だってばかだから4
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―3― 田神は刀を修練場の奥にある刀掛けみたいなところに置くと、すぐに俺の所に戻ってきて開口一番「ばか」と言った。顔は怒っていない。最初にヒデって俺の名前を呼んだ時だってその声は怒っていなかった。驚きすらなかったと思う。ただいつもみたいに静かで落ち着いた風にヒデって呼んだんだ。 それなのに、今は「ばか」って。 「こんな所に来るんじゃねーよ」 そして田神は俺のすぐ傍に屈みこむと、本当にヒデなのかって確かめるみたいに俺の顎を掴んで無理やり自分の方へ向かせた。田神の度アップがすぐ前に来てびびった。怒られていない、そのはずなのに、怒られるのかもしれないって思った。 だってよくは分からないけど、多分ここは神聖な場所なんだと思う。ど素人の俺でも感じるんだ、ここに潜む、引き締まった冷えた空気を。田神の格好も昔の武士みたいにびしっと決まっているし、何というか、いつものふざけた調子で「大番長」なんて、とてもじゃないけど呼んでいられない。 何だか、田神が遠い場所にいる人みたい。 「サイゾウか?」 「さいぞう?」 しょぼくれかけている俺に田神が不意にそう言った。俺は意味が分からずその音を拾って繰り返したけど、田神はそんな俺を穴が開くんじゃないかってほど見つめた後、もう一度確認するように口を開いた。 「佐霧のことだ。佐霧才蔵。あいつがここへお前を連れてきたのか」 「あの人サイゾウって言うのか……。に、忍者みたいな名だな……」 でも確かに、あの時、忍術みたいな不思議技でヨシヒトを転ばせていた。サギリさんってあの見た目だけじゃなく、中身もダタモノじゃないのかもしれない。 「あ!」 「ん?」 けれどそんなことをぼんやりと思った後、俺ははっとして思わず声を上げた。田神がそれに不思議そうに首をかしげる。 「い、いや…」 俺はそんな田神に途端焦りながら無駄に首を振って「違う!」と言った。 「そんな人は知らないっ。い、いや、前に会ったことはあるから知っているけど、今日は知らない! ここへは、俺が勝手に来たんだ! 間違って!」 だってそういうことにしないと、多分、サギリさんは後で田神に叱られると思う。 まだ分からないことだらけだけど、恐らく、というか間違いなく、田神は俺がここへ来ることを良しとしていない。俺を怒ってはいないけど、歓迎ムードじゃないことくらいは雰囲気で分かる。それにサギリさんも、去り際、「深夜に殺されるかもしれない」と言っていた。あの人は俺を焚き付けて、俺に田神の愚痴なのか何なのか、とにかく話を聞いてやって欲しいって言っていたけど、それって田神自身はきっと望んでいないことだ。 だから、この状況をサギリさんが御膳立てしたことは知られちゃいけないことなんだと思う。多分。 「間違ってって、どうやったら間違えるんだよ」 しかし田神は至極もっともなことを言って、俺の頭をばしりと叩いた。俺はそれに「イテ!」とへこたれたような声を上げてしまったのだが、ここで負けてもいられないので、「間違えたもんはしょうがないだろ!」とヤケクソ気味の反撃をした。 「道に迷ったんだ。気づいたらここにワープしてた」 「何だそりゃ。ヒデ、何で才蔵を庇う?」 「だからそんな人は知らないって! いや知っているけど! いやいや、とにかく俺は田神の話を聞きにきただけ!」 「俺の話? 俺の、何の話だよ」 「………それは」 そんなのは、俺だって知らないよ。 でも、何かあるんだろ? だから、田神の方から話して欲しいのに。 こういう時ってどういう風に切り出したらいいんだろうな。威勢よく、「何か悩みがあるんだろう? 遠慮せず、ドーンと俺の胸に飛び込んでこい!」か? 俺、思えば誰かに悩みを打ち明けられたり相談されたりって経験ないかもしれない。中学の頃にゲイだって気づいて卑屈になったし、下手にびくびくして周りにも壁作ったし。……うん、そうだよ。俺はバカにされたりからかわれることはあっても、当てにされたり頼られたコトはない。う、自分で言ってて結構ショック。 田神はあんなにたくさんの奴らから慕われているのにさ。 そう、俺だけじゃないんだな。田神は学校の連中からとても信頼されていて好かれていて、予備校でも女の子たちにモテモテで。街角ギャルにもモテモテで。