―2― |
陽一は高校時代の葉山を単純に「凄い奴だな」と思って尊敬していた。 そのことは付き合うようになってから陽一なりにちょいちょい伝えていたのだが、それに対して葉山は嘲笑して聞かなかったことにするか、不機嫌になって思い切り否定してくるか或いは黙り込むかで、総じてロクなことにはならなかった。だから陽一としても、いつからかそのリスペクトを表すことはやめたのだが、自分にないものを多く持つ葉山を凄いと思っていることに変わりはないし、だからこそ、何故こんなにも多くのものを持つ男が、ここまで自分に絶望しているのかという疑念は深まるばかりだった。 そう、葉山は自分というものを信じていない。 陽一とて多少なり自らを卑下することはあるし、どちらかというと一般人よりそれは顕著かもしれないと自覚もしている。昔から大勢の中にいるのが苦手で、友だちも少ない根暗な性格。結構コツコツと真面目に勉強する方なのに、いつも思うような成績が取れず、志望大にも入れなかった。浪人もした。「頭の悪い」自分に嫌気がさしたし、「でもまぁこんなものか」と、見切りをつけるような台詞も吐く、そんなところも嫌だった。そう、「自分のことが好きではない」という点では、陽一も葉山と同じなのだ。そこは似ている部分もなくはなく、だからこそ今のこの関係が出来上がったとも言える。 しかしだからと言って、最近の葉山のこれは。 「俺のこと弄んで面白い?」 会った早々そんな風に言われるものだから、陽一は「葉山の方が重症だ」と思わずにはいられなかった。 そう、葉山は重症だ。ちょっとおかしいのだ。 当の本人にその自覚があるのかどうか。葉山はつかつかと歩み寄ると、すぐさま陽一の手を取って無理やり立たせようとした。陽一の膝にいる仔犬にはまるで目が行っていない。強引に引っ張られたせいで思わず腰が少しだけ浮き上がり、力を抜いていたらしい仔犬はその膝からごろんと転げ落ちてしまった。何とかその場に留まって事なきを得たが、もしも勢い込んでベンチから落ちていたら。陽一は途端カッとした。問答無用に掴まれた手も何とか振りほどこうと、目いっぱいの力で引っ張り返す。 それでもその手は離れなかったのだけれど。 「ちょっと、何だよ!」 「行こ」 「行く…って、どっ、どこに!?」 「どこでもいい。2人きりになれるとこ」 淡々と告げる葉山に怒りの色はない。しかし微かな苛立ちは感じられた。2人きりになれる所と言っても、公園内にはまばらに人の姿があるだけで、話そうと思えばここでも十分話せる。遊具も特にない、芝生の広場と幾つかの木のベンチと、管理者が手入れをする花壇が遊歩道に沿って並んでいるだけの簡素な敷地。サッカー等をするには狭く不向きだが、小さな子どもが芝生で親とボール遊びをするくらいならばちょうど良い、そんな小公園。時刻も夕方に近いせいか、親子連れが2組、十数メートル先で談笑しているのが見えるだけ。従って現在、陽一たちの会話に聞き耳を立てるような野次馬はいない。 「話ならここでできるだろ」 だからはっきりとそう言った。少し冷たいだろうか。そう思いながらも、仔犬を弾き飛ばされた恨みから、陽一は頑としてベンチを立とうとしなかった。手は掴まれたままだけれど、むしろ葉山の方こそがここへ座ればいいと、また少し引っ張り返してもみた。しかし葉山は微動だにしない。珍しく逆らうような口調と表情を向けた陽一に戸惑っているのか、それとももうとっくに「弱っている」のか。瞳がゆらゆらと揺れて、陽一が何を考えているのか必死に探るような、そんな目をしている。 だから仕方なく陽一の方から再度口を開いた。 「すぐに返信しなかったのは悪かったと思うよ。