だってばかだから5



  俺の父さんは、至ってフツーの父さんだと思う。フツーの会社に勤めていて、フツーの顔をしていて、フツーの体型をしている。それなりに人付き合いも良く、近所付き合いもそれなりにこなす。母さんが浮気して出てった後も、噂好きのおばさん連中に囲まれながら、子ども会や自治会の仕事もちゃんとやっていた。ゴミ置き場の掃除だって俺と交代でだけど、自分の番の時はサボったことがない。それは食事作りや掃除、洗濯なんかもみんなそうだ。俺と父さんは男2人、実に立派にまっとうに生きてきたと思う。本当にそう思う。
  でも、俺がゲイだって知ったら、この「普通の父さん」はどれだけ落胆するだろう。



「何でいんの…」
  担任からこってり絞られ、俺がフラフラしながら帰宅したのは夜の19時過ぎ。
  その日はさすがに予備校の自習室へ行く気がしなくて、「帰ったらメシ食って家で勉強しよう」と思っていた。今日は講習期間の中休みだったから学校へ行ったけど、明日からはまた予備校通いだ。年が明けたらすぐセンター試験だし、例え俺に「どんなこと」が起きていようが、受験生は勉強を休むわけにはいかないのだ。
  それなのに。ああ、そんな忙しく悲しい俺なのに、何で?
「お帰り」
「お帰り、エイ」
  俺を出迎えたのは、夕食当番の父さんだけでなく。
  ヨシヒトも、いた。
「だから、何でいんの!?」
  しかも父さんと台所の食卓で仲良くご飯食べちゃってるよ。なぁおい、これって一体どういうことだ? 誰がいつ、こいつに「遊びに来ていいよ」なんて言った? いや、分かってる。ヨシヒトが俺の許可なんか求めず、いつでも自分の好きなようにしちゃう「マイウェイ男」だってことは。それはもうもう、嫌ってほどに分かっているけど、だからって何でこんな気分の時に来るんだよ。今の俺にはヨシヒトを相手にするだけのパワーなんか微塵もないのに。
「こら英安、友だちに向かって『何でいる』はないだろう。ヨシヒト君、お前を待つついでだと言って夕飯まで作ってくれたんだぞ。しかも驚きの腕前だ、こりゃあ。うーん、そんじょそこらの定食屋じゃあ、相手にならんな!」
「ありがとうございます。いつも家でやっていることなので、慣れているんです」
  ヨシヒトは得意のスーパーグッドな外面&俺の好みの美形顔で父さんににっこり笑いかけた。ちょっとうん、何て言うのかな、俺はこの現実を受け止めきれない。ヨシヒトは確かに以前付き合っていた「元彼」だけど、こうやって家に呼んだことなんてめったになかったし、来るとしてもいつも父さんがいない日中とかで、別れた今、ましてや、「友だちでも何でもない」間柄の今、こんな風に父さんと仲良く食卓を囲まれても、俺は途方に暮れるだけだ。
  大体、気まず過ぎるよ。もし父さんに、このヨシヒトと俺が過去「そういう関係」だったってことが知られたらどうなるか。父さん、卒倒して心臓止まっちゃうかもしれない。
  しかもまたこの空気の読めないヨシヒト君は、そういう禁忌にも平気でさらっと触れちゃう危うさを持ったお人だ。だから、とにかく早く外に連れて行かなくちゃ。
「あのさ、ヨシヒト…っ」
「エイ、担任何だって?」
「え?」
「担任に進路のことで呼ばれたんだろ? お前、受験先として決めた3校と加えて、もう1通調査書作ってくれって頼んで、担任から反対されたって聞いたぞ」
「誰に!? つか、何でそれを今ここで言うんだよッ!」
「お前こそ、何で父さんに内緒にしてる?」
「うっ…」
