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ずっと俊史に逆らった事のない歩遊だったが、1度だけ「煩い」と怒鳴りつけたのが祖母が亡くなった中学2年の頃のことだ。 「もう嫌だ…! 何で放っておいてくれないんだ…っ」 「歩遊…っ」 今まで抑え付けていたものを一気に噴出させ歩遊が搾り出すようにそう言った時、俊史は暫しその場で硬直していた。 子どもの頃から何でも言う事をきく、うじうじとした幼馴染。自己主張なくいつでも従順に自分の後についてきていた歩遊の爆発は俊史を少なからず狼狽させたに違いない。 けれどあの時の歩遊はそんな俊史の変化に気づく事など出来なかった。ただ必死で悔しくて無我夢中で。心の中にうずまくぐるぐるとした汚いものが自分の体内から今にもあふれ出してきそうで、それを全て俊史に晒け出してしまいそうで、ただ吐き気がした。少しの怒りを表出しただけで歩遊の精神は衰弱してしまったのだ。 「俊ちゃんなんか、嫌いなんだよ…!」 それでもその時の歩遊は止まらなかった。 「いつでも僕のことバカにして、いばって…! 嫌いなんだよ! 傍にいて欲しくないんだよ!」 「歩遊、お前…」 「 おばあちゃんが死んだんだ! 僕にとっておばあちゃんは…。俊ちゃんにとっては大した事ないのかもしれないけど、僕は…っ。いいから出てってくれよ! 話しかけんな…っ」 「……それだけ叩ければ上等だ」 「…っ」 殺気立った俊史の声にぎくりとして歩遊が顔を上げると、そこには普段の玲瓏な様も消えたひどく濁った眼光があった。 歩遊が息を呑んでその姿を見つめると、俊史は表情を変えずに言った。 「歩遊のくせに生意気なこと言いやがって。それだけ言うのならもう少しマシになれ。メシも食わないでぐずぐず泣き続けるのがお前の祖母さんへの供養の仕方なのか」 「俊ちゃん…」 「祖母さんが死んで俺が悲しくないとでも思ってんのか? あの人は俺のことを俺の親より分かってくれていた人だぞ。……勿論、お前みたいなバカよりもずっとだ」 「………」 先刻まで怒っていたのは歩遊の方であったはずなのに、もう立場はいつもと同じになっていた。俊史は自分に食ってかかった歩遊に心底頭にきているように視線すら逸らし、顔を見るのも忌々しいという風になって背中を向けた。 歩遊は俊史のそんな所作1つで途端ズキンと胸を痛めた。俊史に軽蔑されるといつでも悲しくて辛かったけれど、この時が今までで一番悲しいと思った。 「歩遊」 俊史が言った。 「俺だってお前のことなんか嫌いなんだよ。むかつく」 「………」 「これ以上俺をイラつかせんじゃねえよ」 「………」 そう言われてから既に3年。 俊史との橋渡しをしてくれていた祖母が亡くなってから3年。 歩遊は今もって俊史を怒らせてばかりだ。そしてそれからより一層、歩遊は人前に出るのが苦手になったし、前よりももっと自らの意思を発する事ができなくなった。何も変わらないどころか、事態はより一層ひどくなっているような気がした。 『歩遊は優しいんですよ。だから言葉が出ないんです。言葉なんかいらないんですよ』 そんな時だ。もうだめだと崩れ落ちそうになっていた時、突然現れてそう言ってくれたのがシュウだった。 「私は分かっていますから。貴方が失くした想い出も歌も、私が全部覚えています」 シュウは歩遊を抱きしめる時は言い聞かせるようによくそんな事を言った。歩遊には何の事だかよく分からなかったけれど、そんな時のシュウの懐はとても落ち着いた。すぐに夢の世界へ落ちていって眠くなって、そこでは独りの家でなかなか寝付けなかった時間を取り戻すようにように瞼を閉じた。 ああ、そういえばそんな時にシュウが吹いてくれる笛の音や歌は、昔祖母が教えてくれたものとよく似ている。 「俊ちゃんも知ってる…かな…」 夢なのか現実なのか分からない曖昧な状態で、歩遊はぽつりとそう呟いた。 ふわふわと不安定な気持ちながら、ただベッドに吸い寄せられ目を閉じている事だけは分かっていた。 このままずっと眠っていたいと思った。 翌朝、洗面所の鏡の前で歩遊はげっそりとしてため息をついた。