だってすきだから2
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―2― 俺はその夜、情けないことに発熱した。フツーに、ヨシヒトにキスされたことがショックだった。俺はヨシヒトみたいに浮気するような奴だけにはなるまいと誓っていたのに、田神と恋人同士になってまだ一か月かそこいらでその「絶対なるまい」と誓っていた加害者になってしまった。もう駄目だ。 「英安。おかゆ作ったぞ」 父さんはベッドで横たわり、ぜーぜーと荒い息を吐く俺を同情して看病してくれた。あんな風にファミレスを飛び出して絶対怒ると思っていたのに、父さんはどこかしょぼくれた感じで、いっそ弱々しく見えた。そして、「ヨシヒト君がお前のことを叱らないでくれと言っていた」とまた余計な情報を与えてきた上で、「お前がヨシヒト君を嫌うのは自分のせいだとも言っていたよ」と付け加えた。 「事情は知らないが、お前たちの間に何かあったらしいのに、父さんが彼の方にばかり耳を傾けるのは間違っていた。ごめんな」 そうして父さんはお粥を食べようとする俺にそう言って、いきなり頭を下げた。俺はびっくりしてまた余計に顔が熱くなったし何も言えなかったけど、父さんは暫し考えた風になってから何を思ったのか、俺が机に置いていた大学のパンフレットを手に取った。 「日本文化学科か。ここではどんな勉強をするんだ」 「あ…その…」 「ああ、今は熱があるのに、悪いな。今は食べて体力つけて、早く良くなることだけ考えればいい」 父さんが遠慮してパンフを置きかけたので、俺は慌てて前のめりになった。 「いや、大丈夫だよ。あの、そこの学科では、歴史や文化を学ぶだけじゃなくて、実際に日本の伝統文化を理解するための物づくりコースがあるんだ。そこでは、昔ながらの漆や竹を使った工芸品とか、木材の素朴な味を生かした小物づくりなんかにも挑戦できるんだよ。自分でデザインからやって、塗装技術なんかも学べるんだ」 「そうか」 父さんは俺の話を真剣に聴いてくれた。そして、俺がいつだったか話した「凧職人」の話も覚えてくれていて、「正直なところ、あれはもう諦めたのかと思っていた」と困った顔を見せた。 「父さん、そっちの世界はよく分からないが、分からないからこそ、そういう道にお前が進むのは心配だったんだ。だからとりあえず大学、なんて思っていた。でも英安は違うんだな。きちんと考えて、そういう道に進める進路を考えていたのか」 「う、うん…。俺も…正直、どうかとは思うけど。不器用だし、そういう仕事、向いているって確信持って言えないし」 それに、そういう学科は別に京都へ行かなくても受けられる。しかも父さんの手前、東京の受験校は全部単なる「偏差値重視」、いわゆるMARCHを受けようと思っていたから、学部も無難に経済とか経営にしている。本当に俺が真剣に将来を考えているのなら、東京の受験校だってその手の学部学科を探すべきなのに。 でも俺は東京の大学に関しては全然調べていなかった。だって田神のいる京都へ行きたいって、もうそれしかなかったから。 しかしながら何故か突然弱々しくなった(ように見える)父さんは、「父さんもよく考えてみるよ」と言って俺の持っていたパンフレットと共に部屋を出て行った。受験校はセンター試験を受けてからでも幾らでも変更ができる、だから今は当面の試験の為に体調を整えなさい、なんて言って。俺の胸はちくちくと痛んだ。これが罪悪感ってやつか。俺は父さんを騙している…とまでは言わないけど、でも隠し事をしている。よくないと思う、確実に。よくない。 でも、やっぱり勇気がない。田神のことを父さんに分かってもらえる自信がない。田神がどうこうじゃなくて、むしろ田神は男らしくて優しくて立派な奴だから、もしも俺がそこいらのお嬢さんだったら、きっと父さんも突然のことに驚きはしても、嫌な顔はしないんじゃないかと思う。