ、2時、3時とかになっても、お前らいくつだっていうのが結構うろうろしてて。そういう奴らって話しかけてくんの。あれって何なんだろうな」
「何って」
  葉山は星など見えない汚れた街の夜の空を眺めながら、ぽつぽつと喋った。
「家がヤだとか、夜中に遊びたいってのもあるんだろうけど、さすがにこんな所、そんな時間カラオケくらいだろ、せいぜい空いてるの。だったらそこ行って遊べばいいじゃん。何で見も知らぬ俺に話しかけてくんのかね。寂しいのかな」
「そりゃ葉山がカッコいいお兄さんに見えたんだろ」
  葉山はそれを聞くと「へえっ!」と妙に高い声を出して驚いて、昔見せたような試すような目で陽一を見た。それから嬉しそうな顔を閃かせて「そうだったんだ」と言った。
「でも、俺としてはうざったいわけ。放っておけって気分」
  葉山が何だか怖い顔を見せたのは、その時が初めてだった。けれど陽一がびくっとしたのが分かったのか、葉山は表情を緩めるとすぐさま穏やかな顔に戻った。
「可愛いからいいけどさ。でも何で一人になりたいからこういう所にいる奴に構ってもらいたがるのかね? 友達いないわけじゃないんだぜ、ああいう子たちってさ。……なーんか、昔の俺が浅見にしつこくしてる絵に似てる」
  何も言わないでいると、葉山はまた軽く笑いとばした。「いい加減、座れば?」と言って、隣を手で叩く。陽一がおとなしく言うことをきくと、葉山は唐突にとんでもない事を言い出した。
「俺、結構一年の後半部分、お前に惚れられてるって思ってたんだよ」
「………な」
「クラスは違ったけどさ、何か目が合うこと多かったし。お前って、すごく地味で目立たなかったけど、それが却って目立ってたっていうか」
「一年の時…?」
「ああ、いいのいいの。ただの俺の妄想だったんだから」
  葉山はやや照れたように片手を振ってから、手持ち無沙汰になったのだろうか、ポケットから煙草を取り出し、中から一本出そうとしたが、すぐにはたとなってそれを掌で握りつぶした。
「けどお前は俺が高校辞めた時、何も言ってこなかったからさ。惚れられてるどころか、本気で嫌われてたなと気づいたわけ」
「………」
「クラスの奴らが真剣になって学校辞めた俺に色々言ってきた時、すっげー疲れた。けど、浅見の無反応は、それはそれで堪えた」
「そ、そんなの……」
「俺、お前のこと待ってたんだぜ」
「か、勝手な奴…っ」
  片方の膝を抱えて、もう片方の足をぶらぶらと揺らしていた葉山は陽一が焦ったようにつないだ台詞に素早く反応して、「俺って全然勝手な人間じゃないから、いちいち疲れるんだよ」と真剣な口調で言ってきた。
  その生真面目な台詞が、何だか今の葉山には不釣合いだった。
  そしてそれが、陽一には何だかおかしかった。
「葉山って……」
「ん……」
「ピアスで茶髪だけど、実は真面目な奴なんだな」
「ちょっと待て。お前、何年代の人間だよ」
  葉山ののけぞった台詞を無視して、陽一は笑った。人前でこんなに自然に笑える自分が何だか不思議だった。
「こんな所でそんな話して、ちょっと普通じゃないよ」
「ん……」
  すると葉山もようやくいつもの調子が戻ったのか、おかしそうに目を細めた。
「は、そうかな。浅見だから言うんだよ。俺の話って他の奴らに通じないから。けどお前、やっぱ俺のことまともに思ってなかったな。たかがピアス一個でさ」
「それとは関係なくヘンな奴だよ。大体、何年ぶりかに会ったクラスメイトをこんな汚いバス停になんか連れてきてさ。何考えてんだよ」
「今さら言うなよ」
  葉山は言って、クッと笑った。
「……でも俺も、何でここまでついてきたんだろ」
  葉山に向かって言ったのではなく、ほとんど自分に対して陽一はつぶやいてみた。少なくともあの頃の自分だったら、葉山の誘いなど無碍に断ることも全然平気だったはずだ。それが、夜も遅いこの時刻、来るはずのないバス停で二人、ベンチに座って訳の分からない話をしている。
  そんな状況が奇妙で、けれど心地良かった。
  葉山はそんな陽一の横顔をじっと見つめていたようだったが、やがて「なあ、あのさ」と問い掛けてきた。
「浅見さ。俺がお前に『彼女いるの』って訊いた時、何で『葉山はいるのか』って訊いてくれなかったわけ。結局そうなんだよな、お前って」
「……あ、ごめん。訊いてほしかったんだ。いるんだ、彼女」
  葉山は髪の毛をかきむしった後、「ばか」と呆れたように言った。
「お前ってホント鈍いやつだな。…ま、いいか。彼女、俺はいないつもりなんだけど、いるようないないような状況みたいよ。ちょっと親切にするとさ、女って勝手に自分は好かれてると思って人のこと彼氏にしちゃうんだよな」
「まあそうだけど。けどそんなの男だって勘違いな奴いるし。そんな嫌な人ばかりじゃないだろ、世の中だってさ」
  らしくもない台詞が口をついて出て、陽一は一人で勝手に戸惑った。葉山は気づいていなかったようだが、自分が自分ではないような気が、陽一にはした。アルコールが入っていたせいかもしれない。
  葉山が言葉を切った。
「浅見も勘違いな奴に捕まった? なわけないと思うけど。あのさ、俺と付き合ってみる? そしたら、その勘違いな彼女ともちゃんと話つける気にもなるんだ、俺」
「……………え」
  一瞬、何を言われているのか分からなかった。
  呆気にとられて、ただ黙って葉山の顔を見つめた。その後、段々と葉山の言ったことが頭の中に染み込んできて、急に身体中が熱くなるのを感じた。自分は一体どんな顔をしているのかと心配になった。
「何、言ってんだよ…?」
「俺は本気なんだけど」
「何が」
「俺、お前のこと好きだからさ」
「ば……ッ」