俺とは全然違うんだ。しかも何だよ、この豪邸はよ! 何だよ、さっきのあの真剣の修練とやらはよ! ちくしょう、凄い、カッコイイじゃないかよ! 「相変わらずヒデは訳分かんねえ」 心の中でそんな劣等感と戦ってぶつくさしている俺に田神が呆れたようにそう言った。 「おい、ちょっとよく顔見せろ」 「うっ」 そうして田神はさっきから俺の顔を無理やり自分の方に近づけていたくせに、更に両手でばちんと俺の両頬を挟むと、そこから何故か右の頬だけをさらりと撫でて眉をひそめた。 「これどうした?」 「え? どうしたって?」 「擦り切れてる。何かに引っかかれたみたいな」 「あ…ああ、さっきそこで植木の細い枝と葉っぱに激突して出来た」 だって表門じゃない、庭の外れにある小さな裏戸から侵入したから、あのごっそりと生えた茂みのバリアーを避けきれなかったんだ。……本当は単に気持ちが焦っていたから、目が見えてなくてぶつかったってだけだけど。 「全くしょうがねーな。来いよ」 すると田神はため息交じりにそう言うとすっくと立ち上がった。 田神は隣のでかい屋敷へ俺を連れて行った。 そしてそこにある自分の部屋という場所へ俺を押し込むと、「着替えてくるからちょっと待ってろ」と言って姿を消した。 何故か急かすようにここへ連れて来られたから何だかバタバタしちゃったけど、一人になった事で急に辺りの静けさが気になった。俺は暫しその場に立ち尽くし、ぐるっと部屋の中を見回した。和室のそこは、一般の高校生が持つ部屋としては渋過ぎる気がした。だって本棚には漫画が一冊も入っていないし、窓際にある座卓も細工の凝った引き出しの取手といい、全体的なデザインといい、どこか重厚な感じがしていかにも高価な年代ものっていうのが分かる。 でもそんなレトロな雰囲気の割に畳は新しいのか、凄く良い匂いがした。窓ガラスもピカピカに磨かれているし、カーテンにも汚れ一つ見当たらない。俺の部屋のカーテンなんかカビ生えているよ。だってそんなしょっちゅう洗ってらんないし。全く、どうやったらこんな綺麗な部屋を維持していられるんだろう。やっぱりこんな豪邸じゃ、お手伝いさんの一人や二人いるのかもしれないな。 「失礼致します」 「わ…っ」 するとどういうタイミングなのか、その「お手伝いさん」が現れた。 でもそれは俺が想像していた清楚な感じの白いエプロンをつけたメイドさんではなくて、あのごつくてでかくて如何にも「や」のつくお人な感じの、以前会った事がある後藤さんだった。よく知らないけど、前会った時に田神の運転手なんかやっていたから、きっと田神の家来だ。 現にその後藤さんは俺なんかに恭しく頭を下げると、盆にのせてきたお茶と和菓子を勧めてくれた。 「あ、ありがとうございますっ」 この人が俺に危害を加えるわけはないけど、この長身に全身真っ黒黒なスーツ姿はそれだけでやっぱり怖い。俺はへこへこ頭を下げながら、後藤さんがお茶を置いてくれた机の傍に腰を下ろした。 それから出された物をまじまじ見やる。後藤さんは何故か俺の横に立ったまま退出する気配がない…。こういう場合ってすぐにがっついていいのかな? それとも図々しいかな、どうなんだろう? 何せ友だちん家へ遊びに来たなんてこと、あまりに久しぶり過ぎて―…。 「木戸様」 「ひゃいっ!?」 突然声をかけられたもんだから俺は凄く変な声を出してしまった。 けど後藤さんはそんな挙動不審な俺にも全く表情を変えず、「コーヒーか紅茶の方がよろしかったでしょうか」と訊いた。 俺は思い切り慌てた。 「いえ、そんなっ! めっそうもないです、ボク、お茶大好きですから!」 「そうですか。それなら良かったです」 後藤さんはいかつい顔でふっと笑うと、「深夜様の大事なご友人に失礼があってはいけませんから」なんて言った。 「あ、あの…!」 だから俺は遂に我慢出来なくなって訊いた。 「そのっ、田神って一体何者…っていうか、凄く大きな家ですね!」 俺はバカだ。一体何が言いたいのか自分でも分からなくなった。やっぱり後藤さんの面相にテンパっているのか。 「深夜様は宗弦流一桐犀の次期当主となられる御方です」 「……は?」 何だろう、今のは。聞いた言葉を全部覚えられなかった…。とりあえず何かの当主らしい。やっぱりエライ奴ってことか。 「つ、つまり田神は、何か由緒あるお家の息子さんって事なんですね?」 