だってばかだから6 |
俺は、浮気者は嫌いだ。 自分が手ひどい浮気をされてフラれて傷ついたから、俺自身は、そういう人間には絶対なりたくないんだ。そもそもうちは、父さんが母さんに浮気されて離婚しているって過去もあるから、余計に浮気は嫌だ。いや別にそういう経験がなくたって、「浮気はダメ、絶対」なんてそんなの、一般常識じゃないのか?当たり前だよ、そんなこと。 ……でも今の俺の「これ」って、限りなく浮気に近いのじゃなかろうか。 「英安、そこ間違えているぞ。その問2のところ」 「えっ…、あぁ本当だ。ありがとう…」 「今、何も考えないで丸つけしていただろ?それじゃ復習にならないじゃないか。ちょっと休憩すれば?」 「うん……って、そうじゃなくて!」 「何だよ?」 勢いよく立ち上がり声を荒げる俺に、キョトンとした顔を向けたのは、誰あろうヨシヒト。どうしてだ。どうしてそんな、図書室で声を上げる俺がおかしな奴みたいな奇異な目で見るんだ。違うだろう?どう考えても、おかしいのはお前!ヨシヒト! どうして浮気されて、あまつさえ「別に好きな奴ができたから別れてくれ」と平気な顔で言ってきた奴と、こんな風に肩を並べて勉強してなきゃならないんだ? 「あのさ…。ヨシヒト…あのさぁ…」 「まだ呼ばれないな。何か揉めているのかな」 「あ? あぁ…何か目標点に微妙に届かなかったみたいなこと言っていたから…って、だから、今はそんな、人のことなんかどうでもいいんだよっ」 「一応クラスメイトなんだから、その言い方は冷たくないか?」 「知らないよ、あんな奴! はっきり言って! いっつも、俺のことからかうだけだし!」 またしても俺は「我ながら性格悪いな〜」と、思うようなことを口走って、でもやっぱり今はそれどころじゃなくて、ヨシヒトをむうっと睨みつけた。そうだ、クラスメイトのことだろうが何だろうが、俺には関係ない。だってクラスの奴らなんて俺にとっては友達でも何でもない。あいつら、俺がヨシヒトに浮気されてフラれた後も、全然何てことないって顔して俺に茶々入れてきたし、俺が東大受けるなんてデマ飛ばして面白がっていたし、基本的に俺のことからかうことしかしてこないし。 そんな奴らの進路なんて知ったこっちゃないのだ。 「…あー…もう帰ろうかな」 「駄目だろ、それは。センターの結果、今日は担任に報告してからじゃなきゃ帰るなって言われているし」 「う……」 ヨシヒトがまた正論を述べた。むかつく。しかしそうなんだ。俺がこうしてヨシヒトに付きまとわれたまま、図書室で身の入らない勉強を強要されているのも、学校から「帰って良し」の許可が出ないから。うちの学校って、3年は今、基本的に自由登校なんだけど、この間あったセンター試験の自己採点の結果を担任に報告して、改めて出願するところを報告しないと「帰っちゃダメ」って言われている。まぁ担任に成績証とか出してもらわないといけないから、俺たち学生は所詮立場が悪い。てか、今の担任は別にそんな嫌いじゃない、好きでもないけど。ただ、俺がゲイだってことを知っても、父さんにそのことを告げ口しなかったことだけは感謝している。だからやっぱり、あんまり逆らえない。 それにしても、どうして待っている間にこうしてヨシヒトといないといけないんだ。という、最初の疑問に戻る。しかもコイツ、何か妙に俺と距離近いし。隣にぴったり座っているし。これまずいよ、やっぱりまずいよな。で、さっきの苦悩に戻るんだけど、これってやっぱり浮気になるんじゃないかと思えて――。 「それで英安は、京都の大学は受けることにしたのか」 「………」 そして一緒にいると当然、そういうことを訊かれる羽目になる。俺は朝からこの件に関してはだんまりを決め込んでいるけど、ヨシヒトもしつこい性格なので、全然諦めない。時間を置いては同じことばっかり訊いてくる。 因みにセンター試験の得点に関しては、とっくの昔にゲロさせられた。弱い俺。駄目な俺。 「英安の点数なら、前から考えていた滑り止めのところは予定通り出願できるよな。とりあえずそこは、一応出すこと決定?」 「言わないって言っただろ…。俺は、自分が受ける所はヨシヒトには言わない」 「どうして」 「どうしてじゃないよ。