―3―



  帰宅してからの2人にも穏やかな時は続き、俊史はいつも以上に豪華で美味しい夕食を歩遊に出したし、歩遊もその支度や片づけを手伝えた。普段なら「お前はいるだけ邪魔だから」と排除されることが常なのに、この日の俊史は手伝いたいと言う歩遊を追い払ったりしなかったし、むしろあからさまな方向で上機嫌だった。
  歩遊は歩遊で、そのように俊史が優しければそれ以上の喜びはないわけだから、終始笑顔だし口数も増えた。また、テストが終わったらどこか遊びに行きたい、春休みの一日くらいならいいかな?という「おねだり」までしてみせたので、これもまた俊史に予想外の喜びをもたらした。「受験生が何を腑抜けたことを」と怒られる危険性を考えたら、通常の歩遊であればそんな願いは決して口にしなかったはずだ。けれど、「この日の歩遊」は確実に浮かれていたし、俊史もそれは同じだった。だから、「有頂天な2人」がどちらからともなくテスト明けの「デート」を願えばそれが叶わない道理はなく、しかもそれが歩遊からの申し出ということで、2人の間を取り巻く空気はさらにこれ以上なく和らいだ。
(何だか今日は特別に楽しいなぁ…)
  夕食後、歩遊は自室の勉強机で何ともなしに頬杖をつきながらボンヤリと、何事も起こらなかった、それどころか幸せに過ぎた休日を振り返った。
  片付けを済ませた後、俊史は再三連絡してくる戸部に呆れながらも根負けし、「電話してくる」と外へ出て行った為、歩遊は独り、手に入れたばかりの問題集を開いて机に向かっていた……が、どうにもふわふわした気持ちで、手元の本に目がいかない。わざわざ俊史から選んでもらった物で、しかもこれまでにないレベルの高いそれである。実際、歩遊は帰宅後これらを解くことを楽しみにしていたし、食事を済ませたらすぐやってみると俊史にも話し、張り切っていたのだ。
  それなのに、駄目だ。いざ問題集と向かい合っても、今日の楽しかった気持ちが胸に沸き上がって学習に集中できない。ライリーという楽しい女の子と知り合えたことも嬉しかったし、日中、俊史とずっと一緒にいられたことも嬉しかった。何より、俊史に自分の気持ちを素直に話せて、それが受け入れてもらえたという実感を持てたことに堪らなく感動した。だからだろう、俊史と手を繋ぐこと自体は初めてではないが、それをして帰れた今日の時間は別格だった。俊史が笑ってくれたことも大きい。2人で戸部の話をして笑えあえたことも。だから今、歩遊は俊史が戸部と電話で話しているだろうことを思っても何も感じないし、せいぜいがライリーのことをどう話しているのか、野次馬的なところで気になる程度だ。
  いろいろなことが楽しくて嬉しい。それが歩遊を確実に浮かれさせていた。
「歩遊」
  そうこうしているうちに俊史が戻ってきた。ノックはしたかもしれないが、ドアが開くまでそれに気づかなかった歩遊は驚いて背中を跳ねさせた。
  俊史はそんな歩遊を見て、驚かせたことをすぐに「悪い」と謝った。いつもなら「何をびくついてんだよ」とか何とか、毒の一つも吐くはずなのに。
  歩遊は慌てて首を振った。
「電話、終わったの?」
「ああ。もう始めていたのか?」
  俊史は戸部との電話内容を語る気がないらしい。すぐに歩遊の机上を覗きこみ、感心した風に言った。背後から覆いかぶさられると逃げ場がなくて焦ってしまう。まだ問題集もノートも殆ど白いままなのだ。
「ここの、ちょっとしか、まだ…。あんまり集中してなかったから」
「けどこれはあってる。途中式も丁寧だし…、やっぱりこれくらいならやれそうだろ?」
  数問解いただけのノートを指で指し示しながら、俊史は淡々とそう言った。問題が解けても誉められることなど滅多にない。やはり今日は特別なのだ。歩遊は嬉しくて、しかし妙に恥ずかしい気持ちもして、逃げられない空間の中、僅かに身じろいだ。
