―ぼくらの夏休み―



  夏休みが始まる直前、恒例「ほんの少しの意地悪」のつもりで歩遊に「夏休み中は殆ど戸辺と一緒にいる予定」と言ったのは俊史本人である。実際2学期に行われる文化祭の準備で生徒会の仕事が入っていたのは本当だし、戸辺を含めた他の仲間と遊びに行く約束があるのも本当だった。だから、その発言もまるきりの嘘というわけではない。
  けれど俊史としては、夏休み中は可能な限り歩遊と一緒にいようと決めていたし、それこそ長い時間歩遊を独り占めできるチャンスなわけだから、先に発した台詞など本当にいつもの歩遊を試した言動に過ぎなかった。学校で皆が戸辺との仲を面白おかしく噂している事を利用して、俊史は単に歩遊にヤキモチをやいてもらいたかっただけなのだ。
「今、何て言った…?」
  それなのに。
「歩遊…。今何て言ったんだって訊いてるんだよ…」
「な、何って…?」
  自室でスポーツバッグに荷物を詰めていた歩遊は、部屋の入口前で仁王立ちの俊史に心底怯えたように身体を縮こまらせた。傍目にも憐れと見えるその震えた様子は、これまで如何に彼が俊史という幼馴染から不必要な恫喝を受けてきたかという事を如実に物語っていた。
  それでもこのままだんまりを決め込んではいけないという事も承知しているのだろう、歩遊はごくりと唾を飲み込んだ後、恐る恐る先刻自分が発した言葉を繰り返した。
「明後日からの夏休みは…田舎のおじいちゃん家に行くんだ…」
「……ッ!!」
「ひ!」
  自分の発言に再びぎっと目を剥いた俊史に歩遊は再び小さな悲鳴をあげ、手にしていた衣類をばさりと取り落とした。既に荷造りを始めていた大きめのバッグには、向こうに長期滞在する気なのだろう、大量の着替えに洗面用具、それに水着や浮き輪までが入っていた。
  普段愚図な割に歩遊は意外にも泳ぐ事が大好きで、昔はよく近所のプールに通っていたし、両親が休みの時などは海に行きたいと折に触れねだってもいた。仕事人間の彼らが息子のそんな願いを叶えてやる事は稀だったが、それでも歩遊はテレビや雑誌で海の写真を見る度に、俊史にも「いいなあ、行きたいなあ」と漏らしていた。夏休みになったら一度は泳ぎに行きたいと何度も言っていた。
  その度俊史は「夏の海なんて暑いだけで何もいい事ないだろ」と突っぱねていたのだが。
  そもそも俊史は歩遊が泳ぐこと自体反対で、彼が熱心になりかけていたプール通いをさんざん妨害して通う事をやめさせた張本人である。
「お前のじいさんの田舎って……静岡の方か」
「う、うん」
  びくびくとしながら頷く歩遊。静岡ならきっと海で泳ぐ気なんだろうなと思う俊史。
「おばさん達と行くのか」
「う、ううん…。母さんたちに夏休みなんかないよ。お盆の時ちょっと休めるかもって言ってたけど。だから、おじいちゃんが『家で独りぼっちならうちに来ればいい』って言ってくれて…」
「ば…!」
「俊ちゃん…?」
「……っ!」

  独りぼっちなんかじゃないだろ! お前には俺がいるだろ!