言いたくないって前から言っているじゃないか、俺はヨシヒトと同じ大学を受けたくないの」 「教えてくれないと、偶然同じところを受けちゃうかもしれないよ?」 「えっ、じゃあ教えたら違うところを受けてくれるのか!? …なーんて、俺が言うと思うか!? 俺はそこまでバカじゃないぞ、バカにするな!」 「うーん、残念。やっぱりさすがに引っかからないか」 はははとヨシヒトは軽く笑って目を細めた。うっ、カッコイイ。こうして余裕の笑みを向ける顔もカッコイイ。って、駄目だろ、そんなこと思っちゃ!ばかばか、俺のばか!どうして俺はいつもヨシヒトを見ると「カッコイイ」って思っちゃうんだ。幾ら顔が好みドストライクだからって! 俺には田神がいるのに。 でも全然会えていないけど。「鳩さん」から伝言すら貰えていない。もう受験終わるまで会えないままなのかなぁー。 「おーい、エイちゃん、ヨシヒト。どっちからでもいいから、教室来いってさ」 その時、ようやく終わったみたいで前の奴が俺たちを呼びに来た。全く、遅いんだよ、俺はすぐ帰りたかったのにさ、結局俺たちが最後じゃないか。 「英安、先がいいんだろ? いいよ、先に行って」 ヨシヒトが俺の気持ちを読み取ってそう言ってくれた。俺は素直にパッと喜んだ顔を見せてしまったけど、急いで支度をして行こうとして……、ハタと止まってしまった。 「……よく考えたら、やっぱりいいや。ヨシヒトが先で」 「どうして? だって早く帰りたいんだろ? いいよ、英安が先で」 「いや、いいや! 俺が、後がいい、断然!」 だって、先に行って俺が受験先を告げたら、それを後から来たヨシヒトが先生から聞き出すかもしれない!絶対教えないでねって先生に頼んでも、あの先生は言うかもしれない。信用ゼロってことじゃなく、ヨシヒトがそういうのが何か上手いんだ。先生が悪くなくてもまんまとバレる恐れはある。そんな可能性は少しでも低くしておかなきゃ。 「とにかく俺は最後がいいの! ヨシヒトが先に行けよ」 「はいはい、分かったよ。じゃあ、帰りは必然的に俺に待ち伏せされるけど、それはいいんだな?」 「うっ…。別に、お前がいたって一緒に帰らないもん」 「でも俺は待つからな」 「待つなよ!」 俺は必死に言ったけど、ヨシヒトは背を向けたまま軽く手を挙げた格好で図書室を出て行ってしまった。俺はがっくりと項垂れた。先に行くのは嫌だけど、帰りに待たれて一緒に帰るのも嫌だ。これじゃまた新たな罪を背負うことになってしまう。一緒に下校するなんて絶対浮気だよ。俺もうあのキスからこっち、田神から何回殺されればいいんだってほど浮気している…。 「ヨシヒトってさぁー」 「うわっ、びっくりした! お前、まだいたのか! 帰れよ!」 気が付いたら俺たちを呼びに来たクラスメイト(ただのクラスメイト)が、不意に声をかけてきたから普通に驚いた。俺たちのやり取りをニヤニヤしながら観ていたらしい。全くむかつく奴だぜ。センター試験の時も、俺たちのよりが戻ったのかなんてしつこく訊いてきていたし、こいつ。 「いつの間にかエイちゃんのこと、名前で呼ぶようになってんのな」 「は?」 そいつは突然そんなことを言ってから、おもむろに俺の目の前の席に座った。おい、座るなって。俺はこれからやっと一人になったここで勉強するんだから。 「英安≠チて。何かそう呼んでるじゃん。いつから?」 「……忘れた」 「何で? みんなエイちゃんのことはエイちゃん≠チて呼んでるし、ヨシヒトだって、今まで下の名前ちゃんと呼ぶなんてなかったのに」 「あいつに直接訊けばいいだろ、俺は知らない」 「何か特別感あるよなぁー。あいつだけの呼び方って。やっぱりヨシヒトとより戻したとか?」 「戻してない!」 ムカっとして俺はまた声を上げてしまった。カウンターにいる先生がじろって見てきたのが遠目からも分かる。いいじゃないかよ、別にもう。周りに誰もいないんだし。と、俺は心の中で逆ギレだ。 だってこいつがあんまり腹立つこと言うから。 しかしこいつ自身は構わないで話を続ける。 「ヨシヒトって相当勝手な奴だよな。ツラと人当たりがイイから大抵のことは許されているけど、普通に考えたらありえんぜ。