―コーヒー牛乳―
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歩遊は昔から俊史にいじめられている…というか、怒鳴られているので、それに対するある程度の免疫はある。それに俊史の顔色を見ただけで「ああ、もうすぐ怒ってくるな」とか、「何か言ってくるな」というのが分かるので、事前に首を竦めて目を瞑るとか、先に「ごめん」と謝ってしまうとか、そんな防御策を取る事も出来る。 「しゅ、俊ちゃん…?」 しかしその日の俊史の怒りようはここ最近では一番凄かった。だから歩遊も怖いというよりは何だか恐ろしくて、俯く事も目を閉じる事もできず、ただその場で石のように固まってしまった。 「このバカ!」 「……っ!」 発してきたその台詞はいつもと全く変わらない罵声なのだけれど、とにかく目つきが違う。一体何がいけないのかと必死に考えてみるのだが、怒った俊史の顔が頭の中いっぱいに広がっていて、歩遊はまともに思考を働かせる事ができなかった。 「寄越せ!」 そんな硬直状態の歩遊に、それでも俊史の怒りは一向に鎮まらなかった。乱暴な所作で歩遊が手にしている物を奪い去ると、叩きつけるように声をあげた。 「お前、誰とどこへ行くって!? もういっぺん言ってみろ!」 「あ……」 「歩遊!」 「ひっ…」 びびくんと痙攣したように身体を揺らし、歩遊は小さな悲鳴をあげた。いつでもそうだ。俊史に名前を呼ばれると殆ど条件反射で、歩遊の背筋はぞくんと凍ってしまう。 そして。 「ご、ごめん…っ」 何が何だか分からないくせに謝ってしまう。 「……歩遊」 それによって俊史の方は余計に怒りを倍増させるのだけれど、イラつけばイラつく程に歩遊が萎縮する事も分かっているのだろう。自らを落ち着かせるように、俊史は一旦大きく息を吐いた。 「歩遊」 そしてもう一度、今度は声を静かなものに変え、俊史は歩遊から奪った物―タオルや着替えなどが入っているのだろう所謂…お風呂セット―を見つめた。 「…もう怒鳴らないからもう1回言ってみろ。これを持って、誰とどこへ行く?」 「……う」 「あ?」 「あ…あの、銭湯…」 「………」 「太刀川、君と…」 「太刀川っ!?」 「……っ!」 キッと再び厳しい睨みをきかせてくる俊史に、歩遊はまたしても身体を揺らした。けれど今度は足が動いた。一歩二歩と後ずさり、玄関先に靴を履いたままの俊史から距離を取る。 「歩遊」 けれどそんなものは全く意味がない。 あっという間に中へあがりこんできた俊史は奪い取った歩遊の持ち物を荒っぽく廊下へ投げ捨てると、そのまま歩遊に接近して顔を近づけた。それにより歩遊の方はリビングへ通じる扉横の壁にすぐ突き当たるハメになり、完全に俊史から逃げ場を失った。 「俺が言った事、忘れたのか」 俊史はびくびくとして視線を彷徨わせている歩遊を自分はしっかりと見据えながら更に顔を近づけた。恐怖によって荒くなる歩遊の息遣いがすぐ傍に感じられる。唇同志が近づきそうな位置にまでいって、けれど俊史はぐっと息を呑んで押し殺した声を出した。 「あいつとは喋んなって言っただろ」 「……あいつ?」 「バカ。太刀川の事だ」 「…でも」 「でもじゃねえよ。それが何だ? 何が銭湯だよ。何がどうなってそんな話になってんだよ。あいつが言ってきたのか? ああ?」 「う、うん…」 「何で」 「何でって…」 俊史に与えられる圧迫感で胸が締め付けられるようだ。 歩遊はオロオロとしながら、自分を睨む俊史の顔を時折ちら見した。 怒っている俊史の顔は本当に怖いし、いつもの事ながら悲しいのだけれど……。 「………」 それでも俊史はカッコイイと歩遊は思う。こんな風に対等ではない関係、見下されるようにしか口をきいてもらえないのにそんな事を思うなんて、本当にバカだと分かっているけれど。 