そうだよ、これが仮に結婚相手なんかだったら玉の輿だぜ。まだよく分かっていないけど、田神んちのあの家のデカさ。家ってか、完全に屋敷だし。道場持ちだし。由緒正しきお武家様の生まれで、侍の一族。多分、普通に考えたら、普通の家のお嬢さんが結婚相手ってのも、お嬢さん側は万々歳だとしても、田神の家にとっちゃあり得ない案件かもしれない。ああいう家は自分ちに釣り合うような家柄の許嫁とかいるに決まっているしさ。うっ、ということは、田神にもそういう相手が実はいるのか?……胃が痛い。俺は普通の家のお嬢さんどころか、女ですらないし。田神と同じ男だし。ホモ。ゲイ。同性愛者。社会から白い目で見られるつま弾き者。それでいてウジウジウジウジ悲観的でさ、おまけにおまけに――。 最低の浮気者だ。 「はあぁ〜」 やばい、熱が上がってきた気がするぞ。寝ないと。今は熱を下げなきゃ、今日なんて殆ど勉強していないし。受験生としてあり得ない。でもヨシヒトが悪いんだ、ああ違う。人のせいにしても何にも意味ない、情けない。もうヨシヒトのことは忘れよう。俺と田神の問題、そう、これは俺と田神の問題なんだ。 俺は無理やりそんな風に結論づけて、あとは羊の代わりに田神のフルネームを唱えて意識を失おうと努力した。田神が3600人くらいまで増えたのは間違いないけど、多分それ以降の記憶はないから、そのあたりでその夜は眠ったのだろう。 翌朝もまだ微熱があったけど、仕事へ行く父さんに心配かけたくなくて、俺は「熱は下がったから」と嘘をついて、着替えもして、勉強机に向かった。学校はもう自由登校扱いだから、3年の連中は殆ど自宅学習か塾の自習室だろう。巷ではLINEでそこらへんの情報がやたらと出回っているようだけど、俺はそういうのが苦手だし、第一情報を共有したいようなクラスメイトもいないから、携帯はもっぱらネットニュースを覗くことに使っている。 でも偶に電話やメールは来る。今朝はもうヨシヒトから1回着信があったし、メールも3通来た。そこで音を消すだけでなく着信拒否にしたら、今度は家の電話が鳴って、今から行くとメッセージを入れられた…ので、さすがに辟易して俺から電話した。 ヨシヒトはワンコールもしないうちに電話に出た。 『英安、良かった。電話くれて』 「俺はよくないよ。もうお前とは電話でだって話したくない」 『ごめん、昨日のことは謝る。本当にごめん』 「………」 ヨシヒトの性格から言って謝るとは思っていなかったので、俺はちょっと驚いた。だから返す言葉が一歩遅れたんだけど、ヨシヒトはそんな俺に構わず自分が喋った。 『信じてもらえないと思うけど、昨日のあれは、キスしようと思ってしたわけじゃない、完全に事故だった』 「は?」 『いくら英安を好きだからって、本人が嫌がっているのが分かっているのに無理やりしようなんて思わない。確かに俺は英安にとって最低な奴だけど、そこまで落ちていない、それだけは言っておきたくて』 「………」 『する時はちゃんと、英安の許可を得てからやるよ。前の時みたいに』 ヨシヒトの最後の台詞に俺はぶわっと鳥肌が立った。怒りによる鳥肌。 だからただでさえ熱があるのにさらに頭に血を上らせながら俺は怒鳴った。 「そういうこと言うなばかッ! 俺は、もうお前とのことは忘れたいんだから!」 『英安…』 「もういいよ、事故なら事故で! 何でそんな事故が起きるんだって疑問はあるけど、もう何でもいい、忘れる、忘れたい! 俺は昨日から最低な気分なんだ、お前のせいで! いや、そりゃ俺は俺自身に1番腹が立っているけどさ、とにかく! もう俺のことは放っておいてくれ!」 『……ごめん。本当にごめん。ごめん』 あまりに何回も謝るヨシヒトに俺は思わずウッとなった。人から謝られるのには慣れていない。