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戸部に追い立てられるようにして生徒会室を出た歩遊は、そのまま悶々とした気持ちで一日を過ごした。 耀はトボトボと教室へ戻ってきた歩遊を心配したり自分の行く手を阻んだ戸部の下僕軍団の文句を言ったりと大層忙しなかったが、歩遊の顔がよほど思いつめて見えたのか、戸部との会話について特に踏み込んでくることはなかった。 お陰で歩遊のぐるぐるする思考を知られることはなかったのだが……。 (戸部君は俊ちゃんを好きで、二人は付き合って……いや、それはない。だって俊ちゃんが違うって言ったんだ。……でも、戸部君の気持ちは俊ちゃんにあって……お互い、デートに、誘う……?) あまりに強く握り過ぎたせいでくしゃくしゃになってしまったオルゴール館の入館チケットとリーフレットは急いで鞄にしまい込んだ。改めて直視するのが何となく怖かった。 (でも、いきなりデートって……そんなこと言われても……ただでさえ最近の俊ちゃん、機嫌悪いのに……も、もし、このことが知れたら……) 戸部も「今日自分たちが話したことはくれぐれも俊史に知られないように」と言っていたけれど、そんなことは言われるまでもない。別に歩遊が意図したものではないが、もしもこんな俊史を試すような真似をしていることが分かったら、ほぼ百パーセントの確率で凄まじく怒られる。いや、それだけで済むならいい、何しろこれは「戸部と結託した」という形になっているのだ。ただ怒られるどころか、もっと怖いことが起きるかもしれない。想像するだに恐ろしい。 しかし。 しかししかし、だからと言ってこのチケットを使って俊史をデートに誘わなかったら、今度はあの戸部に何をされるか分かったものではない。 (ううっ……) 背中に寒いものを感じて、歩遊はぶるりと身震いした。 俊史とデートをするという、それ自体はとても素晴らしいことだ。歩遊だって俊史とデートしたい。二人で出かけたことなら何度もあるが、「付き合って」からまともに何かしたことはない。何せ模試の結果が散々だったから、学校が始まってから歩遊はまた勉強三昧の日々だったし、俊史は俊史で生徒会のことで忙しそうだった。結局、年明けの選挙で生徒会長になって「しまった」俊史は、本人の意思に反して毎日様々な雑務に追われているようだ。勿論、歩遊は俊史が全校生徒を代表する存在になったことが誇らしく嬉しかったし、何だかんだと文句を言いつつ、全てにおいてそつのない俊史を尊敬している。だから歩遊個人は単純にこのことを喜んでいるのだけれど。 家で二人きりになることが少なくなった上、学校でも顔を合わせる機会が減ったことも事実なわけで。 (デートか……) 今度の日曜日。声を掛けたら俊史は自分を選んでくれるだろうか。もしも戸部が先に声を掛けたら、俊史は「先に約束した」方を優先するかもしれない。いや、そんなこと関係なく、単純に戸部の方を優先したいと思うかもしれない。何せ話術に富み、全てにおいて歩遊より優れている戸部は全校生徒憧れの的だ。歩遊にとっては怖い戸部だけれど、俊史が彼を親友と認め傍に置いているのは間違いない。気難しい俊史が一人の人間とあそこまで近しく付き合うのは珍しい。恋人ではないにしても、戸部が一緒にいて楽しい存在だろうことは間違いないのだ。 反して歩遊は、デートに誘ってみたところで俊史をうまくエスコートする自信などない。いつだって歩遊は俊史任せにしてきた。幾らこのチケットがあるとはいえ、何の構想を練ることもなく俊史に声を掛けるのは勇気が要る。否、そもそも戸部が用意したこのチケットを使うこと自体にも抵抗がある。 「はあぁ……」 思わず大きなため息をついてしまい、歩遊はがっくりと項垂れた。 ただ、その日は俊史と一緒に下校することが出来た。 (やっぱり機嫌悪そうだな……) 自分の三歩前くらいを歩いている俊史の背中を歩遊はこっそり観察した。 いつものように図書室で勉強していた歩遊を俊史が迎えに来たのは、下校時刻を少し過ぎたあたりだ。司書教諭もそこらへんの事情はもうよく分かっているので、歩遊が多少時間オーバーで図書室に居残っていても許してくれる。閑散とした図書室に俊史がメールで予告した通りの時間に来てくれると、歩遊はいつもとても幸せな気持ちになれた。 ……にも関わらず、今。 