電源切っていたから気づかなかったんだよ」 「………」 「でも返事なんて、すぐにできないことくらいあるだろ? 葉山だって、俺からのメール無視することあるじゃないか」 「………」 葉山は応えない。じりじりした想いが腹の底から湧き上がったが、それでも陽一は「こんなことも、もう初めてではないから」と言い聞かせ、不満を飲み込む。 「あのさ、葉山―…」 「今イラついているみたいだけど、俺の方がもっとだから」 しかしその葛藤を見透かされた上にそんな風に言われたものだから、さすがにむっとした。 「俺の方がもっとって、何でそんなことが言えるんだよ。葉山に俺の気持ちは分からないだろ? 俺の方がむかついているかもしれない」 「やっぱむかついてるんだ」 「は!?」 「どのことに。俺がしつこく電話やメールしたこと? ストーカー紛いに実家まで押しかけてきたこと? それとも俺のこの横柄な言い草?」 「分かっているならいちいち訊くなよっ。全部だよ、全部!」 気遣って話さなければと思っていた気持ちはどこへやら。あまりに葉山がさくさくと、しかも腹の立つ言葉を出しまくるものだから、つい陽一も素の態度で唾を飛ばしてしまった。 すると、何やら2人の見知らぬ人間が不穏な様子であることを察知した仔犬が、如何にも居心地が悪いというようにもぞもぞと動き出し、ベンチから飛び下りようとした。陽一はそれを慌てて止め、何とか片手だけで仔犬を再び自分の膝の上へと戻した。片手を拘束されているから不便極まりない。 「いい加減、手、放してよ」 「ここから離れることに賛成してくれるならいいよ。浅見だってこんな実家近くで男と喧嘩しているとこ、誰かに見られたくないだろ」 「……別に。喧嘩しなければいい」 「無理だろ。どっちとも互いに腹立っているし。このままここで話して、平和的な解決ができると思えない」 「平和的な解決を望んでいるの?」 あまりに意外な単語が飛び出てきたので陽一が違う方向で驚くと、葉山は葉山で、そんなズレた反応を示す浅見にまた機嫌が下降したらしい。露骨に形の良い眉をひそめてきつい目を向け、「お前本当にむかつく」などと毒づいた。 「……っ」 陽一にしてみれば理不尽にも程がある。それに、元々葉山は口が悪い方だが、少なくとも付き合い初めはこんな風ではなかったと思う。あの頃の葉山にはもっと気遣いというか優しさがあったし、自分の言動に悪いところがあれば、必ずすぐに謝ってくれた。 しかし最近はどうだろう、そういう葉山が全然いない。勝手で、強引で、いつでも浅見が葉山のペースに合わせないと嫌だと駄々っ子のように我がままを言う。自分のやりたいことを貫き通そうとして、絶対に妥協しない。折れない。 ああ、嫌だ。どんどん葉山の嫌なところを考えてしまう。 陽一は葉山から目を逸らした。むかつくのはこっちの方だ。このまま一緒にいたらどんどん悪い方へ行って、「今日くらい、偶に会いたくないことだってある」と誤魔化して流そうとしていたものが、「本当はもう会いたくないと思っていたのではないか」、「だから誘いを断ったのではないか」という、確かに先ほどまではまるで頭になかった考えに到達しそうになる。 「…ここで話さないなら俺は帰る。勝手な葉山とは話したくない」 手だけが目前の葉山によって掴まれ、宙ぶらりんのように上がっているが、陽一の他の部分は地面にのめり込むのじゃないかと思うほど下へ下へと向いていた。声もそうだ、恐ろしく低調。葉山のことは一瞬だけ見て、後はすぐさま視線を逃がした。葉山を怖いと思う気持ちと、心配する気持ち。さらには、負けてたまるかという妙な対抗心とがせめぎ合う。仔犬の温もりが何ともありがたい。