だってばかだから



  ヨシヒトはどう贔屓目に取っても善人なんかじゃないのに、「善人(よしひと)」という名前だ。どうでもいいことではあるけど、あいつに「無神経だなあ」、「ひどいなあ」ということをされたり言われたりする度に、そう思う。
  あいつの善人って名前はホントにどうなんだって。

「ごめんな、エイ。俺、好きな奴ができたんだ。俺、お前には嘘つけないから、早く言った方がいいと思って。俺と別れて欲しい」

  最初に「お前のことが好きだから付き合って欲しい」と言ってきたのはヨシヒトの方だ。俺もヨシヒトを好きかもしれないなぁ、いや、きっと好きなんだろうと思い始めていた時だったから告白されて嬉しかったし、だから今さら「お前の方が先に惚れたんだろ!」とか、そんなバカな事を言う気はないんだけど。
  それにしても、付き合ってまだたったの三ヶ月で、もう違う人間に心変わりするだなんて。幾ら何でも早過ぎなんじゃないの?
「そんなら、俺が別れたくないって言ったら迷惑だよな」
  バカ正直にそう訊いたら、ヨシヒトは本当に困った顔をして「うん」と、これまた正直に頷いた。まったく笑ってしまう。それで俺たちは恋人期間たったの三ヶ月で見事破局した。大学受験も間近に控えた、高校三年の秋のことだ。きっとあんまり会わなかった夏休みの間に、その新しい好きな人と親交を深めたんだろう。手の早いあいつのことだ、身体の関係もさっさと深めたに違いない。
  それにしてもその後「最悪だ」と思ったのは、そのヨシヒトの新しい恋人というのが、何をかくそう俺たちと同じクラスの、やっぱり男だったということだ。まぁ男子校だから、同じクラスと言ったらそれは男しかいないけど。

「ホント、男同士なのにどうなの、あの似合い過ぎるカップルは」
「マジでな。あれなら何か納得しちゃうよなぁ」

  幾ら同年代の女の子とあまりお知り合いになれないからって、こう頻繁に男同士のカップルが生まれることを何とも思わないで許容する環境もどうなのか。
  まぁそういうののお陰で、俺たちが付き合っている時も特別凄い中傷やからかいを受けずに済んだのだけど。でもそれにしたって、普通は「えっ、ヨシヒト、それはないだろ? エイと付き合ってたくせに、カナメと? それは酷いよ!」って眉をひそめたり、あからさまに批難したりするのがフツーなんじゃないの?
  それなのに、少なくとも俺が知る限りでは、周りでそんな風に俺を可哀想だって見てくれる奴は現れなかった。二年の後半から転校してきた紫藤要(しどう かなめ)君は、明るくて元気で、それでいて控え目なところもあって。誰がどう見ても好感の持てる、皆にモテモテのいわゆるアイドルみたいな存在だったから。だからだろうな。
  それに、ひらひら細っこくて何考えてるのか分からない、いつでも大海に身を委ねてボーッとしている平淡なエイみたいな英安(ヒデヤス)―つまり俺のことだけど―に、元よりヨシヒトはふさわしくないって思ってる連中は多かっただろう。ヨシヒトは決して善人じゃないけど、外見だけはいい。あいつのどこがいいのかって言われたら、「やっぱり一番は顔じゃない?」なんて答えそうな俺がいる。たかが三ヶ月とは言え、恋人であった俺ですらそんな感想なのだから、周囲のあいつへの評価なんてたかが知れてる。でも、それって案外大きいことだ。見目の良いヨシヒトとカナメの二人が並ぶなら、無関係の他人にしてみたら「ふーん、まぁ目の保養?」なんて喜ぶんだろうし。逆にいつまでも不釣合いの俺がヨシヒトの隣なんかにいたら、「身の程知らず」って不愉快になるんだろう。誰も、浮気されて捨てられたエイの気持ちになんか気を配らない。エイはいつでも目立たない、何考えてるのか分からない地味な奴だから。……自分で言うのも何なのだけれど。

