あの時と、今と。
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この頃、俊史は「あの時のこと」を始終思い出してしまう。 不思議な体験をした、しかもそれが家から離れた場所でのことだったからか、歩遊は「あの時のこと」をどこか現実ではない出来事のように捉え、無意識に思い出さないようにしている節があるけれど、俊史は違う。むしろ逆だ。 一度ならず、二度、三度と。 もう抱いてしまったのだから、忘れられるわけもない。 「とーし」 だから冬休みが終わって学校が始まると、俊史は心底参ってしまった。 「とーし。としさま。俊史クンってば」 日常の何もかもが鬱陶しくて、考えるのが面倒くさい。歩遊以外の人間とは誰とも関わらずに生きていけたら、どれだけ楽なことだろう。 けれど、実際はそうもいかない。こんなに不安定な気持ちを抱えていても、いつでも「きちんと」していなければならない。 「煩ェな……何だよ、さっきから」 何故って、腑抜けた瀬能俊史など、誰より歩遊が望んでいない。 だから仕方なく。 この日も俊史は、軽い調子で話しかけてきた友人の戸部に「仕方なく」の返答をした。 「何だよ、じゃねーよ。散々無駄に呼ばせやがって」 対する戸部の方は別段腹を立てた風ではないが、邪険にされて「こっちこそ面倒だ」という目で厭味なため息をついてきた。普段、自らの取り巻きには決して見せない粗雑な態度だ。 「サッカー部の要望書。まだ見てないだろ」 「ちら見はした。学年末が終わった日にグラウンド使わせてくれってやつだろ」 「おぉ、見てたのか。エライエライ、そうそう。で、まだこっちは何とも言ってないのに、その噂聞きつけた野球部とバスケ部が『同じような書類出せば自分たちも練習許可貰えるのか』って訊いてきてんの」 「………」 「とりあえず何か回答しないと」 「音羽(おとわ)は何て言ってんだよ」 面倒くさい。 何でもかんでも生徒会に責任を押し付けるのはやめて欲しい。 だからこの時の俊史は半ばらしくもなく、いつもは言葉もロクに交わさない学年主任の名を口にした。 「音ちゃんはねえ」 すると戸部はそんな俊史の考えなどとうに分かっていたようで、「俺ちょっと訊いてみたんだけど」とすぐに反応した。 「基本的に採点期間中の部活動は禁止だけど、成績優秀の部に関しては、生徒会の決定に任せるって。これまでもそういう例がなかったわけじゃないみたいだし」 俊史たちの学校は、校則も教師による締め付けも目立ってきついわけではない……が、一応それなりの進学校である為、季節毎に行われる試験期間中は、全ての部が活動休止を命ぜられる。その為、2月下旬に行われる学年末テストもそうなるはずなのだが、今年はサッカー部がその例外を求めて生徒会に直談判してきたのだ。 「今年のサッカー部は、確か冬の大会はすぐ負けたんじゃなかったか」 「そうそう。でもクジ運悪くて、全国常連校と当たっちゃったんだよ。それにほら、今ってあの部にはスカウトさんが集まるくらいのプロ候補生がいるじゃないですか。人望厚くて学校中の人気者のね、誰とは言いませんけど。そういう選手がいて部全体のテンションが上がるのは当然だし、学校側の期待が高いことも考慮すべき点かと」 その「プロ候補生」の名前を敢えて出さなかったのは戸部の配慮だろうか、或いは悪意だろうか。 そんなことを考えて俊史はまた無駄にむっとしてしまったのだが、同時にふと、教室の窓から見下ろせる校庭にその「候補生」と……あろうことか、自分の「幼馴染」の姿が見えたものだから、俊史は思わずびくりと肩を震わせた。 「あー、噂をすれば」 それに戸部も目敏く気づいた。