目前にある大好きな背中はどこかぴりぴりとした氣を発していた。ここ数日の低空飛行を俊史はこの時も持続させていたのだ。 とてもデートを切り出せる雰囲気ではない。 「歩遊」 そしてそんな俊史がまともに口を開いたのは、電車に乗って自分たちの自宅がある最寄駅に着いたあたりだった。 「今日の夕飯……外で食ってくか」 「え?」 俊史のどこか躊躇したように言う姿を歩遊は不思議そうに見やった。 「ご飯?」 「ああ…どこでもいい。歩遊が食いたいもんでいいから」 「食べたいもの……」 「何が食いたい」 歩遊が一番好きなものは俊史が作ってくれたご飯である。 俊史は何でも器用にこなしてしまうので元から一通りの料理にも実にそつがないのだが、それも最近では更に磨きがかかっていて、他のどんな豪華な食事よりも贅沢なものだ――と、歩遊はそう思っている。 それに、二人だけで囲むあの食卓の時間が好きだ。 俊史もめったに外食などとは言い出さないし、外より家で食べる方が好きなのだと思っていた。 「あ……もしかして俊ちゃん、疲れているの?」 けれどはたと思い立って歩遊は心配そうに眉をひそめた。 勿論、歩遊は俊史の食事が一番好きだが、だからと言ってそれが当たり前みたいに思うことが「悪」だとは自覚している。歩遊は母の佳代風に言うのならば、あくまでも俊史に「エサを恵んでもらっている」立場なのだ。俊史が歩遊の食事の面倒を見る義理はない。だから俊史が作りたくないと思えばそれは勿論作らなくとも良いのだし、ましてやここ最近の忙しさから、俊史が毎日の食事作りを休みたいと思うのももっともだと気がついた。 それなのについ、「僕は俊ちゃんのご飯が一番好き」という正直な台詞を言いそうになって、歩遊は急いでその気持ちに蓋をした。 「外で食べるより、何か買って家で食べた方が良くない?」 だから歩遊は精一杯気を遣ったつもりでそう言った。 「……何でそうなる」 「え?」 しかしそれは思い切り裏目に出た。 「お前は家で食いたいのかよ。外は嫌なのか?」 「え」 「外で食べるのは嫌なのかって訊いているんだ」 俊史の機嫌が更に急降下していくのを感じて歩遊は狼狽した。 「ぼ、僕は、そりゃ家の方が……。でも別に外が嫌ってわけじゃなくて、俊ちゃんは早く帰って休んだ方がいいと思って……」 「だから何でそうなるんだよ! 俺は家に帰りたくないから外で食おうって言ってんだろう!」 「え?」 「このバカ!」 「……っ」 腹立たしそうな俊史の様子に、歩遊はズキンと胸を痛めつつ俯いた。また呆れられてしまった。何故自分はこうも愚鈍なのだろうとますます自信喪失に陥る。 「だから……今日もあのバカが早く帰ってくるって言っていただろ」 するとややあってから俊史が更に小さな声で呟くように言った。 歩遊はそれでそろりと顔を上げた。俊史の心底面倒臭そうな顔が瞳に映る。 「俺はあいつとお前の三人で飯とか……冗談じゃなく、本気で嫌なんだよ」 「貴史おじさん…? おじさんが家にいるから……帰りたくないの?」 ようやっと意味を理解した歩遊に俊史はふっとため息をつきながらぞんざいに頷いだ。 「当たり前だろ? 何かって言うとごちゃごちゃ煩ェ事言いやがって…。お前だっていいのかよ、あいつがあんなしょっちゅうお前ン家に入り浸ること!」 「僕は……」 自分たちの「交際」を反対されていることは辛くて堪らないが、貴史自体が嫌いかと言えばそんなことはない。歩遊は自分の両親同様、俊史の両親のことも大好きだ。だからこそ、俊史とのことを認めてもらえなくて悲しいのだが、心のどこかでは「いつかは分かってもらえる」と思っているし、彼らが徹底的に歩遊たちを見放すことなどありえないことも知っている。 俊史を絶対的に信じているのと同じように、歩遊は自分たちの親のことも信じきっているのだった。 だから貴史が家にいて嫌ということはない。むしろ最近、佳代も含めて親たちが頻繁に帰宅してくれていることは嬉しいくらいだ。 無論、俊史との時間も大切なのだけれど………。 「俺だけかよ」 けれど歩遊の最後の気持ち――俊史との時間も大切だけれど――という点だけが、俊史には伝わらなかった。物騒な顔をより一層険悪にして、俊史は改札を出るとどんどん先を歩き出してしまった。 歩遊は慌ててその後を追ったが、俊史はちらとも振り返らない。 