―3―



  もしも俊史に太刀川と映画に行く事がバレたら、きっととんでもなく怒られる。
  しかもそれは、いつもの比ではないかもしれない――。

  歩遊がそう思い怯える理由は、決して太刀川が言うところの「俊史のヤキモチ」うんぬんから来ているのではない。そんなとんでもない考えは歩遊には到底及ばない。
  ただ、はっきりと断ったわけではないが、少なくとも俊史の方は歩遊の事を「俺が折角誘ってやったのに(映画には)行きたくないと言った。むかつく」と思っている。だからそんな状況下で、のこのこと同じ時間帯、同じシアターに太刀川と現れれば、当然俊史は「俺との誘いを断っておいて、何なんだお前は!」と気分を害すに違いないと思うのだ。何十回何百回とその場をシュミレートしてみても、その「悲惨な結末」は微塵も覆る事がない。
「はあ」
  昨日から続いている深いため息をつきながら、歩遊はサッカーグラウンドが臨める校舎裏のベンチに座って独り悶々とし続けていた。
  いつもは歩遊が困った顔をすると「しょうがないな」と折れてくれる太刀川が、今回に限ってはいやに頑固だ。太刀川の部活が終わる時間を考えると歩遊の家までなら一度帰宅しても良さそうなものだったが、そのまま逃げられるとでも思ったのか、「終わるの待ってて」と言って、太刀川は歩遊に自らが預かっていた「子パンダ」のチケットを2枚握らせた。
「絶対行くんだからな。絶対!」
  太刀川が何故そこまでムキになるのか歩遊には分からなかった。太刀川は色々と言っていたが、歩遊は俊史から「仲間外れにされた」などとは思っていないし、正直、全く面識のない人間の多い生徒会の面々やその他の人々と映画になど行かなくて良かったと今は思っている。
  ただ憂鬱なのは、俊史を怒らせた事だけ。
「歩遊!」
  思い切り暗い顔をして俯いている歩遊に、フェンス越しから太刀川が呼んできた。
  先ほどまでフィールド内を所狭しと駆け回っていたが、選手交代をしたらしい。ガシャガシャと煩く鉄製の網を揺さぶりながら、太刀川は元気のない歩遊を奮い立たせるような威勢の良い声で言った。
「俺らの練習見てるの退屈? ならいつも瀬能待ってる時みたいに図書室で待っててもいいぜ?」
「あ…ち、違うよ…?」
  太刀川に悪いと思って歩遊は慌てて首を振った。実際、運動部の練習を見るのはちっとも嫌ではない。いつも図書室からとて、自習に飽き飽きすると窓枠からそっと太刀川の活躍を眺めたりしていた。2年にして部の中心である太刀川はいつでも何処にいても目立っていて、周囲の注目を一身に浴びて凄くカッコイイ。
  正直にそんな感想を漏らすと太刀川は「マジで!」ととても嬉しそうな顔をして笑った。
「耀―! テメ、サボってんじゃねえ!」
「やべ」
  その時、恐らくは3年の先輩だろう、自分達の試合を観ずに部外者である歩遊へ向いている太刀川を鋭く叱り飛ばす声が響いた。太刀川はまるで堪えた風もなかったが、「すみませーん!」と潔く謝って再びフィールドへ戻って行った。
  歩遊はその太刀川の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、ここにいる本当の理由は言えなかったなとそっと思った。太刀川を待つのに確かに図書室は最適だ。けれど、いつもは俊史を待つあの場所は生徒会室ととても近い。あそこにいて俊史と万が一会ってしまうのが歩遊は怖かったのだ。
  ここならば外とは言え大きな木陰もあるし、サッカー部が使う第2グラウンドは校舎の裏手だから、却って人目がつかない。太刀川を待つのにこれほど都合の良い場所はないと思われた。