自らも小柄な身体をひょいと窓枠に寄せて、大袈裟な所作でその光景に目を向ける。 「サッカー部の人気者と、その横にいるのは……歩遊ちゃんだあ。相変わらず、あの2人ってしょっちゅう一緒にいるねぇ。いいの? あんな、2人だけでお昼ご飯食べさせるとか」 「今、忙しい」 「俊なんて仕事サボってばっかじゃん。これ、イヤミじゃなくて事実だから。年明けてからちょっと酷いよなぁ。生徒会長様のくせして、大事な仕事、全部俺たち任せだし?」 「大事な仕事なんてあんのか」 ぞんざいに返す俊史に戸部は思い切り苦笑した。 「流れで生徒会に入っちゃった俊君は知らないだろうけど、うちの生徒会は他の学校とは違うの。いろいろ好きにやれる分だけ、金の管理も生徒の統括も全部こっちが仕切っていかなきゃなんないんだから」 「お前なんかそれ利用して、それこそ好き放題やっているわけだろ」 「ハッ、俊に言われたくねーし!」 戸部はそう鼻で笑い飛ばした後、「でもさ」とすぐにその笑みを引っ込めて肩を竦めた。 「最近、ホント変だよ俊。前と違って手綱緩過ぎるし。だって去年までだったら、ああいうシーン見たら、ソッコー自分か誰か行かせて邪魔してたじゃない。やっぱり、休みの間に、ヤキモチ妬かなくても良いようなことがあったとか?」 俊史は探るような目でそんなことを訊く戸部を「ガン無視」して、手元の本へ視線を移した。勿論、文字など追ってはいないけれど。 年明けから、戸部は事あるごとに鎌をかけてくることが増えた。俊史自身は完璧に平静を装っている自信があるが、歩遊は無理だろう。無意識に「なかったことに」しようとしているとはいえ、戸部に何らか言われて挙動不審になったこともあるらしい。 別にバレてもいいのだけれど。 でも、面倒だから言わない。 それに今はもう「夢」や「妄想」の中でしか、あの時のことを再現できない。だから俊史自身すら、あれは「幻」だったのかと思うほどだ。 別荘からこちらの「現実」へ帰ってきて以降、俊史は一度として歩遊を抱けていない。 半ば強引に事に及ぼうとしても歩遊が激しい拒絶を見せる。返す返す、あの「初めて」は「間違いだった」と思う。折角ずっと耐えてきたのに。慎重に慎重に、我慢に我慢を重ねて積み重ねてきたものが、あの出来事によって全て水の泡になってしまった。こちらの世界ではない、他所の土地で事に及んだのも、今思えば誤りだった。そう、要するに本懐を遂げても、その経緯やシチュエーション、何もかも全てを、俊史は間違ってしまったのだ。 そして最悪は親の介入。2人の関係を察した歩遊の母、そして俊史の父は、卒業後に進路を同じくすると言った俊史に反対したし、2人で自活する選択にもノーを出した。それにより、ただでさえ俊史との急接近に怖気づいていた歩遊が余計臆病風を吹かせてしまった。……悪循環の極みだ。 「物思いに耽っているとこ悪いんだけどさ」 それでも戸部は落ち込む俊史を慰めてくれないし、気遣ってもくれない。いや、戸部なりにいろいろとやってくれようとしているのは分かる。分かるけれど、それでも1番して欲しいことは、この男は決してしない。 「サッカー部の件だけは、俊もちゃんと考えてよ。他の部にも影響あるし、慎重にやらないと」 真面目な話題に戻ったので、俊史は仕方なく顔を上げた。 「慎重にしたいなら従来通りの決定でいいだろ。どの部であろうと活動は禁止だ」 「いいの? 部活させないと、その分、耀君は歩遊を構うと思うけど」 「……あ?」 ぎろりと睨みを利かせたが、不敵な親友は全く堪えない。至って涼しげな様子で、ビー玉のようにキラキラした目を向け、笑っている。黙っていれば本当に「可愛い」顔だ。それでも、その奥にある意地の悪い光が見えるから、こんな時俊史は、もうあの見慣れた、弱々しくも素直で真っ直ぐな瞳を持つ幼馴染の顔が恋しくなってしまう。 