だってばかだから3


―2―



「タコ職人? 何だそりゃ」
「何か違う発音された気がする。違う意味のタコを想像していないか?」
  タコ違いだと言って、俺は何にも見えない夜の空を指さした。
「空に浮かぶ凧のことだよ。正月とかに飛ばすやつ。田神、飛ばした事ある?」
「ない」
  ほくほくの肉まんを頬張りながら田神は興味なさそうにそう答えた。まあ確かにこの田神が、如何な子ども時代でも、正月にきゃいきゃい凧揚げだぁ、コマ回しだぁって遊びを楽しんでいる姿なんて想像できないもんな。きっと田神はガキの頃から、正月は着物姿の綺麗なお姉さん達をはべらせてハーレム状態だったんだ。
「お前、そういうのが好きなの」
  肉まんを食べ終わって缶コーヒーを口につけた田神がそう訊いた。俺はうんと頷いてから、自分が持っていた肉まんを両手で包み直してそれで暖を取った。
  まだ然程寒くはないけど、やっぱり夜遅くにこんな公園でコンビニ食は空しい。ファーストフードでハンバーガーが豪華なわけじゃないけど、今よりもっと寒くなったら、さすがにこのコースは選べなくなるだろう。
  でも、最近はあの定番の店に行けなくなっちゃったんだ。田神のファンの子が、「予備校の後に田神君が寄る店」とあそこを嗅ぎ付けたせいで、物凄く混んでしまったから。予備校の子だけじゃない、以前出会ったギャル軍団なんかもいるし、まさにあの店は《JK天国》だ。それって俺には全然天国じゃないけど。
  まぁだから俺たちは予備校終わりに、こんな駅近の小さな公園でうだっているわけなんだけど。で、俺はそこで例によって今日の出来事も含め、田神に学校提出用のプリントを見せながら将来の夢について話したところだった。
「凧はさ。子どもの頃は手作りのやつを結構野原で飛ばしたりしたんだ」
  俺が小学生まで住んでいた家は東京郊外で、正月に凧揚げが出来る所も結構あった。今は引っ越しもしたし、どこもかしこも宅地開発が進んでいて、遊び場と言ってもこんな狭い児童公園くらいしか見当たらないけど。
  でも俺はあの進路希望調査表に、「将来の夢=凧職人」と書こうか半ば真剣に悩んでいたのだった。
「俺、手先はあまり器用じゃないから、多分そういうモノづくりには向いてないと思うんだけどさ。でも、そういう日本の伝統っての? そういうのを作る職人っていいなって、前から憧れがあるんだよな」
「ならどっかに弟子入りするしかないんじゃね? そういう仕事に大学っているか?」
「うーん、分かんない。でも、父さんに言ったら、まだ若いし、気持ちも変わるかもしれないから、まずは大学に入って色んな事を経験してからでも遅くないんじゃないかって。大学の時でないとそんなに勉強する機会もないし、そういうのが後々どんな仕事をする時にも役立つだろうからって言われてさ。まぁなるほど〜って感じで」
「いい親父だな。つか、うまい」
「うまい?」
  俺が訳も分からポカンとすると、田神はくっと小さく笑ってからベンチの背にもたれかかった。
「可愛い息子がなりたいって言ってるもんを無碍に否定はできない。けどそんな仕事、このご時世で満足に食っていけるかも分からない。親としちゃあ、何とか言いくるめて大学行かせて、とりあえず四年間引き伸ばそう……ま、そんなところだろ」
「ええ…そうなの? うちの父さん、無駄な事に投資なんかしないよ? うち、そんな金持ちってわけでもないし。勉強したくないなら働けってしょっちゅう言うし」
「息子を大学に行かせる事は無駄な投資じゃないだろ。それに、ヒデなら何だかんだで真面目に学生やりそうだしな」
「そ、そうかぁ? 俺、そんな真面目じゃないと思うけどっ。まぁうちの父さん、厳しいけど、言っている事はいつも凄く正しいと思うし、だから俺もとりあえずは受験頑張って大学行ってみるかって気になれたんだけどね」
