―帰り道―


「……こんな所にいたのか」
  図書室で必死に数学の宿題と格闘していた歩遊に俊史が不機嫌そうな声を発した。顔を上げるまで俊史が近づいてきている事に気づいていなかった歩遊は思い切り面食らってしまった。
「う、うん。教室は……落ち着かなかったから」
  実はクラスメイトの女子たちに「追い出された」というのが正しい説明なのだが、そういう情けない話をわざわざするのも憚られたので、歩遊はごにょごにょと言葉を濁した。いつも学校が終わるとすぐに帰っていたから気づかなかったが、教室というところは割に放課後残る者が多いらしい。部活動をやっていない自分のような人間はすぐにいなくなるのかと思いきや、どうしてどうしてお喋り好きの女の子たちには格好の溜まり場らしいという事を歩遊は最近になって初めて知った。
  そう、俊史に「帰りは俺を待て」という「命令」を下されてから。
「だったらどこで待っているかくらい最初に言っとけ。探しちまっただろ」
「ご、ごめん」
「こっちは生徒会の仕事で疲れてるんだから余計な事させるなよな」
「………」
「何だよ」
「えっ…。何が…」
「何か言いたい事があるならはっきり言え」
「べ、別にないよ…」
「………」
「か、帰ろう…?」
  どうしてもどもっていまいながら、それでも歩遊はその場の空気を払拭するように立ち上がるとそう言った。
  歩遊が幼い頃よく遊んでいた磯城山でシュウという不思議な青年との出会いを経験してから、幼馴染の俊史は少しだけ変わった。
  相変わらず偉ぶり見下したような態度に変わりはないが、歩遊が俊史の事を好きだと口走ってからというもの、いつも別々だった帰りを共にするようになったのだ。俊史は大抵放課後生徒会の仕事があるから、お陰で歩遊は夕方遅くまで学校のどこかで時間を潰さなくてはならなかったが。
  それでも。
「お前は放っておくとロクな事しないから」
  そんな風に言いつつ自分に目を向けてくれる俊史の事が歩遊は嬉しかった。素っ気無くとも心配してくれているというのが分かったし、いつも独りきりだった下校の時間を俊史と過ごせる事は幸せだった。
  ただ時々は、やはり不安になったり胸が痛んだりするのだけれど。
「俊」
「あ……どうした?」
「うん、ちょっと言い忘れた事があって」
  その時、図書室の入口からそう言って俊史を呼んできた者がいた。戸辺優だ。俊史と同じく生徒会に所属している俊史の「親友」で、歩遊より「数倍可愛くて気がつく」デキる優等生。
「お前はここで待ってろ」
  俊史はもう既に立ち上がって帰り支度を済ませた歩遊にそう言うと、自分はさっさと入口の所に立ち尽くしている戸辺の元へ向かって行った。歩遊が身体を伸ばして自習机の衝立からそっと2人の様子を窺うと、楽しそうに笑う戸辺の顔と俊史の穏やかな横顔が見えた。
  ズキリと歩遊の胸が痛む。
  俊史は、歩遊にあんな表情は決して見せない。いつも怒って不機嫌か、或いはバカにしたような蔑んだ目をしているか。
「うん、分かった。じゃあまた明日」
「ああ。サンキュな」
  一通りの会話が終わったのか、2人がそう言って別れるのが歩遊の目に入った。戸辺も帰るところだろうに、一緒に帰ろうという話にはならないのだろうか。
「歩遊」
  俊史が呼んだ。はっとして顔を上げると、大好きな幼馴染はもういつもの仏頂面に戻っていた。
「行くぞ。早く来いよ」
「うん…」
  歩遊が慌てて歩み寄ると、俊史はそれを待たずに先を歩き出した。







