春が恋しくて



  フツーはあんなにキスし続けたら、いい加減気づきそうなものじゃないか?


「一度浮上したと思ったら、また最近はゴキゲンナナメだねぇ」
  戸辺が厭味たらしく探るような目を向けてきてそう言ったが、俊史はそれを軽くスルーし、教室を出た。今日は珍しく生徒会の仕事もないし、さっさと帰るに限る。そうして、歩遊の家でも自分の家でもどちらでもいいから、歩遊と帰ってキスをするのだ―…。
  その日、俊史は帰りのHRが終わる前から、そんな事ばかり考えていた。
「俊ちゃんさぁ、この頃やらしい妄想とかしまくりでしょー」
  びくりとして振り返ると、まだ戸辺が後をついてきていた。むかっとして反論の口を開こうとすると、早く帰れるこんな日に限って何故か異様なしつこさを見せた学院のアイドルは、「何にするの」とわざとらしく小首をかしげ、己の可愛らしさをアピールしてきた。
「何がだよ」
「クリスマスプレゼント。歩遊ちゃんに。あと勿論、僕にも」
「お前、その喋り方うざい。やめろ」
  とは言え、その眼差しも俊史だけには通用しない。親友である俊史には戸辺の本性などとうの昔に知り得ているし、知っているからこそ、彼のこういった仕草はむしろ空寒くて仕方がない。歩遊が待っているであろう昇降口へ向かう歩を早めながら、俊史は「お前、さっさとどっか行けよ」と冷たく言い捨てた。
「そんなつれない態度とっていいわけ? 愛しい彼氏クン相手にさ」
「もうそのネタやめたい」
「別にやめてもいいけど、そしたらあの約束も反故にしていいよな」
「………」
  互いが「余計な虫」を多く寄り付かせる性分なもので、いつからか学校内で流れ始めた「瀬能と戸辺は付き合っている」という噂を放置し容認する事で、2人は互いの平安を保ってきた。…が、俊史にしてみれば、決してそれだけが目的ではなくて、「この事で歩遊がヤキモチを妬いてくれるかもしれない」という期待や、「戸辺を歩遊に近づけずに済む」という打算もあった。
  そう、戸辺にはこの噂を流しておく間は、歩遊には話しかけるな、近づきもするなという事を約束させていた。
「最近、歩遊ちゃんが凄く可愛く見えるんだよね」
  俊史の心配をよそに戸辺はしらっとした風に言った。
「何て言うの? この間まではなかった色っぽさがあるっていうか。誰かさんに何かされて余計な知識がついてきちゃってるというか? 何か何だか、目醒めの一歩手前に感じられる輝きっていうか?」
「煩い、死ね!」
「うわ。俊ちゃんは顔の割に口が悪いなぁ」
  何という事もないように戸辺は俊史の暴言をかわし、それから「あ、いたいた」と嬉しそうな声をあげた。
「!」
  ぎくりとする。案の定、歩遊はもう昇降口の所に立っていて俊史を待っていた。今日は生徒会がないから、いつもの図書室ではなく直接下で待ち合わせをしていたが、部活動が始まって人通りの少なくなった場所に独り佇んでいる歩遊は、なるほど確かに今までよりどこか艶があって魅力的に思えた。
  自分を待ってくれている歩遊だと思えばこそ、俊史もそういう風に感じたのかもしれないが。
「俊ちゃん…! ……あ」
  けれど歩遊は逸早く俊史を見つけて一瞬は嬉しそうな顔をしたものの―…、背後にいる戸辺の存在に気づくとあっという間に顔色を悪くし、途端気まずそうに俯いた。
「どうも、相羽クン」
「あ………ど、どう――」
「おい、お前―」
  さっさと消えろと言う前に戸辺に先を越されてしまった。俊史は心の内だけで舌を打ったものの、今さら何も言う事が出来ない。早く歩遊を連れ立って外に出ようともしたが、何にしろ今日の戸辺は本当にしつこかった。
「相羽クン」
  ずずいと俊史の前にすら踊り出て、戸辺は小さい割に大きな態度で歩遊を見下げるように声を出した。
「これから帰るの? 相羽クンってさぁ、何かいっつも俊と一緒に帰るよね? 何で?」
「え…」
「今日はともかく、俊が生徒会の仕事している日だって、独りでずーっと健気に待ってたりするでしょ? 暇じゃないの? 独りでいっつも何してるの?」
「……あ、あの」
  何とか答えようとしているものの、歩遊が戸辺に対して緊張でうまく声を出せない様を俊史は複雑な想いで見やった。
  歩遊は未だに俊史と戸辺が付き合っていると勘違いしており、自分がその間にいるような立場に置かれると忽ち萎縮して遠慮したようになって、その場から逃げ出そうとする。