「なぁエイ。でも俺たち、これからも良い友だちではいような?」

  それにしてもつくづくまた「最悪だ」と思うのが、ヨシヒトのこういった信じ難い発言の数々だった。

「今まで一緒に帰ってたんだし、毎日は無理としても、これからも時々は一緒に帰ろうぜ。カナメもいいって言ってくれてるし」

  いいわけがない。もしかすると偶に物凄い低確率で、そういう、元恋人も交えて三人で下校ってシチュエーションを受け入れるアホも存在するのかもしれないが、普通は「嫌だ!」と思うだろうよ。しかも、おどろおどろしい言い方をさせてもらえば、結局今の二人の恋人関係って、「略奪愛」から成立したものじゃないか。俺という恋人がありながら、二人は夏休み散々こっそりちちくりあって。それでもってお互いラブラブを極めたら、「エイ、別れてくれ。俺とカナメは真剣に愛しあってるんだ」だぜ。凄い! まったく凄いとしか言えない! こんな喜劇が許されるのだろうか? 
  でも、俺個人にとっては大事件で酷い話でも、世間では結構よくある話だと思うし、周囲にとっては何ほどのこともない。当事者のヨシヒトやカナメにとっても、「痛みは伴ったけれど、ハッピーエンド」くらいのもんだろう(この場合、「それってどんな痛みなんだ?」って、俺は突っ込んでもいいんだよな?)。
  俺がどんなに傷心な気持ちでいたって、変わらず世界は回り続ける。この世界のどこかでは、今日も戦争が起きてる街だってあるんだ。
  何てこともない。ヨシヒトに、「ふざけんなっ」とは、思うけど。

「あのさ、エイちゃん。エイちゃんって、やっぱり結構神経図太いっていうか鈍感っていうか。とにかく、酷いとこあるよね?」

  因みに、俺は相手のカナメのことはあんまり何とも思っていなかった。
  今日突然、そう切り出されるまでは。

「幾らヨシヒトがそう言ってるからって、普通は一緒に帰ったりしないよ? だってもう別れたわけじゃん、二人って。そうでしょ? それなのに、ヨシヒトから言われたからって一緒に帰るのっておかしいよ。僕にも罪悪感があるからあんまり言えないで我慢してたけど、僕が言わなきゃエイちゃんいつまでも気付かないみたいだから。でももう、これで十分復讐は遂げたでしょ? やり返した気分になったでしょ? だからもうそろそろ、酷い嫌がらせはやめてもらえないかな?」

  言っておくけど、ヨシヒトから「これからも良い友だちでいよう」、「たまには一緒に帰ろう」とバカ過ぎる提案をされた時、俺は「嫌だ」とはっきり言ったんだ。「何考えてんの? それって凄くバカだよ?」って。実に久しぶりというかで、至極真面目な顔までして諭してやったんだ。
  でも、鈍感で酷いヨシヒトには通じなかった。あろうことか、あいつは俺に言ったんだ。

「何言ってんだよ? そんな風に言うお前がバカだって。そんなこと、気にする方がどうかしてるよ」

  ここで気付いた。そうか、こいつは善人でも悪人でもないけれど、真性のバカなんだ、と。
  悪気がないから憎めないし、見目が良いから騙されるけど、本当にどこまでもバカだし、それはきっと一生治るものじゃない。
  因みにここで言うバカっていうのは、俺的には「人間的バカ」という意味で、奴も教科書の勉強に関しては普通みたいだ。学校の成績も悪くないはず。先生がどっかの大学の推薦出してやるって言ったらしいし。……思えば、それのせいであいつは同じ推薦組のカナメと遊び呆けてくっついちゃったんだな。その間、俺は一人でバカみたいに予備校通いで苦しんでいたのに。休み中は、三日に一度のヨシヒトのメールだけが楽しみで、本当は会えない分、メールくらいは毎日欲しいけど、でもそんなことねだったら迷惑かなあ、鬱陶しいとか思われるかなあ、なんて。可愛い遠慮をしてみたり。
  まったくアホらしい。バカみたいな三ヶ月だ。

