だってセンターだから



  あぁ何てこった…。
  俺は白い空を恨めし気に仰いだ。ただでさえ緊張しやすい俺にこの試練はない。今朝起きたら、外は一面の銀世界。白くて大粒の雪玉が「しんしん」というよりは、「どっさどさ」と落ちてきていて、どうりで鼻の頭が冷たいと思った…などと、呑気なことを考えている場合じゃない。
  今日は遂にセンター試験。俺の第一の試練の日なのだ。
  昨日の天気予報でも雪のマークがあって嫌な予感はしていたけど、寝る前はまだ何ともなかったのに。なのに、起きたらこれ。窓を開けたらもう道路は白くなっていて、表門の上にもこんもりと白くて如何にもフカフカしていそうな雪が積み上がっている。最悪だ。
  俺が着替えてリビングへ行くと、父さんももう起きていて俺と同じ悲壮な顔をしていた。ただでさえナイーブな俺をさらに不安にさせるこの顔。やめてくれ〜と心の中で思ったけど口には出さない。父さんだって俺の試験を心配してくれているからこそのこの顔なのだ。誰も責められない。雪は責めるけど。
「まだ電車は走っているらしいが、すでに遅延しているようだし、タクシー呼ぶか?」
  父さんが携帯を握りしめながらそう言った。俺も携帯で大学のホームページを眺めていたけど、父さんには「いいよ、とりあえず駅行く」とだけ応えて、朝飯もそこそこに、すぐさま家を飛び出した。父さんは玄関の外まで見送ってくれたけど、俺には振り返って手を振る余裕もなかった。とにかく一刻も早く、無事に試験会場の大学に着きたかった。

  ……だから俺が「こういう選択」をしても仕方がなかったと思う。

「良かったよ、英安を駅で捕まえられて。親父さんに訊いたら、もう出かけたって言うからさ」
「……うん。助かった。あの、本当にありがとうございます」
「いいんだよ、全く大変だなぁ、こんな日に試験なんて! 2人とも頑張ってなぁ!」
  運転席の「山本さん」は明るくそう言って、ぼそぼそとしか礼を言えない俺に激励の言葉をかけてくれた。
「英安、急いで出て来て忘れ物してないか? 受験票、ちゃんとカバンにあるよな?」
「あ、当たり前だろ、ちゃんと昨夜のうちに準備して―」
「ははは! ヨシちゃん、何かお母さんみたいだなぁ、そういう風に世話を焼いていると!」
「こいつ、いざっていう時にそういうボケをかますので」
「そんなこと…」
  これまたボソボソ言い返す俺に、しかし隣の「コイツ」は構わない。その後も朝飯食べてきてないだろう、昼は用意してあるのか、水筒は…なんて、まさしく「お母さん」のようなことを連続でまくしたててきた。俺の本当のお母さんはそんないちいち言う人じゃなかったと思うけど。
  そう、俺は今、「山本さん」という人が運転している車に乗っている。
  そして俺が座る後部座席の隣にはヨシヒトがいる。俺は今、ヨシヒトと共に、山本さんが運転してくれている車で試験会場へ向かうところだ。
  山本さんは個人タクシーのドライバーで、ヨシヒトが住むマンションのご近所さんらしい。というか、隣に住んでいる人だっけ。忘れたけど。動転していたから、聞いたけど忘れた。
  とにかくその親切な山本さんはヨシヒトの要請に快諾して、こんな雪降る早朝から、ヨシヒトと赤の他人である俺を乗せて、すいすいと慣れた様子で車を走らせてくれている。渋滞をかわせる道にも詳しいのかもしれない。試験会場周辺は車での来場が禁止になっているから、大学の最寄りの駅で降ろしてくれるとのことだけど、十分過ぎる。ほんの十数分前まで、俺は遂に止まってしまった電車のアナウンスを駅のホームで聴き、ボー然としていた。その時にヨシヒトが現われて……、その、親切な山本さんが車で会場まで連れて行ってくれるというから……だから俺はありがたくその厚意に与ることにした。俺は悪くない。多分。結果的にヨシヒトの隣に座って、ヨシヒトにあーだこーだ言われながら、しかも朝飯の補充としてカロリーメイトまで貰って食べちゃっているけど、親切なのは山本さんであって、俺は山本さんの厚意を受けているだけで、ちゃんとタクシー代も後で払うし、俺は悪くない。……多分。