  けれど、びくびくしている時には本当にロクな事が起きない。

「ねえ、それってタダ券?」
「え…っ」
  突然背後からこちらを覗き込んでくるような影を感じ、同時ピンと通る声も聞こえて、歩遊は驚き振り返った。
「あ」
「どうも」
  そこには俊史の親友であり、学園のアイドルである戸辺優がいて、歩遊の手元を熱心に見詰めていた。
「それそれ」
  そして戸辺は再度歩遊の手にしていた物―歩遊が当てた「子パンダ物語」の鑑賞券2枚―を指差し、チケットに穴が開くのではという程ついと顔を近づけてそれを見やってきた。
「前売りチケ? どうしたのそれ。買ったの」
「え、あの……」
  戸辺は確かに俊史の親友だが、歩遊は彼とまともに会話した事がない。俊史と登校している時たまたま駅で会って一緒に学校まで行った事はあるし、それ以外でも学校内で「何となく3人でいた」という経験も多くはないが、何回かはある。
  けれど戸辺はそんな時も歩遊に自分から話しかけてきた事はないし、何か接触があったとしても、歩遊を叱咤したり嘲笑する俊史を横目に、自らもニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて一瞥してくるだけだ。
  バカにされていると感じていた。
  だから今こうして戸辺が何という事もないように「普通に」話しかけてきている状況が歩遊にはよく理解出来なかった。
「相羽歩遊クン」
「えっ…」
  それなのに戸辺はまるで教師のように偉そうな呼び方をしたかと思うと、今度はひょいと歩遊の手から2枚のチケットを取り上げ、可愛い顔に多少の不機嫌さを漂わせて冷たい声を発した。
「訊いてるんでしょ。ちゃんと答えなさい。これ、どうしたの」
「ど、どうしたって……」
「買ったの? 2枚だね。何? もしかして俊と2人で行こうと思ってた?」
「ち、違う!」
  慌てて首を振り、歩遊は強く否定しながら取られたチケットを取り返そうと立ち上がった。しかし意外や、歩遊とは身長差も然程ない小柄な戸辺なのに、彼のひらりとかわす動きに歩遊は見事ついて行けなくて、チケットを奪い返そうとする手は惨めにもぶんぶんと宙を舞うだけだった。
「か、返…っ」
「俊と行かないなら誰と行くつもり? まさかあそこのサッカーバカじゃないよね」
「……っ」
  今まで歩遊が観察してきた限りにおいて、戸辺はこんな表情をする人間ではない。しかし今は気のせいかその鋭い目つきだけでなく、声色も全然違う気がした。
  意地悪で、残酷で。
  普段俊史や周りの人間に見せているような可愛らしい笑みはどこにもない。いつも儚げで弱々しそうな、歩遊ですら「守ってあげたくなる」タイプだと思っていたのに。
  けれどここにいる人間は、それとはまるで別人だ。そのあまりの変わりように歩遊は直感で恐怖を抱いた。
「同属嫌悪っていうの? あれは一皮剥けば俺と同じだと思うよ」
  怯えきって声が出ない歩遊に戸辺が言った。
「まあ、今はまだ自分でも気づいてないみたいだけどね。けど、あれがあれの機嫌を損ねる度に迷惑被るこっちは冗談じゃないって」
  半ば茫然としている歩遊に戸辺はあくまでも淡々としていた。歩遊にしてみれば、戸辺の話は全く意味が分からず、どんな反応を返していいものかも分からない。一体何の話をされているのか。戸辺の言葉は異国語か宇宙語かと思うほどだった。
  それでも彼の「独り言」は止む事がない。
「けど、そういう《気づけない》天然要素があるってトコが、これまたむかつくよね。だからさ、最近何かってーと無駄に状況かき回してくれる奴には本当参ってるわけよ。歩遊は歩遊で何も分からずそんなバカに懐いちゃってるし」
「…何……言ってんのか、全然分からない…」
「そうだね。歩遊だもんね」
  それは俊史が時々使う言い回しにとても似ていた。
  さすがにむっとした歩遊に、けれど戸辺は瞬時くすくすと笑い出すと、おもむろに手にしたチケットを掲げてひらひらと揺らした。
「とにかくさ。このチケットは俺が没収してあげる。俊と行かない君には必要ないものだろうし」
「! か、返してよ!」
「おっと」
「返してってばっ」
「返してっ…ねえ? その言い方、なーんか、可哀想なヒロインみたい。とすると俺は可愛いヒロイン苛める悪役かー。ふふっ」
  何が面白いのか再び軽い笑声を立てると、戸辺はこれみよがしにそのチケットを持ったまま走っていなくなってしまった。追わなければと歩遊が焦った時には、その姿も遠く遥か。
  現れたのも急なら、いなくなるのも急。
「な、何なんだよ…っ」
  今の出来事は夢だったのかと思う程の、それは本当に一瞬の出来事だった。