最初に浮気したのはヨシヒトなわけじゃん。エイちゃんが受験勉強している間にカナメとイイ関係になっちゃってさ。まぁカナメが相当強引なアタックかましたって噂だけど、それに負けたのは間違いなくヨシヒト本人なわけだから。しかも、エイちゃんからフるなら分かるけど、あいつがエイちゃんをフッたわけだろ? ないわー、ホント。普通に考えて」 べらべらと喋るそいつの口を見ながら、俺は一気に表情がなくなった…と、思う。 「……急に何? 今さらそんなこと言われても知るかよ。お前が何だって話だよ、俺から言わせれば」 そうだ。いきなりそんな風に話されても、俺は戸惑うだけだ。それは実にまっとうな意見だが、本当に「今さら」そんなことを言われても困るぜ。つか、びっくりするわ。まさに、お前が何?って話だ。だったらどうしてあの時、俺が最大限に傷ついている時に、そう言って俺を慰めてくれなかったんだ。いや友達でも何でもないんだから、慰めろって方がムシがいいのかもしれないけど。 「まぁそうだよな」 しかし「ただのクラスメイト」であるそいつはうんうんと悪びれもせず頷いて見せてから、へらへらとした笑いを浮かべ、それから妙に「ヘンな顔と声」で言った。 「エイちゃん。今まで、ごめんな」 俺は訳が分からずそいつの顔をまじまじと見つめた。 「いつかちゃんと謝らなきゃなーって思ってたんだけど、どうもエイちゃんを前にするとふざけたくなっちゃってさ。自分でも分からん。けど、エイちゃんは変に慰められるのって逆に苦手だろうと思ったしさ。何つーか、エイちゃんって昔っから、俺らには壁作ってたじゃん? 俺らは何とも思ってなかったけど、エイちゃんって、自分が同性愛者だってこと、ちょっと、いやかなり気にしている感じだったし。だから、絶対ヨシヒトのことでは傷ついてるんだろうなーって思ったけど、俺らもどうしたらいいか分からなくてさ。逆に軽く接していた方がいいのかな、なんて皆で言ったりして。失恋なんて何でもないんだってさ。いや全然、何でもなくないだろうけど。で、やっぱり俺らは間違えたなって。ヨシヒトとカナメのことはもっとちゃんと責めるべきだったし、あいつらなんて、俺らで総スカン食らわしたって良かったのに、それもできなくてさ」 「……何でできなかったんだ?」 「んー? まぁ俺らの大半が波風立てるの苦手って事なかれ主義者が多かったこともあるけど…。何か、でも、そういうイジメっぽいことって、エイちゃん余計嫌がりそうだと思ったし」 「はぁ…? おっ、俺は嫌がらねーよっ。むしろ、推奨したぜ、ヨシヒトのことなんか! けちょんけちょんに言ってもらいたかったね!」 俺がわざと語気を荒げてそう言うと、そいつは「ははは」と笑ってから頭を掻いた。 「そうか? なら本当悪かったな、そうしてやらなくて。けど、俺らの中で、エイちゃんってそういう奴って認識。何つーか、自分が傷つくのは平気だけど、人が傷つくのは悲しんじゃう、みたいなさ。そういう優しい奴って」 「なんっ…何でこの時期になって、そんな、そっ、いきなり、誉め殺してくんだよっ。今さらそんなこと言い出したって何も出ないぞ!?」 「はは…。いや別に、何も要らねーよ」 ただもうすぐ卒業だし、きっともうそれで別々の大学になっちゃうし、だから謝っておきたかったんだよ、と。そいつは初めてか?ってくらいの真面目な顔と声でそう言った。さっき俺はそれを「変」って思ったけど、今度はそう言う風には思わなかった。 そいつ…「西浦」は、そして言った。 「ヨシヒトってアホだよな。いや、バカだ。ホント、真性のバカ。折角俺らのアイドル・エイちゃんをモノにしたのに、一時の気の迷いで浮気なんかしちゃってさ。今は正気に戻っているようだけど、許しちゃダメだぜ? これ、俺からエイちゃんへ、最初で最後のまともなアドバイス」 「…別に許してない。よりを戻す気も絶対ない」 「田神ってイイ奴なの?」 「最高にイイ奴だよ!」 「おっと即答。…そっか、それなら本当に良かった。まぁ頑張れよな」 西浦はそう言って席を立つと、「じゃーな、帰って勉強しなきゃ! やべーんだよ、センターの結果!」と苦笑しながら去って行った。