  俺が照れながら早口でそうまくしたてると、田神はやっぱりあの不敵な笑みで俺の頭を軽く叩いた。何なんだ。まあ全然痛くないからいいけど。
「ほらな。そんな素直な息子じゃ、親としちゃ無駄な苦労はさせたくないだろ」
「凧職人、やっぱり苦労するかな?」
「さすがにそれだけじゃ食えねーだろ」
「そうかぁ…」
  うーんと腕を組んで考えようとした俺は、未だ手に持ったままの肉まんがふやふやになっているのに気付いて慌ててそれを口に詰め込んだ。急に飲み込んだから喉に思い切り引っかかったけど、田神が「アホ」って言いながらも優しく背中を擦ってくれてコーヒーもくれたから大丈夫だった。あーびっくりした。
「親父、厳しいんだ?」
  少し落ち着いたところで田神が不意にそんな事を訊いた。俺が「ん?」と不思議そうな目を向けると、田神は相変わらず悠々とした顔をしていたけど、ふいと視線を空へ移してもう一度訊いた。
「お前の親父。厳しいの?」
「う? うん、まあね。多分、厳しいと思うよ。うち、父子家庭だから家事とかも分担してやっているけど、父さんは何事も手抜きしないんだ。で、俺にも手抜きを許さない。飯とかちゃんと炊かないと怒るからね、『白米食わないとパワー出ないだろ』って」
「ヒデんちってお袋いないの?」
「うん、俺が小学三年の時に離婚したから」
  俺がそう答えると、田神はここで初めてちょっと戸惑ったように目を窄めた。
「もしかして訊いちゃいけない話だったか?」
  そして珍しく遠慮した様子でそんな風に言うものだから、俺はちょっとびっくりした。
「いやぁ、別にいいよ。昔は悲しかったけど、今はそれほどでもないし。父さん、一生懸命働いて俺を育ててくれたし、その離婚だって、母さんの浮気が原因だしね」
「浮気」
「そう」
  思えば、俺と父さんって同じ末路じゃん。
  父さんは母さんに、俺は初めての恋人・ヨシヒトに浮気された。うぅ、変なところで似た者親子だ…。
「ま、まあさ。そんでさ、こんなさ。予備校まで通わせてくれて、大学も頑張れって言ってくれる親父だよ? やっぱ感謝してんだよね、それなりに。でも、折角ここまでデカくした息子がさ、実はゲイでしたなんて、もう悲劇だよなぁ。悲惨過ぎる」
「そうか?」
「そうだよ! お前なぁ、あっさり言うなよ? 俺は自分のこの秘密、絶対父さんには言えないよ。だろ? ホントさぁ、今まで辛かったんだぜ、誰にも言えなくってさ。自分おかしいんじゃないかって悩みまくったし。今はお前にもこんなバリバリ話しているけど」
「学校の連中にだって知られまくりじゃねーか」
  田神にそう突っ込まれて俺は思わず深々と頷いた。
「うーん、まぁそうなんだよな。そこだよな。けどそれはヨシヒトがあまりにオープンな性格だからだよ。俺もあそこまで広まって、最初はマジヤベー!って思ったもん。でも、意外にそういうとこみんな親切でさ、担任も、『親父さんにはお前が自分でカミングアウトするまで内緒にしておいてやる』って言ってくれたんだ。奇跡だろ?」
「……やっぱヒデって」
「ん?」
  田神が急に何か物言いた気な顔をした。それで俺もぴたりと止まって首をかしげたけど、その後の言葉はなかなか出てこなかった。何なんだ。
  待っていられなくなって俺は田神を急かした。
「何? そこで黙られたら気になるじゃん。俺が何だよ?」
「まぁ、あれだな」
  すると田神は一度だけ首を振ってから、おもむろに俺の頭へ手をやった。で、今度は叩くんじゃなくて、ナデナデって感じで俺の髪の毛をまさぐった。何だそりゃ。
「つまりヒデは愛されるタイプって事だ」
「はあ?」
「お前、実は学校でも人気もんだろ」
  田神のさらりと言ったその台詞に俺は思い切り渋い顔をした。だってあまりにバカな事を言うから。
「あのな、何を言い出すんだ? じゃあ、愛される奴が何で浮気されてフラれんだよ!」
「ホントになぁ?」