  間の抜けた顔をしているだろう、陽一は自分の見えない姿を想像し、ますます熱が上昇するのを感じた。けれども、どうしようもなかった。
「高校の時だって結構告ってたのに」
「………ッ」
  陽一は不意に過去の記憶を引き出して、忘れていた出来事を瞬時に脳裏に蘇らせた。
  そうして、同時に思い出したくもない事まで思い出してしまった。
「………」
「何黙ってんだよ」
  葉山が解答が欲しいとばかりにせっついてくる。陽一は急にそんな葉山を見ているのが苦しくなり、俯いた。
  けれど代わりに、その思い出した昔のことを口にした。
「俺、2年になったばっかりの頃さ」
「?」
「……そうだ。俺、いつかお前に言ってやろうと思ってたんだ。なのにお前は急に学校辞めちゃって」
「何の話だよ?」
  葉山が不審な顔をするのに構わずに、陽一は吐き出すように言った。
「無言電話」
「は?」
「いつか絶対絶対言ってやるって思ってたんだ。何なんだよって」
「……何言ってんの?」
「あのクラスに入りたての頃さ。面白くない奴って言われて、一人になること多くて。でもお前だけはしょっちゅう話しかけてきて。遊び行こうってしつこくて。でもその頃、もっとしつこかったものがあったんだ」
「…………」
  急にしんとなる葉山を、陽一はちらとだけ見やった。
「いたずら電話。取っても無言。けど、取らないとずーっと鳴っててさ」
「……俺だよ、それ」
「よくもあんなひどい事してくれたよな。あれ、後で聞いたんだ。葉山がやってたって」
  家族の誰でもない、自分が標的なのだろうと言うことはわかっていたし、クラスの誰かなのだろうとも思っていた。けれど、卒業間際になって親しくなった仲間の一人に聞かされるまで、それが葉山だったとは陽一は思いもしていなかった。
「俺こそ、お前に嫌われてたんだなって思った」
「そうだよ」
  葉山はつまらなそうに言って身体を思い切り背もたれに寄りかからせた。ふてくされた子供のようだった。
「俺、あの時お前のことすごい嫌いだったの。カッコつけて、一人を気取ってんのかと思ったね」
「…………」
  胸の中から鼓動の音が聞こえるくらいに、陽一は動揺した。直接言われるとやはりショックだった。
  いつも葉山は自分には優しくて。
「………俺、うざかった?」
「うん、相当。だから意地悪したの」
「…………」
「でもさ、それ以上に、俺はお前のことが好きだったの」
「え……」
「気になって仕方なかったんだよ。バカみたいだろ? 頭おかしいか? いいよ、気色悪いって言ってもさ」
「葉山」
「何、お前。結構あのこと傷ついてたの。全然普通の顔してたじゃん。けどさ、そんな昔のこと、俺自身と付き合えばすぐ忘れるよ」
  陽一が黙っていると葉山は何だかいたたまれないというような顔をした。
「お前ってすっごいずるい奴だよな。友達かと思ったら、実はそうじゃなくて。俺は、お前のそういうところがすっげー許せなくて、でも好きだったんだよ」
「………そう言えば良かったじゃないか」
「ばーか、言えるか、そんな事。でもなあ、あの時はすっげーショックだったんだからな、電話来なくて」
「え?」
「だから! 俺が学校辞めた時だよ」
「あ……」
「お前さ、もしかして電話のこと、そんな根に持ってたの?」
  葉山は陽一の前髪を指で軽くはじいてから、心底バカにしたような顔で言ってきた。それで陽一もかっとなった。
「何だよ、お前こそ今さら辞めた時のことかよ? 俺が電話しなかった? こっちこそ、葉山はどうせ俺のことなんて何とも思ってないって思ったよ。何も言わないで学校辞めてさ! 大体何で学校辞めたんだよ」
「…………」
「葉山!」
「……やっと訊いたな、俺が高校辞めた理由」
  葉山はぽつりとそう言って陽一を黙らせた。そして、ただ一言。
「分かんないんだよ。未だに。けど、ホントは俺は、知っているのかも」
「何を……?」
  陽一の問いに、葉山は答えなかった。代わりに葉山は身体を近づけ、陽一の肩を抱くと、そっと顔を近づけた。
「なあ――」
「え……」
  至近距離になっても、陽一は葉山が自分にしようとしている事が何なのか分からなかった。
「ん……ッ」
  突然あわせられた唇に面食らい、陽一は咄嗟に逆らおうとしたが、葉山に簡単に押さえつけられてしまった。押し返そうとして葉山の胸に手を当てたが、拘束はよりキツくなり、重ねられた唇は角度を変えて攻め込んできた。
「ぅん……ふ…っ!」
  葉山の舌が自分のそれを絡めとってきた時には、背筋にぞくりと悪寒が走ったが、それでもどうすることもできなくて、陽一は目をつむった。誰かとキスをするなど初めてだった。
  誰かの温度をこんなに感じたのも、やはり初めてで。
「………ッ」
  ようやく解放された時には、陽一はうっすらと涙ぐんでしまい、慌てて下を向き、同時に濡れた唇を片手でごしごしと拭った。
「………悪い」
  葉山は別段申し訳なさそうでもない口調で言った。
「な、何、い、きなり…っ!」
「だから悪い」
  もう一度言って、葉山はついとそっぽを向いた。謝罪されるべきは自分で、葉山も「悪い」と言ってきているというのに、怒った顔をしているのは何故かその葉山の方だった。
  陽一はただ戸惑ってそんな級友の横顔を見つめた。
「………葉山?」
  思わず先に折れて名前を呼んでしまうと、向こうはさっと視線を向けてきて、それからやはり気分を害したようになって返事をしてきた。
「何」
「な、何って……」
「………浅見、俺と付き合えよ」
  そして葉山はそう言ってから、またついと横を向いた。
  陽一は何も言えず、けれどもそこから去ることもできなくて、ただ不機嫌な葉山の横に居続けてしまった。