幸い今は大人しく、陽一の太腿の匂いをすんすんと嗅ぎながら大人しくしている。その顔を見て少しだけ気持ちが上昇した。そしてそれによってふっと表情が緩んだ時、するりと握られていた手は解放された。 ハッとして横を見ると、葉山がそこへすとんと腰を下ろすのが見えた。まさか、妥協した?ここで話すことをよしとした?仄かに期待感が沸いて陽一はまじまじと恋人の横顔を見つめた……が、葉山はそうしてこなかった、少し目が怒っている。けれどそれは、心細そうでもあった。よくもこんな、相手の感情を揺さぶるような表情をするものだと陽一は半ば感心した。あぁだから葉山の周りには人が集まるのかなと、そんなことも思いながら。 「その犬、どうしたの」 すると葉山が唐突にそう訊いてきた。それから「貸して」と言うので、促されるまま渡してしまう。葉山はぞんざいに仔犬を受け取ったが、両手でその小さな身体を抱き上げると、「軽っ」とバカにするような口調で感想を述べた。無防備に「高い高い」をされた仔犬は、しかし依然としておとなしく、不思議そうな顔で葉山のことをじっと見下ろすだけだ。 陽一は意外な想いがして、ごく自然に口を開いた。 「犬、好きだったっけ?」 「何で」 「そんな、すぐ触りたがるから」 「別に。浅見に抱かせておきたくないから取っただけだけど。浅見のこと触っていいの、俺だけだし」 「ちょ…」 赤面ものなことをさらっと言われ、陽一は絶句しつつ咄嗟に辺りを見回した。近くに人の気配はない、変わらず先ほど確認した親子連れが遠方にいるだけだ。が、確かにこんな時間にこんな所で若い男子が2人、先ほどまでは手まで繋いで、もしも近所の噂好きの奥様連中にでも見られたら目も当てられない。目立たず無難に生きて来た隣人付き合いもどうしたって変化するだろう。そして無論、最も避けたいのは、間接的な形で両親に葉山のことが知られることだ。 「だから言ったじゃん、場所変えようって」 「わ、わざとかよ、嫌がらせで言ったのっ?」 陽一が「酷い」と思って抗議の目を向けると、葉山は少しだけ悲しそうな目を寄越してから「別に、本心だけど」と呟いた。怒られるよりも「痛い」。陽一がぐっと詰まると、葉山は仔犬の顔を覗きこみながら続けた。 「用事ってこの犬のこと? 犬飼うことにしたの?」 「…そういうわけじゃないよ。うち、ペットは駄目だから。誰か引き取り手を探そうってことになってる」 「知り合いに頼んでみようか? 先輩にバイク屋やっている人がいるんだけど、いい人だし、自営業で敷地結構あるから犬くらい飼えるかも。というか、もう飼っているかも」 「えっ、本当に…。その先輩って、何処に住んでいる人―…」 「やっぱやめた」 「えっ」 「今のなし」 「なっ…何で?」 前のめりに訊こうとした瞬間、梯子を外されたので、陽一は思い切りがくりとなった。 しかも葉山の理由がまた酷い。 「そうやって恩を売るのもいいけど、浅見が犬目当てで先輩の所へ通うようになって下手に仲良しにでもなられたら、それこそ地獄だから。そのリスクを考えたら、やっぱ人なんか紹介できないし、したくない」 「……何でさ、葉山は」 「何?」 待ってましたと言わんばかりにすかさず聞き返されて、陽一はまたしてもペースを乱されたのだが―…、何とか踏ん張って向き合う。 「何でそんな余裕がないんだよ。最近さ…、何か…、何か、ヘンだよ…?」 「変な俺とは会いたくないから、用事あるって断った? こんなさ…犬に負けるとか、何それ? 犬の方が大事なんだ。浅見にとっては。でもそれはそうか、俺なんかと会うより犬とじゃれていた方が遥かに気楽だもんな。ストレスフリーってやつ」 「……本当は犬が理由じゃない」 「分かってるよ。