「うん、まだ分かんないけど、でも絶対やりきる。折角俊ちゃんが選んでくれた問題集だし――…」
  言いかけて歩遊はぴたりと黙りこんだ。俊史が歩遊の顔をいやに真剣な眼差しで見たまま動きを止めていたから。
「…俊ちゃん?」
  だから問いかけようと呼びかけたのだが、途端、歩遊は息を止めさせられた。俊史がおもむろに歩遊の頭を引き寄せ、そのまま唇を重ねてきたからだ。近いとは思い意識していたものの、キスされるとは思っていなかった。何故なら、今日は幾度もそんな機会があったはずなのに、帰宅してからの俊史は歩遊にそうしたことを一切仕掛けてこなかったから。ただ笑顔で話し、穏やかな時間だけが流れていたから。
「しゅ…」
  けれど一度したら箍が外れたのか、俊史は何も応えずに二度、三度と歩遊にキスを続けた。しかも急いているようなそれが段々と噛みつかんばかりの激しいものになっていき、歩遊は戸惑って俊史の腕に触れた。舌が絡み合う。何度も擦れあう唇に、それでもまだ足りないと俊史は角度を変えては歩遊の唇を舐る。一瞬だけ目が合った。俊史の眼差しは明らかに熱を帯びていた。するとそれに呼応するかのように歩遊の体内温度も一気に上昇した。俊史とのキスなどもう数えられないほどしている。それなのに、これは。今までになく緊張し、身体の制御が利かなくなる感覚が襲い、気持ちが昂る。
  歩遊は思わず目を瞑った。
「歩遊」
  けれど俊史はそれを良しとしなかった。声を発するために口づけはやめねばならない、けれどそれも惜しいというような啄む口づけを何度か繰り返した後、俊史は歩遊の頬を指の腹でぐいと拭ってから両手で覆い、こちらを見るよう促してきた。歩遊は言われるがまま目を開いた。両頬を包み込まれて、すぐ上方でその俊史がじっとした視線を落としてきている。まさに至近距離だ。ドキンと心臓が跳ね上がり、歩遊は自分でも分かるくらいに顔を赤くしてしまった。
「歩遊」
  すると俊史がもう一度呼んだ。俊史の目元も赤い。緊張しているのだろうか、咄嗟にそう思って歩遊は内心で驚いた。俊史が緊張?そんな風に考えたことなど一度もない。いつも堂々としていて、そんな感情とは無縁の幼馴染である。何故そう思ったのか、自分で感じたことに戸惑いながら、歩遊は助けを求めるように俊史を見つめ直した。
「歩遊。キスは平気だな?」
「え」
  一瞬、何を言われているのかよく分からなかった。キスしても平気かということだろうか。キスならたった今した、だから「大丈夫」に決まっている。あぁ、改めてそのことの確認なのか。けれどそんな風に確認をする俊史はやはりおかしい。意図を測りかねながら、歩遊は「ん…」と曖昧に頷いた後、肯定するように俊史の手に自らのそれを添えた。
「嫌じゃないな?」
「うっ、うん。嫌じゃな…っ…」
  言い終える前にまた唇は重ねられた。性急な俊史に歩遊はまごついたが、「これ」が嫌ではないことは確かに間違いがない。俊史のことが好きなのだ。
「俊ちゃん…」
  思ったことは正直に言うことが今日の幸せに繋がっていることはもうよく認識しているので、唇が離れた隙をつき、歩遊は急いで付け加えた。
「俊ちゃん、今日僕…楽しかった」
  キスが嫌じゃないのは俊史のことが好きだから。本当はそう言うつもりだったのに、何故か咄嗟に飛び出た台詞はそれだった。自分自身に焦りながら、けれどその想いも紛れもなく歩遊の中にある真実だったので、恐る恐る俊史を見上げると、その表情には未だ硬さが残っていた。真剣そのものの顔を見ていると妙な焦燥に駆られてしまう。今このタイミングで言うことではなかったか。
  それでも頬に添えられた両手はまだ優しいと感じたので、歩遊はそこにぐっと力を込めて再度言い添えた。
「ありがとう。今日一緒に行ってくれて」
「……全然。俺も楽しかったから」