それに、苦手だ。でも弱気になっちゃダメだ。 「もういいから…電話とかも…もう切るからな!」 『キスするつもりはなかった。でも英安の顔、近くで見たくて、英安を何とか慰めたくて…顔を近づけたせいでああなった。英安に触れたいと思っていたのは確かだ』 「だからもういいんだってば、そういうの!」 俺は無駄に声を上げてそのまま受話器を取り落とした。家の親機だからそれが床に落ちることはなく、コードに繋がったそれは宙でブラブラと左右に振れただけだったけど、その受話器からヨシヒトが俺を呼んでいる声は妙によく聞こえた。 そのまま切ればいいのに、俺はまた受話器を耳に当てた。どうしたらヨシヒトと縁を切れるのか。どう言ったらいいのか考えながら。 『俺、自分の人生に後悔したことってあまりなかったけど、英安と別れたことは凄く悔やんでる』 俺が聞いているって分かっているのかどうか。それでもヨシヒトは喋りまくった。 『英安の他に好きな奴ができたからって、だから別れてくれって言ったのは俺だ。バカだよ。ありえないバカだ。俺、全然自分のことが分かってなかった。自分にとって何が大切かとか、自分が必要としているものが何なのかとか、全然分かっていなかったから』 「………」 いつものヨシヒトと違う。何か殊勝だし、声もどことなく弱々しい。そう、昨日の父さんのように。急にどうしたんだよと思わないでもないけど、もう俺には関係ない。俺はもうヨシヒトに振り回されたくない。でも声が出ない。もうヨシヒトに「放っておいてくれ」以外の言葉が見つからない。 「ヨシヒトはさ…。進路をどうするんだ」 それなのに俺は全く違うことを口にしていた。ばか、ヨシヒトのことなんてどうだっていいのに。無駄な会話なんかしちゃダメなのに。でも訊いてしまった。実際、疑問だったのもある。どうにかして俺の進学先を突きとめて俺と同じ大学受けようとしているヨシヒトが本当に不思議だった。カナメが言うには、ヨシヒトにはちゃんとやりたいことがあって、そのための進路も決まっていたということなのに。実際、こいつの成績だったら指定校推薦でどこにでも行けたはずだ。それなのにそれを蹴って。夏だってロクに勉強していなかったのに突然一般受験に切り替えてさ、でも俺のことにばっかかまけていても余裕の体。おい、お前の進路は何なんだよ。お前のやりたいことって、そんな風に簡単にやめられるほどのものなのか?……かく言う俺も、田神のこと中心に考えた選択しようとしているわけだけど。 『俺は英安が行く大学へ一緒に行きたい』 ふと考え込んだところでヨシヒトがそう言った。俺はどきっとして、それから瞬時唾を飛ばした。 「だからっ! それはやめてくれって頼んだだろ!?」 『聞いたよ。けど、実際どうするかは俺の勝手だろ。いいんだ、大学はどこだって。俺がやりたい勉強は自分次第でどこででもできるし。英安が京都へ行くって言うなら、俺も京都へ行くよ』 「ストーカーじゃん、そんなの!」 『え? ―…ああ、そう言われたらそうかもしれないな。そんなこと言われたの初めてだけど。自分が女子からそういうことされた経験ならあるけど、まさか自分もそっち側になるなんてな。何かおかしいな』 「全然っ! 全く、おかしくないからっ! 強いて言うなら、そんな風に返すお前の頭がおかしいから!」 俺がすかさずツッコミを入れると、電話向こうのヨシヒトは途端軽い笑声をあげた。 そして言った。 『それが英安の素なんだな』 「え?」 『よく考えたらさ…。俺たちが付き合っている時って、こういうやりとり全然なかったな。英安、今みたいな感じじゃなかったし…あれって、俺に遠慮していたんだ? 今のこれが本当の英安ってことだろ?』 「……そんなの」 俺が思わず言い淀むと、ヨシヒトはまた受話器の向こう側で笑った。 『うん、今の英安の方がずっと好きだな。