目がいやに腫れぼったい。 「ひど…」 泣いた覚えはないけれど。泣いていたのかもしれない。歩遊はいつでもそうだった。俊史に軽蔑された後や怒られた後はいつでも。 「はあ…」 「歩遊」 「わっ!?」 驚いて振り返るとそこにはいつから立っていたのだろう、俊史がいた。 「しゅ…俊ちゃん…?」 「何を不思議そうな顔してんだ。昨夜お前が2階上がって塞ぎこんだから帰れなくなったんだろうが。鍵開けたまま出てって良かったのか」 「………」 そう言われればそうだ。歩遊が黙り込んでいると、俊史はあからさまなため息をついた後、そっぽを向いた。 「おばさんから電話あったぞ。今日も帰れないだと」 「………」 「歩遊」 「え」 「……聞いてるのか」 「う、うん…」 慌てて答えると俊史はきっとした目を向けた後、「ならさっさと答えろ」と低い声で言った。歩遊は俯いたまま「ごめん」と言った。昨日の喧嘩は昨日の喧嘩、上下関係はいつもと同じ代わり映えのないものだった。 その後沈黙が非常にキツイ朝食を2人だけで済ませると、俊史は椅子を蹴って立ち上がり当然のように言った。 「行くぞ」 「え…どこへ…」 学校へ行く時間にはまだ早いような気がするが。歩遊が怪訝に思い顔を上げると、俊史は不機嫌な表情のまま「磯城山だろ」と言った。 「何…俊ちゃ…」 「そいつと今日も会うんだろう。俺も行く。…行ってやる」 「………」 「お前はそいつに騙されてるんだよ。うまいこと言われて、絶対ロクな目に遭わないんだ。お前は昔っからそうだろ。俺がいなくちゃ何もできない。そういう奴だ」 「な…何それ…」 「いいから早く出かけるぞ。来い」 イライラとした声が未だ座っている歩遊の頭に落ちてきた。 俊史をこれ以上怒らせたくなくて、歩遊は仕方なく腰を上げた。 シュウに会えば俊史もこんな事は余計なお節介だと分かってくれる。そうも思っていたから。 学校をサボって2人で森に入ったのは小学校の時以来だ。 「前にも一回だけ行ったよね。後でお母さんたちに怒られたけど」 「……ああ」 どうでも良いような顔をして、俊史は昔話をしようとする歩遊から視線を逸らした。まだこんな時間ではシュウはいないかもしれない。そう言う歩遊に構う事なく、俊史は自らが数歩先を行き、前方の景色を虚ろな目で眺め遣っていた。 「………」 歩遊はそんな俊史の背中を不安そうに眺めながら、ただ大人しく後に従った。いつでもそうだ。歩遊は俊史の前を歩いたことがない。いつでも俊史の機嫌を伺い、俊史の動向を探り、怒られないように、気分を逆立てないようにと神経を張り巡らせてきた。歩遊が勉強もスポーツも人並以下なのに、異様に耳が良いのと周囲の異変を嗅ぎ取る能力とに長けているのは、実はそういった幼少時代からの積み重ねがあったからかもしれない。 そして歩遊が音楽を愛しているのも恐らくはそのへんに理由があるのだろう。 音に埋没している時は、全ての世界から遮断され安心する事ができた。 それに昔よく来たこの森の一番奥にある大木…シュウとの落ち合い場所では、静寂の中にも美しい様々な音色があった。俊史が迎えに来てくれるまで歩遊はそこでそれらの音に耳を済まし、そして本当に時々は自分も祖母に教えてもらった歌を口ずさみもした。 「あ」 その目的の場所に辿り着いたところで、歩遊はすぐにシュウの姿を認めた。驚き立ち止まると先を歩いていた俊史も足を止めた。 「シュウさん。まだこんな時間なのに、もう…?」 まるで自分たちが来るのを知っていたかのようだ。シュウはいつものようにその場所に座り、2人の姿を認めるとにこりと微笑んできた。 「何だ?」 けれど俊史は歩遊を振り返るとただ不審の声を上げた。 「お前…。何処にいるんだ、そのシュウって奴は」 「え? そこに…」 けれど歩遊は歩遊で俊史のその言葉にきょとんとなって、ゆるゆると前方に向かって指を差し「あそこだよ」と続けた。 「あの根元の所。シュウさん、あの人がシュウさんだよ」 「………」 「俊ちゃん?」 「……何処だ」 「俊…ちゃん?」 からかっているのだろうか。否、そうは見えない。 