  ヨシヒトを責める俺を遮るようにして父さんがびしりと口を挟んだ。それで俺は途端びくつき動きを止める。恐る恐る父さんの方を見ると、さっきまでヨシヒトのメシが美味いと言って上機嫌に見えたのに、今じゃすっかり厳しい顔つきで俺を見てた。父さんはプロレスやボクシングが好きな如何にも「男らしい男」に憧れる典型的な中年だけど、そういう格闘家みたいなゴツさやクドさはないし、俺よりでかいけど、見た目は至って細いひょろ親父だ。だから努めて怖い親父を演出しなくちゃと思っている時なんかは、こうやって眼光が鋭くなる。俺は俺で、そういう時の父さんはやっぱり怖くて、まんまと萎縮してしまう。未だ親父の威厳って奴に勝てない高校3年生なのだ。
「お前が新しく受けたい大学が出来たことを別にどうこう言う気はないぞ。どうして最初に父さんに相談しなかったのかと、それを言っているんだよ。先に先生に頼むというのはおかしいだろう」
  父さんのもっともな追求に俺は項垂れた。
「うん…。でも、受かるか分かんないし、あんまり受験代出してもらうのも申し訳ないから、これは俺の貯金から出そうと思ってて…」
「そういう問題じゃないだろう」
「そうだぞ、エイ。俺はてっきり親父さんはもう知っていると思ったからこの話をしたら、親父さん知らないって言うからびっくりしたんだ。普通こういうことは、親には最初に言うもんだろ?」
「何でヨシヒトまで説教すんだよ……関係ないじゃん」
「英安! 友だちにそういう言い方をするんじゃない。ヨシヒト君はお前を心配して言ってくれているんじゃないか。今日日いないぞ、こういう風にはっきり物をいってくれる友だちっていうのは」
「いや、ヨシヒトは元からこんなだから…って、わあ、ごめんなさい! もう言わない!」
  俺のぶちぶちした不平にいよいよ父さんが怖い顔をしたので、俺は慌てて謝った。心の中では勿論「ヨシヒトのバカヤロー!」と叫んでいたけど、窮地に立たされている今はそれどころではない。
  それに、俺が父さんに隠し事をしていたのは事実だし、実際、親に黙って勝手に志望校を1つ増やしたことは問題だと思う。第一、もし本当に受かったら、俺は「そこ」に行きたいんだから、いつまでも父さんに言わないでおけることじゃないんだ。
  お金だって余計にかかる所だし。
「それで? お前、一体どこを受けたいと思っているんだ?」
「……今言うの? ここで?」
  ヨシヒトがいる前で言いたくない、とは、この状況では言いにくい。しかしそれは本心だ。冬休みに入る前、何だかんだでやっと決めた受験校の3つは、もうすでにヨシヒトにゲロさせられていた。俺は何が何でも言うもんかと思っていたんだけど、ヨシヒトのしつこさは本当に尋常じゃなかったんだ。
  それでヨシヒトに内緒でもう2、3校追加しようかと思って、そのことを田神に相談しようとしたら―…俺は田神にキレられた。
  ……そう、なんだ。
  俺と田神は今、喧嘩の真っ最中。ていうか、俺が一方的に無視されているだけなんだけど。何回メールしても返事は来ないし、電話も然り。それで思い切って田神の家に行けば、門前にサギリさんがいて、「今はやめとけ」なんて言われて止められた。何でだよ、田神の家を教えてくれたのは、そもそもあんたじゃんか!…サギリさん、見た目がすげー怖いから面と向かってそんな文句言えないけど。
  ああ、それにしても。
  折角、付き合うことになったのに。
  俺たち、恋人同士になったばっかりなのに。しかも俺から人生初の告白をして、田神も俺のこと好きって言ってくれて。これから“ラブラブばく進中!”とかになるはずだったのに。
  現実は、全然ラブラブなんかじゃない……というより、俺は受験だし、田神は田神で家のことでいろいろ大変みたいだし。でも、付き合い始めたばっかで、相手の誕生日に一緒にいられないって何だよ。こんなの、どう考えてもおかしいだろ。……丁度その誕生日の日に俺が田神を怒らせたから、そうなっちゃったわけだけど。