第一、理由なんてどうでもいい、あってもなくても。実際、大した理由じゃないんだろ? 単に俺と会いたくないから断ったってだけだろ? そろそろそうなるんじゃないかと思ってたし」 「思ってたんだ」 陽一が驚いて聞き返すと、葉山は大きく頷いた。 「うん、思ってた。そりゃそうだよな。会うたびヤろうって迫ってきて、ヤったらヤったで、その後も抱き着いたまま離れないとか、なかなか家帰そうとしないとか。そんなウゼェ彼氏いる? 俺だったら冗談じゃないね。ぶん殴って縁切って終わりだな、そんな奴」 「な…何だよ、その自虐は…。じゃあ俺と終わりにしたくて、ああいうことしてたの」 陽一の問いかけに葉山はさっと傷ついた顔をした。 「そんなわけないだろ。何でわざわざ嫌われる真似しなきゃならないんだよ、嫌われたい相手にならともかく…。俺は、浅見にだけは嫌われたくないのに。誰に嫌われても、どう思われてもどうでもいいけど、浅見に疎まれるのだけは耐えられないのに」 「なら…」 「何でそんなことするって、そんなの俺こそが俺に訊きたいよ。お前、何考えてんだって、ばっかじゃねえのって。…ちょっと前の俺だったらもう少し自制が利いていたんだけどな。確かに最近、全然だめだな」 興味がないと言いながら、葉山は恐らくピンポイントで犬が喜ぶ箇所を撫でていた。言っていることは不穏だし、まくしたてていて如何にも余裕がない感じなのに、口の動きと手のそれとがまるで違う。 仔犬もそれで眠たくなったようで、葉山に撫でられながら徐々に目が閉じていき、実に気持ち良さそうな顔で遂にはストンと寝入ってしまった。仔犬は一日の殆どを眠りに使うと言うが、本当に少し撫でただけですぐさま寝る。そしてその顔はとても可愛い。あまりの愛らしさに陽一は、そんな場合ではないはずなのにほっと気が緩んだ。無論、一瞬のことだけれど。すぐさま葉山の暗い声がやってきたから。 「浅見って時々そういう顔するよな」 「え。そういうって…?」 「知らなかった? 子どもとか年寄りとか、自分より弱い相手にはそうなるよ。菩薩の顔っていうかさ…何もかも許す、みたいな。凄く綺麗な顔」 「なっ…何それ。大体、菩薩って何だよ、意味分かんないよ」 「前は俺にもそういう顔よく見せてくれていたけど、最近はそっち系じゃなくて、どっちかっていうと憐みの度合いが強くなった感じ」 「は?」 「こいつ可哀想だから一緒にいてやるか、一緒にいてやらなきゃダメだよな、みたいな」 「………」 「別に、それでもいいんだけど、俺は。情でも何でも、浅見が俺を見放せないって思ってくれているなら、それはそれで」 「……いや。いや、絶対おかしい、それは。それに、さっきも言ったけど、勝手に決めるなよ、俺の気持ちを。葉山の話は時々自虐が過ぎてついていけない」 思い切ってそう告げると、葉山はすっかり表情を消してしまい、先ほど陽一がしたように足元へと視線を落とした。そんな所に目を向けても何も見えはしないのに。 「ついていけない」 そうして葉山は機械的に、陽一の発した最後の台詞を繰り返した。仄暗い眼で。その態度に陽一は途端ぎくりとして肩先を震わせたのだが、幸い葉山は下を向いたままだ。 「葉山」 恐る恐る声をかけてみたが返答はない。何を考えているのか分からない。単純に落ち込んだのか、それとも頭にきているのか。この横顔では分からない、何か言って欲しい。 けれど陽一のそんな希望もどこ吹く風で、葉山はすっかり黙り込んでしまっている。 だから観念して、陽一は予想を「前者」に置いて話すことにした。そして、正直な気持ちを伝えようと腹を決めた。 「…自分でも今日のことは、ちょっと引っかかってた」 なるべくゆっくり静かな口調で告げる。