もっとしたいこと



  歩遊の髪の毛はいつも俊史が切っている。中学に上がるまでは祖母が切ってくれていたが、ある時から俊史が急に「俺がやる」と言い出して、今に至るまでその習慣は続いている。
  お陰で歩遊は床屋へ行ったことがない。

「ちょっと伸びてきたな。切るか」

  そしてそれは問いかけというより「即決行」の口ぶりから始まり、俊史がそうと決めたら、歩遊も全くの無抵抗で「うん」と頷く。もともと髪型にこだわりなどない。前髪が視界の妨げにならない程度に短ければそれで良いし、後ろも、首筋がすべて隠れるくらい長くなってきたら適当に切ってもらえれば。
  また俊史が勝手にやっていると言っても、これが意外にも巧い。恐らく歩遊の両親も、俊史の父が呆れたようにこの事実を「告げ口」しなければ、息子はいつも床屋なり美容院なりで髪を切っていると思い続けたに違いなかった。
  それに、普通の人間は考えないだろう。一般の男子高校生が、隣の家に住む同年の男子から、毎度髪を切ってもらっているなどと。

「俊ちゃんは、将来、美容師になりたいとかあるの」

  一度何気なく、歩遊がそれを訊ねたことがある。そう、それならば不思議はない。元来そういうことに興味があって、将来もそちらの方面へ進みたいと考えているのなら、幼馴染などは恰好の練習台と言えるだろうから。