田神の奴、その正体は純正のお坊ちゃんかよ。あんな恐ろしい目つきしておいて、ぼんぼんってことはないだろ。……とか思いつつ、一方でどこかしっくりこない気もしているんだけど。 でも俺のその確かめるような問いに後藤さんはあっさり頷いた。 「左様でございます。しかも、お歴々の御当主殿と比しましても、深夜様の剣技の腕前は相当の部類に入るかと」 「はぁ…」 「後藤」 何やら凄く得意気な後藤さんと、ただただポカンと口を開けているだけの俺。そこへ不意に声がかかって田神が部屋に戻ってきた。俺はそれではっと我に返ってパチパチと田神を見やった。良かった、いつもの現代人・田神に戻っている。 「余計な話してんな。お前はもう下がれ」 「お車のご用意は如何致しましょう」 「要らねえ。電車で帰らせる」 「畏まりました」 後藤さんは田神のその言葉に少しだけ目を伏せると、後はさっと会釈して出て行った。俺はちょっとだけ安心した。田神と2人だけになれたことは勿論、恐らく俺の帰路について言及した田神が俺を電車で帰すって言ったこと。だってあの黒塗りにはそう何度も乗るもんじゃないよ、気疲れしちゃって堪らないもん。第一、サギリさんの手筈があったとはいえ、ここへは俺が勝手に押し掛けたんだし、あんなVIP待遇されたら申し訳なさ過ぎて頭が沸騰しちゃう。 あっ、そうだ。そう言えば俺がここへ来たこと、田神は歓迎していなかったんだっけ。やべえ、さっきは何かうやむやになったけど、改めて怒られるかもしれない。俺は田神の話を聞きたいだけなんだけど。 「ヒデ」 「ん?」 そんな事をつらつら考えていたら田神が俺の目の前に座り込んで「こっち向け」って言った。そんでもって、俺のほっぺたにそって感じに触った。 「えっ…」 咄嗟に俺は「キスされるのかな」と思った。予備校で会えなくなって早数日。それまでは会う度気持ちのいいちゅーをしていた俺たちだけど、それも何だかすっかりご無沙汰な気がした。 「んー!」 だから俺はすっかりドキドキして嬉しくなって、でもやっぱり緊張して。ぎゅっと目を瞑ったまま唇をタコみたいに突き出してスタンバイオーケイな態勢を取った。 「ひゃっ!?」 でも俺が田神から貰ったものは期待したちゅーじゃなかった。 「ったく、どんなアホ面してんだよ」 田神は引きつった笑いを浮かべながら俺のほっぺたを何か凄く冷たい布で拭ったんだ。いきなりされたからそれはもうひゃっこくて本当にびっくりした。 でも田神は構わなくて、そこを綺麗に拭いてくれた後、何か薬品の匂いがする…っていうか薬なんだろうけど、それを脱脂綿につけて俺の頬に塗ってくれた。 「…そんなにひどく擦りむいてた?」 田神がさっき俺の頬に触れて「ここをどうした」と訊いてくれた事を思い出した。自分の顔は見えないから何とも言えないけど、ここまでしてくれるなんて、結構深くひっかいていたのかもしれない。冬の枝葉は鋭利だから。 「大したことないけど、可愛い顔は大事にしなきゃな」 すると田神はそう言って笑った。 「う…」 俺はそれで何だか胸がきゅうぅんってなって、気持ちいいのか痛いのかよく分からない感覚に戸惑った。 でもとにかく田神は俺を叱る気はないみたいで、俺はすっかり安心した。それで手当てをしてもらった後、俺は堰を切ったみたく身を乗り出してまくしたてた。ようやく田神と話せるって思って。 「あのさ田神、お前んちってデカいのな! ホントびっくりしたよ。お前の親って何している人なんだ? しかもさ、さっき後藤さんはお前のこと、何かの当主だって! 何だよそれ? 名前が長くて覚えられなかったけどさ、お前って何かエライの? しかもさっきのさ、あの修練場で見たヤツ! あれどう見てもホンモノの刀っぽかったし、俺、この屋敷といい、お前の格好といい、タイムスリップしたみたいな気になったよ。それにさ――」 とにかく訊かなくちゃと思って俺は先を急ぎ過ぎた。最早自分でも何から尋ねたのか覚えていないくらいだ。 でも俺は田神のことを知りたかったし、田神からちゃんと教えてもらいたかった。俺は田神の誕生日すら知らなかった、なりたてほやほやの友だちだけど、でも、これからもっともっと――。 仲良くなりたかったから。 「あのな、あと田神って今月25日が誕生日なんだろ?」 「ああ」 初めて田神が返事した。