「落ち込んでいる」葉山を労わるように。 「葉山が声をかけてくるより前に、今日は姉さんと約束していたんだ、早く帰るって。その用事自体はホント…言うのも憚られるようなくだらないことだったんだけど。でも葉山もさっき言っていたけど、それがどんな用かは関係なくて、葉山の誘いを断ることを決めたのは俺で、そこが問題だったわけで。…ただ何でそうしたかは、もう葉山も分かっているみたいだけど」 「うん」 葉山はまだ陽一を見ない。けれど返事はあった。だから陽一も話しやすくなった。 「はっきり言うけど、最近会う度にすぐさ、その…、するだろ…? それが嫌だったんだ。きついなって思うこともあったし。実際、葉山って始めると容赦ないって言うか、俺がいくらやめて欲しいって言っても、なかなかやめてくれないし」 「うん」 「だから偶には断ってもいいよなって思ったんだ。俺だって偶には身体を休めたい。これって俺が悪いことになる?」 「うん」 「なるのかよっ」 思わずツッコミのように即返すると、葉山はそんな陽一にふっと口元だけで笑ってから、実に大きなため息を漏らした。 それからゆっくりと首を振る。 「冗談だよ。浅見は悪くない。100%悪いのは俺」 「そ……そう、素直に言われると……俺も……もっとはっきり嫌だって言えなかったの、悪いと思うし」 「いや。だって最近の浅見、俺のこと怖がっているでしょ?」 「え?」 目を見開いて声を失うと、葉山はすかさず続けた。 「何を言うのも遠慮がちだし、言わないままのこともあるし。俺に対してさ、何を言ったら地雷になるのかってびくびくしているだろ? 実際俺の沸点低過ぎだもんな、これも自分で分かってる」 「………」 「こんなクズに過ぎるほど気を遣ってくれる浅見は最高だよ。好き過ぎる。けど、これもいつものことだけど、そういう浅見に猛烈イラついたりもするから、俺は。だから酷くしてやりたくなる。虐めたくなるんだ。しつこく抱いて、縛り付けてさ…それでお前が苦しそうにしたり泣いたりするのを見ると、ちょっとスッとする」 「葉山」 「それに浅見抱いている時って、当たり前だけど浅見は俺に突っ込まれているから逃げられないだろ。だからその時だけは安心で、だからいつでも抱いていたい。――この話、前にもしたっけ?」 「多分。けどそういう話、ここでは」 「もう誰もいないよ」 遠方にいた2組の親子もいつの間にか消えていた。日が落ちかける時分でも、生温い風が漂っていて寒くはない。―…陽一にしてみると、違う意味で空寒い気持ちではあったが。 「キスしていい?」 それなのに問答無用で葉山はそんなことを言ってきた。これは許可を取ろうとしているんじゃない、一応訊いてはいるけれど、することは決まりと言っているも同じだ。陽一はそのことをすぐさま察した。 こんな所で。いいわけがないじゃないか。誰かに見られたらどうしてくれる。―…そう暗に目で訴えてみたが、やはり葉山には何ほどのこともないようだ。移動しようと言ったのにそれを良しとしなかったお前が悪いのだと。むしろそう言いた気だ。 現に陽一がその場を動かずにいると、葉山の顔はどんどんと近づいてきた。やっぱりだ、結局何を言おうがする気なのだ。 「…ん」 恐ろしいほど時の流れが遅く感じたが、ただ実際、唇が触れ合ったのは1秒にも満たなかった。葉山は顔を寄せてからすぐにはせず、陽一の頬を何度か撫でた。そうして陽一がそれに微か唇を震わせた瞬間、一度だけそっと重ねてきた。いつもの痛過ぎるキスはない。優しく静かなキスだった。 「何で嫌って言わなかった?」 しかも葉山は、自らの指先ですぐさま陽一の口を拭った。