  俊史の言葉に歩遊は思いもかけず目を見開いた。ますます心臓が跳ね上がる。
「ほっ…本当? 良かった。あ、あのさ、俊ちゃんは今誉めてくれたけど、本当は勉強、あんまり捗ってなかった。帰ったらすぐ解きたいって思っていたはずなのにね、今日のこと考えていたら、何か…手につかなくて。本当に楽しかったんだ」
「ああ…」
「で、電話。戸部君、怒ってなかった? でも僕、やっぱり俊ちゃんが今日僕と一緒に出掛けてくれて良かった。昼間、俊ちゃんも言っていたけど、僕もう戸部君のことは気にしないね? だって今日楽しかったんだし」
「ああ…」
  俊史は「ああ」しか言わない。歩遊のよく動く口を不自然なほど凝視して、依然として硬い。やはり緊張しているのだ。それを確信して歩遊は自分もその感情を伝染させながら必死に俊史を見上げた。
「あと今、俊ちゃんがこうして戻ってきてくれたことも嬉しい…って、そっ、そう思ったんだ。まだおやすみって言っていなかったし、けど電話しに行くなら、もうそのまま帰っちゃうかなとも思ったし。でもまだ一緒にいたかったから」
「歩遊」
「……っ!」
  俊史が勢いこんで迫ってきた。歩遊はいよいよ心臓をドクンと鳴らしたが、この時は目を瞑らずに済んだ。俊史がそれはするなと言外に訴えていたのが分かったし、次に言葉を発する俊史は「ああ」以外のことを言うに違いないと思ったから。
  実際、俊史は歩遊の髪に自らの指を絡ませるようにしながら何度も頭を撫で、また額にキスをした後に声を出した。酷く切羽詰まった様子の声を。
「俺も同じだ、何も手につかない、つくわけない…。電話は、あんまりあいつが煩いから仕方なく返しただけだ。戸部とか他の奴らはライリーの正体知らないから、あいつが俺にだけ買い物の案内頼んできたの、バカな風に誤解してんだ。…それで戸部はお前との仲がおかしくなってないか聞きたがって……バカだろ」
「…………」
  歩遊は一瞬口を半開きにしたまま俊史を見上げ、暫しフリーズした。いろいろな情報が頭の中で処理しきれなくなる。俊史もきっと話し過ぎたと思っている。本当は最初に口走ったことだけを伝えたかったはずだ。けれど歩遊と同様、急いたように細々としたことまで報告してしまっている。
「と、戸部君…」
  だから歩遊もついそれに乗って話を続けた。
「昨日も学校で僕に言ってたから。ライリーさんは頼りになる俊ちゃんを好きになるかもしれないし、俊ちゃんだって、ライリーさん美人だし…。だからちゃんと俊ちゃんのこと見ていないと駄目だって」
「昼間話していたやつだろ。さっきあいつからも聞いた」
  戸部はどこまで話したのだろうか。歩遊は思わずそう思って黙りこんだ。俊史は相変わらず近い。しかし今度は俊史も口を閉ざしてすぐには何も言わない。暫し沈黙が漂い、歩遊がそれに居心地の悪さを感じた時、俊史が「歩遊」と呼んだ。
「ちょっとこっち来い」
「えっ…」
  俊史は勉強机の左後方に位置するベッドへ歩遊を引っ張り、座らせた。すぐに自分もその左横に陣取り、抱きかかえるように歩遊を引き寄せ、顔を合わせる。それに歩遊は驚き固まったが、俊史は構わずに熱を帯びた目ですぐに訊いた。
「俺に抱かれるの、怖いか」
「え…」
「お前があの別荘から、そのことを考えないようにしているのは分かっている。嫌だったんだろ。あの時のことを思い出すのが」
「……っ」
  違うと言いたかったが、歩遊は言えなかった。それは嘘になる。真実でもないけれど、考えないようにしていたのは本当だし、ある部分で思い出すのが苦痛だったことも間違いはない。そのせいで俊史からの求めに異様な拒否反応を示し続けていたことも事実なのだ。
「あの時のことを後悔してない…と言ったら、それは嘘だ」
  俊史が言った。