  で、それから3日。
  年の終わりが迫る師走時だってのに、寒風びゅーびゅー、俺は田神と会えていない。冬休みはずっと一緒のはずだったのに。俺が予備校がある日だって、田神は迎えに来てくれるって言っていたのに。
「英安! 何をぼーっとしてる? 聞いているのか?」
「ハッ!」
  思わず思考をお空の彼方へ飛ばしていたら、父さんが俺を呆れたように呼んでいた。いかん、最近はずっとこれだ。現実世界で暮らそうと思っていても、気づけば田神のことを考えている。田神に怒られた。俺にとってこれ以上のショックはきっとない。何故って田神って基本いつも俺には凄く優しいし、俺のこと何回も「ばか」とは言うけど、結局最後のところではそういう俺を許してくれて、俺のこと抱きしめてくれる、そういう奴だから。
  でも、ヨシヒトに受験先を教える羽目になったっていうことを教えた時は、あいつ、本気で怒ってた。いや、怒ったっていうより、実際は単に呆れていただけなのかもしれないけど…それはそれで落ち込む。もう愛想を尽かされたのかもって。
  そうだよ、元はと言えば、元凶はこいつじゃないかよ!
  ヨシヒト!
  おい、お前は、一体いつまでそうやって俺の前に立ちはだかる気なんだ? 俺はお前がカナメを好きだから別れてくれって言った時、すぐに別れてやったし、お前の邪魔はしなかっただろ? ……たぶん。一緒に帰っていたのは、結果的にあの2人の邪魔をしたと言えなくもないけど。いやいや、でもあれだって無理やりそうさせられていたんだし!
  ヨシヒトはどうしてこんなに俺を構うんだろう。
  俺が遠ざかろうとすればするほど、こいつは俺に近づこうとする。それが多少強引でも構うもんかって風で。
  ……だから。
  そう、だから俺も、ヨシヒトみたいに多少うざくても、強気に迫ってもいいのかな、なんて。何気にこいつを手本にして動こうと決めたところがあるんだけど。
  それで「このこと」も決めたんだけど。
「……俺、京都の大学を受けたい」
「は?」
「京都?」
  俺が思わずといった風にぽつりと呟いたセリフを2人は同時に拾って、同時に怪訝な顔をした。
「京都ってお前…」
「エイ、いきなり何だよ? 何でどうして、そんな話になるんだ?」
「確かにいきなりかもしれないけど、俺的には結構悩んだ末に出した結論だよ」
「いや、しかしなぁ…」
  父さんが腕を組んで渋い顔をした。俺は予想通りのその反応に思い切り焦って、どもりながら考えていたことを早口で告げた。
「おおおお金がかかるのは分かってるよっ。下宿代とかさ、学費の他にも負担かけちゃうしね。けど俺、向こうでちゃんとバイトもするし、生活費を切り詰めるのは結構これまでの人生のお陰で慣れたもんだし。父さんにはなるべく迷惑かからないようにしようって思っているから!」
「いや、金の問題じゃなくてだ…。そりゃあ、お前がチャレンジしたいというなら、とも思うが……しかしお前、いきなりそれは……どうしたんだ?」
「どう…って?」
「いっそのこと東大にしたらどうだ?」
「は?」
  父さんのとんちんかんな提案に俺は頭の上にハテナマークを浮かべた。
  でも父さんは構わず続ける。
「同じチャンレジするなら、わざわざ関西までいかなくとも関東でもいいだろ? 父さんから言わせれば、京大も東大も同じようなものなんだが…何か違うのか?」
「エイ…。もしかしてお前、クラスの奴らが冷やかしたこと気にしてたのか? ほら、一時、お前が東大受けるって噂が広まって、お前は違うって言ったのに、話がどんどん大事になっていったことがあっただろ?」
  ああ、あった、あったな。お前のせいでな!
