興味なくても暗記



  歩遊のクラスメイトである太刀川耀が突然遊びにやって来たのは、冬休みに入ってから数日後のことだ。その日は俊史も戸辺たちと遊びの約束でもあるらしく、相羽宅には歩遊1人しかいなかった。
「耀君! うち、よく分かったね?」
  玄関先で目を丸くする歩遊に、耀はにっこりと人好きのする笑みを浮かべてから何という事もなく隣を指差した。
「分かるよ。だって瀬能ん家の隣だろ? 歩遊んとこって」
「うん…?」
「だから、ソッコー」
  別に迷いもしなかったなあと言って、耀は玄関の奥を見やるようにしながら「入っていい?」と無遠慮に訊いた。そんな耀は如何にもたった今までジョギングしていましたという風なジャージ姿で、とても友達の家に遊びに行くつもりだったという風ではなかった。本人が言うように、単純に「走っている途中で、そういえば歩遊ん家ってこの近くだったんだよなぁ」と思ってフラリと立ち寄っただけだろう。歩遊にはとても真似出来ないが、誰とでも気さくに仲良く出来てしまう耀ならば、きっとよくする事なのだろう。
「中…散らかってるけど」
「いいよいいよ、別にそんなん。俺、全然気にしないし」
  耀はにこにこしながら歩遊に招かれるままさっさと中に入り、「お邪魔しまーす」と言って靴を脱いだ。そうして、まるでいつも遊びに来ているような気楽さで、「うわー、疲れたぁ」とリビングのソファにどっかと腰をおろした。
「走ってたの?」
  台所から飲み物を用意しながら歩遊は声をかけた。
  この冬休み、歩遊は俊史の言いつけをしっかと守り、1人だろうが何だろうが、基本的には勉強に勤しむ毎日だ。俊史だけが戸辺たちと遊びに出掛けたららしい事には少しだけ羨ましい気持ちも抱いたが、元々歩遊にはそうやって外へ遊びに誘ってくれるような友達がいない。……否、そんな事を言ったらここにいる耀などは「俺がいるだろ」と怒るかもしれないが、それでも彼とて毎日部活で忙しい身だ。今こうして気楽に遊びに来てくれた事が信じられないくらいなのだから、やはり歩遊はいつも忙しい俊史とは違う。

(でも今は……凄い、友達が遊びに来てくれた。しかも俊ちゃん目当てじゃなくて、僕に会いに)

  耀の訪問は歩遊の中で何年ぶりかのビッグサプライズだった。
  例え耀がトレーニングの途中、「たまたま」気紛れで立ち寄ってくれただけだとしても、素直に嬉しい。俊史が買ってきてくれていた有名店のケーキがまだあったはずだと、歩遊は冷蔵庫の中を探りながら内心ドキドキとしていた。
「おっ、そんなご馳走してくれんの? 悪いなあ」
  リビングにやってきた歩遊のトレイには2人分のケーキとグラスに注がれたジュースがある。耀は嬉しそうに白い歯を見せながら、さすがに少し恐縮したように背筋を伸ばした。
「トレーニング中にこういうの、大丈夫?」
「うん、全然ヘーキ。今日は自主練の日。冬の大会もさぁ、クジ運悪くて、ベスト8で全国強豪と当たっちゃったりしたから、結構みんなボロボロなんだよな。怪我しちゃった奴もいるし」
「そうなんだ」
「だから冬は無理のないペースで、むしろ楽しんで練習しようって監督やみんなで決めたんだよ。そのせいでちょっとユルユルになっちゃってるトコはあるけど」
「でも…、耀君は偉いね。それでも1人でちゃんと練習して」
  ジュースとケーキを勧めながら歩遊が純粋にそう誉めると、耀は「えー?」と困ったように笑いながら少しだけ身体を仰け反らせた。