俺は暫しそんな奴の後ろ姿を追っていたけれど、ちょっとだけ胸がどきどきした。お前なんか、ただのクラスメイトで、ヨシヒトといっそ同罪なくらい酷い奴らのうちの一人で、薄情って印象しかなかったのに。今まで見たこともないような態度でくるからびびったじゃないか。何だよ。今さら遅いんだからな。何だよ。今さらそんな風に言われても、謝られても、遅いんだよ。ばーか。ばか、ばか! その後、ヨシヒトが俺を呼びに来て、俺は担任だけが待っている教室に入った。がらんとしていて、人がいないと教室って妙に寂しい。ああ、もうすぐこの学校からもおさらばなんだな。何の未練もないよ、こんな学校。友だちもできなかったし、みんなにからかわれてばっかりだったし、ヨシヒトには浮気されるし。そうだ、この先生だって、俺が「凧職人」になりたいって書いたらふざけるなって叱ったりさ。ロクな教師じゃねえ、生徒の夢をバカにしやがって。 「お前なぁ、最後の最後まで心配かけるなよ。親父さんからも電話あったぞ?」 でも、俺が教室に入ってからなかなか席に着かずにぼーっとしていると、先生はそう言って困ったように眉を下げた。口で言うほど、あんまり困っている風にも心配している風にも見えなかったけど、机には俺が受けたいと思っていた京都の大学のパンフレットが用意されていた。俺が先生に渡したものじゃない、俺は先生にこの大学の名前しか言っていない。ということは、先生が自分で取り寄せたのだろうか。それを見たら、俺は何かちょっとだけ目頭の奥がツンと熱くなった。 校舎を出たら、そのすぐ外にヨシヒトが立って待っていた。俺の姿を認めると、またニコって最強の美形スマイルを向ける。俺が黙って歩き出すとヨシヒトも横についてきて、「ちゃんと話せたか?」なんて保護者みたいに偉そうな口調で言ってきた。 「話したよ。先生、書類作ってくれるって」 「親父さんが先に話通してくれたらしいじゃないか。センター試験の後、ちゃんと話し合い、できていたんだな」 「………お見通しかよ」 俺は少し呆れた。一応先生に確認したら、ヨシヒトには俺の受験先を言っていないとのことだったけど、いろいろ察したのかもしれない。あの先生、結構分かりやすいもん。 「受験先は知らないよ? でも、京都受験はきっとできるんだろうなって思っていたから」 ヨシヒトはそう言ってから、「俺も受けるところ、決めたよ」とさらっと続けた。俺がそれに「えっ」と思わず反応すると、ヨシヒトは勝手知ったる笑いを浮かべてから、「知りたい?」なんて訊いてきた。 俺は慌ててそっぽを向いた。 「知りたくないよ、別にっ。俺には関係ないしっ」 「でも、知っておかないと。もしどこか被っていたらどうする?」 「被るわけないよ、俺は関東の大学は一切受けな――あっ!!」 慌てて口を押えた時にはもう遅い。俺は自分で自分の脳天に大きな岩を落としてしまった。「ガーン」という漫画音が聞こえた…気がした。 何で。何でこんなこと口走っちゃったんだろう。西浦のせいだ。あと、用意周到にパンフなんて用意して待ち構えていた先生のせいだ。だから俺の調子が狂っちゃったんだ、そうだ、そうに違いない。 それにヨシヒトが何かこう…今までにあった強引さがなくて、何かこう…静かな感じだったから、テンションが。それで何か…引っかかっちゃったんだよ! 「ヨ、ヨシヒト…」 「ん?」 「今のなし…」 「ええ? でも無理だよ、もう聞いちゃったし」 「………」 「英安はこっちの大学は受けないで、田神がいる京都の大学を受けるってことだ。あいつを追いかけるために」 「………」 「あいつって、凄く有名な剣術道場の後取り息子だったんだな。ヤクザなんて噂が流れていたけど、全然違って驚いた。しかも何か、剣道っていうより、真剣使う方の本格的な剣術道場って聞いてさ。講堂も観に行ったけど、スゴイ、大きいのな。要は、イイとこの坊ちゃんってやつ?」 「お、お前…」 「何?」 「行ったのか…? 田神の家に…」 「家には行ってないよ? 訊いたけど教えてもらえなかった。弟子がいる道場に行っただけ。弟子っても、ごついオッサンしかいなかったけど。