「しかしよく考えたら、お前らの付き合いって三ヶ月じゃねェな。その夏休みの一ヶ月間って殆ど会ってないわけだろ? で、その間にお前は浮気されてたわけなんだから。お、待てよ、既にそいつにとって、その八月は本命とのいちゃラブ期間だったわけだから、そこはお前の方が浮気相手ってことになるのか?」

  予備校で知り合った他校の田神深夜(たがみ しんや)は悪人だ。ヨシヒトは悪人じゃないけど、こいつは悪人と言える。近隣でも有名な「超不良校」に属していて、しかも田神はそこの「番長」だって誰かが言ってた。
  見た目は如何にも普通で、黒髪の坊ちゃん頭したような奴なんだけど、確かにそう言われてみると目つきは怖い。もしかしたらヤバイクスリとかやってるかもしれない。夏期講習の時、一人になれる所を探して彷徨っていた時に、予備校が入っているビルの外階段で偶然あいつが煙草を吸ってる所に出くわした。これはヤバイと急いで逃げたけれど、何の因果か、二回目の時は奴が最上階の立ち入り禁止区域―教材を仕舞っている倉庫―に入り込んで女の子とイタしてる場面に遭遇してしまった。俺は不当にそこへ行ったわけじゃない、先生から頼まれて行っただけだったのに、何てこったとその時は心底心の中で頭を抱えた。逆に田神にしてみれば、先生が来たんじゃなくて俺が現れたんだから命拾いしただろう。
  田神は外階段で俺と会った時のこともちゃんと覚えていて、「二回も偶然な出会いを果たしたんだから、俺たちはもう親友だな」などと言い、暗に「今日のことチクッたらぶっ殺すぞ」という不遜な目で俺にニヤリと笑いかけた。
  言うわけがない。
  周りの事情に疎い俺の耳にすら入ってくる「超不良高校の大番長」様のお達しだ。それを破れば、きっと無数のバイクが俺の家の周りを取り囲んで、警棒振り回して窓ガラスとかを割ってしまうんだ。そうに違いない。
「誰にも言いません!」
  だから俺は変な高音でそう答えて直立不動の姿勢を見せた。不良は、自分たちはいつだって背中を丸めながら「ああん?」と睨みを利かせてくるくせに、相手には常に正しい姿勢を求めると聞いたことがあったから。
  すると田神は女の子に突っ込んだままの姿勢(ホントにとんでもないな…)で暫しきょとんとした後、ニヤ〜と不気味な笑みを浮かべて「それでいい」と言った。まぁ、ほっとした。脅しにニ、三発食らわせられたらどうしようとビビっていたから。
  でも、殴られなかった代わりに、何故かその日以降、田神は俺にしつこく絡むようになった。それで、いつの間にかそんな奴の存在に慣れた俺の方も、気付いたらヨシヒトとの関係を話してしまうくらい、田神に何でも自分のことを教えるようになっていた。同じ学校でそんな話できる仲間もいなかったし。
  それで、さっきの話に戻る。
「俺がぶん殴ってやろうか?」
  田神は物凄い悪人顔でそう言った。
「その浮気野郎も、浮気野郎と浮気したってそのふざけたオカマ野郎も。両方ぶん殴ってやるよ。ヒデがそうして欲しいなら」
「いや、そんなことして欲しくない。というか、そんな言い方やめろよ、なら俺だってオカマ野郎だ」
「あ、そう。ごめん」
「別にいいけど…それより」
  とにかく学校には来ないでくれと真剣に頼むと、田神は呆れたように背中を逸らした。
  予備校が終わってから帰りに寄るファストフード店はいつでも学生やサラリーマンで混んでいるけど、田神はそんなことまるで構う風もなく、常時ソファ席でふんぞり返る。
  そして俺を剣呑な目で睨みつける。頭は坊ちゃんヘアーのくせに。俺もまあ、似たようなもんだけど。
「お前、まだ心の中で俺のことを《大番長》とかふざけたあだ名で呼んでんだろ」
  その時、田神が何かを察したように不機嫌な顔で言った。
  だから俺も不機嫌な顔で返した。
「もう呼んでないよ。けど、不良なのは間違いないだろ」
「何で」
「女にだらしない」
「はは…何ソレ?」
「お前だってヨシヒトのこと言えないよ。俺、お前と知り合ってまだ二ヶ月くらいだけど、その間、お前の隣にいる女の子って毎回違くなってるもんな」
「平等に愛してやってるんじゃん」
「最悪だ。そういうの、俺には理解出来ない。一夫多妻制の国へ行け」
「まあ、まてヒデ」
  田神は片手を出して俺を黙らせると背中を浮かせた。
「俺は俺に寄ってくる女みんなを大切にしてやってるよ。一夫多妻制の国だって、そこの夫は全員の妻を等しく愛して、等しく飢えさせないようにする義務があるらしいぜ? 元は貧しい家を救済する為に作った法律だって話もあるくらいだ。けど、お前のヨシヒトはどうだ? たった一人の恋人も大切に出来ない、それでいて未だ善人ぶった顔して、お前とは良い友だちでいたいだって? 胸糞悪くて頭おかしくなりそうだぜ」
「きっとお前に捨てられた女の子だって、今頃俺みたいにお前のことを恨んでるよ」
「お前はヨシヒトを別に恨んじゃいねーだろが。つか、俺の場合、あいつらは別に彼女じゃねーし」
「彼女じゃないなら何なんだ」
「セフレってやつ? だって向こうが頼んでくんだぜ。お前は女の子に恥をかかせろと?」
「……だからもう、この話はいいよ。理解不能」
  ぶるぶると首を振って俺はこの会話を止めようとした。久しぶりに思い出してしまったからかもしれない、ほんの短い期間だったけれど、ヨシヒトに愛してもらった、あの信じられないくらい気持ち良い瞬間を。
  男が男に抱かれるなんてどんなに悲惨なものだろうと思っていたのに、ヨシヒトはそれは優しく丁寧にやってくれた。きっと俺はもう生涯、あれ以上のセックスとはお目にかかれないんだ。そう思う、本当に。