「俺はこうやって歩遊ん家にサボりに来てんじゃん。大体、そんな事言うなら歩遊の方がよっぽど偉いよ! 折角の休みなのにさぁ、今だって勉強してたんだろ? ごめんな、邪魔しちゃって」
「い、いいよ、そんなの!」
  耀が来てくれた事が歩遊は本当に嬉しいのだ。
  勉強三昧の冬休みに不満があるわけではない。俊史と同じ大学に進学するというのは、俊史から無理矢理課されたものではなく、歩遊自身とて願っている事なのだから。その為にはまだまだ努力が必要な事も重々分かっている。だから、不満はない。
「よ、耀君…その…僕…」
  それでも、こうして学校のない休みに、俊史以外の同年代の人間が来てくれるなんて、歩遊には本当に得難い出来事なのだ。
「……っ」
  それを友達である耀にきちんと伝えたいのに、気持ちばかりが逸って却って何も言い出せない。
「何? どうした?」
「あ…ううん、何でもない。それより、食べてよ。これ、このケーキね―」
「あー、ちょーっと待った! 俺、これ、知ってる!」
  説明しようとする歩遊を耀は突然片手で制した。
「うーん…?」
  そうして何やら考え込むように目を瞑りながら、耀は空いているもう片方の手でケーキを口に運び、やがてパチンと指を鳴らした。
「わーかった! これ、“エステラ”のショコラ・デ・ノエルだろ?」
「あ、当たり!」
  歩遊は耀の嬉しそうな顔に自分も嬉しくなってしまい、ぱっと表情を明るくした。
  エステラという駅前の洋菓子店は、店舗の規模こそ大きくはないが、知る人ぞ知る、甘党には堪らない美味しいケーキを売る店だ。歩遊は何年も前からお気に入りでよく通っているが、俊史は「ケーキなんてどこも同じだろ」と至って無感動なので、一緒に食べていてもあまり張り合いがない。
「耀君、エステラにはよく行くの?」
  途端キラキラと目を輝かせる歩遊に、耀も満面の笑みで応えた。
「最近は全然行ってなかったけど、昔はな。姉貴がよく買ってきてくれたからさ。懐かしいなぁ。俺、甘いもん大好きだからさッ! ここのロールケーキも凄ェ美味いんだよな!」
「うんっ、そうなんだよ! 他のとこよりもカステラがしっとりしてるっていうか。食感が凄くいいよね!」
「うんうん、分かる分かるー」
  耀も深く頷きながら、ニコニコしつつ目の前のケーキを豪快に頬張っている。歩遊は嬉しくて堪らなかった。男のくせに甘い物が大好きだという事を、俊史からは折に触れよくバカにされていた。だから高校に入って初めて仲良くなった耀が自分のお気に入りの店を同じように大好きだと知って、この上なく興奮してしまったのだ。
「あ、歩遊。携帯鳴ってるぞ」
「え?」
  だから歩遊は気付かなかった。
  耀に指摘されてふと震動のする方に目を落とすと、ソファに放置していた携帯電話が煩くブルブルと着信を告げる揺れを見せていた。ディスプレイをよくよく見ると、どうやら最初は電話も来ていたようだ。滅多に鳴らない携帯が突然メロディを奏で出すといつも無駄にドキンと驚いてしまうので、歩遊は普段から消音でバイブにしかしていない。
  電話に出ないものだからメールにしたのだろう。相手は案の定というかで、俊史だった。
「瀬能?」
  耀が慣れたようにそう訊いてきた。歩遊はそのメールを開いた途端さっと青褪めたのだが、耀の方はケーキを食べ終わり、ゆったりとした動作でジュースの入ったグラスを傾けている。
  そうしてしれっとして言ってきた。
「俺を帰せって内容だろ?」
「えっ」
  その言葉に驚いて歩遊がバッと顔を上げると、耀は軽く肩を竦めた後、「やっぱり〜」とウンザリしたように口許を歪めた。