「俊ちゃん…」 「何だよ」 「あの…きつい、よ」 それでもずっとこの体勢でいるのは嫌だ。 俊史に顔を近づけられたまま壁に身体を押しつけられるようにして窮屈に立っている。居た堪れないし、どうして良いか分からない。それに別に俊史が怒るような事はないのだときちんと説明もしたいのだから。 「俺の質問に答えたら離れてやるよ」 そんな歩遊の思いを推し量ったように俊史が言った。 「あと1回だけ訊いてやる。何であいつとそんな所へ行こうとしたんだ、お前は」 「……半額だから」 「ああ?」 「あの…太刀川君が教えてくれたんだ。銭湯・水乃屋が今日だけ半額で入れるんだって。だから一緒に行かないかって」 「……それでお前は行くと言ったのか」 「だ、だって、銭湯ってずっと行ってなかったから…」 それは本当に何年も前、歩遊が小学校低学年の頃だ。歩遊の家が改装工事をする事になって、風呂も1週間ほど使えなかった事があった。その際相羽家は親戚同然の付き合いをしている隣家の瀬能家の浴室を使用させてもらっていたが、さすがに毎日は悪かろうと銭湯を利用する日もあって。 その時は俊史も当たり前のようについてきた。一緒に湯船に浸かり、楽しく話をした。背中も流しあった。 そう、今よりもっと前は、まだこんな関係ではなかったのだ。 昔から俊史は世話焼きなところがあったが、こんな風に一方的に怒ったり命令したりという事はなかったはずだ。 一体どこがどうしてこんな風になってしまったのか。 「……前、俊ちゃんと行った時、凄く楽しかったよね。お風呂の後はさ、コーヒー牛乳飲んだりして。あ、アイスも食べたっけ」 「………」 「太刀川君もよく飲むんだって。コーヒー牛乳。それで…話が盛り上がって…」 「あいつとは口をきくなと言った」 「どうして…」 「どうしてじゃねえよ。俺の言う事に逆らうのかよ」 「太刀川君は…凄く良い人で……」 「煩い!」 「……っ」 髪の毛をぐっと引っ張られるようにして捕まれ、歩遊は思わず口を噤んだ。俊史がいよいよ頭にきたように頬を上気させて目つきを鋭くさせる。 「いいから行くなって言ってんだよ! 分かったか! 分かったのかよ、歩遊!?」 「痛…っ。俊ちゃ…痛いっ」 「分かったのか!?」 「わ、分かっ…分かった!」 「………」 「…ぅ…ッ」 「あ……」 あまりの痛みと悲しみで歩遊が思わず涙を滲ませ声を詰まらせると、さすがの俊史もはっとしたようだ。ぱっと歩遊から離れ、決まり悪そうにさっと視線を逸らす。 「………」 それによってようやく解放された歩遊は、ずりずりと壁に背中をつけたままその場にしゃがみこんで力を抜いた。慌てて零れ落ちた涙を拭ったが、泣いてしまった事は俊史には容易にバレている。決まりが悪くて歩遊はその場に座り込んだまま暫し黙りこんでしまった。 「……歩遊」 すると、どのくらい後の事だろうか。その場に立ったままだった俊史が歩遊を呼んだ。 その声色にもう怒りはない。 「俊ちゃん…?」 けれど顔を上げた歩遊が聞いた台詞は、やはりいつもと変わり映えのないものだった。 「もう生意気言うなよ」 「………」 「あいつには俺から言っておいてやる。お前は行かないってな」 「……うん」 「ふん…」 歩遊の従順な頷きに俊史もようやく気が済んだらしい。心なしかほっと肩から力を抜き、俊史はそのまま踵を返すと歩遊の自宅を出て行った。一体何しに来たのかというような、それは全く唐突な嵐のような訪問だった。 「俊ちゃん…本当に僕の事が嫌いなんだな……」 歩遊はぽつりと呟くと、その考えにまた悲しくなって俯いた。まだ当分その場からは動けそうもなかった。 だから歩遊は今夜太刀川と飲むはずだった風呂上りのコーヒー牛乳の事を思い、昔俊史と飲んだそれの味を必死に思い出そうと努めた。 |
了 |