―お迎え―



  俊史から珍しく「先に帰って良い」と言われ早々自宅にいた歩遊は、雨戸を閉める為にリビングの窓を開いてふと空からぱらぱらと細い雨が降り始めている事に気がついた。
「わ…これからひどくなりそう。先に帰らせてもらって良かった…」
  何せ朝はぴかぴかに晴れていたから、傘を持って出ようなどとは微塵も思わなかった。これは部活や委員会のあった生徒たちで傘のない者はとんだ目に遭ってしまうだろうと思った。
「…俊ちゃん、傘持ってるのかな」
  ふとそう口に出してみて、歩遊は引き戸を押そうと動かしていた手をぴたりと止めた。自分と違って俊史はいつも用意周到なところがあるから大丈夫だと思うが、もし持っていなかったのなら、きっとひどく濡れてしまう。
「ちょっと…行ってみようかな」
  一言携帯メールででも「傘を持っているか」と訊けば良いようなものだが、普段からああいう物を使い慣れない歩遊にその考えは及ばなかった。それどころか一度気になりだすととことん心配になってきてしまい、今すぐにでも学校へ戻って俊史に傘を渡したくて堪らなくなった。
  もし持っていたなら、それはそれでいいだろう。
「そのまま帰ってくればいいんだしね」
  誰も聞いていない家の中でそう独りごちると、歩遊は慌てて戸を閉め、自宅を飛び出した。