「な、何で? どうして俊ちゃ…瀬能君、耀君がうちにいる事、知ってるの?」
  だって今日は戸辺たちと遊びに行っているはずだ。場所までは知らないけれど、俊史が仲間たちと会う時は大抵この地元ではない都心の方へ行っている。
  それに耀は元々ここへ来る予定だったわけではない。偶々通りかかっただけで、だから尚更俊史が耀の来訪を知るはずはないのだ。
「何で?」
  頭にたくさんのハテナマークを浮かべる歩遊に、耀は「たぶんねー」と無駄に間延びしたような口調で窓の外を指差した。
「俺、ここに来る前、ホントここら辺でなんだけど、俊史のクラスの奴に会っちゃったんだよな。で、一応自主トレで走ってるってのは言ったけど、『そういや歩遊んちってこの辺なんだよな?』って思わず口走っちゃったの。あれはまずった」
「えぇ…?」
  それの一体何が「まずった」なのか、歩遊にはさっぱり分からなかった。
  俊史のクラスメイトに偶然会って、今は自主トレ中で走ってる、そういえば歩遊の家はこの辺り…と耀が言ったところで、それがどうして俊史の耳にわざわざ入るのか。
「歩遊はなぁ、相変わらず“分からない”って顔してるけどさぁ」
  あーあとゆっくりかぶりを振った耀は、先ほどまでのニコニコ顔は引っ込めて、今やすっかり“苦笑”の表情で目の前の同級生をまじまじと見やっていた。
「瀬能はさ、歩遊が思ってる以上にあの学校で発言権があるの。…発言権…? というか、権力?」
「え?」
「瀬能は大半の奴には親切で優しくて何でも出来る王子様的な存在かもしれないけど、一部ではちゃんと歩遊が知ってる“怖い瀬能”なんだよな。それ、俺も最近になって知った感じなんだけど。前は瀬能に心酔してる奴らが率先して協力してるのかと思ってたけど、それだけじゃないっていうか。まぁ、ある意味心酔してるってのもあるんだろうけど」
「な、何の話…?」
  自分に向かって言っているというよりは殆ど独り言の体で話し続ける耀に、歩遊は思い切り混乱した。
  分からない。耀の話は分からない。
  ただ、それは俊史だけではなく、自分にとっても何かとても大切な話なのだというのは分かる。つい先だっての“気まずいクリスマスの夜”を思い出すだに、その“不確かな確信”は歩遊の中でも強くなった。
  その時、また携帯のメールが鳴った。
「わっ」
  歩遊が驚いてびくりと身体を竦めると、耀は「何なんだあいつは…」と呆れたように呟いた。そんな友人をよそに歩遊が再び慌ててメールを開くと、そこには今にも俊史の恫喝が聞こえてきそうな、怒りを感じさせる一文が目に飛び込んできた。

  太刀川のバカは追い出したか? 返信しろ!

「………あの。耀君」
「俺はまだ帰んないぜ。だって、来たばっかじゃん!」
  ふんと鼻を鳴らし、耀は小さな子どものようにそっぽを向いた。歩遊は途端オロオロとなり、携帯を両手で握り締めたまま「何で」と呟いた。
「どうして、しゅ…瀬能君は、耀君といるのをこんなに嫌がるんだろ…」
「別に俺だけに限んないと思うけど」
「え?」
  歩遊が縋るように耀を見つめると、耀は途惑った風にちらと眉をひそめてから、努めて優しい声色で答えた。
「歩遊はクラスでも俺以外の奴とあんまり話さないからな。だから気付けないんだろうけどさ。多分、あいつはお前が誰と話したってこうなるよ。“そいつとは口をきくな、近づくな”って」
「………」
「何でそう言われるか、歩遊は分かる?」