  だってヨシヒトが大好きだったんだ。本当は。………顔だけじゃないんだ。

「ヒデ、泣くな」
  田神が急に困ったような声を出した。俺は泣いてない。そう思ったのに、急に視界がぼやけたから不思議だった。何だどうやら本当に泣いたらしい。変だな。ヨシヒトに別れて欲しいって言われた時も、「これからは良い友だちで」と笑って言われた時も、一緒に帰りたくなんかないのに無理矢理二人の後ろを歩かされて、後からカナメに「酷い」と責められた時も。
  どんな時だって、涙なんて一粒たりとも出さなかったのに。
「参った、田神」
  だから俺はまた正直に打ち明けた。俺の取り柄って、多分それだけ。
  嘘をつけないんだ。
「俺の方が参ったよ。ほら、涙拭けって」
  田神らしからぬ花柄のハンカチを渡されて、「まさか彼女の」と思って返そうとしたら、「うちの祖母ちゃんのだ」と先んじられた為、ありがたく借りることにした。
  仄かに良い香りのするハンカチだ。きちんと洗濯して返すよと言うと、田神はぞんざいに頷いた後、「で?」と顎をしゃくった。
「何が参ったって?」
「ああ……何か、思った以上に弱ってるらしいよ、俺」
「あん?」
「これまでのこととかつらつら思い出してさ」
「うん」
「今日、カナメから色々言われてさ」
「ああ」
「明日またヨシヒトに『もう一緒に帰らない』って言わないといけないのかと思うと」
「思うと?」
「憂鬱だ」
「大した問題じゃねえ」
  けっと吐き捨てるように言った田神は呆れたような目を向けた。ざっと百人は殺す眼だと、初めて見た時に感じたのと同じ、不敵な眼光。
  その田神が言った。
「要は、あれだな。お前は、ヨシヒトをアホだ馬鹿だと思いつつも、結局離れ難かったんだ。友だちでなんかいられるわけねーのに、そう言われてホントは嬉しかったんだ。一緒に帰ろうって声掛けられて『もしかしたら』ってみっともねェ期待を捨てられなかった。だろ?」
「うん」
「あっ……あのなぁ、そういうことは、あっさり認めるなよ」
「だって、きっとその通りだからさ」
  そうなんだ。
  きっとそうなんだ。いや、田神に指摘されて改めてそのことに気付いたけれど。
  バカなことを、何を無神経なことをと思いつつ、俺はあいつからの「提案」が嬉しかった。実際それは苦しくて堪らないものだったのに、ヨシヒトに「もう二度と俺に近づかないでくれ」と言われるよりは明らかにマシだと感じていた。イチャイチャしてる、本当に好き合ってるというのが分かるヨシヒトとカナメの交じり合う視線を間近に、本当に辛くて悲しくてどうしようもなかったのに、バカみたいにその後ろをついて歩いていた、そんな俺は。
  ヨシヒトと離れたくないと思っていたんだ。
「だって好きだったんだよ」
  折角涙を拭いたのに、俺はまたバカみたいに涙を落として訴えた。
「俺、昔から自分がホモだってこと悩んでたし」
「ホモなら一度は通る道だな、その苦悩は」