  田神はニヤニヤしながらそう言った。あ、この野郎! さてはいつもの性質の悪い冗談かっ。
  俺は途端、今日の出来事とも併せてむかっ腹が立った。
「人気者って言うのは、そりゃ、あいつらの事だ」
「あいつら」
「ヨシヒトとカナメだよ! 特にカナメはクラスでアイドルみたいに扱われてる。チヤホヤされてさぁ。フツーはさ、悪だろ? 略奪愛だぜ?」
「略奪愛。ウケるな」
「ウケねーよ! とにかくな、まぁヨシヒトが一番むかつくけど、カナメだって同罪なんだよ。なのに、今じゃもう何か知らんけど、俺にも普通に話しかけてくるし、それどころか毎日ヨシヒトに弄られてぐったりの俺を同情してさ、色々助けてくれようとすんだぜ。訳分かんねーよ。贖罪のつもりか? いや、そんなわけないな。だって今日はその流れで、何故だかヨシヒトと一緒に説教されたし!」
「へえ」
「他のクラスメイトにもさ、『エイちゃんって結構可哀想な奴なんだな』とかって言われたんだぜ! くそ、何なんだ今さら! しかもやっぱ、同情されてスゲーむかついたし!」
「何だそりゃあ」
  俺は本気で怒りながら訴えているのに、ここまで話したら田神はもう堪え切れないって感じで爆笑し始めた。おい、これって全然笑うコトじゃないんですけど!
「ヒデ」
  けど俺が一人でカッカきていたら、ずっとベンチに寄りかかっていた田神が急に背中を浮かせて俺を呼びながら接近してきた。
  そしてすっげえ間近で真顔で言った。
「それで、お前に付きまとうヨシヒトのバカはいつ殺しに行けばいいんだ?」
「……いや、だから。その冗談だけは本当勘弁して下さいって……」
 俺がざっと蒼褪めながら拝むように手を合わせると、田神はハンと鼻で笑った後、いきなり俺にキスをした。
「ん…!」
  それがあまりに当たり前みたいに物凄く自然にやってきたものだから、俺はもう本当にそのまま何の抵抗もなくそれを受け入れてしまった。
  というか。
  何というか。
  俺たちって、最近凄く……凄く凄く。
「あ、あのさ」
「何」
  唇が離れた瞬間、思い切って声を上げると、田神はこっちが逆に怯んじゃうくらい冷静な顔と声で返してきた。俺は凄くドキドキしているっていうのに、こいつにとってキスなんて全然何てことないものなんだろうか。
  あまりに余裕な田神が何だか悔しくて、俺はわざと田神の胸を強く押した。
「なん…何で、最近、俺たち、その……き、ききき……き」
「キス」
「そう、それだ! 何かそれ……凄いしてる気、すんだけど」
  そうだ、俺が田神の通う秀陽館へ乗り込んだ時から。
  あの生徒会室で田神に意図せず抱っこされてしまい、そのまま何度もキスされてから。あれから、俺たちの関係は何だか変だ。
  友だちのはずなのに、こうやって予備校が終わると2人でどこかへ寄って飯を食って。
  必ず田神がキスしてくる。
  俺も大人しくされちゃってるし。
「ヒデは嫌?」
「な、何が?」
「俺とキスするの」
「いっ…その、あの、まあ、その」
「嫌じゃないみたいだな」
  ははっと田神は笑った後、折角距離を取った俺をまた強引に引き寄せて、俺の額に押し付けるみたいなちゅーをした。そう、何かぶちゅーって感じだ。凄いちゅーだ。絶対におかしいよ、これ。
「お、おい田神!」
「何」
「こ、これは、これは、まずい!」
「何で」
「だ、だって誰かに見られたら…!」
  こんな夜の公園のベンチで抱きしめている奴と抱きしめられている奴。しかも俺の方は制服を着ているから学校バレるし。しかも、そんな事よりも何より俺たち2人とも男だよ。おかしいよ、絶対こんなの。まずいよ。
  それに田神は、俺の……。
「お、俺たち、友だち、だよな?」
「……まぁ、ヒデのそう言いたい気持ちも分からないでもない。俺はお前にとって初めてのトモダチ……だもんな?」
「そ、そう! そうなんだよ、田神!」
「何だ、その喜び方」