(普通、あんなに毎日キスされてたら、俺がコイツと付き合ってなんかない事くらい分かりそうなもんだろ…)

  心底困りきったような態度の歩遊をイライラした想いで見ていた俊史は、そのせいか戸辺が更に歩遊を弄ろうとしている事に気づかなかった。
「あのさあ、ところで相羽クンはクリスマスは何か予定あるの?」
「え……」
  はっとして俊史が我に返った時はもう遅い。戸辺はニヤニヤとした意地の悪そうな笑みを歩遊に向けながら、しれっとした態度で話を進めていた。
「こんな事言ったらあれだけど、相羽クンってあんまり友達いそうにないし、とにかく俊にべったりだからさ。俊が僕と2人でクリスマス過ごしちゃったら、君、一緒にいる人いないよねえ? どうするのかなーって思って」
「おい、優!」
  誰がお前とそんな約束したと口まで出掛かって、けれど俊史は沈黙した。冷淡な口調ながらも戸辺が歩遊に鎌を掛けてこんな話をしているのはもう分かったし、歩遊の反応も気になったから。
「あ、あ、あの…」
  それでも顔面蒼白な歩遊の姿は一見すると2人で力ない下級生を苛めている図である。歩遊はますます困惑したように下を向いてしまっていたし、その姿を戸辺は悠々とした目で見つめている。絵的には大層見苦しいものになっているように思えた。
  それでも俺様な戸辺は止まらない。
「どしたの? だんまり決め込んじゃって。俊とは毎年クリスマスプレゼントとか交換してたんじゃないの? だって家族ぐるみの付き合いだったわけでしょ、ただの幼馴染とはいえ。…あ、それとも今回は俊抜きで平凡に家族と食事の計画でも立ててる?」
「お、親は………いつも仕事、だから」
  やっと歩遊が答えた。唇が微かに震えているが、いつものように泣きそうな感じではない。それに俊史はややホッとしたものの、やはり何処か様子のおかしくなっている歩遊に気が気ではなかった(戸辺を止めようとはしないくせに)。
「そうなんだ? じゃ、やっぱりクリスマスは独り?」
「………」
  歩遊は声は出さなかったが、黙って頷いた。俊史はそんな歩遊の態度にやはり理不尽にも腹が立った。何故って、毎年クリスマスには、互いの両親がいる時は勿論、彼らが仕事で家を空ける時でも、俊史と歩遊だけは絶対に一緒に食事を取るのを習慣としていたから。別段、異国の神様を信じているわけでも、戸辺の言うようにプレゼント交換をするいうわけでもないのだけれど、ちょうど冬休みに入ったばかりの頃というのもあり、休暇に浮かれて2人でちょっとしたご馳走を食べるのは、かなりの楽しみだった。
  それなのに、歩遊はあっさりと「独りでいる」に頷いた。
「えー、でも独りは寂しいよ? 良かったら僕らと一緒に過ごす? 歓迎するけど?」
「え…?」
  戸辺の突拍子もない台詞に俊史すらぎょっとして目を見張っていると、歩遊も怪訝な様子で顔を上げてきた。
  しかし戸辺の方は余裕の態度で、「だぁからぁ」とわざと間延びしたような声で続けた。
「僕と俊のクリスマス会だけど、相羽クンも混じっていいよって話。相羽クンは俊の大事な幼馴染なわけだし、僕だけが俊を独り占めするのは気が引けるし。―何より、君が可哀想だからね」
「こ…この……」
  この野郎いい加減にしろ、と言う俊史の心の叫びは、情けない事にまたもや抹消されてしまった。
  けれど今度は歩遊の声によって。