「あ、英安、今、大学のホームページ、更新された。試験開始、1時間遅らせるって」
「え!」
「おぉそれは良かった。何とか進めてはいるが、ちょっと間に合うか心配だったんだ」
  運転席から山本さんも喜びの声をあげた。俺も一気にほっとして息を吐いた。こんな雪だし、交通機関が止まっているのだから何か対応してくれるはずだとは思っていたけど、やっぱり試験当日に遅刻だなんて、例え自分が悪くなくてもハラハラしてしまう。
  けど、何だかんだで正規の時間に着きそうだった。山本さんのお陰で、俺たちは無事、特段のトラブルもなく、大学近くの駅まで着くことができたから。「頑張ってな」とガッツポーズを見せながら笑顔を見せる山本さんが、もう50歳くらいのおじさんのはずだけど、普通に天使に見えた。白い羽が背中に生えている。まさに善人だよ。見も知らぬ俺のためにここまでしてくれるのだから。
「山本さんって、俺の親父の友だちなんだ」
  大学へ向かう道すがら、ヨシヒトがそう言った。
「正確に言うと、元友だちって感じかな。親父が山本さんのことを無視しているから」
「えっ…何で。あんないい人を」
「まぁつまりは、俺の親父が悪人なんだよ」
  ヨシヒトはさらりと言ってからふふっと笑った。なんにも可笑しくない。ヨシヒトの親父さんのことを俺は全然知らないけど、ヨシヒトがゲイだってことを告げたら親子の縁を切るって言うような人だから、そりゃあ、あんまり良い人ってイメージはない。けど、仮にも…というか実の親子なんだろうし、ヨシヒトは軽く言っているけど大丈夫なのかなと思う。
  そのヨシヒトは、俺を自分の後ろに追いやって、向かいから来る吹雪みたいな雪除けをやってくれながらざっくざくと歩き続けていた。俺はヨシヒトの足跡をたどりながら歩くから、積もった雪に足を絡まれないし、楽ちんだ。それにヨシヒトは歩きながらその後も山本さんとそのご家族の善人エピソードを話したりして、お陰で俺は意識がうまい具合に逸れて、試験の緊張を無駄に感じなくて済んだ。
「あれー、エイちゃん! ヨシヒト!」
「おー、エイちゃん! 久しぶりー! 何、ヨシヒトと一緒に来たのか!?」
  試験会場に着くと、教室の外の広いロビーみたいなところで、クラスメイトの何人かが俺たちを見つけて手を挙げてきた。そういえばこいつら久しぶりかもしれない。そうだよな、みんな会場が一緒だから会うかもな。こんなところを見られたくなかったなと思わず渋面になったら、案の定、連中は「ヨシヒトとよりを戻したの!?」「え、じゃあ、あの田神って奴とは!?」などと野次馬根性的なことを嬉々として訊いてきた。まったくこいつらは人生がかかっている試験を前に、最終確認もしないでこんな風にたむろして何て余裕だ。俺は教室に行くぞ、こいつらなんて無視だ、無視。
「まだ試験始まらないし、俺たちも休もう」
「うおっ…ちょっ…」
  しかしヨシヒトは俺の腕を掴むとぐいぐいと強引に皆の元へ引きずって行った。嫌だ、こいつらとくだらない雑談なんかしたくないのに。けど、ヨシヒトのお陰でここまで来られたのも事実だから、あんまり無碍にもできない。俺、山本さんには何回も頭下げたけど、ヨシヒトにはまだお礼言っていないし。
  この試験会場の大学は広々としてやたらと校舎内も綺麗だし、この1階なんてホテルみたいにだだっ広い。そこの一角にお茶ができるテーブルとイスが並んでいて、近くに自販機もあるから、皆はそこに座って管を巻いていたようだ。
「どうやって来た? お前らもタクシー?」
  ヨシヒトが近づいて奴らにそう声をかけると、一人が珈琲缶を片手に首を振った。
「俺はこの近くのビジネスホテルに前泊。何かあったらやだなって思っていたから、前から予約取っていたんだよ」
「あ、頭いいな…」
  俺が素直に感心してそう呟くと、クラスでもしょっちゅう俺をからかう一人であるそいつは、得意気な笑みを満面に浮かべた。他の連中も、親に車を出してもらったり、元々近くに住んでいたりで遅刻せずに済んだらしい。けど、他のクラスメイトの何人かは駅で足止めをくらっていて、バスやタクシーを待っていると聞いた。