「女好きのお前にそんな分かった風に言われたくないけど……まぁいいか。あのな、だけど、俺が散々悩んでたのに、ヨシヒトは全然そんなの平気だって風で、俺に好きだって言ってくれたんだ。俺なんて何の特徴もない、エイみたいな男だよ? 英安って、英語のエイだけど、実際はヒデって読むだろ。けど、これまで田神みたくヒデって呼んでくれる奴はいなかったよ。中学からの持ち上がりで知ってる奴がいたせいもあるけど……俺はいつだって、いつまでもふよふよしてるワケ分かんないエイなんだ。平べったくてさ、特徴のない平淡な顔してる。俺、自分の顔に劣等感だった」
「そうか? すっきりあっさりした割とイイ顔してると思うぜ?」
「お前もハンサムだと思う」
「おっ」
「ヨシヒトほどじゃないけど」
「あ、そう」
  はあーあ、と。田神は大袈裟にかぶりを振った後、「で?」といよいよ冷めた目になってから、頬杖をついた。思えばこいつも不思議な奴だった。気付くといつでも女の子を横にはべらしているのに、帰りはちゃんとこうして俺の話を聞いてくれたりする。
  もしかすると、不良でも、そんなに悪人ではないかも?
「お前は大した問題じゃないって言ったけど、俺にとっちゃ、明日は関が原の合戦並に重要な一日になりそうだ」
  そんなことを考えながら改めてその思いを口にすると、田神は形の良い眉をさっと吊り上げた。
「どこが?」
「シュミレーションしてみると、まず俺がヨシヒトに『話がある』って言う。ヨシヒトはいつもの爽やかな笑顔で『どうした? 何かあったのか?』なんて、能天気に気遣ってくる。俺は真剣な顔で、『もうお前たちとは一緒に帰れなくなった』って答える。ヨシヒトは一気に驚いた顔になって、『何でだよ? 俺たちのこと嫌になったのか?』って訊く」
  真剣な俺の語り口調に、しかし田神は思い切り空寒い顔をした。
「マジでそんな会話になるわけ? 俺の中にある常識辞典だと、ありえなさ過ぎて逆に笑えるよ」
「いや、マジだよ。マジでそんな感じだよ、きっと。実際この手の会話、何回かやったことあるし」
「だったら正直に言やいいだろうがよ。お前の彼氏から『いい加減にしてよ、あたしらの仲を邪魔して、それで復讐してるつもり? キーッ!』ってヒスられたからだって」
「そんなの言わないよ」
「何でだよ。お前、嘘つけないだろ?」
「そういう嘘はつけるし、誤魔化しも出来る」
「ワケ分かんねえ!」
  田神はここで初めて腹が立ったような顔をしたが、後は特に何も言わなかった。ただ、明日も変わらず予備校では大切な授業があるし、学校でどんなトラブルがあろうが、早めに下校して自習室を借りに行かないと、良い席はみんなさっさと取られてしまう。だから、「明日も遅れるなよ」とだけは、田神は帰りの道すがら一言だけ発した。
  俺は明日予備校に行ける自信は正直なかったんだけど、田神のその台詞のお陰で、学校カバンにも塾用テキストをきちんとしまえた。