「俺だけがむかついて……お前は呑気に、親が家にいてくれて嬉しいって思っているわけかっ。何なんだ! 折角……くそっ! 俺だけがこんなイラついて…っ」 「しゅ…俊ちゃん…」 独り言なのか歩遊に向かって文句を言っているのか微妙に分からないラインで俊史がぶつぶつと呟いている。しかも速足で歩きながら。歩遊はそんな俊史に必死に追いつこうとしながら、けれど怒っている俊史が怖くてまともに声を掛けられなかった。 そうこうしているうちに結局二人は互いの家に着いてしまった。 「あ……」 しかも俊史は迷わず自分の家の方へ向かった。着替えで戻ることはあっても、大体はまず一緒に歩遊の家に入って夕食の下ごしらえだの何だのを始める俊史である。それなのに今日は歩遊の家に寄る気はないのか、無言のまま鍵を取り出し、そのまま自宅へ引きこもろうとしていた。 「俊ちゃん…」 思い余って声を掛けたが俊史は振り返らない。ガチャリと扉の開く音がして、そのまま俊史はドアを開いた。 「俊ちゃん」 「飯は作らないからな」 するとやっと俊史は返答した。 「今日は、お前はお前で勝手にしろ!」 「俊ちゃ…!」 こちらを見ない俊史に更に切羽詰まって声を上げたが、俊史はそのまま家の中へ入って行ってしまった。本気で怒っている。歩遊はオロオロと何度かドアの前で逡巡したが、数秒後には決心してドアノブを掴み、中へ入ろうと試みた。 幸い扉に内鍵は掛けられていなかった。 「しゅ……」 すぐに後を追ったせいか俊史はまだ玄関先にいた。無理やり中へ押し入ってきた歩遊に驚きと責めるような視線が向けられる。 「俊ちゃん」 それでも歩遊は今日一日悶々としていたこともあって、このまま俊史と別れるのはどうしても嫌だった。相変らずなかなか自分の考えを口に出来ないが、少しずつでも変わろう、変わりたいとは思い始めている。 「俊ちゃん、お、怒ったの?」 「何が」 だから精一杯はっきりとした口調でそう切り出したのだが、俊史は無碍もなかった。 それでも歩遊はめげずに続けた。 「あの、ごめん。何か怒らせたならごめん。でも僕、俊ちゃんが外で食べようって言うから、ご飯作れないくらい疲れていると思ったんだ」 歩遊のまくしたてたその発言に俊史がぴくりと肩先を揺らした。それから、思いもかけないことを言われたというような顔をする。先刻とて歩遊は俊史にそれを言ったと思っていたのだが、どうやら俊史の方には通じていなかったようだ。 「それで……、それなら家で食べられる物買って家で食べた方が楽かと思って。それだけだよ。僕は俊ちゃんと食べられるなら何だっていいし」 俊史がはっきりと歩遊と向かい合った。 それにほっとして歩遊は肩の力を抜いた。 「お……お母さんや、貴史おじさんが家にいてくれること嬉しいって思ったのも本当だけど……でも、早く帰りたいと思ったのは、俊ちゃんが心配だったからで――他に理由なんかないよ」 「………」 「ほ、本当だよ? 本当に――」 「分かった」 「わ……」 おもむろにぎゅっと抱きしめられ、歩遊は出しかけた口を噤んだ。 「…っ」 けれど一息つく間もなく、さっと身体を離した俊史から激しく唇を貪り取られて、歩遊は痙攣したように肩を震わせた。 「ふ…ぅ…ッ」 俊史のキスは唐突なことが多いが今もそうだ。たった今まで怒らせたと思って焦っていたのに、もうこんな風に熱烈な口づけを仕掛けてくる。俊史が分からなかった。 「んっ、ん……」 けれど必死にその荒っぽい口づけについていこうとすると、俊史は宥めるようにそんな歩遊の頭を撫でた。それが嬉しくてそろりと目を開くと、俊史もまた挑むような視線を向けながらわざと強く歩遊の唇を吸った。 拍子、くちゅりと卑猥な音が漏れ出る。 「あ…」 赤面する歩遊に、しかし俊史は尚もしつこく唇を重ね合わせる。そうして歩遊の口が熟れて赤く色づくほど何度も舐った。 「……俺は別に疲れてない」 だから俊史がようやくそう言葉を発したのは、歩遊が長過ぎる口づけに翻弄されて呼吸を乱している最中だった。 「違う意味では疲れているけどな。お前が心配するような事はない。だから……俺は、外で食べたかったってこと」 「あ……うん」 「何が『うん』なんだ?」 「あ…ううん…あの、ごめん」 「は……本当に分かったのかよ?」 ぼうとする歩遊の態度に不服そうではあったが、俊史の声色はもういつも通りのものだった。