「お前は嫌がっていたのに俺は無理やり…、お前に、した。あんな初めてはないよな、あんな目に遭ったら、全部なかったことにして忘れたいって気持ちも…それは分かる…。だから、お前が本当に嫌なら、嫌じゃなくなるまで待つ…。そう、思ってる――今は」
「……っ…」
  何か言わなければ。そう思うのに、言葉を出せない。俊史が異様に優しく、真面目で、しかも丁寧に髪の毛を撫でてくれるものだから。口は開くものの、歩遊は自分の気持ちをうまく唇にのせられなかった。早く言わなければ。伝えたい。けれど俊史のひたすらに温かく優しい眼差しに泣きたくなった。嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちとが混同した。
「…っ…はぁっ」
  歩遊はしゃっくりのように不安定な息の吐き方をした。変だと思われるだろうか、焦って見上げたが、俊史が待ってくれるというのは本当のようだ。歩遊の言葉が出るのを待っている。怒るでもなく、ひたすらに静かだ。それが分かって、歩遊はようやく一呼吸の後、言葉を出した。
「あ、あの時は俊ちゃんにも……、好きって、言ってもらいたかった。僕が言ったのと、同じように」
  俊史の歩遊を撫でる手がぴたりと止まった。歩遊はその手に急いで触れ、少しだけ笑って見せながらかぶりを振った。
「でも今はそういうこと、あんまり思ってない。それはもうどうでもいいかもって思ってすらいる。あっ、言ってもらえたらそれは勿論、きっと嬉しいだろうけどね、でも言葉とか…、もういいのかなって思える。本当だよ? だって俊ちゃんはこんなに僕に優しいし」
「…歩遊」
「けど、わ、忘れるとかじゃないけど…っ。でも、俊ちゃんが言うように、あの時のことは考えないようにしてた…。こっ、怖かったんだ。怖かった。ごめんっ、こんなこと言って! 俊ちゃんはあの後だって優しくしてくれたし、全部が嫌だったわけじゃない。おぶって連れて帰ってくれたり、お、お風呂も…っ。だから、あの時のことが本当に、全部、全部嫌だったわけじゃないよ……たぶん」
「多分、か…」
「ごめん! でもやっぱり思い出すと俊ちゃんの怒った顔が浮かんだり、それに……あの……」
「……何だ?」
「そ…その……」
  言っていいのだろうか。そう思ったが、ここまで来て最早引き下がれもしない。歩遊は思い切って俊史を見上げ、顔が熱くなるのを意識しつつも、舌をもつれさせながら何とか言った。
「い、痛かった…ことも、思い出しちゃうんだ。ごご、ごめんっ、こんなこと言って! でで、でもやっぱり怖くて…、ぃイタ、かったっ、から…!」
  俊史を見ていられなくて後半はもう俯いてしまった。俊史はどう思うだろうか、やはり怒るだろうか。歩遊は不安に駆られながら俊史に触れていた手にぎゅっと力を込めた。
  歩遊にとって俊史との性行為全てが苦痛ではなかったはずだが、一番の衝撃として記憶に刻み込まれたのは、やはり、あの森での出来事だった。突然訪れた、予想もしない形での「初めて」だったから。しかもその後もすれ違いがあったり、俊史を怒らせたりということがあったせいか、要は辛かった記憶が図らずも常に前面へきてしまう。あれらがあったからこその今の恋人関係であることも事実で、だから歩遊としても戸部に言われるまでもなく、本当は俊史の求めにも応じなければ、何とかしなければという想いも、あるはあるのだけれど。
  今だってそれは確実にある。でも怖い。それの堂々巡りだ。
「俊ちゃん…」
  助けを求めるように思い切って再度顔を上げた。思わずドキッとした。俊史が今までに見たことのないような顔をしていたから。
「しゅ…」
  俊史は顔中真っ赤に染め上げて歩遊を凝視していた。怒っているのとは明らかに違う、恥じ入っているそれだ。珍しいを通り越していた。それで歩遊もまじまじと俊史を見つめた。
  しかし歩遊に俊史の心意は分からない。歩遊当人から、「あの時のこと」を思い出すと恐ろしくて構えてしまうと言われることは予想通りでも、「痛かったから」まで言われてしまった俊史の心意など。