「何でだよ? 俺たちのこと、嫌いになったのか?」
  で。
  案の定と言うかで、翌日ヨシヒトからはそう言われ――否、責められた。
「やっぱり、無神経だって思うんだな。お前を捨てたくせに、今も変わらずお前とも仲良くしたいだなんて、都合の良い奴だって思ってるんだろ?」
「ヨシヒト…?」
  それは確かにそう思っているが、まさかヨシヒト本人からそんな風に言ってくるとは夢にも思わなかったので、俺は軽く意表を突かれた。だってこれまでのヨシヒトだったら、そんな風に俺の側に立った発言なんて出来ないはずなんだ。こいつ、バカだから。
  そんなバカでも好きなんだけど。
「カナメが教えてくれたんだ。エイが『もうきついって言ってる』って」
「え?」
  するとヨシヒトが苦しそうな顔でそう言った。ちらと背後に目をやると、わあお、いた! ここは教室から大分離れた廊下の隅っこの方なんだけれど、俺の視界には遠目からでもばっちりカナメの姿が見えた。恨めしそうなオーラを発して、俺に「早くヨシヒトに断れ」と言っているのが分かる。そちらに背を向けてるヨシヒトには、勿論そんなカナメの迫力は伝わってないだろうけど。
「そうなのか、エイ? やっぱきついのか? 俺と一緒にいるのって」
「まぁ……普通に考えたら、そうだろ?」
  本心半分、偽り半分と言ったところか。きついはきついけれど、ヨシヒトと一緒にいることが全く嫌なわけじゃなかったから。そういう意味では、俺ももしかしたらカナメに対して酷いことを確かにしていたのかもしれないなとふと思う。
「じゃあ普通に考えなかったら?」
「は?」
  その時、一瞬物思いに耽りそうになった俺にヨシヒトが言った。何だか顔が近いなあ、息がかかるよとドギマギしていると、ヨシヒトはそんなこと構う風もなくダンッと両手を出して俺を壁に縫い付け、その両腕で俺を両脇から完全にガードした。逃げられない。
「普通のことなんかどうでもいいよ。エイはもう俺と一緒にいたくない? 恋人じゃなくたって友だちではいられるって言ったじゃないか。俺、エイをそういう意味ではまだ好きだし。エイは一緒にいて落ち着くから、たかが一回別れたくらいで、ダチ関係まで終わらせたくないよ」
「ヨシヒト…」
  いちいち発言の随所に失言を練りこむのがヨシヒトの可愛いところだ。全く愚かな男だ。でもそこが愛しい。そんな風に思う自分が世界で一番の大バカ野郎だ。
「とにかく、もう無理なんだよ」
  で、そんなバカだから出すべき言葉が途端に分からなくなって、俺はそう言った。カナメが近づいてくる。確かにこの体勢は何だかアヤシイもんな。ああきっとまた俺だけが怒られるんだ。嫌になる。いつでも無茶なこと言って苦しめてくるのはヨシヒトなのに。ヨシヒトが俺に「お前なんてもう大嫌いなんだ、カナメの方が好きだから」って言ってくれればことは終わるのに。……それを嫌だと、確かに思ってもいたんだけれどさ。
「エイちゃん」
  やっぱりだ。近づいてきたカナメは俺の方に声を掛けた。それから乱暴にヨシヒトの腕を取り払い俺を自由に動けるようにすると、顔をしかめて「俺だけ」を睨んだ。怖いな、可愛い顔って、怒ると結構怖くなるんだ。
「ヨシヒトにはっきり言ったら? こいつバカだから、言わないと分からないよ?」
「は!? カナメ、何だよそれ!」
  おお、凄い。カナメはヨシヒトがバカだと知っているのか。少しばかり感動して声を出すのが遅くなると、カナメはますます迷惑そうな顔をして「俺だけ」を睨んだ。
「聞いてる? 僕の言いたいこと、分かるよね?」
「うん」
「おい、カナメ! なん…何だよ、お前! その態度!」