何か俺みたいにあいつを訪ねてくる奴多いみたいで、凄く慣れている風で完全にあしらわれちゃったよ」 「何言ったんだよ!? つか、何で行くの!? お前、あいつの関係者さん達に変なこと言ってないだろうな!?」 「変なことって?」 「へっ…変なことは変なことだよっ! 今っ、田神はいろいろと大変な時なんだから、余計な心配事増やしたくないんだ、なのに―」 「それって、あいつはイイとこのお坊ちゃんで、大昔から続くお武家様の跡取り息子なのに、よりにもよって恋人が跡目をつくれない同じ男でとか、そういう心配で言ってる?」 「は…?」 「2人の付き合いって互いの親には内緒なんだろ、今のところ」 「………」 「だから英安はいろいろ心配している。同性愛者の恋なんてただでさえハードル高いのに、よりにもよって相手が後継を考えるようなお家柄の男って」 俺が何も言えずにいると、ヨシヒトは間髪入れずにたたみかけてきた。 「英安がそう思うんだったら、ハナから茨の道だって分かっているあんな奴となんて付き合わなきゃいい」 「え……」 「俺にすれば?」 「嫌だ!」 俺がソッコーで拒絶すると、ヨシヒトは、顔は笑っていたけど、ちょっとだけ悲しい目をした。俺はうっとなった。そして自分もちょっとだけ胸の奥がズキンと痛んだ…気がした。 でも田神の家のこと勝手に探るなんてひどいじゃないか。 「何でさ…ヨシヒトはさ、俺のこと放っておいてくれないんだ…」 「………」 だからちょっと胸が痛くなったことには目を瞑ってそう言った。ヨシヒトの顔を見る勇気はなかったから、立ち止まって校庭の砂を見つめた。足元の砂。あんまりまじまじと見る機会はそうない。この校舎から校門までの道のりも、この砂も、これからもう見ることもなくなるんだな。卒業するんだし。 「もう別れたじゃんか…。お前が俺のことフッてさ、カナメのことを好きになったからって言ってさ…別れたんじゃんか。俺はスゴイ、泣いたぞ。悲しくて。それを、田神が慰めてくれた。傍にいてくれたんだ」 「うん」 「うん、じゃねえよ…。俺はさ、西浦にはさっき、ヨシヒトのことは許してなんかないって言ったけど、本当は違うんだ。もう別に怒ってないし、今でもこうやってヨシヒトの傍にいると変な気持ちになったりする。お前を凄く好きだった気持ちがまだ残っているのかもしれない。ぶっちゃけ、俺はお前の顔が凄く好きだ。でも、そういう風に思っちゃう俺が、俺は嫌いだ、大嫌い。そういう風に思う俺のことこそ、俺は許せない。俺は田神のことが大切で好きなんだ。それが一番、今の俺の大事な気持ちだ。俺は田神と一緒にいたい。だから今こうしてヨシヒトといることが耐えられない」 「英安は何も悪くないじゃないか。俺が勝手につきまとっているだけなんだから」 ヨシヒトが言った。抑揚の取れた声。落ち着いている。どうしてそんな声でそんな風に言えるのか分からない。モテる男の余裕ってやつか。俺が許しているって言っちゃったのが悪いのか、またこいつは調子に乗っていて、だからこんな冷静なのか? 「英安と一緒の大学を受けるって、もう言わないよ」 ヨシヒトが言った。俺がえっとなって思わず顔を上げると、ヨシヒトは最初の時と変わらない笑顔を湛えていて、「俺は俺の行きたいって思う大学を受けるよ」と念を押すみたいに繰り返した。 「ほ、本当か?」 「うん」 「もう、俺と一緒の大学受けるって言わないのか?」 「うん。英安をこれ以上困らせたくないし。だから大丈夫、もう志望校のことは訊かないから安心しろよ」 「ヨシヒト…!」 俺は感動した。じんわりと目から汗が吹き出しそうになるくらいに。だって、もうずっとずっと、こいつから毎日のようにしつこく同じこと訊かれて、こいつは全然諦めなくて。いっそこれは一生続くのか?なんてバカなことを思ってしまったくらいだったから。良かった、ヨシヒトもまだ普通にちゃんとした常識っていうか、理性を保った人間だった。そうだよな、幾ら何でも、ここまで俺が断っているんだから、いい加減諦めるよな。 「泣くほど喜ばなくてもいいだろ? それはさすがに傷つくぞ」 ヨシヒトが苦笑してツッコミを入れてきた。汗は頬をつたっていない、俺は慌てて「泣いてないぞっ」と言って「花粉が飛んでるんだ」と誤魔化しながら目を擦った。