「は? なりたいわけねーだろ。他人の髪、触るとか、気持ち悪いだろーが」

  しかし俊史は何の躊躇いもなくそう言った。その際中もすでに歩遊への散髪は始まっていて、平然と歩遊の髪の毛を触っているにも関わらず、だ。俊史は自らのその発言にまるで矛盾を感じていないようだった。
  それで歩遊は当然の如く「僕は他人じゃないの」と訊きそうになったのだが、何故か寸でのところで思いとどまり、口をつぐんだ。本能が、「それを訊けば俊史はまたきっとひどく怒る」と告げていたし、口を開きかけた瞬間、前髪に取り掛かっていた俊史から「髪の毛入るぞ」と注意されたからというのもある。そのため歩遊はそれきりその質問をやめ、俊史もそれについて突っ込んできたりはしなかったから、以来、2人の間で美容師うんぬんの話題が出たことはない。
  しかしある日、いつもの夜の時間に。
  2人でソファに並び座っていた時のことだ。夕食を済ませて、歩遊は割とよく見る自然番組を鑑賞、俊史は雑誌を眺めていたのだが、その俊史が視線は下に落としたままで、何ともなしに歩遊の身体を引き寄せた。
「ん?」
  番組に集中しかけていた歩遊はそれに驚いてちらと俊史を見上げたのだが、俊史は歩遊を見ていなかった。ただ何となく、傍にあった気持ち良い感触の「もの」を自分の元へ引っ張った、とでもいうような感じだ。
(えっと……これは……)
  しかし歩遊はそこらのクッションでも何でもない。
  懐に引き寄せられた格好になったので、自然、態勢が崩れてテレビから視線がずれたし、何より自らの体重を俊史にかけてしまうことになるため、戸惑った。俊史とてこんな状態では本が読みにくくないのか。自分は邪魔ではないのだろうか。しかしこうして引っ張ってきたのは俊史の方だし、逆らうように身体を引きでもしたら怒られるかもしれない。ならばこのまま寄りかかっているべきか。
  歩遊がそうして悶々と考えている間、俊史は依然としてマイペースだ。今度は歩遊の髪の毛をまさぐりながら、膝にのせた雑誌のページをもう片方の手でぱらりとめくった。俊史は他人の髪など触りたくないと言う。けれど歩遊の髪の毛はこうしてしょっちゅう触ってくる。
  だから、つまり、これが。
  これが、「付き合っている」ということなのだろうか。だから自分だけは特別なのだろうか。いや、思いあがってはいけない、俊史の真意を探ってはいけない…俊史は言葉を嫌うから。第一、こういったことは「付き合う」前からもあった。俊史にしてみれば何てことのない行為なのかも。
  それでも最近の歩遊は俊史と2人だけでこういうことが起きるとつい、いろいろなことを考えてしまう。
(……ん?)
  段々とそのことに息苦しさを感じて、歩遊は視線を下に移した。俊史が見ている雑誌。それはどこかの国の古い城跡を紹介したページで、どうやら貴重な文化遺産らしい。薄赤い夕暮れをバックに高い城壁とそれを囲む山々とが神々しく写し出されていて、歩遊は思わず、俊史の懐から乗り出すようにしてその写真を覗きこんだ。
「きれいだね」
「この城の修復作業、日本の建設会社が関わっているんだと」
「そうなの? すごいね」
  建築のことは分からないが、歩遊は同じ国の人間が異国の遺産を保護する活動をしているということに、とても誇らしい気持ちがした。日本人は器用だとは常々言われていることだけれど、自国の技術が世界で認められ、遠い異国の役に立っているという話は、普段その手の話に興味がなくても、率直に「嬉しい」と感じた。
  それに、珍しく何かに興味を持っているような俊史の態度にも。
  だから少しだけ気分を上昇させて訊いてみた。
「俊ちゃんもこういう仕事をしてみたいって思う?」
「別に」
「でも俊ちゃんも器用だから…」
  俊史は何でもできるから、例えば散髪といった細かい作業も得意だろうけれど、逆にこうした大きなものを造る分野でも良い仕事ができるだろう。時にこうした仕事にこそ繊細さというか、細やかな心配りは必要であろうし。
  俊史は何でもできるのに、何に対しても興味が薄くて、「別に」が口癖のようになっている。それが実にもったいないと、歩遊はこのところ特に残念に思っていた。当然そんなことは口が裂けても言えないことだが。
  そうこうしている間にも、俊史は歩遊の髪をまさぐっていた。雑誌を見ているのかいないのかも分からない。そのような状態で歩遊はただ抱えられているだけの今の態勢にソワソワした。
  もっといろいろなことを、先のことも話したりしたい。
「え、この人が社長さん? 若いね!?」
  だから勝手に次のページをめくって、歩遊はそこに見えた写真に驚きの声をあげた。その特集記事が紹介している、件の会社を仕切る人物の姿があまりに意外で目を引いたから。
「うわぁ、まだ30代なんだ、この人。すごいなー、カッコイイ」
「は?」
「……!」
  しまったと思ったが遅かった。