  幾ら「俺だけ」を睨んでいたって、横にいるんだからカナメの顔くらい見えるよな。どうやらヨシヒトもカナメの怒る姿というのは初めて見たっぽい。少し途惑ったように口篭る。見ない顔だ。慌てるヨシヒトって珍しい。
  そういえば、俺はいつだってヨシヒトに気を遣ってヨシヒトに合わせていたから、こんな風にヨシヒトを困らせたり慌てさせたりってしたことなかったかも。……それって、もしかすると正しい恋人関係じゃなかったかも。
  でも、好きだったから偽ってたんだ。少しでも良く見せたくて。それの、どこがいけない?
「あ、やばい」
  昨日から弱っているから、涙腺が緩いんだ。不意に泣きそうになったので俺は思わずそう呟いた。すると一瞬険悪になりそうだった二人が一斉にこちらを見て、ぎょっとしたような顔を見せた。まさか、まだ泣いていないはず。みっともない、やばい。そう思って俺が顔全体をごしごしと拭っていると、背後でバタンといきなり大きな音がした。
「ヒデ」
「………は?」
  その声に思い切りハテナマークが浮かんだが、振り返って呆気に取られた。こいつはとことん外階段が好きらしい。それとも凄い不良高校の制服を着た自分が校舎内を闊歩するのはさすがにまずいと思ってそうしたんだろうか、とにかく、そこには田神が立っていた。
  田神は外側の非常階段からここまで直通でやってきたらしく、どういうグッドタイミングなのかバッドタイミングなのか分からないタイミングで俺たちの間にふっと沸いて出てきたのだ。
  そして、相変わらずのあのどこかゾッとするような笑みで。
「面白そうだから来ちまったよ。つーか実は、朝からお前んこと見張ってた」
「は?」
「ヒデがこいつらに苛められたら可哀想だと思ったしな。で? 浮気もんはこっちの色男か? で、浮気相手がこのチビかよ。何だよ、ヒデのが全然可愛いじゃん!」
「な、何だお前…!」
「そ…そう、だよっ! 何なんだよお前ッ! だ、大体、他校の奴じゃないかッ!」
  ヨシヒトとカナメが我に返った後、ほぼ同時に怒鳴って田神を睨みつけた。彼らは田神から本当のことを言われただけなのだが(俺がカナメより可愛いってのは明らかに違うと思うが)、改めてそういう風に言われると腹が立つものらしい。ヨシヒトは今にも田神の胸倉を掴みそうだった。喧嘩なんかしたことないだろうからやめた方がいいのに。第一、田神は大不良校の大番長様なんだぞ。
「エイ! こいつ何なんだよ!?」
「えっ? えっと……友だち?」
「おいヒデ、何だよそのハテナマークは。お前、隠すならもうちょっとうまい嘘つけよ。まあ無理だよな、お前は嘘つくの苦手だしな?」
「は?」
  いや、別に隠していない。そう言おうと思った瞬間、しかし俺は田神にいきなり出し抜けのキスをされた。不意に首に腕を絡まされて顔が近づいてきたと思ったら、本当に突然に、だ。
「んっ…」
  しかも何か長い。何だこれ? 何なんだこれは?――と、忙しなく同じ単語だけ頭の中で並べていると、突然ヨシヒトが烈火の如く怒鳴り散らして田神を引き剥がした。
「何してんだよ、お前ッ!?」
「離せ」
「いっ…!」
「ヨシヒト!?」
  カナメが悲鳴のような声をあげた。ヨシヒトが田神を掴んだ腕はあっという間に切り返されて、逆にヨシヒトの方が腕を捻られ苦悶したのだ。やっぱり大番長だ。俺がボー然としながらそんな事を思っていると、田神が急にくるりと振り返ってきてニヤリとあの笑みを浮かべた。
「俺の可愛いヒデが昔どんなクソ野郎と付き合ってたのか確かめたくてさ。来てみたけど、ホント、クソだったわ。ヒデ、お前は趣味が悪いな?」