「それは……僕はこんな性格だし、相手をイライラさせるだけだから…そしたら、結局いじめられるの僕だからって」
  歩遊の言葉に耀は心底呆れたような顔をした。
「……あのなぁ、んなわけないだろって。前にも言わなかったっけ? ヤキモチだよ、ヤ・キ・モ・チ!」
「何それ?」
「ぶっ!」
  あまりに真っ直ぐ歩遊が訊くので、耀は飲みかけのジュースを本気で噴き出してしまった。幸い、すぐに手で覆ったお陰で、被害はせいぜいが耀のジャージに飛び散ったくらいだったが。
「歩遊…お前…」
「ち、違うよ、それの意味くらい分かってるよ。そうじゃなくて……」
  歩遊は慌てて首を振りながら早口で答えた。
  そう、ヤキモチの意味くらい知っている。歩遊が言いたいのは、“そんな事”は絶対にないと言う事だ。
  確かに、以前にも似たような遣り取りが耀となされた事はある。その時も耀は俊史が尋常ではない嫉妬魔だからこそ、自分たちが仲良くするのが面白くないのだと力説した。
  俊史は歩遊を耀に取られる事を畏れているのだ、と。
  けれどそれは違うと、歩遊は思ってしまう。
「……あいつは確かに信じらんないくらい横暴だけどさ。歩遊の事、大切には思ってるじゃん」
  突然、珍しく……、というより初めての勢いで俊史を認める発言をした耀に、歩遊は一瞬目を見開いた後、すぐにしっかと頷いた。
「そうだよ、凄く優しいよ、瀬能君は。確かに…時々はちょっと怖いけどね。それも僕がバカでノロマなせいだけど…」
「……で? じゃあ何でヤキモチは違うんだよ?」
「………」
  耀に訊かれて、歩遊は暫し押し黙った。そうしてふっと、あのクリスマスの夜の出来事や、このリビングで俊史にされた数々の出来事を思い浮かべた。
  俊史はとても優しいキスをして、抱きしめてきて。
  そうして歩遊の身体を更にどこか怖いところへ連れて行こうとする。感じた事もない熱を与えようとする。
  それはとても恐ろしいけれど、でも。
「ずっと一緒だったから」
  歩遊は躊躇いながらも口を開いた。
「僕たち、生まれた時からずっと一緒なんだよ。本当に。今年に入って初めてクラスは分かれちゃったけど、それまでは本当、クラスもずっと一緒だったんだ。瀬能君と親とじゃ、瀬能君との方が一緒にいる時間長いし。……だから、家族より家族みたいな感じだし」
「……で?」
  耀は眉をひそめたまま呆れたような表情を崩さない。歩遊はそれですっかり慌ててしまったが、それでもぐっと拳を握ると「それに」と口を切った。
「瀬能君、と……戸辺君と、付き合ってるじゃん」
「………あぁ。そこかぁ」
「男同士ってさ…何か、びっくり、だけど。でも、瀬能君と戸辺君なら不自然じゃ、ないよね? みんな、言ってるし。クラスの女の子たちも、むしろ凄く応援してるって言うか、何か…びっくりするくらい喜んでるし」
「何か変な流れだけどな」
  耀はがしがしと短めの頭髪を掻き毟った後、「ああ、そう」と意味もなく頷いた。
  それからどこか憐れむような目すら向けて、耀は歩遊に向き直った。
「それで、歩遊はさ。そういうの、いいの?」
「え?」
「仮にあの噂が本当だったとしてさ。それならそれで、2人でよろしくやりゃいいじゃん。なのに、相変わらず歩遊はその、何だ? “家族より近い家族”って存在だか何だか知らないけど、それのせいで異様に束縛されてさぁ。静かにしてろって、1人でいろって命令されて。そんなん、従ってられんのかよ?」
「……だって、それは」
  俊史の命令は絶対だ。