俊史には歩遊がすべて。歩遊だけが大切なのだ。 ――だから、結局。 俊史は「成績上位者のみ」という条件をつけて、サッカー部や、申請書を出してきた部の活動を許可することに決めた。……あのサッカー部のエース「太刀川耀」がその条件を満たしていることは知っている。 歩遊は「あの時」、嫌だ、やめてと言って泣いていた。 男同士のそれはもちろん、誰かと肌を重ねることなど、これまで想像もしていなかったのだろう。高校生の年代でそれは「ありえない」と思うものの、一方で「歩遊ならありえる」と半ば真剣に確信してしまうから不思議だ。 その歩遊が全てを曝して貫かれ、肌を、表情を紅潮させていたこと。 ひっきりなしに喘いで、助けを求めるように絶えず「俊ちゃん」と呼んでいたことを思い出すと―……俊史はもう、何も手につかなくなってしまった。 歩遊に「俊ちゃん」と。そう呼ばれると、いつもとても嬉しかった。頼られていると感じられたし、慕われていると錯覚できた。否、全てが錯覚というわけでもないだろう。何せ歩遊は俊史のことを「好きだ」と、はっきり告げてきたのだから。 けれど俊史は、根底で自分と同じような愛情を歩遊が持っているかというと、いつもそれだけは自信が持てずにいた。 だからこそ、早く全部手に入れてしまいたかったのだ。 (――…あんな) ふと俊史は、校庭で耀と嬉しそうに昼食をとっていた歩遊の顔を思い浮かべた。 歩遊があんな風に自分以外の同年代と楽しそうにしている姿など、もうずっと見たことがなかった。当然だ、その機会をすべて奪ってきたのは、誰あろう俊史自身だから。 けれど歩遊は本来あんな風に笑えるのだ。俊史の干渉さえなければ、歩遊はああやって生き生き出来る。優しいし、可愛いし。多少鈍くさいところがあっても、誰にでも好かれる要素をたくさん持っている。 知っている、そんなこと。 ただ、それを完全に認めてしまうほど寛容にはなれない。許せない。 別荘で「一緒に暮らそう」と言った日の夜、一緒に眠ったベッドの中で歩遊は混乱し、泣いていた。あの時は優しくしてやったのに、無理に抱いた時と同じように泣いたのだ。 あんな顔をされたら、どうして良いか分からない。 でも、諦めたくない。 「くそ…っ」 混乱した頭を抱えながら俊史はかぶりを振った。こんな姿を歩遊に見せるわけにはいかない。放課後までには元に戻らなければ―……そう固く意を決めて、俊史は午後の予鈴を前に、ぐっと目を瞑った。 学年末テストが始まる1週間前は、図書室も閉室間際まで多くの生徒が居残る。ただ、生徒会の仕事自体もほとんどなくなるので、その日俊史は歩遊を待たせることなく下校することが出来た。明るいうちに一緒に下校するのが久しぶりだったせいもあり、午後の陽光の下にいる歩遊の横顔はどこか新鮮なものに映った。 それにやっぱり。 いつだったか戸部も指摘していたが、最近歩遊はとても綺麗になったと思う。 「俊ちゃん。今日すぐ家に帰る?」 「え」 思わず見惚れていると、ふっと歩遊が顔を上げて俊史に言った。身長差があるものの、急に見上げられると距離が縮まるような錯覚を受ける。心内で狼狽しながら、俊史は訳が分からないという顔をして歩遊を見つめ返した。 「折角まだ早い時間だから、市立図書館に寄りたいんだ」 「学校にはない本でもあるのか」 「うん。司書の先生があそこならあるかもって」 「ふうん…」 「もし俊ちゃん、早く帰りたかったら先に帰ってもいいよ」 「…………」 何故一緒に行って欲しいと言わないのだろう。俊史は咄嗟にそれを思って眉をひそめた。 小学生の頃の歩遊は、どこへ行くにも「俊ちゃんも来て」と言っていたように思う。