「で、そっちは? 何でエイちゃんとヨシヒト一緒に来てんの?」
「ホントにより戻したのか? 同伴出勤?」
「お前、同伴出勤の意味分かって言ってる?」
  本当に、こんな、大事な大事な試験の前に、こいつらのくだらない与太話を聞きたくないんだが。
  俺が思い切り嫌そうな顔をして、しかし否定するのも面倒だと黙っていたら、ヨシヒトが自分も自販機から珈琲を買ってきながらきっぱりと言った。
「偶々知り合いが車で送ってくれるってなって、英安見つけたから一緒に乗ってきただけだよ。俺たちは、今は普通の友だち」
「へー、そうなん?」
「まぁ、そりゃそうかー」
  友だちなんかじゃないと本当は言いたかったけど、借りを作ってしまった手前、反撃しづらい。それに、ヨシヒトがおかしな誤解を招くようなことをこいつらに言い出さなかったのはちょっと意外だった。それはありがたかった。
「はい、これは英安の分」
「えっ…あ、ありがとう。いくら」
  カフェオレを俺に差し出すヨシヒトに、俺は意表をつかれてちょっとどもった。それから慌ててカバンから財布を探る。自分はブラック珈琲なのに俺はカフェオレって、よく分かっているじゃないか。そう言えば、ヨシヒトは俺の好きな物とか結構すぐ見抜いてこういうことしてくれたな、昔。
  …イカン!俺は一体何を思い出しているんだ!そんなことどうでもいいじゃないか!
「いいよ、これくらい。奢り」
「いや良くないだろ、払う。わあっ」
  急いで財布を開けたせいで、小銭入れからじゃらじゃらと10円玉が飛び散った。俺があたふたとそれらを拾い集めていると、「あーあ、何やってんだよエイちゃん」、「試験前だからテンパってんのか?」って何の役にも立たない級友どもがはやし立ててきた。当然、拾うのも手伝わない。まったく、腹の立つ奴らだぜ。
「大丈夫か、英安?」
  ヨシヒトだけが拾うのを手伝ってくれた。それから「こいつら煩いから、やっぱり違う所で休むか?」と言った。俺はぎくりとした。確かに、まだ1時間以上ある試験会場に入って緊張しているよりは、こういうところで最後の見直しとかしていたい。けど、ヨシヒトと違う所で二人っていうのはまずい気がする。
  俺が逡巡していると、ヨシヒトは俺の手に小銭を握らせながら何故かおにぎりを握るみたいに何度もぎゅっぎゅと俺の手を握り締めてから笑った。
「話しかけないよ、見直ししたいだろ?」
「う、うん」
「じゃあ、あっち行こうぜ。じゃーな、お前ら!」
「え、何ここにいればいーじゃん。エイちゃん、久しぶりだし」
「もうすぐカナメも到着するって」
「なら尚更いたくないよ、ここには。俺たちはあっちに行っているから」
「本当に仲直りしたんだなぁ、お前ら。けどエイちゃん、あの田神ってヤクザと付き合っているんじゃなかったの?」
「はっ!? 田神はヤクザじゃない!」
  俺が聞き捨てならないと思って振り返り見ると、それを言った一人は俺が睨んできたのに驚いたのか、慌てて両手を振った。
「あ、ごめん、嘘。ごめん、田神に言わないでな? でもなんかコエー噂いろいろあったから」
「そうだぞ、俺たち結構、エイちゃんのこと心配していたんだからな」
「要らん世話だ! 田神は…! あぁいいっ。お前等に田神の話なんかしない、勿体ない! 田神が減る!」
「何だよそれー!」
「ふんっ!」
  俺は露骨に奴らを無碍にすると、ずんずんと荒っぽい足取りでその場を去った。全く、大事な入試の前に、何でこんな不愉快な目に遭わないといけないんだ。冷静にならなければ。見直し、見直し。
  受験番号を確認しながら、俺は指定の教室へ入り、指定の座席について息を吐いた。うん、間違いない。俺の席はここだ。大学ってやっぱり広いな。別に初めて来たわけじゃないけど、こういう大講堂?っていうんだろうか、大学に受かったら、こういうところで授業を受けるのかな。あ、でも俺が行きたい学科はもっとこじんまりとしていると書いてあったから、こんな人数が入るところで勉強はしないかな?