前の英安も勿論可愛かったけど、今の英安の方が断然好きだよ』 きっと今、奴のあの恐ろしいほどの美形顔は不敵に笑っている。顔が見えなくて良かった。それでも俺は少し眩暈を感じた。熱が出て来たのかもしれない。 「だから…そういうの…」 『別にポイント稼ごうと思って言っているわけじゃない、本心から出た言葉なんだから仕方ないだろ?』 「仕方なくない。俺は迷惑だし、凄く困る。ストーカーが報われることなんてないよ。俺は田神が好きなんだ。田神を裏切るような真似はしたくない。だからヨシヒトと縁を切りたい」 『……でも俺は英安を追いかけるよ?』 もうダメだ。話し合いが通じない。だからストーカーか。ふっ…まさか、この俺の人生においてこんなおかしなモテ期が訪れるとはな…。全然嬉しくないモテ期だけど。しまいには追い詰められて病みそうだけど。これ、田神が知ったら大変なんじゃないか。殺されるかもしれない、ヨシヒト。嫌な奴だけど、そういうのは嫌だ。だから離れて欲しいって言うのもあるのに、田神がぶん殴っても全くへこたれない、こいつの神経って何なんだ。どうなっているんだ。あぁ、こいつもすでに病んでいるのかもしれない、ある意味。今までの人生でモテ過ぎていたのに、こんな俺に信じられないくらいフラれまくって、酷い言葉浴びせられて意地になっているとか?あり得る。コイツが誰かに拒絶されることなんて、実際今までなかっただろうし。それどころか、ストーカー紛いのことされるくらいモテていたわけだし。 「ところでヨシヒトは前に自分をストーカーした女の子をどうやって追い払ったんだ?」 『え? …何、それ聞いて自分の参考にしようとしてる?』 「うっ…」 俺が思わず詰まると、ヨシヒトはまた電話越し爽やかに笑ってから惜しみなく教えてくれた。 『別に俺は、女の子は愛せないから無理だって言っただけだよ』 「……なるほど」 『結構驚いていたけど、意外なほどあっさりと引き下がってくれたな。最後には応援されたくらいだし』 「な、なるほど…」 全然納得していないけど、俺はとりあえずそう答えた。女の子ってそういうものか。俺は昔から女の子と話すのは苦手で耐性もないし、よく分からないけど、好きでストーカーの如く追いかけていた男子から「自分は同性愛者だから」と言われて「あ、そうなんだ」で引き下がる女子の心理がよく分からん。…まぁあれかな、何だかんだで、結局ヨシヒトは「そういうの」が上手いんだろう。何というか、後腐れなく相手を退かせるのが。 それでいて、コイツ自身が全然退かないってどうなんだ。疲れる。果てしなく。 でも…。 俺は、これは訊きたいと思って、親機を強く握りしめた。 「ヨシヒトってさ…、自分がゲイとかホモとか人に言われたり、何ていうか…白い目で見られることって平気なのか? あ、お前の場合、白い目で見られたことなんてないから分からないのか? そういうの…」 『え? いやそんなことはないよ。――…ところでさ、今もう着いたんだけど』 「は?」 『英安の家の前』 「はぁっ!?」 俺はぎくりとして玄関へさっと目をやった。確かに人影がある。何て奴だ、来て欲しくないからこっちから電話してやったのに、歩きながらもう接近していたなんて。そういうの、前フリしろよ。ホラーだよ、こんなの。ああ、そういうホラーあったな。電話何回かしているうちに、今貴方の家の前にいるのってやつ。メリーさんだっけ何だっけ、忘れた。けどあれだって、確か3〜4回は前フリあったよな、家に到着するまで。 コイツの場合、家の前まで予告しなかったんだから完全に反則だ。 『続きは英安の顔見ながら話したいんだけど』 「俺は話すことないし、家には絶対入れない! 帰れよ!」 『……分かった。じゃあこのまま電話で話していいか、あとちょっとだけ』 「もう話さない、切るからな! お前こういうのホントやめろよ。