  別に歩遊は悪くない。思ったことを言って何が悪いのだという感じだし、そもそもテレビを見ていた歩遊を問答無用に引き寄せて、一緒にこの雑誌を見ろとでもいうような態勢に持っていったのは俊史である。それで、そこに特集されていた「世界で活躍する日本人」の若きリーダーに憧れと尊敬の念を持ったとて、それを責める権利は誰にもない。
  はずである。
「お前、こういうのがいいの」
「こっ、こういうのって?」
  心なしか肩が痛い。ぎゅっと掴まれて歩遊は困ったように俊史を見やった。俊史の怒り具合を10段階で評価したら、たぶん、今はまだ5ぐらいだ。ちょっとむっとしている感じ?
  それでも歩遊にとってそれは十分怖いものだった。
「こういうオッサンがタイプなのかって訊いてんの。そういやお前って、俺の親父ともやたらべたべたするもんな」
「タイプって…そんなんじゃないよ、ただスゴイなって思っただけで! だ、大体、おじさんともべたべたなんてしてないし!」
「してる」
「してない!」
「こんなのの何がいいんだよ? 会社イッコ持ってるってのがそんなにスゴイのか?  そういう意味じゃ、確かにうちの親も会社持ちだけど、あれはババアの金使って好き勝手やっているだけだぞ」
「……俊ちゃんって、何でそんなにおじさんのことが嫌いなの?」
「悪いかよ」
「悪くないけど…。でも、自分の父親なのに。おばさんのことだって…凄く綺麗で、全然ババア、なんて感じじゃないのに…」
「あんな奴ら、ジジババで十分だろ」
「やっぱり嫌いなんだ……おじさん達のこと」
「基本的に好きな奴なんていねーよ」
「え」
「どいつもこいつも鬱陶しいし」
「………」
  思わず「僕も?」と訊きそうになって、また歩遊は口を閉じた。これはあの美容師の時の下りと同じ展開である。きっと訊いたら怒られる。
「何考えてんだよ、歩遊」
「えっ…別に」
「別にじゃねーよ。言いたいことあるなら言え」
「特にないよ!」
  自分とて「別に」を連発するくせに、歩遊には許さないとは理不尽である。
  勿論、歩遊自身もそれを感じたから抵抗したわけだが、俊史にそれが通用するわけもない。
「何? おまえ、俺に反抗してんの?」
  まさぐられていた髪から俊史の手が離れ、逆に両手で両頬を掴まれた。
「んっ」
  無理やり顔を見合される形を取らされて、その後、強引にキスされる。歩遊は思わず目を瞑ったが、一度した後も繰り返されるので、その感触だけで顔が熱くなるのを感じた。
  俊史は何だかんだ言って歩遊にはよく触れる。髪だけではない、今みたいに、肩も頬も、そして唇にも。
  隙さえあれば触れてくる。
  そのくせ、こんな風に怒るのだ。
「僕はただ…俊ちゃんと将来のこととか…いろいろ話したいと思っただけ」
「将来?」
  俊史が眉をひそめて歩遊をまじまじと見つめてきた。頬に当てた両手は離さぬままだ。だから歩遊は動かせない顔の代わりに視線をあちこちに移動させながら、窮屈そうに、しかしきっぱりと告げた。
「俊ちゃんにはいろんな才能があるんだから…。だから、将来の仕事のこととか…別に仕事じゃなくてもいいんだけど、興味のあることとか、やりたいことを知りたいって思うんだ。でも俊ちゃんはすぐ別にないって言うし」
「ないものはない。それが悪いか」
「悪くはないけど…。でも、勿体ないよ」
  歩遊の言葉に俊史はさらに眉間の皺を深くした。そうなると歩遊もこれ以上はまずいかと焦った気持ちになったが、如何せん、俊史から拘束されたままなので逃げることも叶わない。
  だからこの際、言ってしまってもいいような、半ばヤケクソな想いも半分あって、思いきって続けみることにした。
「これ言うと俊ちゃん絶対怒ると思うけど、お、おじさんのことだって、俊ちゃんが凄く悪く言うの、僕はいっ…嫌なんだ。確かにおじさんも俊ちゃんには厳しいって言うか、口の悪いところあるけど、でもそれって、しゅ…俊ちゃんを、息子として心配しているからだと思うし」
「見当違い甚だしいな、お前」
「え」
「お前はあいつを分かっていない」
  全く愚かな奴だという風なリアクションを取られて、さすがの歩遊も鼻白んだ。折角一生懸命話したのに。
「じゃ、じゃあ、俊ちゃんは分かってるの!? おじさんのことや…自分のことだって!」
「は!?」
「……っ」
  さすがに言い過ぎたかと思って歩遊は咄嗟に目を瞑った。条件反射だ。もしかするとこの頬を圧迫された状態から一転、強烈な平手打ちが来るかも。そんな予感が過ったからだが、しかし俊史はそうして怯える歩遊に、「とりあえず」は何もしなかった。
  何もせずに両手を離して、それから――深いため息をついただけ。
「……俊ちゃん?」
「俺の将来が気になるか」
「え」
「俺がどんな奴になるか気になるか」
「そりゃあ……当たり前だよ」
「何で」
「な、何で? それは…だって…俊ちゃんの、ことだから」
「意味分かんねえ。何でお前は俺のことが気になるのか、その理由を言えって言ってんだよ」
  ぐいと顔が接近してきて迫られる。歩遊はそれにぐっとなって背中を少し仰け反らせたが、すぐに覆いかぶさられるように近づかれて逃げ場は消えた。