  俺が田神の言葉にそりゃもう力強く頷くと、田神は多少引き気味になりながらもやがてまた声を立てて笑い始めた。俺はそんな田神に一瞬あ然としたけど、俺がこんなにあたふたしたりどうしようって困ったりしているのに、そんな爆笑することかよって段々腹が立ってしまった。
「田神! また俺をからかってんのか!」
  だから思わず声を荒げてそう言ったんだけど、俺のその言葉に田神は未だ笑みを浮かべながらも「バカ」と言って、また凄い力で俺を引き寄せ、キスをした。
  田神ってキスがうまいと思う。だって俺、田神とのキスは本当に困るけど、でも全然嫌じゃないんだ。
  むしろ好きかも。
  でも。
「なあヒデ」
  俺がぐるぐると大して中身のない頭で考えていると、田神が俺を覗き込むようにして顔を近づけてきた。田神の怖い眼が暗闇の中でも爛々としてる。こいつは間違いなく肉食の獣だ。睨んだ獲物は絶対逃さずぱくって食べちゃう。実際に俺は食べられている子も見た事あるし。……そう、そうそう、そうなんだ! 田神は凄い女好きなんだよ。だとしたら、俺はやっぱりからかわれているって、そう考えるのが普通だよな。田神はよく俺に冗談かますし、こいつにしてみたらキスなんて、たかがイッコやニコやヒャッコって思っているかもしれないし。
「ヒデ」
  でも俺がそう結論づけてほっとしていると、田神が呆れたように言った。
「お前の考えていることってホントに分かりやすいな」
「……嘘だぁ。じゃ、じゃあ、当ててみろよ……」
「俺は冗談でやってねーよ。たかがキス、なんて風にも思っていない」
「う……」
「当たりだろ?」
「……実はさ、今日カナメからも、『エイちゃんの心の声はダダ漏れ』って言われたんだ。俺ってそんなに分かりやすい?」
「は? ははっ!」
  何気にショックだった出来事を告げると、田神は可笑しそうに目を細めてから、またしても俺の頭を何度も撫でた。何か子ども扱いされているみたいだ。
「俺が真剣に口説いたら、きっとヒデは困るな」
  そして田神は突然そう言って、探るような眼で俺を見た。
「こ……」
  俺の心臓はそれだけで飛び上がるほど縮み上がった。
「困らない?」
「こま、困る、かも……」
  多分、落ちる。
  うん、簡単に落ちちゃう。田神はいい奴だし、俺にとってかけがえのない、大切な存在だ。それはもう間違いないから。
  でも、それと同時に、きっと俺はまた悲しい思いをする。
「お、俺、お前みたいにカッコいい奴は困るんだ」
  だから俺はしどろもどろながら必死に言った。まだ口説かれてもいないのに、先走って勝手に言った。
「俺は、お前みたいに女の子にモテモテで、またいつ浮気されるかって心配するような奴はダメなんだ。ていうか、お前なんかもう付き合う前から彼女多過ぎだし!」
「前、彼女いないって言わなかった?」
「ダメだダメだ! そんな事言っても、お前の下半身の緩さは目撃済みなんだから! だ、だからさ、俺は、お前みたいなのはやっぱり……友だちがいい。そう思う」
「で、ヒデは俺を振ってヨシヒトとよりを戻すのか」
「は?」
「同じ大学受けるって言ったんだろ?」
  田神はまだ笑ってくれていたけど、俺の心臓はドンドンとやばい方向に鳴りっ放しだった。何だろう。田神を怖いとは思わないけど、でも何か。田神を怒らせているんじゃないかって不安になる。
  嫌だ。田神を怒らせたり呆れさせたりするのは嫌だ。
「そ、そりゃな? ヨシヒトはそう言ったよ。ヨシヒトがな。でも俺は、そんなの嫌だし」
「ならちゃんとそう言え。ヨシヒトに、『お前とは縁を切る、もう無関係だ』って言ってやれ」
「前言ったけど、なかったことにされたんだよ!」
「もう1回でも100回でも繰り返せ。できねーなら、俺があいつ殺しに行くぞ」
「や! それは駄目! 絶対に!」
「……面倒臭い奴だな」