俺は、俺は、怒ってんだからな、本気でッ!」 『うん、ごめん。じゃああと一つだけ。あのさ、親父さんのことだけど』 「はっ!?」 その切り口はずるい。切りたくでも切れない、話が父さんのこととなると。俺がぐぐっとなって受話器を握りしめると、ヨシヒトは俺が聞く気になったのが分かったのか、ふっと息を吐いてから言った。 『親父さんはきっと分かってくれると思う、英安の本気の話なら。それがどんな内容でも』 「え」 『だから進路のこと、なるべく早く言うべきだ。京都へ行きたいなら、その理由も』 「そりゃ……お前に言われなくたって、俺だって」 『俺の両親と違って、英安の親父さんは本当にいい親だし。凄く羨ましいよ』 「え」 『さっき英安、訊いただろ、自分がゲイってことで誰かに白い目で見られたことないのかって。あるよ。実の親にはもうカミングアウト済みで、俺はその両親からこの件で縁切りされたから』 「……嘘だろ?」 『嘘じゃないよ。だから俺、一人暮らししているんじゃないか。英安だって来たことあるだろ、うち』 「そうだけど…。金持ちの道楽かと思っていた。いいマンションだったし。何かお前って、そういう独り暮らしとか似合うし」 『………』 「あっ、ごめん!」 これは幾ら何でも酷い言い草だった。俺はぶわりと悪い汗をふき出しながら謝った。知らなかった、ヨシヒトが親とそういう確執があっただなんて。しかも同性愛者だってことでそんなことになっていたなんて。ヨシヒトっていつも能天気な感じだし、全然困ったようなところ見えなかったし。本当に、知らなかったよ。 ……でもそうか、そうだったのか。 結局、ヨシヒトも俺と同じだったんだ。ヨシヒトも、俺に自分のことや家族のこと、全く話してくれてなかった。 そして俺も訊かなかった。ヨシヒトのことを知りたくなかったわけじゃない、むしろあの頃はいろいろ知りたかった。趣味とか好きな食べ物とか、好きな遊びとか。家族のことだって当たり前に訊きたかった。知りたかったに決まっている。だって好きだったから。 でも、根ほり葉ほり煩く訊いたら、きっとうざがられるんじゃないかなんて遠慮して。 そうこうしている間に、浮気されてあっさりフラれて。 『英安?』 「あっ…」 どうやらヨシヒトが返答のない俺を何度か呼んでいたらしい。俺がハッとなって声を出すと、ヨシヒトは恐らくもう一度同じことを言ったのだろう、俺に謝る必要なんて全然ないと優しく言った後、『じゃあ約束通りもう切るな』と続けた。 『英安の顔見たかったけど、昨日の今日でこれだけ話してもらえただけ感謝しなくちゃな。ありがとな、英安。やっぱり英安は優しいな』 「………」 『じゃあまた明日』 「えっ!」 また明日来る気なのか。俺はぎょっとなって思わず声を上げたけど、ヨシヒトは自分から電話を切ると、そのまま宣言通り、玄関の前から遠ざかって行った。 俺はその気配を感じながらも何だか胸の奥がモヤモヤして、何だかどうしようもなくなって、急いで階段を駆け上がって部屋へ入ると、そこの窓を開けて、案の定まだ姿の見えるヨシヒトの背中に声をかけた。 「ヨシヒト!」 「……英安?」 ヨシヒトは2階から声をあげた俺に驚いたように振り返った。そうして俺を見上げたその顔は、やっぱりカッコ良くて、俺が昔好きだったそれそのものだった。そうだ、こいつの取り柄なんてさ、この顔だけ。あの頃はこの美形顔をずっと眺めていたくて、でもあんまりじろじろ見たら気持ち悪がられるんじゃないかと怖くて、だから遠慮がちにちらちら盗み見たりして。 でもそうしていたら、ヨシヒトがその俺のストーカー目線に気づいて、自分から話しかけてくれるようになったんだよな。そう言えばそうだ。俺の方こそが最初、ヨシヒトのストーカーだったんだ。 でももうそれは過去のことだから。 俺はきっぱりと言った。 