  そんなことをぼんやり考えた後、俺は「そうだ、見直し!」とまた思い出してカバンを机の上に置いた。それから受験票を丁寧に右上の所に置いて、筆箱を出してセンター対策用の問題集を引っ張り出した。これを見る前に鉛筆と消しゴムももう出しておこう。準備万端にしてから見直しを―…。
「え…?」
  と、思ったところで俺はどきっとした。昨日の夜、入念に削った新品の鉛筆を机に出したまではいいけど、筆箱に一緒に入っているはずの消しゴムが……ない。おかしい、ない。そんなわけはない、俺は昨日何回も確認したはず。きっとこの筆入れの奥のお〜くの方に紛れこんでいるのだ。そうに違いない、落ち着け。きっとある。消しゴムを忘れるなんてお約束みたいなボケを俺がかますわけがない。
「……ない」
  それでもやっぱり消しゴムはなかった。俺は一気に血の気が引くのを感じた。いや、大丈夫だ、落ち着け。幸いというかで、試験の開始時間は延びた。今から近くのコンビニか、最悪駅まで戻って売店まで行けば消しゴムくらい売っている。買いに行けばいいのだ。簡単じゃないか。間に合う間に合う、余裕だ。大丈夫。
  けど、たったこれだけのハプニングで泣きそうな俺。情けない。
「英安」
  しかし俺の泣きそうな気持ちはすぐさま引っ込んだ。頭の上からあのいつもの余裕の声が。ヨシヒトの声が降ってきたから。ヨシヒトに弱っちいところを見せるわけにはいかない。
  俺はぱちぱちと瞬きをしてから顔を上げた。ヨシヒトはずっと俺の近くにいたのか。そういえばあいつらとは一緒にいないと言ったのだから、当然か。そうだった、さっきは一緒にあいつらの元から離れようとしていたのだ。それを、俺があいつらから田神のこと言われてムキになって先に歩き出して会場入っちゃったから、もうそこから俺は今の今までヨシヒトの存在をすっかり視界から消していた。
  そんな風に完全無視していた酷い俺なのに、ヨシヒトはあの美女百人をも殺しそうなスマイルを俺に向けた。
  そして言った。
「消しゴム忘れたのか? 俺、2個持ってきているから1個やるよ」
「え」
「そういうこともあるかなぁって思っていたから。英安、お約束過ぎ。まさか本当に忘れるとは思わなかった」
「わ、忘れてない、おかしいんだ、絶対入れたはずなのに」
「でもないんだろ? 今から買いに行くなんて時間の無駄なんだから、これ使えよ」
「……うん」
  俺は差し出された消しゴムを受け取った。あ、これって…お礼を言うべきところなのに、俺「うん」しか言ってない。そりゃあ、礼は言うべきだ。幾ら相手がヨシヒトでも。というか、本当はヨシヒトからこんなことしてもらっちゃうのも「浮気」の範疇に入るのでは、という気が、しないでもない。ヨシヒトから例え緊急時でも物を借りるなんて駄目だろ。ヨシヒトからはビタ一文、それこそ消しゴム1個だって借りたらいけない。でも借りちゃった…。あっ、よく考えたら朝のタクシー代金もどうなるんだ、山本さんが早く行け行け言って、そのまま降りてきちゃって、ヨシヒトも「後で請求するから」なんて言ったけど、あれって違うかも、あの場の俺を収めさせるために言っただけかも。ヨシヒトにはそういうところがある。付き合っている時も、結構何でも奢ってくれた。俺はそういうのが嫌だから割り勘がいいって言っても、「後から」って言いながら、何だかんだでそのまんまになったことも多々ある。……まぁ付き合っていた頃のあれこれは俺のその後の傷心を考えれば「慰謝料」として貰っておいてもいいかもしれないけど、今日のタクシー代とこの消しゴムは駄目だよな。