  田神はここで初めてハアと深々としたため息をついた。やっぱり呆れられたんだ。俺はがっくりした。確かに俺の情けなさは半端ないものがある。田神にもそういうみっともないところは散々見られているし今さらなんだろうけど、でもやっぱり、改めて失望されたと思うと居た堪れない。
「ヒデ、あのな」
  でも俺のそんな落ち込みはまたしても「ダダ漏れ」だったようだ。優しい田神は忽ち困った顔になって、「大丈夫だ、お前に呆れてるわけじゃねーよ」って、俺にまた凄く深い、慰めるみたいなちゅーをした。
  本当に凄く巧い。田神のキスはどうしてこんなに気持ち良いんだろう。
「ヒデ、明日休みだな。遊び行かねえ?」
  そして田神は急にそんな事を言った。俺たち受験生なんだけど。でも田神は戸惑う俺に「遊んだあと勉強すりゃいいじゃん」とあっさりかわして、一方的に時間と集合場所まで指定してしまった。いいのかな、俺、D判定だぜ。貴重な休日に遊びに行くなんて知られたら父さんも怒るかもしれないし。あ、でも遊んだ後勉強するからいいのかな。うん、いいか。それに田神が俺に呆れていないなら、それが1番だ。
  それに田神と予備校の帰り以外でどこかへ行くって初めてだ。
  それがちょっと嬉しくて、俺は田神と何回もキスして別れた後、もう明日会えるのを凄く楽しみにしてしまった。

  ――で、翌日。

「ようヒデ。早起きしたからさ、待ち合わせ場所で待つのもうぜーし、家まで迎えに来てやったぜ」
  俺が寝ぼけ眼で玄関先に出ると、田神はいやに清々しい顔で背後に停めてある車を指し示した。
「……何それ」
  おいおい。
  あれ、ベンツじゃねえの…。
  車に疎い俺でもあのマークは知っている。しかも何かあれってヤクザとか偉い人とかが《すていたす》か何かで乗るものなんじゃないのか?
  しかもさ、何だよ、あの車の傍に立っているスーツの人。でけえ。というか、顔が怖ぇよ…。
「も……」
  ……もしかして、まさか。
  まさか、田神自身がヤクザってオチじゃないだろうな? あの大不良校でヤクザと裏で繋がっているも何も、こいつ自身が? いやいやいや、まさかぁ。
「朝から変な顔してんじゃねーよ。おら、さっさと乗れ、ヒデ」
「木戸様、お荷物お持ち致します」
「えっ!」
  突然バカ丁寧に話しかけられて俺は仰天してしまった。さっきまでベンツの傍にいた怖い顔のスーツの人だ。めちゃめちゃ丁寧だけど、でも、誰なんですかあなた。
  大体、荷物なんてそんな、特にそんな、ないんですけど。こんな小さなカバンくらい自分で持つし!
  あたふたしながら挙動不審になると、田神の傍についていたそのスーツのコワモテ兄ちゃんは恭しく礼をした後、俺を車まで誘導するみたいに腰を屈めて腕を伸ばした。
  それで俺は田神に促された事もあって、催眠術を掛けられたみたいにふらふらと傍のベンツに乗り込んだ。
「出せ」
  俺と一緒に後部座席に乗りこんだ田神は、運転席に座った兄ちゃんへ偉そうにそう命令した。こ、こ、こええええ、久々に田神がこえええ…! 俺は身体がミクロサイズになるんじゃないかってくらい萎縮した。
「俺、まさか東京湾とかに沈められるんじゃ…」
  だから思わずそう口走ってしまったんだけど、田神はそんな戦々恐々の俺に思い切り眉をひそめて「あ? 何言ってんだ」と物騒な声を出した。
「だだ、だって昨日、俺は田神様からのありがたい申し出を、ちゃんと口説かれてもいないうちに断っちゃったし…! そ、それにお前のこと、女好きの下半身緩い男って暴言かましたし! だから、遊びに行くってかこつけて俺を拉致って――」
「……っ」
  運転席の兄ちゃんが突然咳き込んで肩を震わせた。あれ? もしかして笑ってる? 何でだよ、あんた人殺しが楽しいのか? 俺はこんなに怯えているってのに、鬼かよ。
  あれ、でもコワモテなのに、笑うとちょっと可愛い、かも?