  練習が終わった太刀川は、自分が声を掛けた時よりもドンヨリとしている歩遊を見て、あからさま大きな溜息をついて見せた。既に制服には着替えていたが、仲間達の誘いを蹴って歩遊の元へ来るのも一苦労だったのか、焦って結んだようなネクタイは酷く乱れていた。
「俺と映画行くの、そんなにヤ?」
  もう少し嬉しそうにしてくれても罰は当たんねえのになあとひとしきり恨み言を述べた後で、太刀川はそれに慌てて否定の言葉を結ぼうとする歩遊を片手を出して制した。
  そうして歩遊が座っていたベンチに自分がどっかと腰を下ろすと、「歩遊も座りな」と横をべしべしと叩く。
  歩遊が言う通りにして大人しく再びそこに落ちつくのを横目で見ながら、太刀川は椅子の背に肩肘を乗せ、改めて渋い顔をして見せた。
「あのさあ、歩遊。昼間はお前、思いっきり否定してたけど」
「え…」
  何の話だろうと歩遊が怪訝な顔を向けると、太刀川は少しだけ困った目をして笑った。
「瀬能が歩遊のことを好きってやつ。絶対そんな事ない、みたいに言ったじゃん」
「あ、ああ…。だってそんなの、絶対ないから」
「まあ、そんならそれで、どうでもいいよ。けど、じゃあさ。歩遊は?」
「え」
「歩遊は、あいつのこと好きなの?」
「そ、それは……」
  訊かれて真っ先に浮かんだ単語は「好き」だった。
  歩遊は俊史の事がとても好きだ。あんなに酷い事を言われていつも眉間に皺を寄せられていて。「お前見てるとイライラする」と嫌われまくっている相手だけれど、歩遊にとって俊史は、それこそ物心ついた時から傍にいる絶対の存在だった。
  今さら離れられないのだ。俊史は、「厳しく叱り飛ばしてくる俊史」込みで、歩遊には空気みたいに当たり前で、なくてはならないものだから。
  だから、好きか嫌いかというのなら、やはり「好き」なのだろうと思う。
「俺だったら絶対ヤだけどな。あんな否定しまくる奴。一緒にいたら鬱になるって」
「へえ…耀君でも鬱になる事あるの?」
「何だよそれー。俺だって何かあったら凹んだりするぜ。相手の何気ない一言で傷ついたりだってするんだからな!」
「そ、そうだよね。ごめん…」
「いや、だから。まあ、お前は気にしすぎ」
  歩遊には別に傷つけられてないから、と太刀川は律儀に弁解して、それからおもむろにわしゃわしゃと歩遊の髪の毛を掻き混ぜた。
「けどまあ、俺は歩遊たちの歴史とかあんまよく知らないし。俺には分からない何かがあるのかもな。それならそれで、しょーがないのかもなあ…とは、思うけど」
「うん…?」
「でも、見てるとやっぱ……スッゲーむかつくわけだ!」
「は?」
  「スッゲー」の部分をやたらと強調して言った太刀川は、心底耐えられないという風にぐぐと握り拳を作ると、大袈裟に「我慢している自分」を演じてみせた。
「あの傍若無人野郎には、どうしてもどうしてもッ。こう、何つーか《ギャフン!》と言わせてやりたいの、俺は! だってあんまり歩遊が従順過ぎるからさっ。そんなの駄目だぜやっぱ! だって健全じゃねーもん、お前らの仲って! そう思わね!?」
「は、はあ…?」
「もーう、だから歩遊は放っておけないってんだよ!」
  行こう!と言って、太刀川は立ち上がった。そうしてきょとんとする歩遊の手を強引に握ると、そのまま有無を言わせずズンズンと先を歩いて行く。
「ちょっ…耀君?」
  歩遊はそんな太刀川に翻弄されたまま、半ば引きずられるように校舎裏を出て校門の外へ出た。もう辺りは夕暮れ時も終わり大分薄暗くなっている。それでも同性のクラスメイトと2人、手を繋いで往来を歩く事に歩遊はただ途惑い、あわあわとみっともなく狼狽し続けた。
  それにそれはとても温かくて優しい手だけれど、いつも強引に引っ張ってくれる温もりとは違うものだ。それも困惑を呼ぶ大きな原因だった。
「よ、耀君…」
「いいから、黙ってついてくる!」
  けれど結局目的のシアターに着くまで、太刀川は握ったその手を離してはくれなかった。