「じゃあ英安、お互い頑張ろうな」
「え」
  けど俺が例の如く頭の中でごちゃごちゃと考えている間に、ヨシヒトはそう言って自分の席へ戻って行ってしまった。俺はそれをぽかんと眺めたまま、結局お礼を言いそびれた。
  それからの待ち時間なんて結構あっという間で、試験は光の速さで始まり、光の速さで終わった。究極にドキドキしていたのは最初の注意事項を聴いている時と、問題用紙を配られているあたりだけで、「始めて下さい」の声と共にテスト問題を見たら、もう緊張なんて言っている場合じゃなかった。とにかく時間内に全部マークしきらないといけない、ミスがないように見直しもちゃんとしなければならない、ただただ必死だったから。
  昼飯の時もクラスメイトのウザい奴らが「エイちゃんエイチャン」って俺を連呼して午前中の出来を訊いてきたり、またまたヨシヒトとよりを戻していないなら田神とどうなんだって興味津々だったりでホント心底面倒だったけど、ヨシヒトが何だかんだで防波堤みたいになってくれたお陰で、俺はその後も試験に集中できた。集中できたことと試験の出来そのものについては別問題だけど、でも俺はとにかく、雪のトラブルと消しゴムのトラブル、同級生らの雑音トラブルを…全部ヨシヒトのお陰で乗り切った。
「今年の国語の問題、ちょっとおかしかったよな。評論のところ」
  試験が終わって駅までの道を、俺はそのヨシヒトと横並びで歩いて帰った。あれだけ豪快に降っていた雪はもうやんでいる。……いや、雪のことはよくて。これ、駄目だろ?絶対駄目だろこれってって思うんだけど、駅までの道が一緒だし、俺はまだヨシヒトにお礼を言えていなかったしタクシー代も払えていなかったから、何とか別れるまでにそれをしなきゃと思って、流されるまま一緒に帰っている。
「あれ多分平均点も低くなる気がする。英安はどうだった?」
  でもヨシヒトが試験のことをべらべらと訊いてくるから、なかなか本題に入れない。試験の問題に関しては、俺も他の奴の出来が気になったし。
「俺は、できたって気はあまりしなかったけど、できなかった感じもなかったから、いつもと同じくらいの点数は取れたと思う。それより、日本史が駄目だったかも。英語も発音問題、多分落とした」
「気になったところだけ見直したら、後はもう引きずらない方がいいよ。英安は結構、考えても仕方ないこと考え続けて後に響くから」
「う…まぁ」
「本番は2月なんだし。俺は明日もあるけど」
  ヨシヒトの台詞に俺はびっくりして目をぱちくりさせてしまった。俺の受験科目は今日だけで全部終わったから、てっきりヨシヒトもそうかと思っていた。
「ヨシヒトって、数学とかも受けるの?」
「うん。あと、保険で他の科目もついでに受けておく。マークだから取れるものあるかもしれないし」
「マークでも理系科目じゃ勘なんか使えないよ。受験組じゃなかったのに、何でそんな勉強できるんだよ」
「別に、そんなできないよ。数撃てば当たるかもってやつ。でも俺、夏終わってから受験勉強始めたから、今さら歴史は間に合わない気がして、だから政治経済と数学をやっていたってだけ」
「…………」
  普通はどっちかに絞って3教科でやるものだと思うが。
  それに、そもそもは推薦が決まっていたのだから、こんな風に一般受験する必要なんてなかったんだ。ヨシヒトは元々行きたい大学があるはずだ。やりたいことも。それが何かは知らないけど。それなのに、俺と同じ大学へ行く為に推薦を蹴って遅過ぎる受験勉強を始めて。おかしいよな、やっぱり。でもそういえばこいつ、センター試験前後は、俺の受ける所を根ほり葉ほり訊いてこなかったな。一応試験前だからって遠慮したのかな。