  それに、それに逆らって間違った事などこれまでに一度もない。
  俊史はいつでも正しく、歩遊にとっての《正義》なのだ。
「俺とも遊べなくなっていいの?」
「!」
  耀の言葉に歩遊はドキリとして顔を上げた。知らぬ間に足元を見ていて、耀から視線を逸らしていた。恐る恐る、その俊史とは違った意味で精悍とした男らしい顔を見据える。耀はいつでも堂々としていて、怯むところがない。その真っ直ぐな綺麗な瞳がすうっと歩遊を捉えてきて、歩遊は知らずに心臓の鼓動をドクドクと速めた。
「耀君…」
「俺は歩遊と遊びたいよ? だって歩遊は俺の大切なダチだもん」
「……っ」
  耀の言葉に歩遊は思わず涙が出そうになった。
  自分に友達だと言ってくれる人なんて、絶対に現れないと思っていた。俊史も昔から散々言っていた。お前みたいな奴に、誰かが近づいてくる事なんて絶対ないんだから、と。
  だから耀の温かい視線と声が、歩遊にはとても大切なものに思えた。







「歩遊!」
「ひっ!」
  絶対に叱られると分かっていたのに、身構えていても駄目だった。
  歩遊は容赦ない雷を落としてきた俊史に思い切り情けない悲鳴を漏らし、別に殴られるわけでもないのにひゅっと首を竦めた。
「歩遊をいじめてんじゃねーよ!」
  しかし傍には耀がいる。さっとやってきて歩遊を自分の後ろに押しやって立ちはだかると、耀は怒りで今にも殴りかかってきそうな俊史に一歩も引かず対峙した。
「お前の言う通りしてやったじゃねえかっ」
「何だと…?」
  くぐもった低い声で返す俊史に歩遊はただ恐ろしい。それでも耀が「大丈夫だから」と何度も言うので、何とか踏ん張った。耀に事前に言われた事も効いていた。「瀬能がいつもうじうじしているお前が駄目だって言うなら、偶には自己主張してみるのもありかもよ?」と。
  だから歩遊は自分の気持ちを、希望を、俊史にも言ってみようという気になったのだ。
「ここを見ろ」
  そうこうしている間にも耀と俊史の攻防は続いている。耀は歩遊宅の庭を指し示しながら、先刻まで自分たちがいた縁側を殊更強調するように腕を広げてみせた。
「このさっむい時期によ! お前が俺を追い出せというから、俺たち、わざわざ外で遊んでたんだろうが!」
「……バカか…俺はお前に出て行けと……」
「だから! 家からは出てやった。外ならいいだろ!?」
「ふざけんなッ!」
  遂に大声を出した俊史は、何とかガードしようとする耀もするりとかわしてあっという間に歩遊と距離を縮めると、怯えて声も出ない自分の幼馴染の手首をぎゅっと掴んだ。
「いっ…」
「どういうつもりだ、歩遊!」
「お前がどういうつもりだよ、瀬能っ!」
  大体お前、あのメールからすぐに帰ってきやがったなと毒を吐く耀に、しかし俊史はまるで構う風がない。ただ歩遊の手を掴み、厳しい目線で睨みつけてくるだけだ。
「こいつとは話すなって言っただろ!」
「ご、ごめ…」
「謝んなよ、歩遊!」
  今度は耀がきつい口調を放ち、歩遊は「うっ」となって口を閉ざした。そうだった。謝ってはいけないのだった。自分の希望を、自分の願いを。俊史にもきちんと話さないと、それこそ俊史に嫌われてしまう。
「あ、あの…瀬能、君…」
  それで歩遊は勇気を出して、ごくりと唾を飲み込んだ後、言ってみた。
「僕……耀君と、遊びたくて…」
「あぁ!?」
「……っ」
  殺気立った俊史の怒鳴り声と目つきは半端ではない。歩遊は忽ち血の気を失ったが、耀が傍から「ガンバレ歩遊!」と応援してくれるので、やはり引き下がるわけにはいかなかった。