  ていうか、何なんだよ、その話は。何でトーダイとかキョーダイとか、そんな壮大な話になってんだよ。
「あのさ、何言ってんの?」
「何って、お前が京都の大学を受けたいと言ったんだろう? しかし、そうだったのか? 学校でお前が東大受ける噂なんてあったのか? よくもまあ、あんな成績でそういう誤解をされるもんだな」
「うっ…。そ、それは…っていうか、今はそんなことどうでもいいじゃん! 俺が言いたいのは、そういうことじゃなくって! 俺は京都にある大学を受けたいって言ったんであって、別にキョー大を受けたいって言ったわけじゃない!」
「ああ…何だ、そうなのか?」
  俺が普段見せない剣幕に父さんはちょっと意表を突かれたのか、少しだけ戸惑ったようになって、見せていた威厳オーラをするりと緩めた。
  すぐに立ち直ったのは傍にいたヨシヒトだ。
「でも、じゃあ何で突然京都の大学を受けたいなんて。どこの大学だよ? それに何でそんなこと言い出すんだよ」
「別にいいだろ」
「よくないだろ。何で俺に内緒にするんだよ? しかもこんな直前になって……担任だって何て言ってた? この話に賛成したか?」
「それは……まず、親の了承取ってこいって」
「そりゃそうだ」
  父さんが腕を組んだままうんうんと頷いた。そしてさらに何か継ごうとしたので、俺はもう耐え切れなくなって、咄嗟にヨシヒトの腕を引っ掴んだ。
「何だよ!?」
「いいから、ちょっと来て!」
「何だ英安、話があるならここでしなさい」
「ちょっと待っていて父さんは! 俺はまずヨシヒトと話があるから!」
「何だよ、待てって!」
  ヨシヒトは文句を言ったけど、俺が強引に腕を掴んで尚引っ張ると、引きずられるように立ち上がって素直にそのままついてきてくれた。
  俺は玄関を出てヨシヒトを家の外にまで連れて行くと、スーハーと深呼吸して、でもまだヨシヒトは見られなくて、背中を向けたままの態勢で言った。
「あのな、ヨシヒト。俺、お前とは同じ大学に行きたくないんだ」
「エイ――」
「ちょっと待ってちょっと待って。まず俺から言わせてくれ! お前いつも俺より先に何でも言いたいこと言っちゃうだろ、たまには俺から言ったっていいだろ」
「……別に、お前に言いたいことがあるなら、俺はいつだって聞くよ。遮ってきたつもりなんてない。いいぜ、言えよ。ただし、ちゃんと俺の顔を見てな」
「う……」
「話があるなら、相手の顔を見て言うのは当然だろ」
  全く正論だ。しかしむかつく。
  そう思いながら、それでも俺は意を決してくるりとヨシヒトへ向き直った。ヨシヒトの顔を見やる。イイ顔だなと思う。ヨシヒトは本当に整った顔をしていて、体型もモデルみたいにすらりとしていてカッコイイ。本人もそれが分かっているみたいで、いつでも全身から自信に満ち溢れたオーラを放ちまくっている。
  以前は、そんなヨシヒトが眩しくて好きで仕方がなかった。
  そうだ、俺はこいつに好かれたくて好かれたくて堪らなかったんだ。だからいつでも自分を抑えて、ヨシヒトに「嫌われないよう」接するので精一杯になっていた。
  そしてそうやって窮屈な気持ちでいたら、いつの間にかヨシヒトには他に好きな奴が出来てしまった。傷ついた。悔しかったし、悲しかったし、「何だよ」って。お前、何なんだよって。そう思った。
  でも、心底まで憎めなくて、だらだらと引きずったりして。
  けど今の俺は、もうあの時の俺じゃないんだ。
  だって俺には――。
「あのな、ヨシヒト。俺、田神と付き合うことになったんだ」
