―香水―



「バカ。こんなのも分からないのかよ」
  それは本当に軽いものだったけれど、参考書で頭をはたかれればやはり痛い。
  「あの言葉」とて、いつも言われているものだけれど、痛いものは痛い。
「うん…ごめん…」
  歩遊は叩かれて乱れた髪の毛を撫で付けながらしゅんとして俯いた。
  隣にいるのは幼馴染の俊史。
  今日も独りで部屋に閉じこもって音楽を聴いていたら、当然のようにやって来て「宿題はやったのか」なんて訊いてきた。まだだと答えたらすぐにやれと偉そうに言う。歩遊とて今日の課題はとても1人でやり切れるものではなかったから、俊史が協力してくれるのは嬉しいけれど、反面やっぱり情けなくなる。
「戸辺はお前と違って凄く頭がいい」
  俊史はそう言って苛立たしそうにシャーペンの先でとんとんとノートの隅を叩いた。
「理解するのにこんな時間かかんねえよ。お前は何でそんなトロイんだ」
「……うん」
「うん、じゃねえよ。ちょっとは考えろよ。お前すぐ諦めるだろ。それで答えが来るのを待ってるんだ」
「そ、そんな事ない…」
「そうかよ? どうせ授業ではいつも当てられても『分かりません』って答えて終わりだろ。後で黒板の答え写して納得したつもりになってる」
「………」
  全くその通りだが、だからと言って自分はその事によって俊史に何か迷惑を掛けているのだろうか。掛けているのかもしれないが、だとしたらもうこんな愚図な自分は放っておいてくれれば良いのだと思う。
  一緒にいてくれるのは嬉しい。だって俊史が好きだから。
  けれど歩遊は一方で、こんな風に惨めな想いをするくらいならば、一緒にいない方が良いと思う時もある。とことんまで悲しい気持ちになる時には特に。
「歩遊。おい歩遊! 聞いてんのか!」
「あっ…」
  ぼうっとしていたところをまた俊史に叱咤され、歩遊はびくりと身体を縮こまらせた。それでも第二陣の怒声がない事を不審に思い、恐る恐る顔を上げる。
「……っ」
  驚いて息を呑む。
「俊ちゃ…」
  俊史はすぐ傍にいて、本当にすぐ近くで歩遊の顔を覗きこんでいた。その瞳はやはり冷たく怒っているようなものだったのだが、その整った顔が間近にあった事で歩遊の胸は締め付けられんばかりに苦しくなった。
  いつだって見てきたのだ、この顔を。
  自分には絶対に届かない存在だと思いながら、尊敬と畏怖を込めて。
「俊ちゃん…?」
  その顔がじっとこちらを向いたまま動かない。いよいよ居心地が悪くなり、歩遊は誤魔化すようにノートへ目を落とした。
「ご、ごめん。すぐ解き直してみるから」
  本当はもう訳の分からない数式など頭に入らない。けれど必死に白いノートを埋めようとぎゅっとシャーペンを握り直した。
「歩遊」
  けれどまだ何も書かないうちに俊史が歩遊を呼んだ。ぐっと肩先を掴んで無理に自分の方を向かせようとする。
「え…?」
  驚いて咄嗟に言う通りにすると、俊史はますます歩遊に顔を近づけ、やがて眉をひそめると「何つけた」とくぐもった声で訊いた。
「え…? 何が…?」
  何を指して言われているのかが分からずに歩遊が首をかしげると、俊史はむっとしたようになって更に己の鼻先を歩遊の首筋にくっつけた。
「わぁっ!」
  突然の事に歩遊が思い切り反応すると、俊史はそんな歩遊が逃げられないように身体ごと抑えながら更にくんと何かを探るようにしてから言った。
「お前…何かつけてんだろっ。何の香水だ、何でお前がそんなもんつけてる!?」
「ええ…? あ…!」
  その指摘に歩遊はようやく自分自身すら忘れていた事を思い出し、咄嗟に俊史に触れられた首筋を片手で触った。
  そして今日の学校での出来事を反芻するように言う。
「太刀川君がつけてくれたんだ。お姉さんが香水作る仕事してるんだって。それでよく試供品とかクラスの女の子にあげたりしてるんだけど、僕にもって…」
「何でお前にそんなもんつける!?」
  あまりにも怒った風の俊史に歩遊はびくびくしっ放しである。それでも混乱しながら何とか口を継ぐ。
「し、知らないよ…。たまたまそれあげてるのを僕が見てたからじゃない…? で、でも、僕にこの香り似合うって…」
「あいつとは口をきくな」