  俺がぽかんとして言葉を失い、その兄ちゃんの後頭部を何となく見つめていると、田神が運転席の背を荒く蹴り飛ばしながら「後藤、死ぬかお前」とごくごく普通の口調でそう言った。こ……やっぱ、こええええ…!
「ヒデ」
  しかも田神はその脅しに思い切りびびっている俺にも「バカ」と言ってでこぴんしてきた。とんだ暴力男だ。暴力反対!
「くだらねェ事言ってんじゃねえよ。どんな勘違いだよ」
「だ、だって、じゃあどこに行くんだよ? こんなベンツに乗って遊びに行く所、俺は知らないぞ…!」
「車は関係ねーだろ。今空いてるのこれしかなかったんだよ」
「じゃあお前、ヤクザじゃねーの?」
「あぁ? この俺の、どこをどう見たらヤクザに見えんだよ!」
「どっからどう見てもヤクザだろ!」
「……ったく」
  ちげーよと荒っぽく答えて、田神は俺の後頭部をまたべしりと叩いた。痛くない、痛くないけどさぁ…。
「そういや俺、田神のこと何も知らないよ……」
  大不良校の大ボスのはずが学校の生徒会長だったり、予備校に通っている坊ちゃん頭の割に、普通の女の子以外の物凄いギャルにもモテモテだったり。
  それで、こんな風にベンツを運転させる家来がいて、偉そうで。あ、偉そうなのは前から知っていたけど。ちょっとずつ分かっている事もあるけど、でも、本当は田神の事を俺はまだ全然知らないんだ。
「お前が訊かないからだろ」
  でも田神はそう言った後は、もういつものようにゆったりふかふかのシートに身体を寄りかからせて足を組み、興味津々の俺に何も教えてくれようとはなかった。訊いたら教えてくれるのかな。今訊いてみようか。そう思ったけど、俺は何だか後の言葉を出すのが躊躇われて、眠ったみたいに目を瞑ってしまった田神をただじっと見つめるだけだった。

「あ……!」

  そして俺の色々な疑問は、田神が連れて行ってくれた所と「それ」を見た瞬間、一気にどうでも良くなって全部吹き飛んでいった。
「これがやりたかったんだろ?」
  広々とした河川敷に出たところで車を降りて、田神は車のトランクから大きなビニールに包まれた「それ」を俺の前に差し出した。
  これまでに見た事もないくらいに大きい、ド迫力な浮世絵の描かれたそりゃあ立派な凧だ。
「スゲー!」
「嬉しいか? ヒデ」
「うんっ! 本当に凄いよこれ! お、俺、飛ばしてみていいか!?」
「いいよ」
  興奮する俺に田神はすぐに頷いてくれた。俺はただただ嬉しくて、すぐに包んであったビニールを取り去ると、それを直に手に取ってあちこち眺め、早く飛ばしたいとばかりに駆け出した。久しぶりにこんな広い野原に来られた事も嬉しかった。まるで子どもの頃、家族でよく遊びに来た草っ原みたいだ。
「田神、田神! 俺、糸引くから、これ持って!」
「ああ」
  思えば、家族で一緒に過ごした最後の記憶はこの凧揚げだった。仲の悪い両親だったけど、正月にみんなで飛ばしたあの日の風景は忘れない。風に乗って空高くぐんぐん上がっていった凧は青い空の色と溶けこんで、本当に綺麗だった。俺の大切な思い出だ。
  そんな事を考えていたら、俺は唐突に、昨日クラスメイトの奴に言われた、「エイちゃんって結構可哀想」って言われた事を思い出した。バカバカしい、俺は全然そんなんじゃないのに。ヨシヒトに浮気されて捨てられようが、模試の結果がD判定になろうが、親が離婚してようが。俺は全然そんなんじゃないのに。でも急にあの言葉を思い出すなんて、意外に気にしてたのか? 俺ってそんなセンチな男じゃないはずだけど。