  だから、「それ」が見つかった時の雷は―……、何百回と行った歩遊の予測値を遥かに超えていた。

「歩遊ッ!!!」
  天地が裂けるのではないかと言う程の大声に、その場にいた何人もが一斉にぎょっとして振り返り見た。ただ、放っておいても外形の優れた俊史が凄む姿はいっそ華やかな程に際立っていて、最初こそ驚きで視線を集めた人々も、今はその姿を違う意味でぼうと見つめ注目している。
「歩遊…!」
  けれど俊史にとってそんなギャラリーは全く眼中にないらしい。都内でも割と大きな駅となるそことシアターとは1つの陸橋で結ばれていたが、俊史は改札から出て来て丁度その橋を渡ってきた歩遊達を素早く認め、反対側のシアター入口付近から猛然とダッシュしてきた。
  それは一瞬「殺される」と思う程の凄まじい殺気を込めて。
「離せ、テメエ!」
「いって!」
  けれどその殺気は歩遊にというよりは、ずっと歩遊の手を握って離さなかった太刀川へと向けられていた。俊史は陸橋の真ん中で2人を捕らえ、そのまま物凄い勢いで太刀川の手と歩遊の手を切り離した。
  そうしてそのまま歩遊の腕を痛いくらいに掴み、太刀川からは視界に入らないよう己の背後へ隠してしまう。
「いってえなあ! つか、このパターン、前にもあったっての!」
「太刀川…ッ! お前、マジでふざけんなよ!!」
「はあ!?」
  歩遊なら卒倒してしまいかねない俊史の恫喝も、太刀川は予測していたせいもあるのか全く動じていなかった。むしろ喧嘩なら受けて立つというような雰囲気すら漂わせて、背後にいる歩遊に手を伸ばそうとする。
「歩遊、痛がってんだろうが! 離せよ!」
「煩ェ! コイツに近づくんじゃねえよ、汚ェ手で触りやがって…!」
「汚ェのはお前のそのドス黒い心だろーがッ!?」
  陸橋の真ん中で怒鳴り合う背の高い高校生2人。その光景はなかなかに迫力があった。見た目的にはどこぞの不良クンというわけではないので、その点はまだ安心(?)だが、傍から見れば異常という他ない。何せその2人の影には、彼らとは実に対照的な小さな歩遊が、夜目にも分かる蒼白な顔で、オロオロと泣きそうな顔をしているのだから。
  最初にその歩遊の表情に気がついたのは、俊史よりはまだ冷静だった太刀川だった。
「……ったくよ…!」
  俊史に軽く捻られたのか、何度か手首を擦る彼は、努めて静かなくぐもった声を出した。
「俺は何っも、ふざけてねえ。歩遊と映画を観に来ただけだぜ。お前にどうこう言われる筋合いはない! 大体、お前だって他の連中と来てんだろ!?」
「誰とも来てねェよ!」
「え?」
  これには歩遊が驚いて思わず声を発した。それに素早く反応した俊史は振り返ってキッとした目を向けると、掴んでいた歩遊の手首をより一層強く握った。
「痛…っ」
「おい、だから歩遊痛がってんじゃねーか。離せよ!」
「煩ェんだよ! とっとと消えろ。こいつには二度と近づくな」
「はあ? だから何でそうなるんだっての。そんなのはお前が決める事じゃねえだろが。お前さ、どんだけ自分が身勝手なこと言ってるかとか、本気で理解してねえの? 歩遊の気持ちとか、一切考えた事ないだろ?」
「……お前はコイツの事が分かるってのか」
  押し殺した声でそう言う俊史に何故か歩遊の方がびくりとした。俊史の怒りがそれこそ頂点に達したようで、本当に怖かった。いつも怒られているけれど、こんな風に自分ではない誰かに怒りを向ける俊史は嫌だと思った。
「少なくともお前よりは分かるよ」
  それなのに太刀川は喋るのを止めようとしなかった。
  自分に悪い感情しか向けていない相手なのに、太刀川はとにかく堂々としていた。
  堂々と言った。
「歩遊は、本当はお前とここに来たかったんだ」
「よ……」
  歩遊がそれに驚いて声をあげようとするのを、しかしこれは俊史がぎゅっと強く手を握って無言のうちに黙らせた。
「知らないだろ。歩遊、あの映画の鑑賞券2枚当ててたんだ。お前と行こうと思ってたんだ。ちゃんとお前誘おうと思ってたんだ。知らなかっただろ」