  ちらりと縁側に目をやって、歩遊は精一杯の勇気を総動員させてから俊史にか細い声を出した。
「い、今……耀君とは、あれで遊んでたんだ…。東京の甘味処って本…。前に貴史おじさんがくれた、東京の美味しいお…お菓子の店を集めた、ガイドブック」
「それがどうした」
  俊史の氷よりも冷たい声に歩遊は背中にじわりと汗をかく。掴まれた手首からどんどん氷付けにされていくようだ。
  それでも気のせいか、俊史の手はどこか汗ばんでいるようにも感じたけれど。
「そ、その…。耀君も凄くお菓子の店に詳しくてさ…。当てっこしてたんだ。ルミュアージュを売っているお店の名前…とか、江東区の名店5つ挙げよ、とかさ」
「コアだろ〜。お前は答えられるか、瀬能?」
「お前は黙ってろ!」
「……はいはい」
「歩遊…っ」
  横槍を入れる耀をぴしゃりと黙らせた後、俊史は尚もきつく歩遊を掴み、それからぎりと悔しそうに歯軋りしてから歩遊に言った。
「だからお前は何が言いたいんだ? 俺に何か文句でもあんのか?」
「な、ないよ! あるわけないよ! た、ただ…ただ、俊ちゃんに…言いたくて」
  ハッと一旦息を吐き、歩遊は再度請うように俊史を見上げた。
「その…耀君と遊ぶのは許して欲しいな……って。確かに…僕は、人をイライラさせるのが、う、うまいけど…」
「俺はそんなん一度も思った事ねえよ、歩遊」
  耀が言った。けれど俊史はもうそんな耀を振り返らない。ただじっと歩遊を見下ろし、ひたすらどこか苦しそうな、何か言いたいのに言えないというような。そんな苦渋の表情を湛えている。
「歩遊」
  けれどやがてそれを全て引っ込めて、俊史は言った。
「なら、その問題。俺にも出してみろ」
「え…?」
  言われた事に驚いて歩遊が顔を上げると、俊史はやっとここで歩遊の手を離し、ふっと自らも肩に入れていた力を抜いた。
「俺にもこのバカに出した問題出してみろよ。何でこんなくだらない遊びがしたいのか全然理解出来ないけどな。……その代わり、俺が答えられたらこいつは今すぐ追い出すぞ。けど万が一俺が答えられなかったら、お前の好きにしていい」
「え? で、でも…」
「おぉ〜、いいじゃん、それ! やろうやろう!」
  途惑う歩遊に反し、これには耀が乗り気だった。「じゃあ、むしろ追い出される俺に問題出させろ!」とまで言い出し、縁側に放置されていた本をひょいと持ち上げ、楽しそうにページを手繰る。
「あの…でも…」
  歩遊はオロオロとするのみだったが、そうこうしているうちに2人の間ではそのゲームは行われる事に決まってしまった。俊史はゆっくりと縁側に腰をおろし、耀がその前に立つ。歩遊はそんな2人の間に立つような格好でただボー然とするのみだ。
「んじゃ、出すぞ。洋菓子と和菓子、どっちが得意だ?」
「どっちでもいい、早く出せ」
  無理に決まってる、と歩遊は思った。
  どんな問題にしろ、俊史がこんなクイズ解けるわけがない。確かに俊史もこれまで色々と歩遊に付き合ってきたから、それなりに名のある店には詳しくなっているだろうが、貴史がくれたこの本を歩遊が俊史に見せた事はない。本には、遠くてとても買いに行けないなと眺めるだけで溜息をついていた店も多い。地元以外の問題を出されたらまず間違いなくアウトだろう。
  それとも俊史は敢えてこんな無謀なゲームを買って出て、わざと負ける事で今後自分と耀が遊ぶ事を認めてくれようとしているのだろうか?