「……痛かった……のか?」
  歩遊に見られることに耐えられなかったのか、片手で覆うように顔を隠して項垂れた俊史は、どれほど経ってからか、ようやく呻くようにそう呟いた。
「あ、ごめん! 大丈夫!」
  それで歩遊も慌てた。自分の台詞で俊史が落ち込んでしまったこと自体は分かったから、ガバリと俊史の腕に縋り、実際はフォローにも何もなりはしないが急いで口走る。
「変なこと言ってごめん! 正直に全部話した方がいいかと思ったけど、今のは余計だった、ごめん! あ、あんなことしたらちょっと痛いのくらい当たり前だし、でもそれでも、好きなら我慢できるのが普通だよね!」
「は……?」
  片手がゆらりと外れて、生気のない俊史の顔が見えた。歩遊は余計に早口となる。
「戸部君にも言われた、僕は俊ちゃんに甘えているって。いつも色々してもらっているのに、僕、確かに自分のことばっかりで! つ、付き合っているのに、ちゃんとしてなくて! 逃げて…ばっかりで…。でも今日、凄く分かった気がするんだ。そんなことウジウジ考えていたらいけないって。だから、ちょっと怖くて痛いのくらい、我慢する」
「……バカ……そういうのは……我慢してやるものじゃない……」
  何を思ったのか、また俊史は顔を隠してしまった。今度は両手で覆い、全てを嘆くように項垂れて。大きく息を吐いて。
  歩遊はますます焦ってしまった。
「で、でも俊ちゃんもさっき訊いたでしょ、怖いかって。怖いよ、ああいうことは、やっぱり、こ、怖い。でも大丈夫、うん、もう大丈夫。僕、我慢するから―…」
「だからっ。そういうのは、我慢とかじゃなくてッ!」
「いっ!?」
  俊史が突然怒鳴ったせいで歩遊は飛び上がり縮みあがった。いつもの条件反射のそれだ。それで俊史も忽ちハッとし、バツの悪い顔でさっと目線を逸らす。そして「何でこんな話になった…?」と髪の毛をまさぐり独りごちた後、再び気を取り直して歩遊と向き直った。俊史も大忙しだ。
  それで歩遊も緊張しつつ、背筋をシャンとさせて俊史を見つめた。向き合って黙りこむと、お互い多少は落ち着ける。俊史は腕を上げて歩遊の頬をそっと撫でると、いやに慎重な様子で口火を切った。
「歩遊…。抱き合う時は、お前も気持ち良くなくちゃ駄目だ」
「え?」
「俺だけが良くても意味ねェんだよ…。お前が俺を怖がったり、ましてや…痛ぇって思ってんのに、無理して我慢して…俺の為だけに抱かれるとか…そんなの、意味ないだろ。分かるだろ、それくらい」
「でも僕は俊ちゃんのものだから…」
「……っ。ンだよ、それ!」
「だっ、だって! 俊ちゃんがそう言ったんじゃないかっ。あの時!」
  今度は負けずに歩遊も声を上げられた。俊史が驚き目を見開く。けれどすぐさま声は返ってきた。
「いっ…言ったけど…けどなぁ…このバカ! この場合は違うだろーがっ!? お前が俺のもんなら、俺だってお前の――」
「……!?」
  勢いこんで迫ってくる俊史にタジタジとなって再び言葉を失った歩遊だが、俊史の方も何かを言いかけてフリーズした。言おうとしたのに何かに堰き止められて、口を開けたまま黙っている。どうしたのだろうか。確かに言葉はそんなに要らないと言ったけれど、こういう時くらいは最後まで言って欲しいと歩遊は思った。
  思ったので、そう告げようと思ったが、そうする前に抱きしめられてしまった。
「むぐっ!」
「バカ…。バカだ、お前…。っくしょう、何なんだ…!」
「しゅ、俊ちゃ…?」
「そんなんでいいとか言われても、こっちは全然良くねーんだよっ。痛かった…!?  悪かったな、下手くそでよ! 当たり前だろ、俺だってンな経験…っ」
「え?」
  訳も分からず聞き返すと、俊史はうっと一瞬黙ってから、さらにぎゅうぎゅうと歩遊を抱きしめた。