「………」
「それはな、確かに歩遊もはっきりしないトコあって悪いかもしんねーけど。けど、大体悪いのの8割はお前だ、お前。お前が歩遊にちゃんと喋らせる余地を与えないのが悪いんだ。歩遊はちゃんと待ってやれば、考えていること言えるんだ」
「……お前に俺たちの何が分かる……」
「はあ?」
  眉間に皺を寄せて不快な顔をする太刀川に、俊史は揺るぎのない強い視線を突き刺すと言った。歩遊の手は握ったままだ。
「お前には分からない。俺の事は勿論、こいつの事も。―…歩遊を分かってるのは俺だけだ」
「おま…お前なあ…」
「歩遊は俺の……とにかく、お前には分からない」
  ぽつりと呟いた俊史に太刀川は唇を尖らせてすぐに何か言いかけた。けれどその背後に立ち尽くしている顔色のない歩遊を見て、ようやく今度こそ肩から力を抜いたようだ。
「歩遊。……ごめんな」
  そうして太刀川は「あーあ」と大きな溜息をつくと、さっと2人の傍を離れた。歩遊が何か言葉を挟む余地もない、太刀川は今来たばかりの駅改札への道を戻って行き、何メートルか行った後ようやっと振り返った。
「歩遊。また明日な?」
「あ……」
  そしていつものニッとした爽やかな笑みを置き去りに、あっという間にその場からいなくなってしまった。これには俊史も反応を返す暇がなかったようだ。
  先刻までの騒然とした空気が嘘のようだ。太刀川のいなくなった陸橋の真ん中で、歩遊は俊史と取り残された。
「………」
  何秒かの沈黙が永遠のように感じられた。
  俊史は未だ歩遊の手首を掴んだまま離そうとしない。そして何かを堪えるようにぐっと唇を噛んで、意味もなく橋の下をびゅんびゅんと通り過ぎていく車の群れを凝視している。
「俊ちゃ……」
  我慢が出来なくなって歩遊は俊史を呼んだ。
  折角太刀川が言ってくれたのだから、その「期待」には応えなければいけないと思った。
  そうでなければ、きっと俊史も怒らせたままだろうとも分かった。
「今さらだけど…。その、俊ちゃんに話してもらう前からあの映画、俊ちゃんと行きたいと思ってたんだ。そ、その…偶然……懸賞でチケットが当たったから」
  何も答えない俊史に歩遊は心内で震えながらも続けた。
「それで、でも、俊ちゃんが生徒会の人たちと行くの、誘ってくれたでしょ…? いいなって思ったけど…チケットは2枚しかないし…それで…色々、どうしようって……」
「それでぐずぐすして何も言わなかったのか」
「う、うん…」
「その事を太刀川には話したのか」
「……えっと…俊ちゃんと行きたかったって話は…してないんだけど」
「お前。あいつのこと好きなのか」
「えっ…?」
  言われた事の意味が分からず眉をひそめる歩遊に、俊史はここでようやくがばりと全部の体勢を歩遊に向け、歩遊を真正面から捕らえてきた。ぐっと強く掴んだ手首への拘束はそのままに。
「言えよ。あいつの事が好きなのか」
「あいつって…耀君…?」
「バカ! この流れで他に誰がいるんだ!?」
「ごっ! ごめん!」
  怒鳴られて歩遊はびくんと肩を揺らした。通りを行く何人かがちらちらとした視線を寄越しながらも黙って通り過ぎていく。
  それでも俊史は構わない。
「歩遊、答えろ。あいつが…太刀川の事が好きなのか。……俺よりも」
「俊ちゃんよりも…?」
「そうだ。早く答えろ」
「………」
「歩遊っ!」
  歩遊は泣きたい気持ちになった。
  その理由は自分自身ですらはっきりとは分からない。いつも責められ怒鳴られる事などしょっちゅうで、言ってみれば今のこの状況とてそれは同じはずだった。
  けれど今この時は、俊史のきつい眼光や責めるような口調がとてつもなく理不尽で自分にとっては限りなく酷なものに思えた。珍しく「自分が可哀想だ」と思ってしまった。
  何故って、一昨日からずっと、歩遊は俊史の事だけ考え、俊史の事で傷つき悩んでいたのだから。