不機嫌はどこかへ行っている。それどころか今は心なしか気分も上昇しているようで、俊史はすっかり柔らかい表情になって歩遊の前髪を指先でちょいちょい掻き上げ、くすぐるような所作まで取った。 それから再び歩遊の唇にちゅっと音の出るキスをする。 歩遊はそれだけで今度は顔だけでなく身体中が熱くなった。俊史はここ最近、確かに不機嫌だった。けれどそれは父親との確執や、歩遊の母・佳代から進学や同棲の件で色々言われていたせいだ。 だから要は、含むところのない歩遊には優しい。 毎日の朝食にも手を抜かず、俊史は歩遊に徹底的に甘く、献身的だった。 そう、明らかにあの別荘での事があってから、俊史は歩遊に「甘い」のだ。 けれど。 (あ……) ただでさえ密着していた身体を俊史がより一層擦りつけてきたことで、歩遊は忽ち蒼褪めた。 「んっ…」 キスが激しくなった。予感は的中だ。 「あ、俊…っ」 あれ以来、俊史は頻繁に歩遊の身体を求めるようになった。貴史や佳代がいるから全て「未遂」で終わっているが――そしてそのことが現在の俊史の機嫌を更に悪化させている原因でもあるのだが――少しでも二人きりの時があると、俊史はこうして所構わず歩遊にキスをし、身体をまさぐるのだ。 例えば、こんな玄関先でも構わずに。 「俊ちゃ…ダメ…!」 しかも歩遊が怯えたり抵抗の意を示したりすると、その行為は余計に暴走した。再度激しい口づけを仕掛けながら、俊史は歩遊を上から押さえつけるようにして己の体重を掛けた。否応なく歩遊の小さな身体は崩折れる。すかさずくるりと体勢を変えられ、そのまま玄関フロアへ押し付けられるように倒された。あっという間だ。 「しゅっ……んんっ!」 俊史は急くように歩遊のシャツのボタンを1つ2つと取っていった。けれどその作業すらもどかしいのか、俊史はやがてそれを途中で放棄し、乱した衣服の中へさっと手を差し込んだ。 「ひゃっ…」 歩遊はパニック寸前だ。まさか、こんな場所で。信じられないと思う一方、最近の俊史なら、そしてあの別荘地でのことを想起するなら十分有り得るとも思う。でも、こんなのはダメだし、嫌だ。けれど俊史はそんな歩遊の困惑にまるで構わず、ひたすらキスを繰り返し、歩遊の胸の粒を指先できゅっと捻り潰す。 「いっ…た…」 思わず小さな悲鳴が漏れたが、それでも俊史は止まらない。それどころか焦れたように歩遊のベルトに手を掛け、ズボンのホックを外してきた。歩遊はもがいてそれを阻止しようとしたが、上にいる俊史をどうしても跳ね除けられない。 俊史にされるがままだ。 「や……!」 それでも股間に触れられた瞬間、ようやっと大きな声を上げられた。 「俊ちゃん!」 「……っ!」 それは思った以上の効果があった。耳元で叫んだせいもあっただろう、びくんとした反応があって俊史が動きを止めた。眉間には深い皺が刻まれていたが、瞳にはまだ理性の色があった。それで歩遊は必死に後を継いだ。 「やだ! 俊ちゃん、やだあっ!」 「る……っせえよ!」 「だっ、こんっ、やっ……やだ、やだぁ!」 「ばっ…暴れんな…!」 「だって、やだ、やだ!」 「この……ああッ、分かったよッ!」 めちゃくちゃにダダをこねて暴れたのが功を奏したらしい。俊史が根負けしたようにそう吐き捨て、さっと歩遊の拘束を解いた。重しが取れたことで歩遊は急いで起き上がり、反射的にはだけられたシャツの前を閉じる。じわりと目が潤んだ。俊史のことが嫌というわけではない、それは絶対に違う。けれど。 正直、歩遊は俊史とのセックスが恐ろしかった。 付き合っているはずなのに。 「やめればいいんだろ…! バカな声出すな!」 けれど歩遊のその「トラウマ」に関しては、俊史の方も薄々感づいているようだった。だからこそ余計に焦って早くまた歩遊と繋がりたいと望むのだろうが、一方で己の罪悪感と後悔故に、俊史は歩遊のこういう極度に怯えた態度には徹底的に強く出ることが出来ないのだった。 「ご、ごめん……」 けれどそうなる度、いつも一方的に謝るのは歩遊の方だ。俊史はカッカとなって怒るだけ。 気まずい空気が流れる。 とても「デートの誘い」どころではない。 「あの……僕、帰る……」 何も言わない俊史に耐え切れなくなり、歩遊はのろりと立ち上がると俊史を避けるようにして玄関の外へ出た。ゆっくりした動作だったから引き止めようと思えば出来たはずだが、俊史はそれをしなかった。 (最悪だ……) がっくりと項垂れたまま玄関に入る。――が、それに関して落ち込む間もなく、歩遊のその行動を図ったかのようなタイミングでいきなり鞄の中の携帯がぶるぶると震えた。誰かからの着信だ。 『ちゃんと誘ったか?』 機械的に取ったそこからは戸部の容赦ない声が歩遊の耳に突き刺さった。 『今日はちゃんと一緒に帰らせてあげただろ? 俊の仕事引き受けてそうしてやったんだから感謝しなさいね。で? 帰るまでたっぷり二人きりの時間があったんだから、さすがにちゃんと言えただろ? 言ったんだよな? 俊を誘えたな?』 「……あの。まだ」 未だ脳裏には俊史の無理やり感情を抑え込んだ苦しそうな顔が残っている。戸部との会話どころではなかった。 それでも歩遊はゆるりと首を振って律儀に答えた。 「まだ、今ちょっと……、言おうとは思ったんだけど、言えるような状況じゃなくて……」 『このバカ! さっさと言え!』 ぼそぼそと答えた歩遊に戸部は更に鋭い鞭を浴びせる。歩遊はそれをもろに受けながらぎゅっと目を瞑った。 「そういう戸部君は……、もう、誘ったの?」 『は? あーもう、バカ』 「え…」 『煩ェよ。俺のことなんかどうだっていいんだよ、大事なのはお前が俊をデートに誘うことなの。そうだろ? ったく、さっさと言えっての。今どこ? 家?』 「……うん」 『俊は?』 「自分ち……」 『今すぐ行ってこい。いいな、今日中だぞ! 出来なかったらどうなるか、分かってんだろうな?』 直接対面していないせいか戸部の柄は通常より二割ほど悪かった。しかも言いたいことを言い切った後はまた一方的にぶちりと通話を切り、ボー然としている歩遊を更にボー然とさせた。 「何なんだよ……」 歩遊は暫くの間その話相手を失った携帯を眺めて憮然としたが、やがてそれを鞄にしまうと玄関に上がり……そのままストンと力なくその場に座り込んだ。二階へ行って着替えようとか、風呂掃除をしようとか、頭ではいつもの手順を理解しているのに力が沸かなかった。無論、戸部の言うなりになってすぐさま踵を返し俊史をデートに誘うなんて行動にも移れない。 その時ふと、傍の鞄から顔を覗かせているオルゴール館のリーフレットが目に留まった。歩遊はそれをそっと取り出した。 「……オルゴールか」 学校では何だか怖くてよく見ていなかったが、「戸部の情報」でなければそれは十分魅力的な施設に思えた。館内案内地図の四方には珍しい旧式のオルゴールや、コンサート会場になっているという薔薇園の写真が品良く映し出されている。日本とは思えないようなこの異国情緒溢れる庭でギターの生演奏が聴けるだなんて、考えただけで楽しそうだ。 それも俊史と一緒に。きっと贅沢なひと時が送れるに違いない。 「ちゃんと言えば良かった」 こんな風に気まずくなる前に思い切ってさっさと誘えば良かった。 余計なことをごちゃごちゃと考え過ぎてそれが出来ず、それどころか普段のささやかな二人の時間すら失ってしまって。歩遊は率直に後悔した。戸部の方を選ぶかもしれないとか、ただでさえ不機嫌な俊史にこれ以上迷惑に思われたら嫌だとか、全てがくだらない。 俊史と過ごす時間が大好きだと、だから一緒に出掛けたいのだと言えば良いだけだったのに。 何だってこんなことに。 「歩遊」 「わ!」 とは言え、歩遊は俊史に対し何か言おうと思う時はいつも無駄に怯える。緊張する。 幼馴染だし一緒にいるのが当たり前なのだけれど、身構える。 恋人になったと思ってからは、特に。 「しゅ……俊ちゃん……」 その俊史が今、何故か歩遊の目の前にいた。別れてからまだ5分と経っていない。現に俊史は歩遊と同じ制服姿のまま。そしてどこか思いつめたような顔。明らか歩遊に何か言う為にすぐ後を追ってきたという感じだった。 「……何しているんだ」 けれど俊史はその自分の用事を優先させず、そう問いかけた。玄関先に座り込んでいる歩遊を不審に思ったのだろう、それはもっともだが、歩遊にしてみれば俊史が何故来たのかを問いたかった。 あんなに怒っていたのに。 「あの……別に……」 どう言って良いか分からず歩遊は困って俯いた。――と、俊史が歩遊の手にしていたオルゴール館のリーフレットをさっと取り上げた。 「あ!」 そして俊史は慌てる歩遊をよそにそれをさっと開いて素早く一読すると、ふと何事か考えるような様子を示してから「行きたいのか」と訊ねてきた。 