「……そんなこと、改めて言われなくても、もう知ってるけど」
  むっとしたようなヨシヒトを前に俺はぶんぶんと首を振った。
「そうじゃないんだ。前言っていたことは嘘なんだ。この間までは、本当は付き合ってなかったんだ、俺たち」
「……何?」
  ヨシヒトが眉をひそめた。俺はそんなヨシヒトが怖かったけど、とにかく頑張ってその場に踏みとどまった。
「俺、もう別れたのに、関係なくなったはずなのに、何でか俺につきまとうお前が嫌だった。ごご、ごめん、こんな言い方して! でも、嫌だった! 何で放っておいてくれないんだろうって、ずっと、ずっと思ってて」
「エイ、俺は――」
「ちょっと待て、まだ俺、言うの終わってない!」
  こちらに近づいてこようとするヨシヒトと同じくらい後ずさってから、俺は片手を出して「来るな」という合図を出しつつ続けた。
「そしたら、田神が『自分と付き合っていることにすればいい』って言ってくれたんだ。田神は俺とお前のこと知っていて、でも俺のことバカにしないで普通に付き合ってくれた、俺にとっては初めてって言ってもいいくらい、俺のこと分かってくれる友だちだった。俺、今までそういう奴いなかったし、俺自身、自分を出すこと怖くてできなかったから、そういうこと出来る田神が凄く大事で……それで、いつの間にか、友だちじゃなく、好きだなって思って」
「……エイ」
「それに田神は、俺のこと、ちゃんと“ヒデ”って呼んでくれる」
  ヨシヒトがハッとした顔をしたので俺は途端に哀しくなった。別に「エイ」ってあだ名が本心から嫌だったわけじゃない。「英安」なんて名前が元々呼びにくいんだ。英語のエイは普通に読んだらエイだろう? だから、別に「エイちゃん」って呼びやすいし、何となくあの渋いロッカーのおっちゃん思い出してカッコイイって思えるし、それはそれで気に入っていたんだ。
  そのはずだった。前までは。
  でも何だか、俺のこと分かってくれていないのに分かってるって顔をするヨシヒトが俺のことを「エイ」って呼ぶ度に。俺は何だかモヤモヤした。そしてその分、「ヒデ」って呼んでくれる田神に救われる想いがした。こんなの、勝手だって分かってるけど。
「俺、田神のことが好きなんだ」
  凄く好きだ。
  田神がこんなどうしようもない俺にキレても呆れても、俺はやっぱり田神が好き。嫌われたくない、だから遠慮するんじゃなくて、今度は俺から田神に近づいて俺のことを知ってもらいたいって思う。
  それで、俺も同じくらい田神のことを知りたい。
  だって俺、まだまだ田神のこと知らないことだらけだし。
「だからなヨシヒト。俺、田神が行く所に行きたいし……そこに、ヨシヒトは来て欲しくない。ヨシヒトに一緒に来てもらいたくないんだ。だから大学、俺と同じ所を受けるのはやめて欲しい。お前は、お前のやりたいことを叶える為にさ…、あるんだろ? カナメが言ってた、ヨシヒトは前からやりたいことを決めていたって。だから、お前はそれができる、それの為の進路をちゃんと選んでくれよ。俺が自分でちゃんと決めて、こうしたいって思ったように」
  一気に言い切って、俺はぷはーと息を吐き出した。さすがにまくしたてている時は途中でヨシヒトの顔が見られなくなって俯いてしまったけど。そういうところが、まだまだ駄目だなって思うけど
  でも、言えたんだ。
  今度こそはっきりと、俺はヨシヒトに自分の誠意を持って、自分の想いを告げたんだ。
  何か今度は、伝わった自信がある。





「嫌だ」





  …………はい?