どうしてと思ったが、口を押えられているので何も言えない。でも訊かれている。陽一は少しだけ首を揺らして葉山の指を解くと、「だって」と困ったような小声で答えた。 「どうせそう言ってもやると思ったからさ」 「そうだけど。けど、誰か知りあいに見られたら困るんじゃないの」 「うん…。でも、葉山は俺を困らせたいんだろ」 「それもその通りだけど。でもこんな状況だし、もしも浅見が、『俺に触れてきたら別れるからな』くらいに断固として拒否ってきたら、さすがにやらなかったよ」 「……そんなこと言わないよ」 面倒くさいし、しつこいし、どこか病んでいるし。 そんな葉山は嫌だとは確実に思っているのに、陽一はそう返答した。大体、「さっきのは嫌だった」と思う。キスのことではない、さっきの葉山が言ったこと、あれを否定したい。別に同情なんかじゃない、俺がいてやらなきゃなんてそんな責任感で付き合ってもいない。何て失礼なことを言うのか、と。怒ってやりたい。 でも、できない。どうしてだろうと思う。 ただ代わりの言葉は紡いだ。 「今日は葉山と会いたくなかった。だってやりたくなかったから。けど今、キスしていいかって訊かれて、ここでは困ると思ったけど、嫌じゃなかった。葉山はどうせやめろって言ってもやるだろうなんて自分に言い訳して、でも結局、俺もしたかったんだよ。葉山とキスしたかった。今してみて、それが分かったよ」 「……何? どうしたの? 何か機嫌とろうとしてる?」 葉山が思い切り戸惑って、それをごまかすように下手な笑いを見せたので、陽一はさっきのお返しとばかり、軽く眉をひそめて見せた。 「そうやって俺の言うこと信じようとしない葉山はむかつく。本当、自分に自信なさ過ぎなんだよ」 「……当たり前だろ。こんな奴、普通に考えて好きになんてならないよ。仮に前は好きだったとしても、もう愛想が尽きて当たり前だし」 「だからもういいよ、その自虐の話は。とにかく、俺もしたかったってことが分かったって話だよ。それでいいだろ」 陽一はヤケクソのようにそう言うと、おもむろに立ち上がって伸びをした。背骨がぎしりと軋む。昨日まで連日続いた行為のせいだろう、あちこち痛い。これで今日もヤッていたら、いよいよどこかを決定的に痛めたかもしれない。やはり今日は断って良かったのだ、そう思った。 「偶にはさ…。こういう、外で会ったりしたいな」 だから何となくそう言ってみた。立ってしまうと葉山の顔はうかがえない。ちらりと振り返ると、とても神妙な顔をしていた。思わず笑いそうになったが、それは隠してまたすぐに前を向く。 「駄目かな…。そういうの。俺は、そういうのがしたいんだけど。部屋で一緒に過ごすだけじゃなくてさ…。本当に、偶にでいいから」 「外ってどこ」 葉山がぼそりと返してきたので、浅見は「どこでもいいよ」と振り返って微笑んだ。 「こういう公園行くとか映画とか。あ、ツーリングとか!? 俺、免許ないから二輪の免許、取ろうかな?」 「バカ、やめろ」 「何で」 「危ないだろ」 酷く真面目な顔でそんなことを言う葉山に、浅見はいよいよ笑ってしまった。 「何言ってんだよ、自分だって乗りまくっているくせに」 「もうやめた」 「えっ、嘘だろ?」 「やめる…たぶん」 酷く驚いて見せたせいか、葉山も同じくらい驚いたようで、バイクを否定する声のトーンは弱くなった。 陽一はそれに心底からホッとした。 「良かった。まだやめていないなら、やめるのをやめなよ」 「何で…」 「だってバイク乗る葉山のことが好きだもん、俺。走っているとこ、見たことはないけどさ。バイクが好きなこと、話を聞くだけでも分かるから」 「でも俺は、浅見が1番好きなんだ」 葉山は切実に言った。