「俊ちゃんと映画が観たい……」

  全く質問の回答にはなっていないのだが、歩遊はぽつりとそう言った。
「チケットは……もう、なくなっちゃったけど。でも、俊ちゃんと観たい。観たいんだ。あの映画。ずっとそう思ってて、俊ちゃんは誘ったら、一緒に行ってくれるかなって、考えてて」
「……歩遊」
  微かうろたえるような震動が伝わってきて、歩遊はようやく顔を上げた。潤んでいる瞳から涙が零れそうでそれだけは避けたかったけれど、今この時俊史から目を逸らすこと以上に嫌な事はないと思った。
「映画……一緒に……」
  けれどついにしゃくりあげるような裏声で惨めにそう言ってしまった後。

「………行くに決まってる」

  実に決まり悪そうな、そしてやっぱり怒っているような声が歩遊の耳に届いた。
「………え?」
  その回答をすぐには飲み込めず、瞬きをした瞬間、歩遊は堪えていた涙をぽろりと落とした。
  するとぼやけた視界から俊史の思い切りたじろぎ困惑するような顔が微かに見えて、直後俊史の指先と顔がどんどん近づいてくるのが分かった。
「バカ。泣くな」
「俊……俊ちゃん……?」
  ごしごしと乱暴に頬を擦った俊史はどこか居た堪れないような顔を見せた後、ごつんと歩遊の額に自らのそれをつけた。
  そしてハアと実に深い、それこそ太刀川の比ではない程の深い嘆息をつくと。
「言えよ。他の誰にでもない、言いたい事があるなら俺に言え。他の奴なんか頼るな。いいか歩遊……。お前は……俺の事だけ見てればいいんだ」
「俊ちゃん…?」
「全く、一体何回言わせれば、気が済む…」
「ぼ、僕…でも…」
「来い」
「え…っ」
  突如顔をあげた俊史は1度だけ、実にさり気ない所作で歩遊の額に押し付けるようなキスをすると、そのまま歩遊の手を取ってシアターへ向かい歩き出した。今の行為は何だったのかと歩遊が考える間もない程にそれは早く、歩遊はただ焦って「俊ちゃん」と相手の名前を呼んだ。
「早くしないと始まっちまうだろ。どうでもいい映画だけど、最初の10分で起きる親パンダが子パンダを崖下へ蹴り落とすシーンが一番凝ってるらしいんだよ」
「え……でも、映画……え?」
  そういえば他の者が来ていないと言っていたけれど。
  戸辺は、生徒会の面々はどうしたのだろう。
「あいつら仕事が遅いから、映画は延期させた」
  すると歩遊の数歩先を歩く俊史が背中を見せたままそう先んじて答えた。
「戸辺はサボり癖がついてて困るからな、罰だ。あいつが持ってたチケットも取り上げた」
「しゅ…俊…ちゃん…?」
「お前は俺と行けばいいんだよ。俺と……ずっと俺といればいいんだ」
  頭の上にたくさんのはてなマークを浮かべる歩遊に構わず俊史はただそう言った。
  そして歩遊を握っている手にはまた新たな力を込めて「言う事きけ」と念を押す。…気のせいか、その俊史の手のひらには微か汗が滲んでいるように感じられた。
「あ、ありがと……」
  だから歩遊は先刻までの一切合切の悲しみを振り払って俊史に礼を言った。
「ありがとう…俊ちゃん…」
  何がどうして俊史がここへ来てくれて自分と映画を観てくれると言ったのか、全てを理解したわけではなかったけれど。
  今こうして掴んでいてくれる手がとても温かく、また大切なものだったから。
  この手が、今日一日ずっと待っていた温もりだと知っていたから。
「……ありがとう」
  歩遊は俊史だけにではなく、何だか全ての人に感謝したい気持ちになりながらそう言って笑った。
  ふと、俊史が懐から取り出した2枚のチケットが目に入った。
  そこから垣間見えた子パンダの顔は、昨日見た時に感じた悪戯っぽいそれではなかった。 
  それはどこか優しげで穏やかな、百獣の王の風格そのものを湛えているように見えた。



 









戸辺は何なんだという謎を残したまま終わる。
尚、映画を観た後の小エピソードが台詞集の所にあります。