  昇降口の所では案の定、傘がなくて途方に暮れている者、たまたま置き傘をしていた者に自分を入れてくれとせっつく者などで大分賑やかな事になっていた。部活を途中で終えた人間もわらわらとごった返し、歩遊は俊史の靴が置いてある下駄箱の方を人ごみをかきわけながら必死になって覗いてみた。
「あ……」
  果たして俊史はそこにいた。丁度帰るところだったらしい。
「瀬能く……」
「良かった、俊が傘持っててくれて」
  しかし声を出そうとしたまさにその時、さっと視界に入ってきたその人物に歩遊は思わず口を閉じた。同時に殆ど条件反射だろう、下級生用の下駄箱の陰に隠れて、歩遊は思わず覗き見るようにして目の前の様子を窺った。
  傘を持っている俊史の隣には戸辺の姿があった。
「当然、駅まで送ってってくれるんだろうな?」
「お前も大概図々しいな。ま、何か奢ってくれんなら入れてってやってもいいけど?」
「あーあ、はいはい。俊がタダで何かしてくれるとは思ってませんよ」
「馬鹿言え、お前にはいつも何でもしてやってんだろー?」
  楽しそうに談笑している二人の姿はすぐ傍にいる歩遊にもきちんと聞こえた。
  先ほどまであんなに大勢の人間がいて騒がしいと思っていたのに、聞こえるのは俊史と戸辺の楽しそうな話し声だけだ。
  不思議だった。
「あ。そういえばさ、今日はいないんだね、あの子」
「あの子?」
  戸辺の言葉に俊史よりも歩遊の方が先に反応した。
  ぎくりとして息を呑むと、そんな歩遊と反して不審な顔をしている俊史に戸辺は厭味たらしく笑ってみせた。
「あの子って言ったらあの子だよ。俊の下僕」
「!!」
  歩遊がぎょっとして目を見開いている先で、俊史はハッと鼻で哂った。
「お前もきついな」
「どっちがぁ? まあいいけどさ。んじゃ、行きますか? 相合傘でまたラブラブって噂が立っちゃうけどね?」
「別にいいだろ」
「無論、僕はいいけどねぇ?」
  そう言ってにこりと可愛らしく笑う戸辺に、俊史も苦笑しながら傘を開いてさっとそれを差し出してやる。
  すると途端、周囲がざわりと揺れたような感じがした。
  いつも一緒の二人。可愛い戸辺と優等生の俊史は「お似合いカップル」、「公然と付き合っている」という噂が学内中実しやかに流れていて、彼らはいつでもどこでも有名人だった。
  そんな二人が相合傘などしていればそれは周りも騒ぐだろう。
  当の俊史たちは全く平然としているが。
「………」
  歩遊はそんな二人の姿をもう見ていられなくなり、そっと視線を落とした。来なければ良かった、そう思いながら手にしていた自分の傘と俊史の為に持ってきた傘とを二本、ぎゅっと握り直して唇を噛む。
「あーっ。歩遊じゃん!」
  その時、周囲の喧騒をさっと斬り破るような清々しい声が歩遊の耳に届いた。
  歩遊だけではない、その場にいた他の学生たちも、そして今まさに帰ろうとしていた俊史や戸辺も一斉にその声の方を振り返った。
「た、太刀川君…?」
「ったく! 耀って呼べって言ってんのに。何回言わせるんだろうな、お前は? 同じクラスになって何ヶ月経ったと思ってんだよ?」
  歩遊の驚いた声に「太刀川」と呼ばれた人物は偉そうに両手を腰にあてると呆れたような顔を見せた。
  2年にして既にサッカー部のエースである太刀川耀は歩遊の新しいクラスメイトで、教室で何かと一人孤立しそうになる歩遊にあれこれと声を掛けてくれる優しく元気な好青年だ。きりっとした眉に快活な瞳はいつでも楽しそうで、自信に満ちたその表情から彼を頼って近づいてくる者も多い。多少わんぱく小僧な気もあるが、俊史とは違うカリスマ性が太刀川にも明らかに備わっていた。
「歩遊、もう帰ったかと思った! なあ、一緒に帰ろうぜ。この雨で練習も途中で切り上げだし、俺、傘なくて困ってたんだよなー」
「あ、う、うん…」
  荷物を肩に抱え直して歩遊の前に立つ太刀川はジャージ姿だったが、それも既に頭から肩からどこもかしこも濡れてしまっていた。慌てて引き上げたものの、片付けなどが入って濡れる事を避けるのは不可能だったのだろう。
  仲間たちに「先行ってて」と促した太刀川は、それでも何という事もない顔をして嬉しそうに自分より頭ひとつ分低い歩遊の顔を見下ろした。
「歩遊、私服って事はもしかして一回帰ったの? 家って近くなんだ?」
「あ。うん。電車で二個目」
「そっか。俺のジョギングコース範囲だな。今度、家教えてよ。遊びに行くからさ」
「えっ!」
  誰かに「家に遊びに行きたい」などと言われたのは何年ぶりだろうか。
  思わず驚きで固まっていた歩遊だが、太刀川が「う〜、それにしても気持ち悪ィ」と濡れたジャージをひらひらとさせ始めたのを見ると、すぐにはっと我に返ってリュックに忍ばせていたタオルを取り出した。
  そもそもは俊史の為に用意してきたものだ。
「こ、これ使いなよ」
「え? マジ? サンキュー! 歩遊は気がきくなあ」
「え、そんな…」
「ホントホント。感謝感謝」
「って、わ…」
  突然ぐりぐりと頭を撫で始める太刀川に歩遊は面食らって思い切り目をちかちかさせた。普段人とまともな交流を図った事がない為に、たったこれだけの事でも途惑ってしまうのだ。
  もっとも、そんな想いもほんの一瞬だったのだけれど。
「触んな」
「は?」
  突然、歩遊の頭の上にあった太刀川の手が離れた。
  きつく暗い声が降ってきたのと同時に。
「………あ」
「何?」
  驚いたのは歩遊だけではないらしい、突然自分の手を乱暴に払われた太刀川の方こそぎょっとしたような顔をして、それからたちまち不愉快そうに眉をひそめる。
「瀬能。お前、いきなり何すんだよ。手、かなり痛かったけど?」
「何してるだ? それはこっちの台詞だ」
「はあ?」
「歩遊、来い」
「えっ……わ」
  言われたと同時に、いきなり横から現れた俊史に歩遊は強引に腕を引っ張られ、太刀川から距離を取らされた。
  その上俊史の背後に身体を持っていかれ、太刀川の姿すら見えなくなる。
「俊ちゃ…瀬能君?」
  大体、いつの間にここに来たのだろう。戸辺と帰ったのではなかったのか。
  慌ててきょろきょろと辺りを見回したものの、戸辺の姿は何処にもなかった。
「あのさあ、瀬能」
  俊史に叩かれた手を大袈裟に擦りながら太刀川が呆れたように声を出した。
「お前、ちょっとおかしいよ。何で周りはお前のそういうところに気づかないんだろうな? それで歩遊がとばっちり受けて迷惑してるって事にもさ」
「お前には関係ない」
「関係あるよ。歩遊は俺のダチだからな」
「傘ならこれ使え」
「っと」
  俊史は太刀川と長話をする気はないらしい。歩遊が持っていた一本をすっと当然のように押し付けると、あとはもう姿を見るのも忌々しいという風に、残っていた一本を持って歩遊を外にまで引っ張っていく。
「ちょっ…俊ちゃん…?」
「帰るぞ」
「帰るって…で、でも!」
「歩遊! また明日な! 傘さんきゅー!」
  背後で太刀川がそう声を掛けてきていたが、歩遊がそれに答えようとして振り返っても、俊史が更に強く手首を引っ張るものだから痛みでまともな声を出せなかった。
「い、痛いよ、俊ちゃん…!」
「あの馬鹿とは喋るなって、一体何百回言えばお前は分かる?」
「……だ、だって」
「その上……あいつにあんな風に触られてぼけっとしてやがって…! トロ臭いのもいい加減にしろ!」
「そ! そんなの…っ。だって…」