バレンタインデーや夏祭りなど、どこか行きたい所があると、歩遊は俊史を頼って一緒に行って欲しいと頼んだ。 それがいつからか自分だけで行動するようになって。 もう要らないのだろうかと腹立たしくなる。 「なら先に帰る」 とは、しかし、言えない。 「俺も偶にはそういう所見たいから、一緒に行ってやるよ」 「本当!? ありがとう、俊ちゃん!」 すると歩遊はとても嬉しそうに礼を言った。どうやら本心は一緒に行きたかったらしい。 だったら最初から言えばいいのに。 「あとさ、帰りにアイス買いたい」 「この寒いのに?」 「う、うん。駄目?」 「……別に、食いたきゃ食えばいい」 無自覚に上目使いのおねだりをするな。 俊史の怒りゲージは無駄に上がる。 「じゃあ今日は僕が俊ちゃんに奢るね」 「は?」 「アイス。いつも買ってもらっているから」 「別に俺は……」 「あっ……欲しくなかったらごめん。でも…」 「べっ…つに、要らないなんて言ってないだろ」 「良かったぁ!」 物凄く不安な顔をしたかと思えば、あっという間に心から安心したように笑う。俊史の胸はそれだけでざわざわするのに、当の歩遊はそんなことにまるで頓着がない。 「お前さ……」 俺のことが好きなのか?と訊きそうになって、俊史は思わず口ごもった。 そんなことを訊いたところで答えなど分かっているし、意味がない。第一それは俊史が望んでいる「答え」とは違う。 思い切りため息が出そうになって、俊史は思わず前のめりになった。 「何? どうしたの、俊ちゃん」 「何でもない」 ぶっきらぼうに答えて、俊史は無理やりこの会話を終わらせた。2人だけで歩いているのに、何だか楽しくない。ただ胸の奥に何かが詰まったような感じがして気が重い。 それでもあんまり露骨な態度を出すと歩遊が心配すると思い、俊史は努めて意識を他へ逸らそうと努力し、着いた図書館でもやたら難解な専門書を取って目を落としたりした。 そんな俊史の努力(?)の甲斐もあって、歩遊は終始楽しそうだった。 「良かった。この本、前から読みたかったんだ」 目当ての本が見つかったことはもちろん、そこの司書が親切にしてくれたことも嬉しかったのだろう。「また来たい」と繰り返した上、歩遊は俊史が読んでいた本もどんな内容だったのかとしつこく聞いてきたり、「また一緒に行こうね」と珍しく積極的に誘ってきたりもした。 「学校の図書室も好きだけど、図書館も広くていいね。何か落ち着く」 「そうか? 自習室もほとんど席埋まってたし、あれなら学校の方が静かだろ」 「そうだけど。でも、何か新鮮だった。あと俊ちゃん、気づいた? さっきお姉さんが小さい子とかに読み聞かせしていたコーナー」 「ああ、何かあったな…。気づいたって、何が?」 「絵本コーナー! 昔、おばあちゃんに読んでもらった童話シリーズとか全部揃ってた。懐かしくてさ、ちょっと見てみたんだけど、すごい、不思議なんだよ。これどんな内容だったっけと思ってちょっと開くと、それだけであらすじとかぶわーって思い出せるの。ああ、これ見た記憶あるってなって!」 「……まぁお前、何回も読んでたしな」 元々外で遊ぶより家の中にいることが多かった歩遊は、祖母が健在の頃はしょっちゅう絵本の読み聞かせをねだっていた。俊史もそういう時間は好きだったからよく一緒にいたが、あんまり歩遊が同じ内容の本ばかり「もう1回、もう1回」と言うものだから、俺は違うのを読んでもらいたいのだと主張して喧嘩になった。…というか、俊史が一方的に歩遊を泣かせていただけだが。歩遊の祖母はそんな2人にいつもにこにこと、順番ね、などと言って歩遊の要望にも俊史の要望にも応えてくれた。だから自分たちが揃って本好きになったのは、明らかにあの祖母のお陰だと俊史は思っている。 