「あっ、大判焼き。英安、腹減らないか? あれ買って食べながら帰らない?」
「え…」
  ヨシヒトは訊きながらもう店の方へ歩いて行ってしまった。大判焼き。最近あまり食べていなかったけど、好きだ、食べたい。け、けどこれって、ヨシヒトと並んで帰るという大罪の上、「一緒に買い食いをする」という新たな罪を背負うことにならないだろうか?まずいんじゃないだろうか?俺が思うに買い食いなんて、本当に仲の良い奴ら同士がやるものだから。だから駄目だと思う、幾ら試験後で腹が減っていて大判焼きが美味しそうでも。
「はい、英安。あんこで良かったよな? チョコとかカスタードもあったけど、そっちが良かった?」
「……いや、俺は断然あんこ……」
  なのに俺の分のも買ってきてくれたヨシヒトから大判焼きをそのまんま受け取る俺。また罪を重ねてしまった。でも食欲には敵わなかった…だって仕方ないじゃないか、今日はセンターで、大事な進路を決める第一歩の日で、それなのに朝からトラブル続きで疲れていたんだから。
「あ、おはねははう…」
  俺はほかほかの生地にぱくついてからハッとしてヨシヒトを見上げた。そうだ、黙って受け取って食べちゃ駄目だろ。お金を払わなければ。第一まだ、タクシー代と消しゴム代も払っていないのだから。なのに食いながら「おはねははう」じゃなかった。何言っているか微妙に分からないし。
「いいよ、これくらい。俺の奢り」
  しかしヨシヒトには通じたようだ。自分も美味しそうなそれを手に持っているくせに、全然口につけないで俺のことばっかり見ている。何か小動物でも愛でるような目で見ている。やめてくれ、そういう慈愛に満ちたっていうのか、優しそうな目で見るのはやめてくれ。俺はただでさえヨシヒトの顔に弱いんだ。なのにそんなニコニコと天使みたいな目で見下ろされたらどうしていいか分からなくなる。俺はさっと「俯く」という応急措置を取ってから、何とか必死にあんこを喉の奥へと押しやり、「そんなわけにはいかないよっ」と言った。
「おなか減ってたから思わず先に食べちゃったけど、これの代金も払うし、朝のタクシー代と消しゴム代も払う。いくら?」
「いいよ、別に」
「いや、よくないよ!」
  やっぱりだ。あっさり答えるヨシヒトに俺はがばりと顔を上げて決意のある目を向けた。うっ、しかしそこにはやはりイイ顔が近くにあって眩しい。駄目だ、ヨシヒトは最低のバカ野郎で、俺のこと捨てたくせにまた何故か好きだとか言ってきて、俺が田神に怒られるようなことしてくるし、自分だって田神に殺されるようなことしてくるワルイ奴なのに。なのに、ヨシヒトと真っ向から対峙できない。俺は何て弱くて愚か者なんだ。こんな俺こそが大バカ野郎だ。
「払うよ、いくら?」
  それでも必死の想いでまた言うと、ヨシヒトは何か困ったことを言われている人のような様子で首をかしげた。
「山本さんからはお金はいいって言われていて俺も払っていないし、いくらって言われてもホント分かんないんだ。勿論、受験が終わったくらいに菓子折りでも持って改めてお礼に行こうとは思っているけど」
「じゃ、じゃあその菓子折り代を…」
「……あぁ、じゃあ今度そのお菓子買いに行くの付き合ってくれる?」
「えっ」
  それだと、ヨシヒトと2人でどこかへ行くという口実ができてしまうじゃないか。それは駄目だろ、断固として。
  だから俺が思わず口ごもると、ヨシヒトはそれをも見越していたようにくすっと色男の笑みを零し、「だからいいよ」と繰り返した。