もっとも、これまでの質問にも別段無視したわけじゃなくて、単に俺がマシンガンの如く喋りまくっていたから口を挟む間がなかったんだろう。 俺はふはーと一度息を吐き出した後に続けた。 「そうなんだな。俺、知らなかったけど、誕生日前に教えてもらって良かったよ。何かプレゼント出来るもんな。何か欲しい物あるか? あんまり高価な物は無理だけど、25日って講習のある日だし、何か田神の好きなもん奢ってやるよ。あ、でもサギリさんたちも誕生パーティーするって言ってたもんな、その日は無理かな。講習も休む?」 「講習には行かない」 田神があっさり答えたのを俺は残念に思いながらも納得して頷いた。そりゃそうだよな。たかだか数か月の付き合いの俺と、昔から一緒のサギリさんや学校の仲間が主催するパーティーとじゃ、どっちを優先するかなんて明白過ぎるし。…ちょっとさみしいけど。 「ヒデ。俺、冬期講習は申し込んでないんだ」 「…え?」 けれど田神はそう付け足した。 「才蔵たちの飲み会にも行けないな。あいつ、そう言ってなかった?」 「あ…言ってた、かも」 「冬休みは用があるんだよな。たりーけど」 「そうなのか」 救急箱に薬瓶をしまう田神の手先を俺はじっと見つめた。「たるい用」って何だろ。まぁ家の用事なんだろうけど、田神の親も酷いよな。だって今の俺たちに受験より優先しなきゃいけない用って何?って感じだよ。大学受験はもうすぐそこだぞ。最後の追い込み、超重要な冬期講習を受けないなんて。 ……あれ。 ってことは、冬休みってもう田神に会えないのか? いや、それだけじゃない。よく考えなくても、俺たちは高校3年生だ。予備校だってこの冬期講習が最後。1年や2年と違って、3年生に3学期はないから……田神との買い食い生活も、もう終わり? あの日々が、「これが最後」って実感もないまま、知らない間に終了していた? あれあれ、ちょっと待てよ。もしかしなくても、予備校がないなら、もしここに俺が来なかったら、田神とはもう会えなかったってことじゃないか? いつも自習室を使う俺とは違って、田神は授業がなければ予備校へは来ないんだから。 そういえば田神って大学はどこを――。 「ヒデ」 ぐるぐるしている俺の思考を断ち切るみたいに田神が呼んだ。 俺は黙って田神の顔を見つめた。 「さっきの質問だけどな」 「え…?」 「俺が偉いとか何とか、そういう話」 「あ、ああ…」 ボー然としながら俺が何となく相槌を打つと、田神はそんな俺の頭をおもむろに「いい子いい子」した。何だそれ。俺は小さなガキじゃないっての。 でも泣きそうになっていたから、これにはちょっとだけ救われた。 田神は言った。 「俺はゼンゼン偉い奴なんかじゃねーよ。まぁ、あれだな。要は、俺は雇われ社長みたいなもんだ」 「雇われ社長?」 「そ」 意味が分からない。いや、雇われ社長という言葉自体の意味は分かる。たぶん。でもそれと田神は結びつかないよ。 「田神の親父って何かの会社の社長なの?」 「ん…まぁな。血が繋がっている方はな」 「え?」 「そいつと住んでいたのは5歳までだからなぁ。この家の主の方が親父って感じはするな。育ての親ってヤツだから。まぁその親父は、俺と血が繋がっている方の奴の兄貴だから、正確に言やぁ、叔父貴ってことになるが」 「ふ、ふぅ〜ん…」 どういうリアクションを取るべきなのか分からなくて、俺は本当にバカみたいな返答をした。 幸いというか何というかで、田神は俺のそんなアホ面を見ちゃいなかった。相変わらず飄々とした顔をしているけど、さっきから目線は手元の救急箱から動かない。 「あと、さっきのアレは本物か?って件は、まぁ本物だな。うちは剣道屋じゃなくて刀剣屋だから」 「トウケン……あ、あぁ刀剣か…やっぱあれってホンモノの刀だったのか。まさかあれで人を斬っ―……」 俺の言いかけた言葉を田神はまたぽかりとやって黙らせた。 「確かに今じゃすっかりマイナーだが、探せばまだ色々あるんだぜ、うちみたいな刀屋は。もちろん流派はその家ごとに違うけどな。左手突きの神影流とか、切落としの一刀流とか。有名だろ?」 「あ! 北辰一刀流ってやつか!? 坂本竜馬の!」 「あ? ……あぁ、そうだな。今言ったのは違うけど、それもあるよな」 「へえ……す、すげえな。つまり、お前んちって、日本にいた武士の魂ってやつを受け継いでいる家ってことか!?」 “竜馬”なんて有名人のキーワードが浮かんだことで、俺のテンションは俄かに上がった。修練場にいた殺気全開の田神はただただひたすら怖かったけど、剣の流派を守ることだって日本文化を維持する立派な仕事だろう。俺は単純に憧れた。 「何かすげえ。田神って格好いいな!」 だから俺は思ったことをそのまま言った。 「……カッコイイ?」 だけど俺の誉め言葉を田神は喜ばなかった。 それどころか眉間に皺まで寄っちゃってシラッとして口を閉ざす。田神が気分を悪くしたのは一目瞭然だった。俺は途端ぶるった。俺には田神の地雷がどこにあるのかちっとも分からない。ただでさえいっぺんに色々なことを聞き過ぎて心が騒いでいるのに、これに田神の不機嫌顔なんかがプラスされたら堪らないよ。 「……ヒデがどういうものを想像してんのかは知らねーけど、少なくともうちはそんなイイもんじゃねーよ。全然有名でも何でもねーし」 けど田神はスイッチの切り替えが非常に早かった。多分、俺がびびって顔を青くしたのを見て、気まずくならないよう自分の気持ちを抑えたんだ。田神って本当にいい奴だ。 「ヒデ、さっさとそれ食えよ」 でも田神は立て続けにそうも言った。 「え?」 「菓子食ってとっとと帰れって言ってんの。途中までは送ってやるから」 「でっ……でも俺、今来たばっかだし」 「はぁ? 誰も遊びに来いなんて言ってねーし!」 田神は俺の渋々とした言い様に苦笑しながらツッコミを入れた。ただ、怒ったり迷惑がったりって顔は見せないまでも、その態度からして「帰れ」オーラが全開に放出されていることだけは間違いなかった。 田神はこれ以上俺に自分の生活を荒らされたくないんだ。 俺はバカな奴だけど、自分自身が遥か昔に、他人に「踏み入って欲しくないライン」を作って距離を取った人間だから、こういうことにかけては敏感な方だと思っている。気づいていようがいまいが、誰にもそういう「境界線」ってあるんじゃないのかな。Aさんにとっては全く些細な行為でも、Bさんにとっては絶対して欲しくない傷つく事だとか、そういうの。例えば何か問題を抱えている人に、無闇やたらと「どうした?」「何だ?」って聞いてあげるのは、親切である場合もあるけど、余計な事だって時もある。黙って後ろを守るだけでも、だからこそ良かったんだって事もある。見捨てているのとは違うもん、本人が話したくなったら話を聞ける、その体勢さえ作っておけばそれでいいんじゃないの。 ……俺は何でも大体そういうスタンスだったから、だからこれまで田神にも他の人にも、付き合っていたヨシヒトにさえ、やたらめったら踏み込んだ質問なんてした事なかった。相手を知りたくないわけじゃない、でも、傷つけたくない。 それで自分も傷つきたくない。 そうしてきたことを間違っていると思ったことはない。 でも今、田神に「帰れ」って線を引かれて、俺は思っている。 田神に対してだけは、今までの人たちみたいな態度を取れない。 俺は今、「帰りたくない」って思っている。 「俺、お泊まりしたい」 ………だからってそんなバカなことを口走るのはきっとバカな俺だけだ。 「は?」 案の定、田神はぽかんとして聞き返した。俺は田神の顔をまともに見ていられなくて、でもちゃんとしなきゃって思って、すかさず正座をした後ぐっと拳を握りこんでから言った。俯いた顔は上げられなかったけど。 「俺、田神君のことをもっとよく知りたいから、お泊まりしますっ」 「……あのなぁ、ヒデ。っていうか、“田神君”って気色悪いなおい」 「茶化さないで下さい、田神君! おお俺は真剣そのものだっ、です! ほらよく言うじゃん、一緒に寝食を共にしたりすると自然と連帯感が高まって親密になれるって! それをやりたい!」 「知るか、そんなもん! とにかくうちはダメだ。とっとと帰れ」 「嫌だ!」 怖い。むちゃくちゃ怖い。いつ田神が怒り出すかって俺はハラハラした。分かっているのにこんなめちゃくちゃなことを言っている俺にもハラハラした。でもここで退いたらもう田神と会えないじゃんか。田神は冬期講習を取っていないし、誕生日の日も忙しいんだろ? 田神が高校卒業したらどうなるか、俺はサギリさんより知っていなくて、そしてそれはきっと俺とは別々の進路になるってことで。 ああ、何でこんな事に気が回らなかったんだろう。俺、これからも田神と一緒にいたいし、だったら一緒の大学受けようって一度でも言えば良かった。