「あのシリーズってどこへやっちゃったかな」 歩遊が何とか思い出そうとするように空を見上げて呟く。俊史はそんな歩遊の横顔をちらりと見てから、「捨ててはいないだろ」と何気なく返した。 「そう思うけど。押入れとかにあるかなぁ…。でも、気づかないうちにお母さんがいきなりがばって捨てちゃうこともあるから、なくなっていても不思議じゃないな」 「あのババアは物に対する愛着ってものが皆無だからな」 思わず口をついて出た暴言だったが、歩遊はそんな俊史に一瞬だけ驚き、後は困ったように苦笑するだけだった。最近、俊史が歩遊の母親に当たりがきついことは歩遊もよくよく分かっているし、「その理由」も分かっている。だから反応しづらいのだろう。 「あ、アイス! 買ってくるね!」 そうして歩遊は目当てのアイスクリーム店を見つけると、誤魔化すように1人でさっと走って行ってしまった。思わず追いかけそびれて、俊史はその場に突っ立ったまま、そんな歩遊の後ろ姿を見送った。 たった数メートルの距離なのに、歩遊が自分から離れてしまうともう心配だ。 それに、俊史自身も「心細い」と感じてしまう。 「ばかみてぇ…」 ただ、そう呟いて己を嘲る一方で、それとは違う自分が「事実だろ」とも責めてくる。戸部は歩遊への手綱が緩いのじゃないかと言っていたけれど、それも道理だ。俊史は自分自信の手綱すら握れず、感情コントロールがままならない。 「あのう、すみませーん。ちょっと教えてもらっていいですかー?」 「は…?」 「ちょっと訊きたい事があるんですけど〜」 そうこうしているうちに、俊史は通りを行く他校の女子生徒2人からいきなり声を掛けられた。それは何ということもない、この商店街にあるカフェの場所を尋ねるものだったのだけれど、それが「それだけ」に終わらない声掛けだというのはすぐに分かったから、俊史はそこでまた不愉快な思いをする羽目になってしまった。 逆ナンする女なんか、まるで興味がない。というか、大嫌いだ。 俺の「趣味」とは全然違う。 「俊ちゃん、これ」 だから歩遊が店から戻ってくるのを待つ時間は、大袈裟でなく数時間にも感じられた。 「遅かったな」 「ごめん。何にするか迷っちゃった。俊ちゃんの…勝手にストロベリーにしちゃった。嫌だったら僕の方でもいいよ」 「何でもいい」 差し出された可愛らしいピンク色のアイスを奪うように掴み、俊史は先にすたすたと歩き出した。あの女子高生らが本当に「友だち」と一緒にいるのかと遠目で確認していたとしたら鬱陶しい。ともかく一刻も早くその場を去りたかった。 「俊ちゃん、誰かに話しかけられてたけど、知り合い?」 「あ? 全然知らねえ奴。つか、見てたのかよ」 だったら早く戻ってこいよなと言いかけて、ふと俊史は後ろからついてくる歩遊がどこか元気のない風に見えて歩く速度を落とした。 「どうした?」 「え?」 「え、じゃない。何落ち込んでんだよ」 「おっ…落ち込んで、ないよ? ただ……」 「ただ、何だよ」 俊史はいつもの「習慣」でそのやり取りをしていたに過ぎない。だからいつものテンポで淡々と訊ねたつもりだった。 けれど歩遊の方はどうも調子が狂ったらしい。あの大きな目をまじまじと向けてきて、歩遊は俊史の後を追いながら「すごいな」と呟いた。 それで俊史はますます訳が分からなくなった。 「何がスゴイんだよ」 「だっ……て。別に僕、落ち込んではいないけど、でも、何か…。何か、ちょっと、さっきとは違ったかもしれない。でも、それはホントにちょっとだよ? なのに俊ちゃんには、そういうのが全部分かっちゃうんだ。それって凄いなって」 「意味が分かんねえ」 実際分からないから俊史は乱暴にそう返した。