「ちっ!」
  それでも俊史はその台詞を言う事がどうしても出来ず、かと言って「ああそうかよ、なら田舎でも何処でも行っちまえ」と言う事も出来ず、ただぎゅっと拳を握りこんだ。
「この…!」
  そうして俊史は殆ど反射的に歩遊の傍にツカツカと歩み寄ると、既に半分以上済んでいた荷造り用のバッグをがばりと持ち上げ――。
「しゅ…」
「何バカなこと言ってんだよ!」
  俊史は掴んだそれを逆さまにして、中に入っていた着替えやら何やらを全部歩遊の膝の上に振り落とした。バサバサと激しい音が鳴り響く。唖然とする歩遊の顔が視界に映る。俊史は荒く息を継ぎながら、自分の身体がどんどん燃えるように熱くなるのを感じた。腹の底から苛立たしい気持ちが湧き上がり、その感情を持て余したまま両手に持ったスポーツバッグを廊下の方に投げ捨てた。
「しゅ、俊ちゃん…何で…」
  歩遊のひどくショックを受けたような声。表情。俊史の焦燥はそれにより一層激しくなった。
「何でじゃねえよっ。このバカ!」
  歩遊を見下ろしたまま俊史は叫んだ。
「お前は遊ぶ事しか考えてねえのかよ! 夏休みったって、お前にはやんなきゃいけない事が山ほどあるだろうが! あの大量の英訳だの数Uの問題集だの、お前、俺なしで出来るのかよ? 俺が教えてやるって言ってたの、忘れたのか!?」
  俊史たちの学校は今時珍しく宿題を出すのが趣味の教師が大勢いるが、確かに夏休み用にと出されたそれらは歩遊のように何でも取り掛かりが遅い生徒には過酷なものだった。もっとも俊史にとってそれはとても良い口実で、恩着せがましく俺が徹底的に教えてやるからなどと言って、休み中歩遊の家に泊まり込む事を「自分の中だけで」勝手に決めていた。

  それなのに、このバカ(歩遊)は!