一度でも訊けば良かった。お前どこの大学受けるんだ? 俺、お前と一緒の大学受けたいからさ、どこを受けるか教えてくれよって。それこそヨシヒトばりのあのしつこさを駆使すれば、そんなこと簡単じゃないか。 「おい、ダダ漏れヒデ」 すると田神がだくだくと額から汗を滲ませ始めた俺に物凄く大きなため息をつきながら言った。 「俺はお前にキレる気はねーし、そもそもそんな要素、お前にはない」 「じゃっ…じゃあ、そんな怖い眼つきはやめて、俺とお話しようぜ!」 「今まさにしてんだろうが! ……ったく。はあ……はは」 田神はため息をついているんだか笑っているんだか分からない実に微妙な反応を見せた。 でも俺がそれに反応を返す前に、田神は本当に酷いことを言ったんだ。 「ヒデ。来年はもう、一緒にいられない」 「嘘!!」 俺は殆ど反射的にそう叫んだけど、実際それがちゃんと声になっていたのかは自覚がなかった。 田神の台詞を聞いた途端、キーンっていう耳鳴りが酷かったし、動揺レベルが半端なく急上昇して針が振りきれてしまったから……。 そんな俺の様子がもろ分かりなんだろう、田神はまた俺のすぐ前にまで寄って「いい子いい子」してくれた。俺は大分鼻息も荒くなっていたみたいで、それでようやくふーはーって深呼吸できた。 でも田神の言葉にはせり上がる気持ちを抑えられない。だって急にそんなの。酷過ぎるだろ。 「折を見てちゃんと言おうとは思っていたんだぜ? 別に、黙ってバックれたりはしねーよ」 「嘘だぁ! だって、だっ、お、俺がここへ来なかったら、お前とはそのまま会えなかったじゃないかよ! サギリさんが俺をここへ寄越してくれなかったら、俺は田神ん家すら知らなくて、唯一のメルアドと携番だってきっと知らない間に解約されて、そんで卒業したら完全お前の行方なんて分からなくなって、そんでそんで、二度と田神に会えないところだったじゃんかっ!」 「あっ…あのな、話飛躍し過ぎ…。んなことしねーよ、とにかく落ち着け」 「嫌だあ!」 田神と一緒にいられない。 俺はもう完全にパニックになりかけていた。もしかしたら涙すら滲み出ていたかもしれない。訳が分からないよ、何か事情があって大学が別々とか、そういうんならある程度仕方がないと思うけど、何で一緒にいられないんだよ。一緒にはいたいよ。 だって俺たち――。 「もう一生会えないのか?」 俺が悲壮感全開でそう訊くと、田神は俺の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き混ぜた。 「だから、飛躍すんなって言ってんだろ。……ただ、最初の一年は完全幽閉状態っぽくなるから、少なくともその期間は会えないってことだ」 「幽閉!? お、お前やっぱもう誰か殺していて、それで刑務所に入るとか?」 「ヒデ」 「嘘、冗談言っている場合じゃないの分かってる。先を続けろ!」 俺はテンパりながら早口でそう言った。すると田神はまた俺を、本物のバカを見るみたいな目で見てから結局全部の事情を教えてくれた。 田神は「全然有名じゃない」けど、田神の家が代々守ってきたっていう剣の流派を受け継ぐ為に、この家の跡取りにならなきゃいけないらしい。それは俳優の親を持つ子どもが二世俳優になるように、親の仕事を子どもが受け継ぐっていう意味では、世間でもよくあることなのかもしれない。 けど今の当主……つまり田神の叔父さんってことだけど、その人に子どもがいないからって田神が養子にされるくらいだから、きっと俺みたいな一般市民には想像もつかないレベルで、こういう家には「継承」というものに何か凄まじい執念のようなものがあるんだろう。話を聞いた時、その「跡取りにならなきゃいけない」ことの重みは、俺でも知っている「世間でもよくあるようなこと」とは違う気がした。 それで、その田神本家の跡を継いで剣の師匠となる為には、京都のどこそこにあるありがたいお山に籠って修業する必要があるらしい。だから大学もそっちにある仏教系の、剣道が強い学校に籍を置くことが決まっているけど、入学しても多分最初の一年は休学してほとんど山籠もりになるだろうって。……そんな話を田神は他人事みたいに語った。 で、冬休みはそのお世話になる師匠とやらの所へ、いわゆる体験合宿に行くらしい。 「大学、もう決まっていたのか」 俺が何ともなしにそう言うと、田神はぞんざいに頷いた。 