「気にしなくていいって。だってついでだったんだから。俺が山本さんに送ってもらうついでに、英安も同乗できたってだけだから」
「じゃ、じゃあ消しゴム…」
「百円コーナーで買った5〜6個入り百円って安物のやつだよ? いちいち1個いくらって細かく計算するのも面倒だし、第一、そんな安物だから大して使いやすくもなかっただろ?」
「いや、凄く消えた。凄く使いやすかった」
「本当? 良かった」
「ぐっ」
  また極上の笑みを向けられて、俺はその眩しさ故に手をかざして目を逸らした。駄目だ、もう駄目だ、こんなことをしている俺は。でももう、これ以上ヨシヒトに食らいついていてもこの駄目さが積み重ねられていくだけのような気がするから、俺は仕方なく白旗を上げることにした。
「じゃあ……厚意に甘える。ありがと。今日は本当にありがとう、助かった」
  それで代わりに、深々と、それは深々と頭を下げてお礼を言うことにした。良かった、とりあえず礼は言えた。
「……英安」
  けれどヨシヒトは俺の礼が気に喰わなかったのか?よくは分からないけど、急に何かくぐもった声で俺を呼んだきり黙りこんでしまった。俺が何なのかと思って顔を上げると、案の定、ヨシヒトはさっきまでの笑顔は完全になくして、ちょっと暗い表情をしていた。びっくりした。あんまりこいつの、こういう悲壮な顔は見たことがないような気がして。
「ど、どうした…」
「いや……何でもない」
  でもヨシヒトは珍しく言い淀んだようになって俺から目を逸らした。これまた珍しい、人と話す時は相手の目を見て話せなんて堂々と言う奴が。何かやましいことでもあるのだろうか、そんなことあるわけないと思うけど。
「じゃあ俺、バスの方が早いから、あっち」
  それから暫く、大判焼きを一緒に食べながら駅までの道を歩いて、また少し今日の試験の話をした。そして目的の駅に着くと、ヨシヒトはいきなり駅とは反対方向を指さして、今はもうすっかり元の笑顔を見せて言った。バスの方が良かったんなら、さっさとそう言えよ。そして何で一緒にわざわざ遠回りの駅まで来てんだよ…とは、それは言うわけがなかった。その理由はさすがの俺にも分かったから。
「自己採点の結果、教えてな」
「いや教えるわけな――」
「今日の英安も可愛かった。俺は朝から英安の顔見て試験受けられたから最高だったよ。俺こそありがとな!」
  去り際、ヨシヒトはまたそんなことを言って俺に手を挙げ、華麗に去って行った。俺はもう何も言えなかった。ヨシヒトって何て奴だ。嫌いだ。酷いと思う。一刻も早く忘れたいと思っているのに、こうやって俺に構ってきて、俺のことを可愛いと言う。こんな俺のことを。俺は可愛くなんかない。でも、田神に可愛いって言われるのは嬉しいけど。とにかく、ヨシヒトには言われたくない。
「田神…」
  試験が終わったらメールをしようと思っていたから、俺はヨシヒトと別れた後、コートのポケットからスマホを取り出した。田神は携帯をどうにかしてゲットしたんだと思うけど、あの俺に「ふざけんな殺す」の捨て台詞を打って以降は、電話もメールもなしのつぶてだった。俺がその「殺す」メールに「ありがとう、大好きだ」って返信したのに、それにもノーリアクション。これは相当怒っているに違いないと思うけど、さらに今日のことを田神が知ったら、殺すだけでは済まないのじゃないか。殺す以上のスゴイことって何だ?って気もするけど、とにかくスゴイお仕置きが待っているに違いない。