  しかも俊史は歩遊の上に乗りかかるようにしてさらに身体を密着させると、わざとなのか、歩遊の股間に自らの膝を挟み込むように入れてきてから、再び頬をさらりと撫でた。
  目が合って、歩遊はゾワリと身体を泡立たせた。
「俊ちゃ…」
「おら。早く言えよ」
「なんっ…何だっけ」
「バカ。何でお前が俺の将来を気にするのかって話だ」
「だって……それは、俊ちゃんのことだから」
「だから、それじゃ理由にならないって言ってんだ。お前にとって俺は何だ」
「何? それ、それは、こ……」
  恋人、と言おうとして歩遊は思い切り躊躇った。気恥ずかしいセリフだし、俊史にバカにされるかも、呆れられるかもしれないと咄嗟に思った。
  何故って、歩遊は今もって俊史の求め全てに応えることはできない中途半端な存在だ。それくらいの意識はある。「付き合っている」自覚があることは以前俊史にも伝わったようだが、だからと言って、例えば今のような「こういう状態」には怯えが走る。どうして良いか分からなくなる。つまり、俊史を恋人として十分に満足させていない。こうして常に触れ、接近してくる俊史とは、本来、身体より気持ちの部分で繋がりたい想いが強い。
  だからこそ、今だっていろいろ話したいと思ったのに。
  混乱する頭はただぐるぐるするばかりで言葉が出ない。歩遊は心底困ってしまった。
「はあ……」
  すると、暗い視界の上方から、またしても大きなため息が落ちてきた。そろりと目を開くと、そこには俊史のアップがあって、その当人がどうやら深く嘆息したのだと理解した。
  歩遊の胸は微かに痛んだ。どうしようもなく俊史に申し訳ない気持ちがして。
「好き…」
  だから思わず、といった風に、歩遊は口を開いた。しかし俊史は不審な顔をしただけで、すぐさまその単語を拾いはしなかった。
「す…!」
  そこで歩遊はもう一度と勢いをつけて、俊史の肩先を強く掴むと繰り返した。
「俊ちゃんが好きだ。好きだから、知りたい。俊ちゃんのことだけど、僕も一緒に、俊ちゃんの将来を考えたい。……俊ちゃんが僕のこと考えてくれているみたいに」
「……俺が?」
「う、うん。だって…俊ちゃんはいつも僕の先のことだって考えてくれてるじゃん」
  それは俊史が歩遊に勉強を強要して自分と同レベルの大学を目指せと言ったりすることを指しており、その場に関係のない第三者がいたら「それは将来を考えてくれていることではない」というツッコミが入ったに違いなかった。…が、幸か不幸か、そこには2人しかいない。だから歩遊のおかしな善意の取り方を非難するものはなく、またそのお陰で俊史を冷静にすることにも成功していた。
  案の定、俊史はどこか気まずそうな顔をした後、ぐいと歩遊の手を取ってその身体を起こし、自らも態勢を立て直すとシンと黙りこくった。そうして、ふっと視線は逸らしたものの、やがて「お前さ」といやに静かな声色で言った。
「そのお人よしな性格を見せるのは俺の前でだけにしろよ」
「え?」
「俺がお前の世話を焼くのは、お前がそうやって危なっかしいからだ」
「う、うん…? 知っているけど…」
「ふざけんな、分かってねーよ。お前は何も分かってない」
「ごめん」
「けど」
  俊史はちろりと歩遊を見てから、またその手を引っ張り、再び自分の懐へと抱き込んだ。それからそのまま歩遊の髪の毛をまさぐりつつ、そこに何度もキスをして、「とにかく」と偉そうに言った。
「さっきの答えは悪くなかった。そういうことなら、俺の将来をお前に決めさせてやってもいい」
「え?」
「お前がなれってものになってやってもいい」
  至極当然のようにそう言う俊史に、歩遊はぎょっとし顔を上げた。
「ちょっ…えぇ? いやそれはおかしいよ、僕はただ一緒に将来について考えたいって」
「だから俺はそんな希望とか特にないって言ってんだよ。分かんねーから、お前が考えろよ。だって俺のことが好きで、心配なんだろ」
「いやでも、それはおかし…」
「その代わり、お前のことは俺が考えてやる」
「え」
「お前の面倒も俺が見てやるから」
「俊……」
「当面は、それでいいだろ」
  何がいいのかさっぱり分からない。どう考えても間違っている。
「ちょっ…俊ちゃ…」
  それなのに、今の俊史は急に機嫌が良くなったようで、急くような甘いキスを歩遊にしかけてくる。だから歩遊もそれ以上は何も言えず、ただ奪われる唇から息を吸うのがやっとで、翻弄されるままに身体を預けて。
  何も考えられなくなる。
「ん……」
「お前ってキスする時、本当…」
  俊史が呆れたようにつぶやいた。歩遊が焦って目を開くと、そこには何がおかしいのか、かなり珍しい俊史の笑顔があった。
  そして歩遊と目があうや否やまたすぐにその唇を寄せてきて。
  そっと重ねるキスをした後、「歩遊」とその名を優しく呼んで。
「今日のお前は、ちょっと可愛いな」
  ――などと、歩遊が驚きで飛び上がらんばかりのことを言った。

  お陰で将来のことなど何もかも、歩遊の思考は吹っ飛んだ。