「え…?」 どきどきと心臓を高鳴らせている歩遊に、俊史は既に落ち着き払ったような態度で「ここに行きたいのか」と再度訊いた。 「あ……うん。楽しそうだなって……思って……」 「こんなの、どこで知ったんだよ」 「え、あ、おしえて、もらっ」 「またあのバカか」 耀のことを思い浮かべたらしい、俊史はたちまち不快だと言う風に眉をひそめたが、手にしていたリーフレットを何の衒いもなく折り曲げると、自分の制服の尻ポケットにしまってしまった。 「え。あの」 「予約制って書いてあるだろ。行きたいと思ってすぐに行けるような所じゃないんだよ」 「う、うん…?」 「今度、電話しといてやる」 「え」 「今度の休みでいいだろ。連れて行ってやるよ」 「えっ!」 いや、それは違う。 咄嗟にそう思ったが、歩遊は驚いた声しか出せなかった。 しかし、明らかに「違う」。 歩遊が俊史をデートに誘わなければならないのに、逆に俊史が段取りしようとしている。これではあべこべだ。しかも俊史がわざわざ予約しなくともチケットはあるのだ、既に。戸部のものではあるけれど、俊史も行って良いと思っているのなら、わざわざ予約する必要もなく行けるのに。 というよりも、何故今急にこんな展開になっているのか。先刻の出来事は何だったのか。 「あの……」 「お前、放っておくとちゃんと食わないし。飯、作ってやるよ。……仕方なくな」 そうこうしているうちに俊史の中で歩遊が行きたいオルゴール館の話はもう終了しており、既に今晩の夕食に話は移行していた。いつものようにズカズカと中に上がり込んだ俊史は、いつものようにキッチンへ向かって今晩の夕飯の支度に想いを馳せ始めている。 この間、わずか1分少々。 歩遊は口をあんぐりと開けたままフリーズ状態だ。機械的ながらもふらふらとリビングへ入っていったのはそれから大分後で、俊史は既に米研ぎを始めていた。そして気配だけで歩遊が来たことを察知したのだろう、「お前は風呂洗ってこいよ」と、これまたいつもの役割分担だとばかりに命令する。 けれど歩遊はなかなか言う通りにすることが出来なかった。 「あの、俊ちゃん」 「あのバカとは行くなよ。断れ」 「え?」 「さっきの、あのバカが誘ってきたんだろ。行くな。分かってるだろ」 俊史の言い様に歩遊は思わず言葉を失ったが、先取りして言われたその内容が全く見当外れであることだけは明白だった。耀は関係なく、自分が俊史をデートに誘いたいと思い見ていたパンフなのだと、そう言えれば良いのだろうが、なかなかに気持ちと口がついていかない。 それに歩遊が思い切って言葉を発しようとする度に、俊史がいちいち制して先に言うのだ。 「この話はもう終わりだ。お前は余計なこと言うな」 「俊ちゃん、でも…」 「煩い。お前は俺の言うことだけ聞いていればいいんだ」 「そ……」 強く言われたその言葉に思い切り引っかかって歩遊は身体の動きごと止めた。 それでも俊史の勢いはそれで余計に増したようだ。自らもしきりと動かしていた手を止めて、濡れたそれにも構わずにさっと振り返ると不快を全面に押し出したような顔を見せる。 「俺に逆らうな」 その言葉に歩遊は緩く首を振ったが、俊史も止まらなかった。 「逆らうなって言ってるんだよ。確かにさっきのは……俺も、ちょっとは悪かった。けどお前も悪いんだよ。むかつくんだよ」 「ごっ…ごめん」 「反省しているなら、もう余計なことは言うな。太刀川にもちゃんと断れよ」 「あ、それは違……耀君は関係なくて、僕が」 「煩い。聞きたくない」 「え…」 何故そこまでという程、俊史は歩遊の言葉を遮った。結局先刻の気まずさを俊史こそが引きずっているから、こんな風に頑なな態度しか取れないのだろう。 「お前の言うことなんてどうせくだらないんだよ」 俊史が言った。 「何であのバカと仲良くしちゃいけないのかとか、親父たちはいい奴だとか、俺の進学先は変えた方がいいんじゃないかとか。俺とはし……したくないとか。結局言いたいのはそういう事だろ!」 「そ……」 それらは確かに、今日のデートの件がなければ俊史と話したいと思っていたことの数々だ。それは間違いない。 けれど今は違う。あのオルゴール館の話がしたい。 「そういう話も……色々、したい、けど」 「はっ……他にもあるのかよ。