  でも、そんなのでもいいから、とにかく田神の声が聴きたいよ。田神に会いたい。それが駄目ならメールでも可。
「今度は返事が来るといいな…」
  俺は呟きながら、最初から考えていた文面をささっと打ち込んだ。さすがにこの間怒らせたばかりで、今日のヨシヒトとのことを書く気にはなれない。田神に嘘はつきたくないから、今日のことだって勿論そのうち白状するけども。でもとりあえず今日は「センター試験終わった」ってことと、「本番は2月だけど、それまでに父さんを説得するから」「2月に試験で京都行くから、また会える?」ってこと。それらを打ちこんで送信した。
「えっ」
  しかし驚いたことに、そのメールを送った直後に、田神からソッコーで返信がきた。まるで待っていたみたいだ、そんなタイミングってあるか?いや田神は修行中の身だから、そんなことできるわけないし、偶然休憩中でメールを見ていただけかな?何にしろ俺は逸る気持ちを必死に抑えて、ちょっと寒くなってきた駅の改札前で最新の着信メールを目にした。
  しかし果たしてそれは、明らか田神からのものではない返信だった。メールの文面はこうだ。

現在は鳩がこの携帯を預かっています。深夜さんからの返信は暫しお待ち下さい

「何それ…」
  しかも俺がボー然としていると、まるでLINEのような速さでさらに第二弾のメールがやってきた。

試験、お疲れ様でした。2月の本番も頑張って下さい。by鳩

「いやだから誰だよ…あ、鳩か…伝書鳩? いや、鳩が、そんなまさか、バカな…」
  思わず一人でぶつぶつ呟いてしまい、完全にヤバい人だ。俺は慌てて周りをきょろきょろと見てからスマホをしまい、何ともソワソワした気持ちになりながら速足で改札を抜けた。全く意味が分からない。鳩って喋るのか。佐霧さんの鳩だから有能なのかもしれない。いやそんなわけなくて、多分というか、絶対、人なんだろうけれど。
「……くそっ」
  俺はこの時、全く不謹慎ながら、俺は田神の近くに行けないのに、田神の携帯を我が物顔で使える鳩さんとやらが羨ましい…などと思ってしまった。そんな貧しい自分が嫌だ。鳩さんは俺を励ましてくれたし、物言いだって丁寧で優しいのに。でも俺は今、確実にこの得体の知れない鳩さんに嫉妬した。確実に。だから悪態がつい出ちゃった。ああ、嫌だ嫌だ。冷静になろう、いやでもできない。鳩さんは、つまり俺がこの間田神に「大好き」って送ったメールも見ちゃってるってことか?うわあ、恥ずかしさで爆死する。田神ひどい。何だよ。自分の携帯、人に渡すなよ。ああ、そもそも佐霧さんに渡していたくらいだから、そういうことに頓着ない性格なのかもしれないけど。恋人とのやりとり他人に見せるなんて駄目だよ。人じゃなくて鳩ならいいだろってそういう問題じゃないから。何だよ、これなら、俺が今日ヨシヒトとちょっと一緒にいちゃったくらいのことも許されるんじゃないの。だって今日はセンターだったんだから、大変だったんだから。全部不測の事態でこうなっちゃっただけなんだから、俺なんて全然罪深くなかったぜ。それに比べたら田神の方が酷いかも。そうだよ、田神の方が…。
「センターだから…せめて声だけでも聴きたいし、文字だけでも見たかったのに」

  受験なんて人生のただの通過点だろ。甘えてんじゃねえ。

  と、田神なら言うかもしれない。いや確実に言いそう。
  一方でそんなことを思いながら、しかし俺は気持ちがズンと沈むのを感じつつ…。今はもう定刻通りに動く電車に揺られて、殆どその間の記憶もないままトボトボと家路へ向かった。確かに。確かに、受験なんかより。恋って本当に厄介だよな。