「……え?」
  何だろう、今「イヤダ」って聞こえた気がしたんだけど。いやいやまさか。気のせいだろう。
  そう思って俺が改めてそろりと目前のヨシヒトを見やると。
「エイが……いや、ヒデヤスが、俺の前からいなくなるなんて、嫌だ」
  ヨシヒトはきっぱりとそう言った。
「ヨシヒト……」
  俺がその回答にややボー然としていると、ヨシヒトは全く迷いのない目をして俺に近づいてきた。ヨシヒトは俺のことが好きなのか? フッたくせに好きなのか? 今さらそんなバカな考えがバカみたいに頭の上にのしかかってきて、俺は身動きが取れなくなった。ヨシヒトのこの問答無用さは全く理解不能だ。数秒前の必死な想いを込めた俺のあの発言は何だったんだろ。ぐるぐるとそんなことを思って、俺はただバカみたいに口を半開きにしたまま迫りくるヨシヒトを見ていた。
「ぐっ…!」
  でも、ヨシヒトは俺を抱きしめたりしなかった。もしかしたらそうしようと思っていたのかもしれないけど。
  でも、それは叶わなかったんだ。
「……え?」
  何かが凄い勢いでこちらに来たなとは感じていた。でも俺はヨシヒトから目が離せなくてそれが何なのか分からなかったし、実際「被害者」であるヨシヒトの方も、自分が殴られるまで相手の存在を認識することは出来なかったと思う。
  それくらい、速かった。
  田神のヨシヒトへの一発は、凄まじい勢いで、まさに一瞬のうちに成されたのだ。
「く……うぅ……」
  ヨシヒトはよっぽど痛かったみたいで、田神からぶん殴られて倒された態勢のまま、暫し悶えて立ち上がることが出来なかった。
  俺は街灯の下とは言え、仄暗い夜の通りに突っ立ったまま、そんなヨシヒトと、それから――。
  傍で拳を握りしめたまま立ち尽くしている田神の横顔をゆっくり交互に見つめやった。
「ヒデ」
  最初に声を出したのは田神だ。田神の声は数日ぶりだった。だって全然会ってくれなかった。電話にも出てくれなかったから。
  でも今は呼んでくれた。
  しかもこっちを見てくれた。
「田神だ……」
  だから思わずそう呟くと、田神は相変わらずの物騒な眼光をちらつかせていたけれど、ふと力を抜いたようになってわざとらしいため息をついてみせた。
  それからツカツカと近づいてきて、田神は俺の首根っこ掴むみたいな乱暴な所作で引き寄せると、本当にいきなりのキスをした。ボー然状態の俺は心の準備がまだだったのに。
「ヒデ」
  でも田神のこの声を聞けたからいいかな。
  そんな風に思って俺が「うん」と機械的に反応を返すと、田神はまた嫌そうな顔を一瞬だけ見せた後、俺の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き混ぜて「ばか」と言った。
  そしてさらに。
「お前がガンバッタのは分かったけどな。こんな時間に頑張るな。俺が来なかったらどうなっていたと思う」
「どうなってって…?」
「こいつに食われたらどうする。ただじゃおかねーぞ」
「そんなわけ…そうだ、ところで田神こそ、何でこんな時間にこんな所に?」
「……虫の知らせってやつか」
  後から、本当はサギリさんの配下の人が、ヨシヒトが俺んちに入って行ったのを見て、それで田神が来てくれたんだってことを知った。勿論、サギリさんから。でもそんなことを知らなかった俺は、この時、単純に「凄い、運命みたいだ」と思って感動していた。殴られたヨシヒトには申し訳なかったけど、この時の俺は田神が俺を嫌っていなかったってことが分かってただただ嬉しかったし、田神にキスしてもらえて有頂天だった。田神はそんな能天気な俺をまた心配そうに見ていたみたいだけど、俺にはそんな心配すら嬉しかった。
「なぁ田神。俺、お前の行く所に行く」
「ん…」
  だから、俺は張り切ってそう言った。それに、ヨシヒトにももう一回、今度は「昼間」にちゃんとそれを言って分かってもらうよって田神に告げた。田神はそれにはまた凄く嫌そうな顔をしたけど、でも、その時はもう俺にキレたりしなかった。
  それで、ああ田神にはちゃんと、俺の言いたいことが伝わるんだなって思った。
  俺の言いたいこと。もちろん、俺が田神を凄く好きだってことが。

  だから俺は、これからも田神のことをどこまでも絶対、追いかけるって決めて、この時も自分から田神に熱烈なちゅーをした。