「また明日じゃないよ! 明日も来るなよ! もう来るな!」 「……来るよ」 「駄目だって言ってんだろ! もう電話も出ないからな!」 「英安、好きだよ」 「ばっ…こ、公共の、なっ…何を言ってんだ、ばか!」 「うん。俺、バカだった」 ヨシヒトの声はとても静かだった。そして笑っているはずなのに、どこか泣きそうでもあった。初めて見たヨシヒトの悲しそうな顔。何でこんな顔するんだよ。むかつく。ずるい。ああ、俺は浮気者なんかじゃない、なのに、ヨシヒトのことをもう全然恨んでいない…のかも、しれない。 何も言えない俺にヨシヒトは言った。 「でもバカでも何でも、英安に今よりもっと嫌われても、俺は諦めない。だって好きなんだ」 ヨシヒトが言った。俺は我慢できなくなり、窓をぴしゃりと閉めた。たったそれだけの動作なのに息が上がった。心臓がやばい。どうしたんだ、俺は。俺は、まずい。これはとてもまずい。田神。助けてくれ。どうしよう、田神。何で山にいるの?こんな時にさ、山って何だよ。おい田神。田神深夜。俺が。お前の愛しの恋人が今大ピンチなんだ。それなのに傍にいないなんて酷過ぎる。今こそあの恐ろしい目で俺を睨みつけて、そうしてこの情けない俺を思い切りぶん殴って欲しいのに。 ……いや、思い切り殴られたら死ぬかもしれないから、3割くらいの力でいいか? 「あーっ、何情けないこと考えてんだ、俺は!」 髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜて、俺はベッドに放り出していた携帯をがつりと掴み、迷わず田神の携帯番号を押した。そこに掛けても佐霧さんが出るだけだ、分かっている。でも、もしかしたら、1%の確率くらいで田神が出るかもしれない。もしかしたら佐霧さんが昨日の俺の異変を感じ取って伝書鳩使って俺から電話あったって伝言送ってくれたかもしれないし。そして、それを受けた田神から何か伝言あるかもしれないし。 しかし。 電話は一向に出る気配なく、佐霧さんすら出てくれず。やがて留守電に切り替わった。 「あーあ……」 俺は脱力して電話を切ると、そのままベッドへ大の字に寝転がった。出るわけないんだ。田神が出るわけない、そんなこと分かっている。佐霧さんだって忙しいだろうし、そんなにしょっちゅう電話に出られるわけない。まぁいい、これで俺のイタ電1件目成立だ。前回のは数に入れちゃダメだろ。もう一回かけようかな。そうだ、佐霧さん出ないなら、もう1回かけちゃえ。 おかけになった番号は、現在電波の届かない所に―― 無機的な女の人の音声が聞こえてきて、メッセージがある人は留守録に入れろって。あると言えばあるけど、ないと言えばない。だってメッセージ入れても、最初に聞くの田神じゃないじゃん、佐霧さんじゃん。そんなところに、好きとか会いたいとか寂しいとか入れられるわけないだろ。入れたいけど、入れられるわけがない。 ピーッ…… しかしさぁこの音声の後にメッセージを入れよという合図を受けた俺は、思わず口を開いて声を発してしまった。しかも、自分でも想いもしなかった、ばかなことを。 ヨシヒトにキスされて熱出して、もうつきまとうな、お前ストーカーだって言ったのに、あいつ俺を好きだと言って、でも俺はあいつをもう恨んでないって気づいちゃった。こんな最低の浮気もんは田神にぶっ飛ばされるしかないし、その覚悟もできているんだけど、田神くんはいつ帰ってきますか? このメッセージを聞いたら連絡下さい。 「はあぁ〜。よし、言ったぞ…!」 多分、全然「よし」じゃなかったんだけど、メッセージを入れた直後の俺はそう言って息を吐いた。我ながらよく分からない。でも昨日から今にかけての出来事を田神に何も言わずにいるのは、それは駄目だろとははっきりと思っていて、だからその気持ちが先行したのかもしれない。