その瞬間、仔犬がびくりとして目を覚ました。別段力を入れたわけではないだろう、しかし確実に何かは感じ取ったようで、仔犬は急いで葉山の膝から脱出した。 それをいいことに葉山は自らも立ち上がり、浅見に一歩近づきながら言った。 「浅見が1番好きだ。今日、お前に会えないってなってそれだけで狂いそうになった。だからカッとなってまた墓穴掘るようなこと言いまくったけど。そういう、最高にバカな奴だけど、俺。けど俺のこと、嫌わないで」 「嫌わないよ」 すぐさまそう応えたけれど、ぐっと両の肩を掴まれたところは痛かった。そこにちらと目を留めてから、陽一は葉山の切羽詰まった顔を見上げた。同情?そういうんじゃない。咄嗟にそう思ったが、その単語が頭に自然と浮かび上がったのも事実だった。 今の葉山はどこかおかしい。けれどだからこそ、どうにかしてやりたい。そういう風にも思っている。 「どうしたら浅見を繋ぎとめておけるか知りたい」 その葉山はそう続けて、苦しそうに息を吐いた。 「バイク乗る俺が好きならバイクやめない。デートしたいなら幾らでもするよ、全然する。何なら今からここ一周でも十周でもしようか。……焦るんだ。浅見が俺の傍にいないと。猛烈に、焦る」 「……高校の頃は自分からいなくなったくせに」 陽一が何気なくそう返すと、葉山は思ってもないことを言われたとばかりに目を見開いた。 「は? 何言ってんだよ…そんな昔のこと」 「だってそうじゃないか。何だかんだ言っても、葉山はそういうところがあるよ。こんな風に言っておいて、実は急にいなくなるのは葉山だったりして」 「そんなわけないだろ」 腹を立てたように言い切る葉山に、陽一は苦笑してからそっとその手に触れた。それに今度は葉山の方がびくりと震えたが、それでも陽一はその手をぎゅっと握りしめた。 「十周もしなくていいけど。やっぱり今日はここで話せて良かった。だから葉山んち、今日は行かないから」 「そん……なの、分かっているけど」 ぐっとなりながらも、しかしそう答える葉山に、陽一は思わず破顔した。 「良かった。強引に拉致してきたらどうしようかと思った」 「…んなことするかよ。犬だってい―…」 「あっ、何で!」 いつの間にかベンチを降りてとことこと芝生へ向かっている仔犬に気づき、陽一は声を上げると慌ててその後を追った。葉山もそれに続き、おとなしい仔犬はすぐさま確保されたが、少ししか歩いていないのに2人は思い切り息を吐いた。いると思っていた場所からふっと消えていた仔犬に意表を突かれ、心臓を跳ねあがらせたせいだ。少しの間ではあるが、完全に互いのことしか見えていなかったことに今さらながら気づかされる。それも少し恥ずかしい。 だから同時に息を吐いた後は、お互い同時に苦笑した。 「焦った…。いなくなったらどうしようかと思った」 「俺も。これ以上浅見に嫌われる材料増やしたくない」 葉山の言い様に、陽一はまた笑った。 「はは…。うん。犬いなくなったら、葉山を恨んだかも」 それから暫くの間、2人は仔犬と一緒に芝生の上で夕闇の空を見上げた。そういえばこの間はこうやって2人で星空を見たねと陽一が言うと、葉山も、「俺も今、同じこと考えてた」と珍しく照れたように応えた。だから陽一はいよいよ心から安堵して、「やっぱり偶にはこういうのもいいだろ」と少しだけ偉そうに言ってやった。 葉山はそれに同意しなかったが、陽一が確認する限り、先ほどまでの瞳の色とは確実に違っていた。だからその色をさり気なくちらちらと盗み見ながら、陽一は、「そっちの方がよっぽど綺麗じゃないか」と呟いた。 |
―完― |
浅見はM属性だから葉山とやっていけてるのかな?
戻