「ヒデ」
「えっ?」
  俺がそんなつらつらとした考えを全て掻き消すべく全力で駆け始めたところで、不意に田神が呼んだ。と、同時に、あいつは自分が持っていた凧を実にタイミング良く離した。俺は咄嗟に糸を少し手繰り寄せるようにして、宙に浮いた凧を風に乗せた。
「おぉー!」
  フェイントだったけど、思った以上にそれはうまく浮き上がった。でかいからバランスを取るのが難しいかと思ったけど、逆だ。よっぽど物がいいんだろう、田神が持ってきた凧は浮世絵の男が「よいよいよい」って歌舞伎調で片手を差し出している風な様子で、如何にも得意げにどんどん空へ昇って行く。本当にすげえ。快感だ。俺が歓声を上げながら田神に「田神、見ろ、見ろ!」と繰り返すと、田神はゆったりとした声ながらもちゃんと俺に応えてくれて傍へも来てくれた。涼しげな田神のその顔は、その時何だか妙にカッコ良く見えた。
「あっという間に上がるな」
  田神が空を見上げながら感心したように言った。
「俺の腕がいいからな!」
「うん。巧いじゃん」
「ははっ、嘘々! 俺の腕じゃなくて、この凧がすげーんだよ。超一級品だよ」
「そっか、なら良かった」
「お前、すげーコネ持ってんなあ。どこで手に入れたんだよー!」
  俺も田神同様凧を見やりながら興奮してそう訊いた。あ、視線が合わないままだと案外訊けるかもな。今、訊いてみようかな、お前って一体何者なんだよ?とか。
「ヒデ」
  けれど田神に先を越された。
「ヨシヒトとは別れろよ」
「うわっ、ちょっ…」
  しかもいきなり俺の首に腕を回してぐりぐり頭を拳でこねくり回してくるから、俺は凧の事を気にしながらすっかり面喰らってしまった。
  勿論、田神に言われた事も。
「何言ってんだ、お、落ち、凧が落ちる、落ちるだろ!」
「おー、おー、受験生が落としたらまずいな。ならちゃんと誓え、あいつとは別れろ」
「もう別れてる!」
「マジで?」
「ま、まじまじ! 絶対!」
  俺が必死になってそう叫ぶと、田神はぱっと腕を放してくれた。それで俺は急いで凧の立て直しを図り、ふうと息を大きく吐き出す。そうだ、受験生なんだから変な落とし方は絶対させちゃなんねーぜ。
「もう、変なこといきなり訊くなよな…」
  で、ぼそりと文句を言うと、田神はふんと知らぬフリをして「お前が悪い」と言った。言い切った。
「……うん」
  だから俺もそんな気が凄くして、そこは素直に頷いた。
「あの飛行機より高く飛ばせよ。でないとまたお前の学校乗り込む」
「えっ!?」
  でも俺がしゅんとしているのがまたダダ漏れだったみたいで、田神は急にそんな恍けた事を言って俺の背中をバンと叩いた。俺はそれで忽ち焦って、「無茶言うなよ!」と抗議したけど、田神がわざとそう言ってくれたのは分かっていたから、俺は何だか無性にこみ上げるものを押さえつけて、「ふへ」と腑抜けた笑いを浮かべた。
「ばか」
  そしたら田神も間抜けた顔の俺を見て一緒に笑ってくれた。俺はほっとした。本当にほっとした。

  その日、俺たちは呆れるくらいに凧揚げを楽しんだ。
  どこまでもどこまでも高く上がるそれが最高に気持ちいい。俺は田神と一緒にいつまでも上る凧を清々とした気持ちで見つめ、この時がずっと続けばいいのになと思った。