  自分は俊史の為にわざわざ来たのに。
  でも、必要ないと思ったから。
  そしたら太刀川が声を掛けてくれたから。

「………っ」
  それでも言いたい事は口の中で消えていき、まともな音になりはしない。
  いつの間にか俊史がさした傘の中、未だ手を引っつかまれた状態で、歩遊は居た堪れない気持ちのまま無理やり足を動かしていた。
「………雨、降るから」
「え?」
「先に帰してやったんだろ…。お前はちょっと身体濡らすとすぐ風邪引くし」
「そ、そんな事ないよ」
  俊史は前を向いたまま歩遊の顔など一向に見ない。
  校門を出て少しだけ歩調が弱まったが、それでも怒っている顔は変わらない。
  そんな俊史の顔を見上げながら歩遊は痛む手首と同じくらい痛んでいる胸を空いている片方の手でぐっと抑えた。
「……傘、どうしたの? 俊ちゃん、持ってたみたいだったから……」
「戸辺にやった」
「一緒に帰らなかったの?」
「もともと途中で方向変わるし。お前のがあるなら、お前と帰った方がいいだろ。家、隣なんだから」
「………」
「はみ出すな。ちゃんと入ってろ!」
「わっ」
  俊史と密着しないようにして傘からどうしても肩が出てしまう歩遊を俊史がさっと気づいて引き寄せてきた。お陰で手首は離されたけれど、肩を抱かれて妙な格好になってしまう。
  こんなところを戸辺に見られたら、それこそ大変ではないのか。
「俊ちゃん…別に濡れたっていいからさ…。その、もうちょっと離れてた方が」
「煩ぇな……」
「だって…」
「だってじゃねえよ。黙ってろ。今猛烈にむかついてんだから、これ以上イライラさせるな…!」
「ごっ、ごめん…」
  ひっと小さな悲鳴が喉の奥で漏れたが、歩遊は慌てて口を閉ざした。俊史が怒っていると言ったらそれはもう大変だ。一体どんな罵声を浴びせられるか分かったものではないし、ひどくするとどつかれたり殴られたりする可能性だってある。
「………ごめん」
  ただもう一度念のため謝って、歩遊は今度こそ押し黙った。
  サーサーとひどくなる細い雨の音を聞き、隣で俊史の温かい熱を感じ取りながら、歩遊はただ足の長い俊史の歩く速度に必死になってあわせようとした。
「歩遊」
  するとどれくらい経ってからだろうか、ようやっと静かな落ち着いたような俊史の声が落ちてきた。
「え?」
  驚いて顔を上げると、俊史は急にぴたりと足を止めて歩遊の顔を見下ろした。
  怒っている風ではない。どことなく躊躇ったような、何か言いたげな顔だった。
  そんな表情はあまりに珍しくて歩遊は思わず自分もまじまじと俊史の顔を見上げた。
「歩遊」
  するともう一度俊史は言ってすっと顔を逸らした。
「俺のこと迎えに来たんだろ」
「え…う、うん」
「なら何で声かけない。……あのまま俺が帰ってたらどうしてた」
「どうって……。一人で帰ってたよ…」
「太刀川と帰ってただろ」
「え……それは…。でも、あの時は…」
  太刀川が声をかけてくる前までは本当にそう思っていた、独りで帰ろうと。
  それ以外に何があるというのだろう。
「絶対にそういう事はするな」
「え?」
  俊史はやはり歩遊を見ていない。けれどその横顔はどこか居た堪れないような、焦れたような感じが見てとれた。
  俊史は言った。
「俺を迎えに来たくせに一人で帰るとか…他の奴と帰ろうとか…。そういう事をするなと言ってんだよ。むかつく真似すんじゃねえよ」
「………だって俊ちゃんは」
  戸辺と帰ろうとしていたから、と言おうとして、けれど歩遊はまた口を閉ざした。
  何だかまた怒鳴られそうな気がしたし、結局俊史はこうして隣に立って一緒にいてくれるのだから。
  だから素直に頷けばいいのだ。素直に頷きたい。
「………うん。俊ちゃん、気づいてくれてありがとう」
  歩遊がそうしてようやっと少し笑って見せると、俊史はぐっとたじろいだようになり、それからまたふいと不貞腐れたように横を向いた。
「あの馬鹿の声で気づいたんだよ……くそっ。何で俺はお前に…っ!」
「俊ちゃん…?」
「歩遊! だから、ちゃんと傘に入ってないと濡れるだろ!」
「あ、うん!」
「……っ」

  どうして俺が先に気づかなかったんだ。お前がいた事に。

「……俊ちゃん…?」
  俊史が口元だけでそう言ってくれたような気がして、歩遊はどきんと胸を高鳴らせた。
  改めてぎゅっと握ってもらった手がほんのりと温かい。歩遊は嬉しさでカッと顔が熱くなるのを感じながらも、そっと自ら俊史がさす傘の中に身を寄せた。
「……寒かったりしたら言えよ」
  するともう俊史も怒ったような雰囲気は消して、後はただ黙って歩遊の手をぎゅっと掴んだ。
  そうして俊史は家に帰るまで歩遊の手を決して離さなかった。