「僕、別にいい」

  普段から怒るという事など滅多にない歩遊である。
  それなのにこの時は身体全部から血の気を失ったような白い顔をしながらも、キッと顔を上げ、不機嫌を隠す事もなくきっぱりとそう言った。そうして戸辺が「お」と口にしたのももう気づかず、さっと逃げるように走り出してその場から駆け去って行った。
「歩遊!」
  ここで俊史はようやく声をあげ、夢から覚めたように靴をはき替えて自らも外へ出た。背後で戸辺が「ガンバレー」と腹立たしい声援を掛けてきていたものの、勿論無視。校庭を抜けて一目散に駅へと向かう歩遊を俊史は必死に追った。
  もっとも、捕まえるのなんて本当に容易なのだけれど。
「待てっ! 待てって言ってんだろ、歩遊!」
「……っ」
  昔から運動会の徒競走ではブービーにすらなった事のない歩遊である。毎年リレーの選手だの何だのになっていた俊史とは、そもそも基礎体力や才能からして違う。自分の声掛けに振り返りもせず必死に走る歩遊をがっしりと掴んで、俊史は背後から「バカ!」と声を荒げた。
「何で待てって言ってんのに待たない!」
「ひっ…! あ…っ…はぁはぁ……」
  急停止させられた歩遊は呼吸を荒げ、また俊史の恫喝にも怯えるで大忙しだった。
「…ったく!」
  それでなかなか言葉を出せない歩遊に、俊史はがっちりとその手首を掴んだままハアと大きく溜息をついた。
「ちょっとそこで休め」
  駅近くにある慰み程度の児童公園には、季節柄寂しい枯れ木のようになっている桜の木が何本かある他は、長細いベンチと水飲み場、それに小さな砂場と動物型のシーソーがあるだけの簡素なものだ。朝はそこで朝食のパンをかじりつくサラリーマンの姿がちらほら見受けられるが、今は時間帯も夕刻に近いせいか、子どもの姿も消えていた。
  ただ、そこを忙しそうに通り行く人の群れがあるだけで。
「ほら!」
  公園の一番端にあるベンチにまで引っ張って行って、俊史は乱暴に歩遊をそこへ座らせた。そうして未だ息を乱している歩遊に、鞄からお茶のペットボトルを出して渡してやる。もう大分生温くなってしまっていたが歩遊の好きな銘柄だし、嫌いではないだろうと思った。
「いらない…」
  けれど歩遊はそれを受け取らず、下を向いたままぼそりとそれだけを言った。
「何でだよ、飲めよ。息、苦しいんだろ」
「もう……平気」
「じゃ、ないだろ」
  未だ顔色の悪い歩遊が心配で俊史はそっと片手を差し出した。いつもの癖で額に触れようとしたのだけれど、しかし歩遊はそれを察すると途端片手を出して「やめて」とか弱い声を出した。
「も、も、もう……嫌だ……」
「……何が」
  歩遊の拒絶が思った以上にショックで、俊史は意図せず出てしまった乾いた声に心内だけでうろたえた。けれど歩遊からは目が離せない。もう一度意地になって髪の毛に触れると、歩遊は本当に嫌なのだという風に差し出した片手を掲げてそれも振り払ってきた。
「俊ちゃんに……触られるの、嫌だ…!」
「な……」
「クリスマスに3人で過ごすなんて、絶対に……絶対に、嫌だ…」
「歩―」
「僕はそこまで情けなくなんか、ない…っ」
  顔を上げた歩遊はやっぱり怒っているように見えた。思わず目を見張ると、しかしその表情も結局は一瞬で、歩遊はすぐさまいつもの弱々しい顔に戻って瞳を潤ませ、唇を噛んだ。
「戸辺君が……僕を嫌いなのはしょうがない…。頭にくるのも分かるよ…。でも…、何で、2人の中に僕が入るなんて……そんなの、嫌に決まってるよ…」
「………」
「俊ちゃんだって嫌でしょ?」
「………」
  歩遊はヤキモチを妬いてこう言っているのか、それとも単に「付き合っている2人の間にいるのが気まずいから」一緒にいたくないと言っているのか。
  その判断が俊史には今イチつきかねた。
「俊ちゃん…?」
「………」
  もしかすると、歩遊の憤りは「前者の理由=ヤキモチ」という風に捉えて喜んでもいい場面なのかもしれないが、俊史にはとにかく「歩遊に好かれている」という絶対の自信がなかったし、これまでも俊史と戸辺の仲について歩遊が落ち込む事は何度かあっても、それはいつも俊史が望むような類のものではなかったから、確実に「そう」だとはとても言い切れなかった。
  けれど今、自分たちはキスまでする仲なのに。

(俺が一方的にやってるだけだけどな……)

「俊ちゃん」
  何も言わない俊史に歩遊が痺れを切らせたように再度呼んだ。俊史はそれでハッとし、途端先ほど浮かびあがらせていた苛立ちを再発させて眉をひそめた。
  一体何だって自分はいつもいつでも、こんな想いに晒されなくてはならないのだろうか。無論、その大半が自分に非のあるものだとは分かっているが、それでもこの鈍感に「超」がつく幼馴染だって、同じくらい自分にとっては酷い事をしていると思わずにはいられなかった。

  クリスマスに戸辺と歩遊3人で過ごす?
  そんなの、俺だって考えただけで怖気が走る!