「わ、忘れてない…忘れてないけど、でも…」
「でも!? でも、何だよ!」
  怒りに任せて更に怒鳴り声をあげると、歩遊はいよいよ泣きそうにくしゃりと表情を崩し、ぐっと一瞬唇を噛んで下を向いた。
「しゅ、俊ちゃん…。休み中は戸辺君とずっと一緒にいるって言ってたし…。お前と違って忙しいって、そればっかり言ってたから……」
「……っ」
「だから…。ぼ、僕…却ってここにいない方がいいなって思って。下手に家にいたら、俊ちゃんは僕の宿題見なきゃいけないって思うだろうし…」
「何だよ……それは……」
「宿題も持って行くよ。向こうで頑張ってみるから。あ、あのね、従兄のお兄ちゃんも遊びにくるって言ってた。おじいちゃんも、もし分からない事あったらそのお兄ちゃんに教えてもらえばいいって。な、何かね、僕は小さい頃会っただけであんまり親しくはないんだけど、そのお兄ちゃん、うちの親戚の中で唯一凄い大学に受かった頭のいい人なんだって。おじいちゃん、近所の人に自慢してるって言ってた」
「………かよ」
「え? 何?」
「んなこと知るかよ! どうでもいいんだよ、そんな事はっ!!」
「……っ」
  再び発狂するかの勢いで声を荒げる俊史に、歩遊はいよいよ固まって何も言えなくなっていた。何故そこまで怒られなければならないのか本当に分からないのだろう。実際、この怒りは理不尽極まりないものだ。
「しゅ…俊ちゃん…」
  それでも歩遊にとって俊史は憧れの幼馴染だ。彼に「怒鳴られる」事は理由があろうがなかろうがとにかく何にも代え難い苦痛であり、悲しみであり、耐えられない事であった。
「ご、ごめん…。ごめん…」
  意味も分からず謝る事は歩遊の十八番である。ぐしと涙を浮かべて俯くその姿はおよそ俊史と同じ年の高校生には見えない情けなさだった。
「………」
  けれど歩遊をそんな風に育てたのはここにいる俊史である。
  俊史自身、その事には大いなる自覚があった。自分の足元で謝る歩遊を見下ろしながら、けれど俊史はこんな不自然極まりない関係になってしまった自分たちに、そう仕向けてしまった自分に何とも言えない複雑な想いを抱いて、自分もぐっと表情を崩した。
  何だか力が抜けた。俊史は歩遊のすぐ傍に座りこむと、ほぼ無意識のうちに歩遊の身体を抱きしめた。
「俊ちゃん…?」
  歩遊が不思議そうな声を出す。けれど俊史の方は歩遊のそんな声を聞いたらもう堪らなくなり、更にぎゅっと物凄い力でその小さな身体を抱きこんだ。
「しゅっ…痛…」
「煩い」
  抗議しかける歩遊をぴしゃりと黙らせ、俊史は歩遊の髪の毛に無理矢理唇を押し当てた。そうしてその行為を歩遊に何なのかと考えさせる前にその場所をぐしゃぐしゃにかき回し、それから「歩遊」といつもの毅然とした声で呼んだ。
「泣いてんじゃねえよ」
「だ…だって…」
「お前が俺の言う事を聞けば済む話だろ。お前が俺に内緒で勝手な事しようとするから俺は怒るんだ。……じいさん家に行く話はなしだ。断れ」
「俊ちゃ…で、でも、もう…」
「断れ」
「………」
  ぐっと息を呑んだ歩遊は、俊史に身体をぎゅうぎゅうに締め付けられながら、自分はその持て余した両手をどうしようかと逡巡しているようだった。
「でも…」
  けれどやがてそれを恐る恐る俊史の背中に回した歩遊は、やっと勇気が湧いてきたのか、消えるような声ながら俊史に反論の声を吐いた。
「い、嫌だよ…。ずっと…ここに、独りでいるの…」
「………」
「学校ないから…。昼間もずっと独りだし…休みの間ずっと…そんなの、嫌…嫌だ」
「俺がいるだろ」
「だって俊ちゃんは!」
「歩遊」
「!」
  よく躾けられた犬のように、歩遊は俊史のたったの第一声で黙り込んでしまう。俊史はそれでようやく少しだけ落ち着いた気持ちがして、自分の懐にいるこの愚かな幼馴染の顔を見ようと少しだけ腕の力を緩めた。
「………」
  案の定、歩遊は目に涙をためたまま、まだ弱々しい顔を見せていた。
「……夜はずっと一緒にいてやる」
  俊史はそんな歩遊の涙で濡れた頬をぐいと乱暴に指の腹で拭ってやると、ぴたぴたと頬を叩いてから両手で包み込むようにして顔を近づけた。
「昼も…俺が生徒会ある時は、お前、図書室で待ってろ。それならいいだろ…。早く仕事終わったらそこで宿題見てやるから」
「俊ちゃんを……待ってるの?」
「そうだよ」
「………」
「嫌か?」
「でも…」
  戸辺君は、と小さな唇にその形を象った歩遊を俊史は敢えて無視した。それどころかもう黙れという風に、俊史はそんな歩遊の唇を指で押さえつけ、その後ほんの一瞬、その唇の端に自分のそれを軽く押し当てた。
「…!」
「……勘違いすんなよ」
  俊史は驚く歩遊にふんとそっぽを向き、それから何という風もない様子を装ってぶっきらぼうな声を出した。
「お前があんまり子どもみたいに泣くからだ。だからしてやったんだ」
「しゅ…俊ちゃ…」
「何だよ、もう一回して欲しいのかよ?」
「……っ」
  真っ赤になって慌てて首を振る歩遊に俊史はたちまちむっとしたのだが、思わずやってしまった己の行為に動揺していた事もあり、自身もそれ以上動けなくなってしまった。

  情けないのは俺だ。歩遊の前だとどうしても……。

「歩遊。この荷物片付けるぞ」
  勿論そんな態度を歩遊の前で明かすわけにはいかない俊史は、心の中の焦りを努めて消し去ろうとしながらそう言った。
「……うん」
  迷いながらもやがて素直な返事をする歩遊にようやく安心する。
  俊史はそんな歩遊の頭をもう一度ぐしゃりと乱暴に撫でた後、自分が放り出したバッグを取る為に立ち上がった。
  そうして、歩遊と2人きりの夏休みの計画を明日までにもっと細かく練ろうと心に決めた。











俊史は書けば書くほどむちゃくちゃな奴になります…。歩遊もおバカだけど…。