(そんなわけはないよな…。俊ちゃん、どんな遊びだって負けるの大嫌いだもん…)
  歩遊は俊史と何かで勝負をし、まともに勝った事が一度もない。子ども同士の遊びだ、一度や二度はあるだろうと誰もが思うが、本当に一度もないのだ。外での遊びは勿論、オセロだろうがトランプだろうが、どんなハンディを貰っても、歩遊はいつも俊史に負けてしまう。ある意味その勝率は(というより、歩遊の負ける確率は)「神がかっている」と双方の両親から揶揄されてもいる。
「よーし、じゃあこれに決めた!」
  そうこうしているうちに耀が元気よく片手を挙げて言った。歩遊がハッとしてそちらを見たと同時、耀は「問題!」と勢いよく言って、本を片手に大袈裟にそれを読み上げた。
「国産素材のこだわりで小麦も国産、卵は宝夢卵を使用! 苺は国産品を指定業者に毎日届けさせているという、松ヶ枝にあるティーサロン併設の洋菓子店とは!? はい、3秒ルールな! さーん―」
「K−POCHE(ケイポッシュ)」
「はやっ!」
「ええっ!?」
  勝負は俊史の瞬殺で決まってしまった。
「な、何で? 俊ちゃん?」
「お前、この本何気に読んでたのかよ〜」
  歩遊と耀の驚愕したり呆れたりの視線をよそに、俊史は無表情のままさっと立ち上がると耀から本をばしりと奪い取り、そのままその「敵」の身体をドンと押した。
「俺が勝った。さっさと出てけ」
「わ…分かった、分かったから、テメ、押すなって―」
「出てけ。もう歩遊に近づくな」
「そこまでは約束してねっての…!」
「耀君…!」
「歩遊〜、まあ今日は帰るよ。今度はスパイに見つからないように来るわ! じゃあな、良いお年を!」
  心配そうにする歩遊を安心させる為だろう。大丈夫だという風に微笑み、耀は清々としたような顔をしながら、片手を振ってあっさりと出て行ってしまった。
  俊史は最後までしつこく耀が本当に通りの向こうに消えるまで見張っていたが、歩遊はただ唖然としたまま、そんな俊史の背中をじっと見やり続けた。
  どうして知っていたのだろう。
  あの本。確かに、別に見てはいけないものでもなし、歩遊もしょっちゅう眺めていたから、リビングの所によく置いてはいたけれど。
  俊史は興味などないはずだ。それなのに、いつの間にあんな店名まで覚えてしまうほどに暗記してしまったのか。
「ったく、やっと消えやがった……」
  歩遊がボー然としている間に、俊史がようやくふうと安心したように息を吐いて振り返ってきた。表情は未だ不機嫌なままだったが、歩遊があまりに呆けた顔をしていたから、毒気を抜かれたのかもしれない。途端怪訝な顔になり、「何だよ」と憮然とした声を出す。
「何か文句あるのか…。俺はお前らが言った通り勝負に勝ったから奴を―」
「…も、文句なんかない、けど…」
  耀には後できちんと謝らなければと思いつつ、それでも歩遊は今ある疑問をどうしても拭えなくて俊史を見つめた。
「な…何だよ…」
  すると歩遊が怒って文句でも言うと思ったのだろうか。いやに真っ直ぐの視線を向けられたという事もあり、俊史は珍しく面食らってどもった。
「お、お前が俺の言う事をきかないから、俺は―」
「俊ちゃん…いつの間に、その本読んでたの?」
「は…は? ……別に、いつだっていいだろ…」
「でも…、凄いね。やっぱり俊ちゃんは凄い…」
「な…別に…」
  ぼそぼそと呟くように答える俊史に、歩遊は少しだけ不思議に思って首をかしげたものの、すぐに場を取り繕うように明るい声を出してみた。
「あ、ねえ、他の問題も出したら解ける? 僕、出してみてもいい?」
「あ? ……あぁ…別にいいけど……めんどくせえな……」
  その歩遊の「気遣い」は、どうやら今の俊史の方にとっても、ありがたいものだったようだ。未だどこか決まり悪そうな、ぶすっとした空気は纏っていたものの、いつまでも歩遊を寒空の下に置いておくのが嫌だったのだろう。俊史はぐっと歩遊を自らの懐へ抱き寄せると、「早く中に入るぞ」と言って玄関へ向かって歩き出した。
「あ、うん…」
  だから歩遊も素直に頷き、ぎゅうと潰されそうなほどに引き寄せられた身体に途惑いながらも、俊史の胸に顔を寄せた。
  温かい。俊史の傍はやっぱり居心地が良い。
  だから歩遊は更にきゅっと俊史に鼻面を擦り付けながら、この休み中はあの本に載っている店のどこか1件くらいは行けたらいいなと思った。

  そして出来れば、それはここにいる俊史と一緒に、と。



 










もの凄くお待たせしてしまったのですが(汗)、333333のキリリク作品です。
リク内容は、「ゲームか何かで珍しく歩遊が得意気、俊史が悔しそうにする」
でしたが…結局俊ちゃん勝っちゃった(爆)。
クリスマス後のちょっと一息ついた感じのお話になりました。