ヨシヒトが「あんまり擦ると目が赤くなるだろ」とそれを止めてきて手首を掴んだ。俺は大丈夫だよと言っておもむろに顔を上げ、その拍子にドアップのヨシヒトをもろに見ることになってびっくりした。 「わっ…」 「ほら、急に擦るから赤くなっているじゃないか。今の時期、目は大切にしなきゃ」 「わ、分かってる、分かっているからお前は…近い…」 「えぇ…? はは……英安?」 するとヨシヒトは焦りまくる俺に対して、急に勝手知ったるような笑いを浮かべて、さらに意地悪く俺に顔を近づけて。じいっと俺の目を真っ直ぐ覗きこんできた。ひいっ、何だこれ? 「英安は、俺の顔が好きなんだ?」 「か、顔だけなっ。性格はもう好きじゃないぞっ?」 「はーあ、酷いな、いちいち」 「お前がやってきたことの方が酷い!」 「……うん。そうだよな」 「ていうか、いい加減手を放せ―…」 言いかけた俺の声は途中で消えた。だってヨシヒトが俺に…俺に……いきなり。いきなり口をくっつけてきたから。自分の口を。 「……っ。ヨシ…ッ…」 俺は思い切り仰け反って奴の手を振り払い、慌てて口を押さえた。酷い、酷過ぎる、何だ今のは?何今のフェイント?攻撃?嫌がらせ?どうして?俺に許可なくこういうことしないって言っていたくせに!というか、俺のこと諦めるんじゃないのか?ああそうか最後のキスってやつか?最後の思い出をくださいってよく陳腐な恋愛ドラマにもあるやつ?そうか、それならまだ許してやっても…許してやれるわけがない。ギロチン決定。火あぶりの刑かな?いややはり田神に罰を下してもらうより、俺が自ら腹を切るしかないかもしれない。もうダメだ。 「ごめん。俺が田神に殴られるから。英安は何も悪くないから」 ヨシヒトは頭の中で様々な死刑法を考えて、やや仰け反った態勢のままフリーズする俺にそう言った。それから自分もちょっと口に手をやって、「最低なのは分かっている」と続けた。分かっているならやるな。もう遅い。どうしてキスした。酷過ぎる。でも言葉が出ない。 しかもヨシヒトはさらに俺を地獄に叩き落とす台詞を吐いた。 「西浦もクラスのみんなも言っていたけど、俺は本物の大馬鹿野郎だからさ…。英安を手放すなんて本当にバカだった。でも、俺は諦めないから」 「………は?」 「好きだよ英安」 「ちょ…」 「だからこれからも俺は勝手に英安を追いかける」 「……………何?」 「英安の受ける大学がどこかは知らないけど、俺も京都の大学を受けるから。関東より同じ関西にいた方が会える回数も増えるしな。あ、安心しろよ、ちゃんと自分の受けたい学部を受けるし、大学ではちゃんと自分のやりたい勉強をやるっていうのはもう決めているから」 「あの……」 「それじゃあお互い、受験頑張ろうな?」 「待っ……」 ヨシヒトは自分が言うだけ言って、去って行ってしまった。俺は思わず片手を差し出してヨシヒトを止める所作をしたが……制止の声が弱かったのか、ヨシヒトはそのまま行ってしまった。おい一緒に帰るんじゃなかったのか?いや俺は一緒に帰りたくない、だから行ってくれて良かったけど。でも待て?何?何かさっきの幻聴かな?あいつも京都の大学を受けるって……どこを?いやどこでもいいけど、でも……。 「なん…何でそうなるっ!?」 俺はまったくもってヨシヒトの姿が見えなくなってから、ようやく普通の声を出せた。まだ唇がひりひりする。熱い。どうして。田神。何で田神に俺は会えない?会えないまま、こんな最低最悪な受験戦争を…無理。ああもう無理。 「……ばかやろー!」 誰が。俺か。分からない。けど、そんな想いしか浮かばない。 俺は誰もいない校庭の真ん中で思わずそう叫んでいた。随分後になって、その一部始終を校舎の窓から観ていたという西浦が、「エイちゃんが夕日に向かってばかやろーって叫んでた事件」という本当に馬鹿な長いタイトルをつけて他のクラスメイト言いふらしたと聞かされたけど。そんなこと、心底どうでもいい。大体、お前帰ってなかったのかよ。何野次馬しているんだ。バカ、カバ、ばか。みんなバカ。 でも一番のバカは俺か。 |
了
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