「俊ちゃ…瀬能君…」
「……何だ」
  まだ校舎を出ていないからこの呼び方はまずかろうと歩遊が焦って言い直すと、俊史は眉を寄せてむっとした返答を寄越した。
  その様子を背後にいながらも敏感に察知した歩遊はより一層慌てふためいて下を向いた。雨上がりの地面のせいで泥のついた靴が妙に目に付いた。
「あのさ…良かったの?」
「何が」
「あの…戸辺君と一緒に帰らなくて…」
「あ? 何で」
「だって…いつも一緒に帰ってたんじゃないの…」
「………」
  黙りこむ俊史にどきどきとしながら、歩遊は必死で沈黙を破った。
「もしそうなら、そうしてもいいよ。あのさ…僕、別に平気だし」
「先に帰ってする事でもあんのかよ」
「え……」
  ぴたりと足を止めて振り返った俊史に、歩遊も驚いて立ち止まった。
  俊史はまくしてたてるように続けた。
「俺が学校にいる間にまた磯城山に行こうとしているんじゃないだろうな。あそこへは行くな。俺はそう言ったよな」
「行って…行ってないよ…。あの日からずっと…!」
  本当は行きたくて、もう一度シュウに会いたくて仕方がなかったのだけれど、歩遊は俊史の機嫌を損ねるのが怖くてそれを実行する勇気を持てないでいた。大体にして、こうやって毎日行きも帰りも俊史と一緒だから、そんな隙もなかったし。
「それから、あんなバカな事は俺以外の奴に話すな。夢だったと思って忘れろ。分かったか」
「………」
「分かったのかよ。歩遊」
「……そんなの」
「歩遊」
「わ、分かったよ…」
  渋々頷くと、俊史がちっと舌打ちした。それで歩遊はまた胸が痛んだのだが、既に踵を返し歩き出した俊史にその傷ついた表情は見えなかった。だから歩遊もとぼとぼと再び会話のなくなった俊史の背中を見つめながら後について歩き出した。
  一緒に帰れる事は嬉しい。けれども同時に、何だか悲しい。
  そんな思いがぐるぐると歩遊の頭の中を巡る。
「……歩遊」
  どれくらいそんな時間を過ごしたのだろう。不意に俊史が声を出した。
「え?」
  歩遊がはっとして顔を上げると、先を歩いていた俊史がつまらなそうな顔をしながらもこちらを向いていた。そうしてさっと顎をしゃくると、その先にあるものを指し示した。
「寄って行くんだろ」
「え…?」
  そこは歩遊がよく立ち寄る音楽店だった。店舗自体はさほど大きくもないが、CDだけでなく復刻版のレコードなんかも置いていたりして、品揃えが豊富な音楽好きには堪らない店だ。
「今日、ビリーの新曲発売日だろ」
「あ…」
  ビリーとは歩遊が好きな英国のアーティストの名前だ。そう言えば再来月の来日コンサートにあわせたCDが今日発売されたのだった。うっかり失念していた歩遊に俊史は呆れたように言った。
「昨日までさんざん早く聴きたいって言ってたくせに忘れてたのかよ。やっぱりお前ってバカ」
「……うん」
  本当は図書室で俊史に会うまでは覚えていたのだ。早く帰って聴きたいと思っていた。けれど戸辺の出現であっという間に頭の隅から消え去っていたのだ。
「……何だよ。嬉しくないのかよ」
「あ…」
  がっくりと項垂れたような歩遊に俊史がいよいよむうっとしたようになって唇を尖らせた。歩遊が喜んで店に入ると思っていたのに浮かない顔だから憮然としたのだろう。歩遊は慌てて首を振ると、上目遣いで俊史の事を見やった。
「う、嬉しいよ…っ。俊ちゃん、思い出させてくれてありがとう」
「なら早く行ってこいよ。俺はここで待ってるから」
「うん」
「ほら」
「え……?」
  俊史がさっと突然差し出してきたものに歩遊は驚いて固まった。
  それは新札の5千円札だった。
「何…俊ちゃ…」
「買ってこいよ」
「だって…お金……いいよ」
「いいから行けよ。俺も聴きたいから、それ」
「だって…」
「歩遊」
「……っ」
  有無を言わせぬその呼び声に歩遊がびくりとなる。俊史にそうやって名前を呼ばれると歩遊は反射的に身体が震え背筋がぴんとなった。それでまた俊史の機嫌が悪くなると分かっているのに。
「早く行け」
「………」
「歩遊」
「う、うん…っ」
  押し付けられるように渡された紙幣を握り、歩遊は慌てて自動ドアの前に踏み出した。ガーっと開く扉を意識しながらもちらりと振り返ると、まるで見張りのような俊史の厳しい眼光と目があった。慌てて中に入る。まだ胸がドキドキした。







  歩遊がすぐに会計を済ませ店を出てくると、俊史は「遅い」と一言文句を言い、また先を歩き出した。
「俊ちゃん、お釣り…」
「帰ってからでいい。仕舞っとけ」
「俊ちゃん……あ、ありがとう」
「………」
  思い余ってその背中に礼を言ったが、答えは返ってこなかった。歩遊はそれに居た堪れない気持ちがしながらも、買ったばかりのCDが入った袋を胸に掻き抱きながらもう一度心の中で「ありがとう」と礼を言った。誕生日でもない、クリスマスでもない、ましてや自分たちは俊史と戸辺のような「親友同士」でもない。
  ただの幼馴染なのに。
「今度は…僕が俊ちゃんに何かプレゼントするよ…」
  歩遊がぼそぼそとそう言うと、ようやく俊史の足がぴたりと止まった。こちらを振り返ったその顔がどことなく困惑したような、そしてやっぱり不機嫌そうになっていたものだから、歩遊もどうしようと途惑った。
「しゅ…俊ちゃ…?」
「なら貰う」
「え?」
  きっぱり言った俊史の言葉を歩遊は聞き返した。
  俊史はイライラしたように声を荒げた。
「今度貰うって言ったんだよ!」
「あっ…。う、うん…!」
「………」
「何でも言ってよっ。僕…あんまりお金、持ってないけど」
「………」
「あと、これも今日一緒に聴こう…?」
「当たり前だろ。俺が金出してるんだから」
「う、うん…」
「独りで聴いたら承知しないぞ」
「……うんっ」
「フン…」
  歩遊の素直に頷きほっとしたような笑顔に、俊史はさっと顔を逸らすとまた早足で歩き出した。どことなく照れたようなその空気に歩遊は首をかしげたが、今日したその約束は素直に嬉しかった。戸辺との仲を邪魔している自分に気が引けたけれど、それでも歩遊は嬉しかったのだ。
  俊史とこうして一緒にいられること、一緒に何かが出来るということ。
「歩遊。のろのろしてんな、早く来い」
「あ、うん!」
  いつの間にか随分と差が開いてしまった間に俊史が責めるような口調を発する。歩遊はそれに慌てて返事を返すと、だっと駆け出した。
  俊史との距離が少しでも縮まればいいと思った。