  そして怒鳴る。
「何でもねーよ! けど歩遊っ。お前、これからも俺と一緒にいる気あるんだな!? 俺のことが好きなんだろ、それは変わってないだろ!?」
「あっ…当たり前だよ! どうしたの俊ちゃ、ちょっと離し…」
「うるせぇッ!」
「何で!? だから僕、俊ちゃんがしたいなら痛いことも我慢するって――」
「それはもう言うな!」
  ぴしゃりと言われて歩遊も口を閉じざるを得なくなった。俊史は怒鳴っているが怒ってはいない。それが分かったので、歩遊も少し焦ったが、懐に抱かれた格好でシンと大人しくその場に留まる。
  どれだけそうしていたかは定かではないが、俊史がそっと歩遊を解放して再び向かい合った時には、もうその顔に焦燥の色はなかった。その口から出てきた声音も。
  俊史は歩遊をまじまじと見ながら問いかけた。
「……痛くないようにしてやる。それならいいんだろ?」
「そんなことできるの?」
「できるに決まってんだろ……。今してみるか? その証拠に」
「う…うん」
  途端緊張が走り、歩遊の身体はカチコチに固まった。けれどすると言ったのだ。歩遊は意を決して俊史を見上げ、「痛くてもいいよ」とまで告げた。俊史はそれにまたぐっと詰まり、再度何事か言いたい気な顔になったが、今度は黙ったまま勢い歩遊をベッドへ押し倒し、「絶対気持ち良くしてやる…!」と歩遊の緊張をうつしたような面持ちで囁いた。
  しかし結局、その夜の2人は事に及ぶことができなかった。
  悪意なのか偶然なのか。どういうタイミングなのかというくらいのある種絶妙な間で、俊史の携帯は鳴り響いた。それは俊史が意を決して歩遊の首筋に歯を立てかけた、またにその時だ。相手は俊史の両親からで、それぞれが「今帰宅した」、「何故家にいない」、「歩遊ちゃんの所にいるなら話があるから戻ってこい」と打ち込んできていた。最近は俊史の父だけではない、双方の親が頓にこうした声かけをし、帰宅を増やしていた。しかもその中において特に俊史の父親と歩遊の母親は「息子たちをなるべく2人きりにしない」よう画策している節があり、結局のところ2人が事に及べないのは、そうした外部からの妨害もかなり大きな要因となっていたのである。
  因みに俊史は当初、当然のようにその連絡を無視していたのだが、携帯が鳴りやまないことや、いよいよ俊史の父が歩遊宅へと乗り込んできて、階下から「下りてこいバカやろう!」というトンデモ暴言を飛ばしてきたものだから、さすがに歩遊を抱くどころではなくなった。
  ドアをぶち破らんほどの荒々しさで部屋を出た俊史が、階上から「くたばれクソ野郎!」と叫んだ声は未だベッドで微動だにできなかった歩遊の耳にもビリビリと響き渡った。
  その夜、瀬能家では夜を徹しての家族会議もとい大喧嘩があったが、心配して家を訪れた歩遊は「危険だから」と、どうあってもその中には入れてもらえなかった。
  そして翌日曜日もその言い争いは続いていたようなのだが――。





  週明けの月曜日、歩遊が1人で登校すると、ちょうど昇降口の所で耀と顔を合わせた。耀も試験前で部活がないせいか今日は制服だ。カバンを肩にかけ直し、いつもの明るすぎる笑顔で耀は歩遊に「おはよう、歩遊」と挨拶した。
「おはよう、耀君」
  歩遊もそれに笑顔で返す。ほのぼのとした平和な朝だ。しかし耀はそれに思い切り不審そうな顔を向け、警戒したように辺りを見回した。何せ歩遊と仲良く笑いあったりしていると、大抵は直後にとんでもないやっかみがくるのが日常だから。
  しかしそれはなかなか訪れない。
「瀬能は? 一緒に来なかったのか」
「うん。今日は朝からライリーさんが登校するから、戸部君たち生徒会の人たちと一緒に行くんだって。ちょっと早めに出るからって」
「へえ…って、ライリーさんって、もしかして例の美少女アメリカ人?」
「うん、そうだよ」