「最初っから決まってた。それこそ、この家に来る前からな。予備校に通っていたのは受験の為じゃない。『秀陽なんてバカ校じゃロクな授業もやらないだろうから行っとけ』って言われて通っていただけだ」 「そんな酷いこと誰が言ったんだよ…。今の親父さん?」 「どっちもだ。どっちの親父も人に指図するのが大好きな性格してんの。そのくせ、そもそも秀陽行けっつったのもあいつら」 「えぇ…?」 「訳分かんないだろ?」 けど面倒だからな、と田神は呟いた。 「逆らうのにもエネルギーが要る。実際、養われている身で好き勝手もできねーしな。子どもってのは立場が弱くて困るぜ。親の好き勝手であっちの家へ行け、あの学校へ行け、あそこで修業してこい、だからな。笑っちまうよ、全く」 「…………うん」 田神はこの家には5歳の時に来たって言っていた。幾ら親戚とは言え、そのくらいの子がある日突然、親が変わるってどういう気持ちなんだろう。そこに田神の意思は全くない。もしある日突然、家を、流派を絶やさない為に、お前はあの家へ行って剣の修業をしろなんて言われたら、俺だったらどうかな。田神は達観したみたいに淡々としているけど、単に諦めているだけなんじゃないか。 でも、「嫌なら嫌だって言えばいいじゃん」なんて。 そんな風には、俺には言えない。 「さぁ、ヒデ。お前の望み通り話してやったぞ、俺の話。これで満足だろ? なら帰ろうぜ」 田神は立ち上がって上着を取りながら促すようにそう言った。それでも俺がなかなか腰を上げないと見ると、「別に、会えるから」と田神は慰めるような笑顔を見せた。 「俺だってヒデ、お前と別れるのは嫌だからさ。向こう行ってもきっちりマメに連絡入れるし。休み入ったらこっち戻る。そしたらお前に会いに行くよ」 「ホントか?」 「ああ。だって俺ら、友だちだろ?」 「うん」 違う。 田神の問いかけに俺はすぐ頷いたけど、とっさに思った事はそれだった。 「違う」って。「そんなの」って。 いや、違わなくなんてない。俺たちは友だちだ。少なくとも俺にとって田神は初めて自分を曝け出せた本当の友だち、特別な相手だった。 そう、特別。 ああ、だからなのか。 「田神……」 俺は今とても嫌な事を考えている。田神がこの先、この家の後継者を作る為に誰か綺麗な女の人と結婚したりその人と子どもを作ったり。田神が誰か特別な存在をつくることが……想像しただけで辛いんだ。実際そんな時が本当に来たとして、友だちとして笑顔で「おめでとう」なんて、絶対言えない。 どうしよう、俺、どうしよう。俺は気づいてしまった。どこか無意識のうちに必死で避けていたことに。 恋なんてしたくないのに。 「どうしたヒデ。行くぞ」 田神が促した。上から降ってくる田神の声は何の感情の起伏も見られない。俺はこんな気持ちなのに、何だよ。田神は平気なんだ。俺と丸々一年会えなくても、そもそも今年の冬会うのがこれで最後になるのも。酷いよ。田神は優しくて俺のことよく分かっていて、だから俺のこの気持ちだって分かってくれそうなものなのに。言わなくても分かっているはずだ、そうだ、田神が気づかないわけない。だって俺は“ダダ漏れヒデ”だもん。 「田神……」 でも、そんなのは、いつも田神からの優しさを待っているだけなんてのは、卑怯だよな。 だから。 「田神、俺、今気づいたんだけど」 「……何を?」 「俺、田神が好きだ」 こういう時はちゃんと相手の顔を見なくちゃダメだと思う。でもこの時俺が見ていたものは、自分の膝にのっている俺自身の拳。よく考えたら告白なんて初めてした。ヨシヒトの時はヨシヒトから好きだって言ってくれて、そのまま「なあなあ」に付き合い始めたから。改まって言うのはこんなにも照れくさいものなのか。 でも俺は田神が好きだ。一番大切だし、一番傍にいて欲しいし、一番……一番、大好きだ。 「あ……愛してるって、言ってもいいぞ…?」 言った後、急激に恥ずかしくなって、しかも田神から何のリアクションも返ってこなくて、俺は居た堪れずにそう付け足した。告白をなかったことにするのは嫌だけど、このまま永遠とも思える田神からの返事をじっと待てるほどの余裕もない。 「へえ」 すると。 「そこまで言われるとは意外だった」 どれだけの間があったんだろう、ようやっと返された田神の第一声はそれ。 「え?」 