頭おかしくなりそうだな」 「あ……頭がって…」 「そうだろ!」 つかつかと寄ってきて俊史はぐいと歩遊の手首を掴んだ。それに歩遊があからさま怯えた所作を取ると、俊史は余計に燃えるような目を閃かせた。 「嫌なのか、歩遊!」 「い、嫌じゃっ! でも!」 「でもじゃねえよ! 嫌じゃないなら逆らうな! 余計なことは考えるな! いつも言っているだろう!? お前は……黙って俺に従っていろ!」 「……っ」 「イライラさせんじゃねえよ!」 元々俊史の口癖のようなものだったが、最近ではこれがやたらと辛い。 曰く、折に触れ「お前は余計なことを考えなくていい」と繰り返されること。 全部俺がするのだから、お前はただ黙って従っていればいい、と。 俊史はいつでも歩遊には何もさせず、自分が全てしようとする。何でもやってしまう。歩遊は俊史のものだから、俊史が全て良いようにするのは当たり前のことなのかもしれないけれど、でも。 「俊ちゃん…」 歩遊だってたまには、自分から俊史に何かしたいと思うことだってあるのだ。 それが例え今回はあの戸部に後押しされているような形になっているとは言っても。 でももう、とても言わせてもらえる雰囲気ではない。 「分かった……もう、何も言わない……」 だから諦めて歩遊はそう答えた。 「言わない……」 「……何いじけてんだよ」 しょげながらも素直にそう返した歩遊に俊史の声のトーンが落ちた。一方的に横暴な言葉を投げかける割には、結局最後の最後で俊史はこういう風になることがままある。だからこそ今も、先刻のあの出来事を自分で怒鳴って余計気まずくしたくせに、こうしてこの家に来てしまっているのだろうし。 「お前が悪いんだろ」 それでも謝れない俊史はこういう言い方しか出来ない。 「あのバカが誘ってきた所のパンフなんか大事そうに持っているし……親父にはへらへらしているし。………キス以外させねえし」 「だからもう言わないっ」 掴まれた手首を半ば強引に振り解いて歩遊は自棄のように言った。はっきり言わない自分が責められるのも仕方がないと分かっているが、俊史の有無を言わせぬこの態度も大概酷いと感じている。言おうとする度にその口を封じて、「お前は黙っていろ」と俊史は無碍もないから。 だから、もういい。 大体こんな状態では、仮に誘えたとしても間違いなく断られる。 「これ…っ」 そう思うと余計にむしゃくしゃしてしまって、歩遊は珍しく自棄状態を継続させたまま鞄のある所まで走り、すぐにそこから皺くちゃのチケットを二枚取り出して俊史に突き出して見せた。 「……何だよ、これ」 勿論、俊史は事態をすぐに呑み込めない。思い切り未見に皺を寄せたまま、そのチケットと今にも泣きそうな歩遊とを交互に見やる。 「これ、戸部君のっ。戸部君に返しておいて。僕はダメだったからって」 「は? ……何言ってんだ」 「戸部君も俊ちゃんを誘いたいんだって。これ、一緒に行きたいんだって。だから、でも、俊ちゃんが僕と一緒に行くって言うなら自分はいいって言ってて、でも僕はもうダメだから。だって俊ちゃんは僕に余計なこと言うなって! 黙ってろって! だから、もう言わない!」 「歩遊、何言って」 「だから何でもないよ! 僕も俊ちゃんを誘いたかったけど、もう言わないから!」 「歩――」 「俊ちゃんと一緒に行きたいって言いたかったのに!」 自分でも殆ど何を言っているのか不明になってきていたが、歩遊は普段ならありえない程のパワーを使ってそうまくしたてると、そのままの勢いでだっと二階へ駆けあがって自室のベッドへ飛び込んだ。そうしてそのまま布団を頭からすっぽり被り、丸くなる。固く目を閉じても瞬間的に見てしまった俊史の顔が脳裏を過ぎる。恐ろしかった。驚愕に目を見開いた、殆ど絶句の表情。きっと呆れたに違いない。それに、本当は内緒にしておかなければならないはずだったのに、全部話してしまった。戸部と競うようにして俊史をデートに誘うような真似をして、どれだけ怒られるか分からないし、今度こそ愛想を尽かされるかもしれない。 恐ろしかった。 「歩遊」 その恐ろしい相手、俊史は程なくして歩遊の後を追ってきた。 「……っ」 布団を被っていても分かる。ドアのすぐ前にいる。俊史が呼んでいる。 けれど応えるのは嫌だ。 「歩遊。入るぞ」 俊史が再度呼んでそう言った。いつもはそんな断りなどなしに問答無用で入ってくるのに。