「は……」
「まぁけど、その趣味も修正されて良かったよな? 今はこの俺とラブラブなわけだし?」
「へ……」
「そういうわけで、お前らはお前らで勝手にやれや。けど、金輪際俺のヒデ巻き込んだらタダじゃ置かねーぞ。特にお前」
「ぐっ…」
「ヨシヒト!」
  いきなり片手でヨシヒトの首を掴む田神。おい待てちょっとシャレにならないと思っているのに、カナメと違って俺は焦った声が出ない。ヨシヒトが苦しそうにしているのに、俺は何も言えない。
  でも、代わりというのも変だけど、俺も同じように首が苦しい。息ができない。
  そうこうしているうちに田神がまた恐ろしく迫力のある声で凄んだ。
「ヒデに近づくなよ。これからは良いオトモダチでいましょう、だあ? 冗談じゃねえよ。分かったな?」
「ふ…ざ……」
「ふざけてんのはどっちだって」
  はははと軽い笑声を上げて、田神はやっとヨシヒトから手を放した。俺がそれにふうっと自分も息を吐き出すと、田神は心底驚いたような顔をした後、思い切り破顔した。
「ばっかみてえ」
  そうしてまた俺の首筋に腕を回すと、「帰ろうぜ」と、元来た外階段へと戻ろうとする。俺はそれに思い切り途惑って「おい」と呼びかけたのだけど、田神は知らんフリで「まあまあ」とか何とか言って、もう決してヨシヒトたちのいる後ろを振り返ろうとはしなかった。
「エイ!」
  でも、俺は振り返ってしまった。
  カナメを振り解こうとしながら、ヨシヒトが俺を追いかけようとしつつ必死になって呼んでくれたから。……何だろう、嬉しい。そう思ったけど、でも、これもまた不思議なんだけど、俺はそう思ったのに、懸命に呼びかけているヨシヒトの元へ駆け戻ろうという気持ちにまではなれなかった。
「エイ、待てよ!」
  また呼ばれた。でも、待たない。ヨシヒトの所には、もう戻らない。
  だって、分かってる。ヨシヒトは我がままな男だ。一度自分のモノだった奴が、違う誰かの所へ行くのが嫌なだけ。別に俺に未練があるとか、そういうんじゃ、きっとないから。
「お前、自己評価低過ぎ」
  その時、声に出してなどいないのに、突然田神がそう言った。田神は、ヨシヒトの所へ戻りたい、でも戻らないと葛藤している俺の表情だけで全てを読み取ったのだ。怖い。
「ヒデ」
  その田神が自信満々に予言する。
「ありゃあ、近々別れるな。いや、今日にでもそうなる」
「何が?」
「見て分かんなかったのか? あ、そう。まぁそれならそれで、別にいいけど。それより、今日はお前の奢りだな。救世主の俺様に何か食わせてくれんだろ?」
「あれが救世主?」
  呆れて眉をひそめると、田神は「何を言ってるんだ」とばかりの顔で俺を嫌そうに見下ろした。
「だろ? お前一人が奴らの悪者になるところをさ、一緒に帰れなくなったのは、要は俺って存在が出来たせいだってことにしてやったんだから」
「ああ、そうか。やっぱりあれって、そういうことだったのか」
「何? 『俺のヒデ』とか、そういう発言。本気にした?」
「しないよっ」
  むっとして声を荒げると、田神は今度こそ爽快に笑って見せた。やっぱりこいつは悪人だ、そう思ったけれど、確かにちょっと助かったなと思ったし、これで良かったんだとも思えたから、来てくれたことにはやっぱり素直に「ありがとう」と言っておいた。
「……なるほどねえ」
  すると田神はワケの分からない台詞を呟き俺をまじまじと見つめると、いつまで絡めてるんだって腕を更に強めて、俺にまた唐突で早急なキスをした。

  そうして何も言えずに固まっている俺に、「ただの駄賃だよ」と嘯いた。