「嫌に……決まってんだろうが………」
「え……」
  ぽつりと呟いた俊史の言に歩遊がまたさっと顔を青くした。それでも俊史は構わず歩遊を睨みつけ、触るなと言われた場所にまたしつこく手を伸ばして、ふわふわとした柔らかい黒髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜてやった。
「わ…俊ちゃ…っ」
「煩い! お前がバカな事ばっかり言うからだ! このバカ!」
「……っ」
「3人で過ごすなんて、ありえないに決まってんだろ! あいつが勝手に言い出しただけだ、あんなの!」
「そっ…! ……そう、だよね。分かってる。だから、僕は独りで―」
「煩い! だからお前はバカだって言うんだ!」
  歩遊の言葉を途中でかき消して俊史は怒鳴った。通りの人が何事かと一瞬ぎょっとして足を止めたりもしていたが、俊史は全く構う風がなかった。
  その余裕がなかった、とも言えるのだが。
「………ちょっと来い」
  そうして歩遊の手首を掴んでぐいぐいと桜の木の陰にまで連れて行くと、俊史はその大木の幹に歩遊を縫いとめるようにして自ら覆い被さり、完全に逃げ道を塞いでから、言い含めるように言ってやった。
「俺は戸辺と過ごす約束なんてしてない」
「……え?」
  桜の木と俊史に身体を挟まれて窮屈そうな歩遊は、しかし俊史の言葉に驚いて顔を上げた。やはりあと少し苛めていたら泣いていたのだろう、大きな瞳は涙で濡れてキラキラしていた。
「歩遊」
  その歩遊の瞳を見つめながら俊史は言った。
「だから。お前も誰とも約束するな。……いいな」
「約―……。でも、僕……」
「歩遊!」
「うんっ」
「分かったのか!? 本当に分かったのか、お前は! どうなんだ!?」
  まるで先刻戸辺と歩遊が見せていたのと同じ、いじめっ子といじめられっ子の図だ。―…そう思いながら、俊史はハアと深い深いため息をついた後、もう一度まじまじと歩遊の顔を覗きこんだ。未だに濡れている瞳が愛しくて可愛くて……、そんな場合ではない事は重々承知なのに、気づけばそこに唇を近づけて舌で舐めていた。
「ひっ……」
  歩遊は咄嗟に目を瞑ったが、特別逆らいはしなかった。動けなかったという方が正しいと言えばそうだが、こうして俊史に迫られてキスされる事にはいい加減慣れてきたというのもあるかもしれなかった。
  歩遊を舐めて少し落ち着けたので、俊史は声のトーンを一段階下げて静かに言った。
「分かったんなら、ちゃんと口に出して言ってみろ。俺に言われた事、繰り返してみろ」
「く、繰り返すって…?」
「さっき俺が言ったこと繰り返せって言ってんだよ!」
「ぼ、僕、誰とも約束しないっ!」
  歩遊はすぐさまそう言った。ぴんと肩に力を入れ、気をつけをするように身体を硬くする。そうしてもう一度、あの今にも泣き出しそうな瞳を俊史に向けると、恐る恐るという風に問い質してきた。
「俊ちゃんは……その…、なら俊ちゃんも、約束してくれるの…?」
「………」
「い、いつもみたいに、一緒にクリスマ――」
「煩い」
  一緒にいてやると言って安心させてやればいいのに。そんな分かりきった事なのに。
「煩いんだよ、お前は」
  俊史は歩遊のびくびくとした態度が気に食わなくて、一言そう言い捨てると歩遊の目じりにもう一度、今度は押し付けるようなキスをした。そうしてそれに歩遊がまた目を瞑って身体を震わせると、今度は無防備な小さな唇を指の腹で何度も潰してやってから、ぐいと己の唇を押し当てた。
「んっ」
  歩遊が余計身体を緊張させたが俊史は構わなかった。
  一度押し付けるように重ねてやった後は、ちゅっちゅと戯れるように口づけを繰り返し、歩遊が恥ずかしそうに目を開けた瞬間、またその瞳にもキスを与えた。
  未だほの暗い程度の駅前の公園で何をしているんだと自分自身に突っ込まないでもなかったが、もうこの際、学校の連中に見つかっても何でもいい、むしろ噂にして騒いでくれればいいとさえ思った。
  戸辺ではなく、歩遊との噂を立てられたいと―…俊史は真剣にそれを願った。
「俊ちゃ…っ。身体……あ…熱い」
  歩遊が心細そうに訴える。
「どうし…変…っ。俊ちゃ…」
「ち…っ」
  俊史はそんな歩遊の声色だけでぞくりと背中を粟立たせ、自分の中の限界が本当にもう近い事を感じた。早く歩遊の全てを手に入れたくて、けれど歩遊を誰よりも大事にしたいと思って。心の中がぐちゃぐちゃだった。
「黙ってろ」
  それでも口から出てくるいつもの乱暴なそれに、俊史は誰にでもなく、自分自身に大きな嘆息を漏らした。歩遊の唇を奪いながら、ああどうして自分はこうなんだと激しく罵倒せずにはおれなかった。