それでもそれによって歩遊は余計布団の端をぐっと掴んで更にぎゅうと縮こまり、ダンゴ虫のように身体を丸めた。 そんなことをしても扉は容赦なく開いてしまうのであるが。 「歩遊」 俊史がベッドの脇のすぐ傍にまで来た。歩遊はそれでも返答しなかった。ただじっと目を瞑って布団の中の暗闇に甘んじる。それでも、ぎしりとした音で俊史がベッドに腰を下ろしたのが分かった。俊史をすぐ近くで感じた。 「歩遊」 その声はとても落ち着いていて静かだった。怒っているはずなのに。でも罠かもしれない。油断させておいて顔を出した途端いつものように「バカ!」と怒鳴る気かもしれない。そんなことを考えながら、けれど歩遊はほんの僅かもぞもぞとみじろいだ。 「歩遊。顔出せ」 そうこうしているうちに俊史は布団の上に手を置いてぽんぽんと軽く叩いて促してきた。最後通牒だ。ここでも更に無視をしたら今度こそ雷が落ちるだろう。何せ歩遊が俊史を無視するなどめったにない。というか、一度もないかもしれない。歩遊自身、そんな恐ろしいことをする勇気はないし、耐性もない。 「う……」 それで結局、たったの数分間の抵抗は終わりを告げてしまった。 「………」 そろりと布団をめくって顔を出す。傍の俊史とばっちり目が合った。 「あ…?」 けれど俊史は怒っていなかった。瞬時に分かった。 何故って俊史の顔は、それはどちらかというと今の歩遊に近い顔をしていたからだ。 「歩遊。起きろ」 「……うん」 だからそれに戸惑いながらも、歩遊は割とすぐに反応することが出来た。びくつきながらも言う通り身体を起こして、ベッドの上、俊史とすぐ近くで向かい合う。 すると俊史はそうなった瞬間、すぐに顔を寄せて歩遊の唇を塞いできた。 「んっ」 完全に意表をつかれ歩遊は息を止めたが、俊史は何度も角度を変えてその不意打ちのキスを繰り返した後、歩遊の髪をまさぐるように頭を撫でてからようやく。 ごめんなと、謝った。 「俊、ちゃん…?」 その謝罪があまりにすんなりと、そして優しく紡がれたせいで、歩遊は完全に、それこそあっという間に、胸の中に籠らせていたわだかまりを霧散させた。 「これ……今度の休みなんだな」 「う…うん」 そして言われて気が付いた。俊史の手には歩遊が突き出してそのまま床に落としただろうチケットが二枚、本当にくしゃくしゃになりながらもしっかり収まっていた。 「戸部なんかと行くわけないだろ」 それに歩遊がじっと視線を落としていると俊史が言った。 「あいつには明日よくよく言っておく。もうお前には近づくなって」 「え」 「どうせあいつが無理やり仕組んだことなんだろ?」 「あ……でも、戸部君、本当に俊ちゃんのこと、好きって」 「……バカ」 まだ分からないのかという風に少しだけ笑って、俊史はまた歩遊にちゅっと小さなキスをした。それで歩遊はまた先の言葉を奪われたが、代わりに俊史がふっと目を落として後を続けた。 「けどこれに関しては……お前が余計なこと考える羽目になったの、俺のせいだから……俺が悪かった」 「え、何…え」 「けど、歩遊。もう一度ちゃんと言えよ」 「え?」 「これ……俺と行きたいって言えよ」 俊史は実に偉そうにそう言った。 「………僕は」 本当は考えたいこと、言いたいことがたくさんあったのに、それもまた俊史は妨げた。 俊史はいつだってこうだ。 「僕……俊ちゃんと」 それでも歩遊は、命令されるままにようやっと告げた。 「俊ちゃんと行きたい。一緒に行きたい」 だって結局、そうされなければきっと言うことは叶わなかった。 「一緒に……行ってくれる?」 「……仕方ないな」 俊史はそう答えた。仕方がない、と。しょうがないから付き合ってやるよ、と。淡々と、けれどそこにほんの小さな笑みを伴って俊史はそう答えた。 「良かった」 だから歩遊は素直にそう息を吐いて自分も小さく笑った。思い切り微笑むことは出来なかったけれど、ほっとしたのは本当だった。デートが出来るということではなくて、俊史が笑んでくれたことが嬉しかったから。 「良かった」 もう一度呟いて、歩遊はぐしりと潤んだ目を擦った。ぼやけたその視界の中で俊史はやはりちょっと困ったような顔をしていたが、ぐっと掴んだ歩遊の手は離そうとせず、歩遊が落ち着くまでずっと傍でそうしていた。だから歩遊は「やっぱり俊ちゃんが好きだ」と思った。 |
了 |