「……瀬能の奴が、その子と一緒に登校するから、歩遊は独りで行けって言ったの?」
  何か言いた気な様子で間を置いた耀に、歩遊は不思議そうな顔で首をかしげた。
「うん。最初は戸部君たちとだけで行く予定だったみたいだけど、ライリーさんが俊ちゃんにも一緒にいて欲しいって言ったみたいで」
「え、何で…って、それはつまり、その子は戸部たちより瀬能の方を気に入っているっていうか信頼しているっていうか、何ていうか……、一緒にいたいって? ……けどそれ、その…歩遊はいいの?」
「え、何で? あ―…」
「フユ、オハヨ〜!」
  遠くから手を振ってそう挨拶してきたのは当のライリーだった。多少距離があってもさすがにオーラがあり、自然と目に入る。耀も驚いて振り返り、ライリーを見た。
  もう学校には着いていたらしい、彼女はちょうど昇降口から右手にある職員室前に戸部たちといたのだが、歩遊の姿を認めると率先して声をかけてきた。何故かその場に俊史はいないが、いつもの生徒会メンバーと教師の何人かに囲まれていた彼女は例によってちやほやされていたようだが、やはり息苦しかったのか、「助かった」という風に歩遊の所へやって来た。そして、にこにこしながら「土曜日ハアリガトウ!」と元気よく礼を述べた。
  このことは当然、傍にいた耀はもちろん、丁度登校してきた一般生徒たち、そして職員室前にいた教師陣や生徒会の面々をも仰天させた。何せつい先刻まで深窓の令嬢の如き清楚さと近づき難い面持ちで殆ど喋らなかった異国の美少女が、学年でも目立たない、瀬能俊史の幼馴染という「だけ」の相羽歩遊に挨拶を、あまつさえ自ら日本語で声をかけたのだから。
  しかし騒然となる周囲の反応に歩遊は無頓着で、制服姿のライリーは「やっぱり綺麗だなぁ」などと感嘆して見上げるのみだ。しかも最早この間ほどの緊張もない。歩遊は笑顔でライリーを迎え、それにまたライリーも嬉しそうに微笑んだ。
「フユ、一昨日、トテモ楽シカッタヨ。アリガトネ〜。デモ、トシニモ御礼言イタカッタノニ、朝トテモ機嫌悪カッタノ。何デデスカ〜?」
「えっ、本当? あ、多分、昨日ちょっとお父さん達と喧嘩しちゃったから……それで、寝不足とかもあったし。でも、ライリーさんに怒っていたわけじゃないよ」
「Oh、ケンカ? 私モダッドト仲良クナイ〜。ダカラ今回、日本ニプチ家出シテキタンダケドネ!」
「そうなの!?」
「おい歩遊…その…何そんな…仲良く…」
  ここでようやく耀が口を挟んだ。いやに遠慮がちにだが、それによって歩遊は途端「ごめん!」と慌てた。
「ライリーさん、こちら耀君。僕と同じクラスの友達なんだ。サッカーが凄くうまいんだよ、プロ級なんだ! 耀君、それで、彼女がライリーさんって言うんだ。日本語、凄く上手でしょう? 日本のこと、とても好きなんだって!」
「いや…そうなんだ。はじめまして?」
「ヨウ! 初メマシテー!」
  いつも誰にでも気さくなはずの耀がたどたどしい。やはり耀も美少女には弱いのだろうか。歩遊が見当違いな方向にそう解釈していると、逆にライリーは「歩遊の友達」というだけでぐっと警戒心を緩め、最初から実にフレンドリーで耀に対した。しかもいやに怪しげに目を光らせ、サッカー選手だなんて、日本の有名スポーツ漫画の何とか言うキャラに似ているねなどとイタイ発言までし始めて―…、ただそこは歩遊も意味が分からず、耀も本能でスルーしたため、その件はそのまま立ち消えた。
「何話してんだよ」
  そしてそんな呑気な会話は相変わらず長続きしなくて。
「あ、俊ちゃん」
「トシ!? ドコ行ッテタ、ユウト2人ニシナイデ下サイ!」
  歩遊とライリーはとことん気が合うらしい。この間と同様、2人は同時に声を発し、同時にハッとして互いの声を尊重させようと暫し口を閉じた。