「そこだよ」 俊史と同じ位置に並び、歩遊はもう一度シュウに向かって指を差した。失礼かもしれないと思ったが、シュウの方は別段気分を害した風もなく、ただ微笑を浮かべ片手を挙げた。 歩遊もにこりと笑い返す。 「歩遊」 すると俊史が気色の悪いものでも見るような顔で低い声を発した。 「何だ。あいつは…」 「あ、良かった。分かった?」 当たり前だ、こんなに近くにいるのだから。歩遊は今度は俊史を追い越し、シュウの傍へ寄ろうとした。 「待てっ」 しかし俊史はそんな歩遊の腕を咄嗟に掴むと、半ば蒼白になって切羽詰まった顔を見せた。 するとそんな俊史の様子を見たシュウもすっと立ち上がった。 歩遊は自分を捕まえる俊史とこちらに近づいてくるシュウとを交互に見やった。 「俊ちゃ…どうしたの」 「お前…あれは…?」 「シュウさんだよ。俊ちゃんにも紹介する」 「………」 「おはよう、歩遊」 「シュウさん!」 いよいよ自分たちのすぐ目の前にまで来たシュウに歩遊は嬉しそうに答えた。 「歩遊!」 けれどその直後には俊史に更に腕を引っ張られ、背後に押しやられた。 「しゅ…俊ちゃん…?」 何をするんだという不平の言葉は、しかし俊史の鬼気迫る声に掻き消された。 「何だ…お前は…」 「貴方もよく知っている者ですよ」 「何だと…?」 「歩遊から聞いていないのですか。私は貴方たちの友人です。昔はよく会っていたでしょう」 「え…。シュウさん、俊ちゃんと…?」 「歩遊。貴方ともです」 シュウは俊史の後ろに追いやられた歩遊にも視線を向けると楽しそうな顔をした。 「本当はずっと以前から会っていたんですよ。私は貴方たちの事をよく知っている。けれどシュン…。貴方は随分と変わってしまったようだ」 「………歩遊に何した」 「何を…? 特に、何も。私が歩遊に何かするわけがないでしょう。むしろ歩遊をこんな風に…臆病な小兎のようにしてしまったのは貴方の方ではないですか。シュン…貴方のその歪んだ愛情が歩遊をどれだけ傷つけているか…」 「来るな!」 「昔は貴方も好きでした。貴方が歩遊にする意地悪はとても可愛かった。最後にはいつもここに来て、眠っている歩遊を見つけると安堵したように笑って。その姿を見るのは私の楽しみの一つだったのに」 「何を…何を言っているんだ…」 じりと後退しながらそう問う俊史は尚も歩遊を自分の後ろにやり、絶対にシュウに近づけまいとしていた。歩遊は何が起きているのかさっぱり分からず、ただこの優しい春風のような笑みを浮かべるシュウに何故俊史がこれほど警戒するのか、それが分からずただオロオロとしてしまった。 「歩遊」 するとそんな歩遊の考えを見越したようにシュウが言った。 「昨日言ったでしょう。私のことが《そう》見えるのは貴方だからですよ」 「え……」 「俊史の目には、私は歩遊が見えているようには見えていない。……そうですね、黒髪の悪魔か赤髪の鬼か…いずれにしろ人間の姿形はしていないかも」 「そん…な…。シュ、シュウさん、分からないよ…何なの…?」 「どうでもいいっ。歩遊に取り憑いているのなら、早く消えろッ!」 「俊ちゃん!?」 「取り憑いてるだなんて言葉の悪い。私は、ただ――」 「あ!」 「歩遊!」 焦った俊史の声を聞いたと思った瞬間、いつの間にかもう歩遊はシュウの腕の中に掻き抱かれ、そしてその額に唇を当てられていた。それは昨日と同じかそれ以上に甘く優しいキスだった。 「歩遊!」 「あ……」 「歩遊はもう私のものだ。お前こそ、私の歩遊に触るな」 「ふざ…ふざけるなッ! 歩遊を返せ!」 「俊ちゃ…?」 血の気のない、こんな取り乱した俊史の顔を見たのは初めてだった。 歩遊はその姿に半ばぽかんとしてしまい、たった今シュウにキスされた事も忘れ、まじまじと目の前の幼馴染を見やった。 「ふ…」 すると背後から包み込むようにして歩遊を抱きしめていたシュウが囁くように言った。 「歩遊。ここで決めよう。……あの者と私と、どちらを取る」 「え?」 「この私をこの世にない亡霊か何かと見間違えているあの愚か者と、私と。あれの心は黒く澱んでしまっている。あんな者と一緒にいるのはやめなさい。