慌てて顔を上げると、田神は俺の傍に立ち尽くしたまま、あのいつもの偉そうな様子でニヤついていた。な、何だよ、この顔は。全然真面目じゃない、ふざけた顔だ! 俺はこんなに必死に告白したのに! しかもこの様子だと、多分田神は俺が今このタイミングで告白するって分かっていたんだ。やっぱり俺の気持ちを、こいつは俺以上に分かってた。何だよ。意地悪! やっぱり田神が察して何とかしてくれれば良かったんだ、俺から言って損した!! だから俺はたちまち膨れっ面モードになって「それで、返事はどうなんだっ!?」てキレ気味に聞き返そうと口を開けた。 けどその台詞は「それで」の「それ」で完全に掻き消された。後の言葉は田神の唇に吸い取られたから。 「んぅ〜っ!」 田神のちゅうはこれまでの中で一番熱烈だった。俺はいきなりだったこともあってじたばたと両手をばたつかせたけど、田神はそれさえも途中で押さえつけて身体まで擦りつけてきて尚しつこい口づけをした。べろちゅーはホントに困る。息できないし、唇も何度も押し潰されてめちゃくちゃにされるし、何より今は「好き」を自覚した後だから余計に参るよ。田神のキスが嬉しくて泣けてくるんだ。見ろ、目から水が流れてきた。こんなのはみっともないのに。 それに悲しい。 「……泣くなよヒデ」 田神が長いキスの後、俺を見てそう言った。俺は黙って首を振った。あぁ、確か前にもこんな風に言われたことがあったな。あの時とは種類の違う涙だけど、でも悲しいことには違いない。 「あのな、ヒデ。……俺もだ」 すると田神がまた俺の頭を撫でつけて言った。俺が「え」とぼやけた視界のまま顔を上げると、田神は尚も俺の髪を撫でつけながら「だから」と苦笑した。 「俺もとっくの昔にヒデが好き」 むしろお前は気づくのが遅い、と。 田神は、今度は俺にでこぴんしてふっと笑った。その笑みがどこの悪徳商人なんだってほどの企み顔で怖いのなんの。あ、でも田神は剣士なのか。まぁどっちでもいい。 「痛いな、何すんだよ…!」 俺は大して痛くもなかったのに弾かれた額を大袈裟に両手で押さえて、わざと田神の視線から逃れた。田神が何の照れもなく「俺も好き」って返してくれて嬉しかったけど、でも、恥ずかしくて堪らない。 それに悲しみは余計にせり上がる。だって俺たち両想いなのにいきなり遠恋? 最悪じゃんか。 「なぁヒデ。ヒデみたいな可愛い恋人が出来てめでてー事だし、俺、冬の体験合宿バックれるわ」 しかし。 「…………は?」 「だから冬休み遊びまくろうぜ。あ、ダメか、お前は受験生か。けど、一日中勉強漬けってのもよくねーしな。空き時間は全部俺に当てろよ。お前の受験勉強の合間のリフレッシュを請け負ってやるから」 「え、何? え? 何言ってんだ田神……?」 「あれ? ちげーの。俺らたった今、両想いで恋人同士になったんじゃねーの?」 「いや、なった、のかな? そうならいいと思うけど、でも……」 何だろう、突然。俺は訳が分からず頭の上にたくさんハテナマークを浮かべた。おい、大切な剣の修業、山籠りの第一歩をバックれるって、そんな真似できんのかよ。出来ないだろうがよ、さっきまでの話を総合したら。どう考えても。お前、親に逆らうのもエネルギーがいるから面倒だって言ってたじゃないかよ。何をそんなに嬉しそうな顔でバカみたいなこと言ってんだよ。 「そんなの無理だろ……」 そうか、田神もバカだったのか。俺は田神だけはそういうんじゃないと思っていたんだけど。田神だけは俺みたいに好きだからってこんな風に暴走したり、冷静さを失ったりってないと思っていたのに。 「ヒデ。もっかいキスする?」 それなのに田神は何てことないように、茶化すでもなく俺を誘った。俺はそれでとんでもなく変な顔をしたと思う。泣きたいのか怒りたいのか大笑いしたいのか全然分からない。けど、田神がそう言ってくれるならキスしたい。何回でもしたい。――そう言ったら、田神はまた凄く嬉しそうに笑って俺に熱烈なキスをしてくれた。 「まぁ何とかなんだろ。――ヒデがいてくれるなら」 そして田神はそう言った。俺はそれにただ「うん」ってしか言えなかったけど、この時ようやく俺も確信した。俺も田神が一緒なら何とでもなる気がするって思ったから、すぐにそれの正体が分かった。 あ、そうなんだ、「これが」って。悟ったみたいに得心したんだ。 そうか、これが、愛ってやつか。 |
了 |