もっとも歩遊の言うことが要領を得ないのもいつものことである。俊史は奢ってもらったアイスをかじりながら「もっと分かるように話せよな」と先を急かした。 すると歩遊は少しだけ元気になって気の抜けた笑いを見せた。 「あのさ、僕、今日早く帰れたでしょ? それで…俊ちゃんと一緒に、こうやっていろんな所へ寄って帰るの久しぶりだし、嬉しかったんだ」 「は…?」 不意にどきんとして、俊史は足を止めた。 けれど歩遊はそれに気づかずに、手にしたアイスを見つめながら歩き続ける。だから仕方なく、俊史はその横に並んで歩遊の話を聞いた。 「俊ちゃんはこんなのいつものことだって思っていたかもしれないけど、とにかく僕は嬉しかったんだ。でもさ…今、俊ちゃんが女の子たちに何か話しかけられていたから…もしかしたら友だちなのかなって。それで、もう今日はここで終わりなのかなって。その、一緒に、歩くの」 「………だから?」 「だから? だ、だから…その、俊ちゃんが人気者だし、いつも忙しいのは分かっていることだから、仕方ないとは思うけど、でも多分……僕ちょっと……それを、残念に思ったのかもしれない。あ! っていうことは、それって落ち込んだって言うのかな。そうなのかもね」 「お前、バカじゃないのか」 どうしてこういう言い方しか出来ないのだろう、と、自分自身にツッコミが入らないわけでもなかったけれど、俊史の口から咄嗟に出た言葉はそれだった。 だって、すげぇバカ。歩遊はバカだ。愛しいけれど、ホントにひどいバカ。 「何も分かっちゃいねえ……」 「え?」 お前は今、俺がどんなに心臓の音を早くさせているか知らないだろう。 俺がどんな気持ちでお前のその言葉を聞いているか、全く想像も出来ないのだろう。 「俊ちゃん、どうしたの? お、怒った? 僕なんか悪いこと――」 「煩い」 煩いし、俺がお前と帰ると言って、途中で誰かとどこかへ行くとかあるわけない。 そういうことを、いい加減学習しろ。 ――と、頭の中ではいろいろな言葉が飛び交っていたが、俊史は何だか声が詰まって何も返すことが出来なかった。 それに確かに、歩遊が当たっているところもある。俊史はこの歩遊と「一緒に歩く」時間を何とも思っていなかった。こんなのはいつものことだし、他のことで思考がいっぱいだったから。……その「他のこと」というのは、紛れもなくこの横にいる歩遊のことだったのだけれど。 (だからって、現実のこいつ見ないでいてどうする……) 歩遊の方は俊史との「いつもの時間」を貴重なものとして喜んでいたのに。 とは言え、平気な顔でこういう事をさらっと告げる歩遊が憎らしくもある。まさに愛憎表裏一体とはこのことだ。 (けどとにかく。とにかく、今すぐ……) 歩遊を、抱きたい。 だから思わず、といった体で俊史は歩遊の手を握った。歩遊はそれに当然驚き、身体を傾かせたが、俊史はもうそんな歩遊の顔をまともに見なかった。見ていられなかった。 ただ、もう触れずにはおれなくて。 より一層ひどくなる胸のざわめきを必死に押さえながら、俊史は今「あの時のこと」をどうにかして思い出さないように、家への道のりを急いだ。背中越し、歩遊の「俊ちゃん」と呼ぶ声が聞こえた。甘えたような、それでいて怯えたような声。俊史はそれに応える代わりに、無理やり握った手にぎゅっと力を込め、「急ぐぞ」とだけ返した。心臓の鼓動は今もって早い。それをみっともないとは思ったけれど、自分ではどうしようも出来なかった。 だから、だろう。 遠慮がちに握り返されていた手の温もりに俊史が気づいたのは、帰宅し、その手を離した後だった。 |
了
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