私とここにいればいい」 「シュウさん…?」 「私が貴方と一緒にいますよ。私は貴方を傷つけたりはしない。ずっと歌っていてあげます」 「シュウさ…」 おかしい。あの穏やかな声が、空気が、どんどん暗く冷たいものになっていく。 けれど歩遊はそんなシュウに身体を預けたまま微動だにする事ができなかった。 「歩遊」 まるでそれを嘲笑うかのようにシュウは高らかに言った。 「歩遊は俊史が嫌いだろう? 意地の悪い嫌な男だ。お前の事など何とも思っていない」 「………」 魔法のように、その暗く美しい声は歩遊の耳の中にとろりと入り込んだ。 「あの者はお前にとって毒にしかならない。鋭い棘でこの可愛い胸を刺す事しか知らない」 歩遊の胸元をシュウの長くしなやかな指が彷徨うように撫でてきた。衣ごしであるのにその感触に歩遊はびくりと身体を揺らした。 どくどくと胸の鼓動が高鳴る。シュウが怖いからではなかった。俊史に対する己の気持ちを今ここで吐露させようとしている、シュウの迫力に押されていた。 「さあ、歩遊」 強い口調でシュウは囁く。 「あの者に教えてやれ。歩遊の気持ちを」 「僕の…?」 「そうだ……」 「僕…僕は……」 いつでも邪魔だと言われていた。近づくな、煩いと。お前といると俺が恥をかく、迷惑なのだと。 「僕は、俊ちゃんのこと…」 その度に傷つき落ち込み、自分はダメな奴だバカな奴だと思い知らされた。子どもの頃祖母に教えられてこっそり歌っていた歌だって、下手だ何だと貶されて、あんな声を他の奴に聞かせたらお前が恥をかくだけだと笑われた。だから人前で歌うのは二度と止めようと思った。 けれど、それでも。 「それでも、好きだから…」 独りの歩遊の傍にいたのはいつでも俊史で、歩遊が落ち込んだり胸をかきむしられる理由はいつでもその俊史に関する事だけだ。 「嫌われてても…好きだから」 「………」 俯いたままシュウの手に触れそっと言うと、背後から微かに笑みが漏れる気配がした。 「歩遊! こっちへ来い!」 ビュン、と。 「あ!」 鬼気迫った俊史の声と同時、突然激しい突風が吹き荒れて歩遊は思わず前のめりに体勢を崩した。 「歩遊!」 けれど歩遊はその場に倒れこむ事なく、だっと駆け寄った俊史によってその身体を支えられた。 「あ……」 「歩遊、歩遊っ! しっかりしろ!」 焦点が定まらず暫し口を半開きにしたまま呆けていると、俊史がいやに切羽詰まった声で呼んできた。 突風に当てられたのは俊史も同じはずであるのに、乱れた髪も辺りのざわめく木々の状態にもまるで気にする風がない。俊史はただ自分の腕にもたれかかっている歩遊に視線を落としていた。 「歩遊!」 びゅんびゅんと渦を巻くように木の葉が舞い、2人の間を駆け抜けて行った。歩遊はその風に唖然としたまま、暫くの間はただ自分を痛いくらいに掴む俊史にしがみつき声を失っていた。何が起きたのかさっぱり分からない。ただ茫然としていた。 どのくらいそうしていたのだろうか。 やがて風が止み、草木のざわめきが消えた。 「………」 「歩遊。正気か」 俊史が訊いた。俊史自身、ようやく落ち着きを取り戻したようだ、いつもの声色になっていた。 「うん…あ」 歩遊はそんな俊史に答えながら、けれどはっとして振り返り焦ったように訊いた。 「シュウさんはっ?」 まるであの激しい風と共に消え去ったように、シュウの姿はなくなっていた。 「ねえ、シュウさんは? どこ行ったの!?」 「あれは人間じゃない! お前…しっかりしろ、馬鹿!」 「………シュウさん、いないの?」 「いてたまるか!」 「………」 強く否定されて歩遊は眉間に皺を寄せた。俊史の言葉とは言え、それは受け入れ難い事だった。 いつもはただ静かに笑んで笛を吹いたり歌ってくれていただけだったのに。何故急にあんな風になり、そして消えてしまったのだろうか。確かにシュウは普通よりもどこか人間離れしているような雰囲気があったけれど、実際にその神がかり的なものを目の当たりにしてもまるで現実感がない。シュウが突然消えていなくなるなど、歩遊にはとても信じられなかった。 それに言っていたではないか。 