  夜明けならばこの汚れた街並もは少しは綺麗に映るのかと陽一は多少期待したが、それは実に大した事のないものだった。ぼんやりと差し込んできた淡い光がただ痛かった。
  いつの間にか眠ってしまった陽一は、知らぬ間に自分の身体が葉山にもたれかかっていたことに気づき、慌てて身を起こした。
「おはよう」
「あ…お、おはよう」
  葉山は一睡もしていないようだった。
  くっと両腕を伸ばしてから立ち上がり、改めて背伸びをする。そうして埃まみれのベンチを見やってから、傍にいる陽一を振り返って戸惑ったように言った。
「やっぱり違うな。同じ場所の、同じ夜明けでも」
  葉山の言葉に、陽一は返す言葉を知らなかった。


  気だるい身体を起こすとすぐに二人は駅に向かい、始発の電車に乗りこんだ。シートに身体を沈めるともう安心してしまい、陽一はまたすぐに眠りこけてしまった。葉山は陽一を起こすためかただ流れる車窓の景色に目をやっていたようで、陽一の目的地である駅に到達した時も割にしゃきっとした顔をしていた。
「じゃあ……」
  そして陽一が戸惑いつつそれだけを言い、立ち上がると、葉山はここでようやく思い切ったような顔になると、陽一の片手をぐっと掴んで引き止めた。
「は…っ!」
  焦って陽一がそれを振り解こうとすると、葉山は先手を打ってすぐにその手を放した。
  けれどもすかさず。
「電話する」
  それから、やっといつもの笑顔を見せた。
「あ………」
  陽一はその葉山の表情を見て、カッと顔が熱くなるのを感じた。それを悟られないよう、慌てて言葉を出す。
「し、知らないよ…!」
「出ないとずっと無言電話だからな!」
「な…! ま、またかよ!」
「早く降りないと閉まるぞ」
「あ…ッ!!」
  言われて陽一が慌てて飛び降りた瞬間、電車のドアは閉じられた。焦って振り返ると、葉山のおかしそうにしている顔が目に入った。
  それから。

  またな。

  葉山が片手を振って挨拶をしてきた。
「何だよ……」
  陽一は、ゆっくりと走り出す電車の音に声をかき消されながら、それでも黙っておられずにつぶやいた。それからようやく全身が楽になるのを感じ、肩で息をした。
  電車はあっという間に駅のホームから遠ざかって行った。陽一はそれをしばらく見送ってから、その後視線を線路の向こうに見える街の方向へと移した。

  徐々に明るくなる日差しがいやに温かく感じられ、いつもの景色が違って見えた。