  それに面白くないのは当然俊史である。ただ、その場ではライリーにだけ不快な顔を向け、俊史は誰もが息をのむ美少女に容赦ない冷たい視線を投げつけた。
「戸部だけじゃなかっただろ、他にもいただろうが、騙しやがって」
「What’s!? I have not deceiving! Yuu called me!」
「煩ェよ。お前も日本にいる気ならあいつに慣れろ。歩遊、来い」
  そうして俊史はライリーには無碍な台詞を放ち、耀は完全に無視すると、歩遊だけを引っ張って先を歩き始めた。まだ周囲はざわついて俊史たちを目で追っている。勿論、置いてけぼりになったライリーと耀、それに戸部たちも。けれど俊史はそれらの目線を鬱陶しそうにかわしながらどんどんと歩いて行く。階段を上って、上り続けて、屋上へ差し掛かる行き止まりの所まで。歩遊は大人しく着いて行ったが、戸惑いは消せず、俊史の背中を縋るように見つめた。
「俊ちゃん、どうしたの。もうホームルーム始まっちゃうよ」
「お前が勘違いしているから」
「え?」
  人気のない所でようやく俊史は口調を変えた。先刻のライリーに向けた不穏な色は消え失せ、もう柔らかくなっている。
「俺が今朝不機嫌だったのはあんなクソ親父どもと喧嘩したからじゃない。当たり前だろ」
「そうなの? でも全然眠れなかったみたいだし…声とか…結構大きかったし」
「ってことはお前も眠れなかったのかよ」
「そんなことないよ、ちょっと心配で」
  何せ歩遊宅の朝食の席に俊史の両親はいたのに、俊史は現れなかったのだ、心配もする。ライリー達と行くことになったという報告とてメールで、今日俊史の顔を見たのは、今、これが初めてだ。
「本当に大丈夫だった? おじさん達はいつもと変わらない感じだったけど…」
「そうだろうな、あいつらがお前に何か言うわけないしな。まぁ俺の方も何でもねえよ。ただいつもと同じ話しただけだ。卒業後のこととか」
「………」
  それはとても大切な話ではないのだろうか。ただ歩遊はそのことをすぐに訊ねることができなかった。そうこうしている間に俊史がさっさと自分の言いたいことを言う。
「俺が不機嫌だったのは、お前と一緒に来られなかったからに決まってんだろ」
「……え?」
「それでまた早速耀の奴といやがるし、ライリーともつるんでいるし。お前、いい加減にしろよ、毎回毎回」
「う…うん」
  昨日分かりあえたと思ったのだが、これはいつもと変わらぬ俊史だ。
  ――否、少し違うかもしれない。何せ、歩遊と一緒に登校できなかったから不機嫌だったなどと、これまでの俊史なら絶対に言わない。そのはずだ。
  だから歩遊はいつもよりもオドオドする時間を短くすることができたし、すぐに想いを伝えられた。
「僕もライリーさん達と一緒に行きたいって言えば良かった。もし明日も皆と一緒に行くなら、僕も行くよ」
「行かさねーよ。そしたらお前とあいつが話すだろ」
「え?」
「明日からライリーは戸部と行かせるから。お前は俺と一緒に行くんだ。俺だけと。今日の帰りもな。一緒に帰るから待ってろよ」
「………」
  やはりこれはいつもと変わらぬ俊史だ。横柄で、一方的で。歩遊の行動も全て一人で決めてしまう。それが当たり前だと思っている。
「………俊ちゃん」
  けれど歩遊は「もう言うことは済んだ」とばかりに、さっさと背を向けて階段を下りていく俊史の後ろ姿を見ながらじんと気持ちが温まる気持ちがした。これは昨日の帰りに感じた想いと一緒だ。いや、それよりも嬉しくて幸せなものかもしれない。
「うん。待ってる」
  だから歩遊は自分自身にもよく響くようにしっかりとそう言った。そうして告げた後、急いで俊史の後に続いた。俊史がそれにちらりと振り返り表情を和らげたのが分かると、歩遊はまた余計に気持ちが沸き立った。だから自然と微笑んだ。
  今日の帰りが、俊史と並んでいられる帰路が、もうすでに待ち遠しかった。