「シュウさん…でも、僕たちとずっと昔から会ってたって」 「知るか…! くそっ!」 「あっ」 俊史からの拘束を解こうとして身じろいだ歩遊を俊史が再度強く抱きしめた。歩遊が驚いて反射的にそれから逃げようとすると、強い叱責が歩遊の頭に落ちてきた。 「動くな!」 「俊ちゃん…」 「あんな…訳の分からないもんに触らせやがって!」 「だって…シュウさ…」 「呼ぶな!」 ぎゅうっと更に強く抱きしめてくる俊史に不思議なものを感じながら、歩遊はシュウを探すように視線をあちこちへと彷徨わせた。あの時、シュウが俊史への想いを話せと言ってくれたから、歩遊は正直に好きだという気持ちを発する事ができたのだ。 ただ、どうやらそれはこの俊史の耳にまでは届いていなかったようだけれど。 《歩遊…でも、私には聴こえていたよ…いつもね…》 「あ……」 俊史に抱きしめられたまま、歩遊は目を見開いた。 「―……」 何だ、シュウはいるではないか。 「………良かった」 背後の大木がざわわと揺れた。と、共にシュウの影がゆらりと陽炎のように揺れたが、歩遊はしっかりとその姿を目に焼き付けながら口元を緩めた。 「歩遊! このバカ!」 けれどその心地良さを思い切り蹴破って俊史が怒鳴り声をあげた。同時に締め付けられていた拘束が解かれ、目の前に怒り心頭の俊史のアップが現れる。 「しゅ……」 「いつまで呆けてるつもりだっ。行くぞ、こんな所…!」 「え、何で、だって…」 「だってじゃないっ」 腕を引っ張りどんどんとこの場から遠ざかろうとする俊史に、歩遊はそのまま従いながらも焦った風に背後を見やった。シュウはまだいる。こちらを見て呑気に手を振っている……ような気が、歩遊にはした。 「もうちょっと…ここにいたら、ダメ…?」 「ふざけんなっ」 「俊ちゃ…」 「お前は俺が好きなんだろうっ!? だったら俺の言う事を聞け!」 「え……」 「……っ」 荒く息を吐きながら自分を引っ張り早足で森を抜けようとする俊史の後ろ姿を歩遊は驚嘆して見つめた。俊史の耳が赤い。それを認識した途端、歩遊もぼっと顔を熱くした。 「聞いて…」 「歩遊…っ。お前、もう俺以外の奴に気を取られるな…!」 どことなく吐き捨てるような乱暴な口調で俊史はそう言った。いつでも冷めた物言いをして、いつでも人を小ばかにしたような態度ばかりの俊史がおかしい。シュウを認めて蒼白になってからずっと。 「聞いてんのか、分かってんのか歩遊!」 「う、うん…」 「あんなもん…! ガキの頃の夢だとばかり想っていたのに…!」 「え…?」 「全部見られてたのか…くそっ。いや、こんなのは幻だ…!」 「俊ちゃん、何…」 ぶつぶつと呟くように悪態をつく俊史に歩遊はただ途惑うばかりだったが、当の本人はその事をどうあっても話したくないのか「何でもない!」と言うばかりだった。 「………」 だから歩遊は仕方なく俊史に手を引かれるまま前を歩き、俊史の隙をついては背後をちらちらと振り返った。もう暫くの間はここに来る事ができないかもしれない、来たら俊史にこっぴどく怒られるだろうと思ったから、何度も何度も振り返った。 歩遊は俊史の事がとても大切で大好きで、でも怖くて。 その度不安になったり寂しくなったり、その空隙を埋めてくれたのがこの場所で、シュウだった。だからたとえシュウが俊史の言うように人間でないとしても、悪魔や鬼の類だとしても、また或いは―。 自分たちとは異なる世界に生きている何らかの精だったとしても、そんな事はちっとも構わないと思った。 そうして。 「歩遊っ。お前、明日から帰りは俺を待て! いいな!」 「……う、うん」 俊史に掴まれている手の温度が恥ずかしいくらいに熱いのも、こうして俊史からの嬉しい命令に疑う事なく頷けるのも、それは全部シュウのお陰だから。怒鳴る俊史を怖くないと思えているのも、全部。 「………」 だから、できれば俊史には内緒でまたここへは来よう。 むかむかとしたように未だ悪態をつく俊史の背中を眺めながら、歩遊はそんな反抗的な事をそっと胸の内で考えていた。 ざわざわと森の木の葉が笑っていた。それはそんな歩遊の想いを歓迎するかのような楽しげな音だった。 |
了 |