  ぴしゃりとそう言った俊史に歩遊は驚いて目を見開いた。
  けれど納得できずに思わず疑問の声を出す。
「どうして…」
「どうしてもだ。それと今すぐ風呂入ってこい。消せよ、んな気色悪い匂い」
「……っ。き、気色悪い…」
「歩遊」
「………」
  問答無用な俊史に歩遊は反射的に立ち上がった。何を言っても無駄だろうし、これ以上冷たい目線を向けられる事には耐えられそうになかった。きっと俊史はクラスの女子と一緒になってこの柑橘系のすっとする匂いにはしゃいだ自分を女々しい奴だと軽蔑したのだ。歩遊自身とて香りを貰った時は男のくせにという想いもなくはなかったのだから。けれども歩遊は太刀川がくれた香水を素直に嬉しと感じていたし、この匂い自体やっぱり好きだと感じていた。今まであんな風に親しく接してくれた友達はいなかったし、普段お洒落といったものに全く頓着がない分、香水は未知で心躍る物だったから。
  本当は俊史に自慢したいくらいだったのに。宿題を強制されて見事に忘れ去っていたわけだが。
  とぼとぼと浴室へ向かいながら、歩遊はまた暗いため息をつくのみだった。







「くそ…」
  歩遊が眠りに入ったところで、俊史は上体を起こすとむかつきでぐらぐらと煮立った胸元をぎゅっと抑え付けた。
  今日は当然のような顔をして歩遊の部屋に泊まってしまったが、本当はあまりここにはいたくない。眠っている歩遊の傍に長くいれば自分は何をするか分かったものではない。いきなりとんでもない事をやらかして歩遊に泣かれたり自分自身が激しく後悔する事だけは避けたかった。
  それでも。
  やっぱり今夜は歩遊の隣にいたかった。
「あんな奴といちゃいちゃしやがって…」
  最近歩遊にやたらと近づき始めた太刀川なるサッカー部のエースの存在が俊史は気になって仕方がない。歩遊は昔から自分だけのモノだというのに、あの男は突然歩遊の傍に立ち始め、何やらぞろ騒々しく構い始めた。携帯のメールにもしょっちゅう何やらどうでもいい事を送ってきているようだし、歩遊は歩遊でそれに対してとても嬉しそうだ。
  その笑顔があまりに昔の自分によく見せていたものに近くて、俊史はぎりと強く唇を噛み締めた。 
「歩遊…」
  小さく呼んだが当然歩遊は目覚めはしない。こんな風に邪な気持ちを抱いている幼馴染を傍に置いて全く無防備な寝姿を見せる。こんな風に冷たいばかりの幼馴染にいつでも腑抜けて笑ってみせる。
  もうあの頃のような屈託のない笑顔は滅多に見る事は出来なくなったけれど。歩遊はいつも怯えているから。
  そうさせてしまったのは自分。
「歩遊」
  もう一度その大好きな名前を呼んで、俊史は隣で軽い寝息を立てている歩遊の首筋にそっと触れた。あんな男を誘うような香りをつけて、太刀川に笑顔を向けただろう歩遊を許せない。けれどその香りに一瞬でも欲情した自分がいたのもまた事実だった。
「むかつくんだよ…」
  身体を屈めてそっと囁き、俊史は罰のように歩遊の首筋に軽く歯を立てた。
「んっ…」
  歩遊が苦しそうに小さく息を漏らした。
  俊史はそんな歩遊の声を耳に入れながら、今度は触れるだけのキスを唇にそっと施した。眠っている時にだけ晒せる自分の歩遊への気持ち。
  好きだという、否、そんな生易しい感情だけではない、歩遊を自分だけのものとして何処へなりとも隠してしまいたいという貪欲な願い。
「歩遊」
  もう一度今度は深く唇を重ねると歩遊が微かに身じろいだ。諌めるように額にかかる髪の毛をかき上げてやると、歩遊は再び静かになってそろりと唇を開いた。嬉しくなり、もう一度その場所へ自らのものを重ねる。
「……ん」
  その時歩遊が誰かの事を呼んだような気がした。
  俊史はその名前が誰かを考えたくなくて咄嗟に身体を離した。歩遊は何も言わない。深い深い眠りの国へ入り込んでいるような、そんな表情。
「………」
  そんな歩遊から俊史はそっと視線を逸らし、眉をひそめた。今の心境では歩遊が呼んだ相手が自分の事だとはとても思う事ができなかった。誰だろう。どくどくと波打つ心臓の音を聞きながら、俊史は歩遊の指先に軽く触れてから再び目を伏せた。
  そうして歩遊の寝息をすぐ傍で聞きつつ、俊史はどんどん熱くなる身体を持て余し、荒く息を吐いた。