要は、俺は田神に甘えたんだ。……佐霧さんが最初に聞くんだろうって分かっていたのに、何か録音始まったらそういうのも全部飛んじゃったし。熱もあったし、冷静な判断ができなかったのかもしれない。 でも、メッセージを入れた後はちょっとだけ肩から力が抜けて、俺はその後熟睡した。父さんが帰ってきて飯を食えるかと話しかけてきたのはうっすらと分かったんだけど、返事ができなかった。身体がだるかったし、とにかく眠りたかったから。 そしてその次の日。 「うわあっ!」 いつの間にかベッドに落ちていた携帯を拾い上げて寝ぼけ眼でそれを見た瞬間、俺は思い切りおかしな声を出してしまった。 そんなバカな、昨日の今日で返事があるなんて、そんなわけないのに。 着信が13回。死の13階段じゃないかよ。俺のイタ電なんて比べ物にならないくらいの数がそこには記されていて、しかもメールがたったの1通。 「佐霧さん…だよな…? 俺の昨日のメッセージを聞いて…?」 俺は自分を落ち着かせようとしてそうぶつぶつと呟きながら、それでももう指先はぶるぶるしながらメールを開いていた。何故だかこれは佐霧さんではないとすぐに分かったから。絶対田神だ。どうして田神が携帯を持っているのかそれは分からないけど、佐霧さんが本当に伝書鳩に携帯持たせて田神の元へ飛ばしたのかもしれない。ハンパねえな伝書鳩。 そんな冗談はともかく。とにかく田神は俺の昨日のメッセージを割とすぐに聴いたようだ。そしてすぐに電話をくれた。でも俺は爆睡していたから電話に出られなくて―…。 それでその後に打ったのだろう、田神からのメールはただの「二文」。 俺はそれを食い入るように見た。見てしまった。やっぱり田神だ、そう思って嬉しいやら、嬉しくないやら。いや嬉しいに決まっているけど、この場合、単純に嬉しいだけ言って良いものか? ふざけんなヒデ。殺すぞ ただの無機的な文字なのに物凄い迫力を感じる。田神が怒っている。これは相当キレているのではなかろうか? やばい。まずい。俺はもしかするととんでもないことを、いや事実を報告したことはともかく、留守電なんていう、やっちゃいけない方法で最悪の伝え方をしたのかもしれない。 しかし。 「でもやっぱ……嬉しいかも」 近いうちにぶっ飛ばされるどころか殺されるみたいなのに、俺はそう呟いていた。それからさらに何回もこのメッセージを見直して、携帯の画面にすりすり顔を寄せたりした。田神が返事をくれた。返事を。しかもすぐ。やっぱり嬉しいや、怒られていても嬉しい。嬉しいな!だって反応くれたってことは、俺のこと想ってくれているってことだし。うっ…そんな田神がいるのに浮気した俺は最低最悪の奴だけど。でも嬉しい。田神と繋がれていることを確認できて嬉しい。だって俺が好きなのは、やっぱり田神なのだから。 「はあぁ…今日は何かいい日になるかもしれない」 俺は携帯にもう一度すりすりしてからそう言ってほっこりした。田神を怒らせたのはまずい。でもやっぱり昨日メッセージ送って良かった。今日は勉強頑張ろ。そう思えた。 何でか知らないけど、田神は携帯を持っているみたいだし、朝飯食べたら返信しよう。電話はきっとまずいだろうからメールで。「返信ありがとう、田神スゴイ好き」って送ろう。 「英安、朝飯食べられるか?」 その時、父さんが階段の下からそう呼んでくれた。あ、みそ汁のいい匂いがする。食欲はありそうだ。うん、食べられる。熱は下がったようだ。俺ってゲンキンだな。けど、モリモリ食べてガリ勉することはきっと悪いことじゃない。 「うん、大丈夫」 だから俺はそう言ってベッドから飛び出した。これを人は現実逃避と呼ぶのかもしれない。見る人が見れば。後の俺もそう思うことになる。 でも少なくともこの時の俺は、今日の勉強は捗りそうだな!なんて、むしろご機嫌に近かった。愛の力って偉大だ。 |
了 |