些細なきっかけと胸の痛み
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日曜日。遠慮のない激しいチャイム音によって、歩遊はのそりとベッドから起き出した。昨晩はお気に入りのCDを何べんも聴き返して夜更かししていたから、昼に近いその時間でもまだ眠かったし、本音としては居留守を使いたかった。 「俊ちゃん…?」 それでも我慢して玄関にまで出て行ったのは、昨晩会えなかった俊史が来たかもしれないと思ったからだ。いつもは歩遊の家に来て一緒に夕食を取る俊史が、昨日だけは「優たちと遊びに行く」と言って一度も顔を見せなかった。最近は一緒にいる時間も長かったから歩遊はそれを酷く寂しく思ったし、だからこそ昨晩は大好きな音楽を聴いて気を紛らわせていたのだが―…。 「俊ちゃ…」 しかし予期せぬ来客が本当に俊史なら、彼はいちいちインターフォンを鳴らしたりしない。いつも家にやって来る時は、歩遊の両親から預かっている合鍵で何の断りもなしに入ってくるのが当たり前だからだ。 けれどこの時の歩遊にそんな考えは欠片も思い浮かばなかった。 「歩遊ちゃん! 久しぶりぃ!」 「わっ…ぷ!」 だからドアを開けた途端発せられたその声と突然の抱擁に、歩遊は思い切り面食らって目をチカチカさせた。 来訪者の「彼」は俊史ではない。俊史と同じ血を持つ人間ではあるけれど。 「お、おじさ…」 「いやぁ本当ご無沙汰だったねえ、歩遊ちゃん! 元気だったかあ!? うわあ、本当久々だなあ!」 「う…ちょ…」 身体を屈めてぐりぐりと激しく歩遊に頬ずりをしてくるその人物は、俊史の父親・貴史(たかふみ)だった。背の高い彼に抱かれると胸の辺りに顔が埋まって何も見えないのだが、向こうもそれを不便と感じたのだろう、割と早くに拘束を緩めると歩遊の顔をまじまじと覗きこんできた。 「うん、元気そうだな! あ、これお土産のケーキ! 歩遊ちゃんの大好きなあのお店のだよー? 苺のもチョコレートのもチーズのもあるから! 勿論、全部食べちゃっていいよ!? どうせミキさん達、また全然帰ってきてないんだろう?」 「あ…う、うん…。で、でも、一昨日は電話を…くれたから…」 早口でまくしたてる貴史に歩遊はどもりつつも慌ててそう答えた。さすが俊史の父親と言うべきか、彼の言葉に遅れまいと会話をするのは、歩遊にとってはいつでも大変な作業なのだ。それが突然となれば尚更だ。 しかし貴史にしてみるとそういう歩遊の必死さは却ってツボなのか、俊史のようにイライラする事もなく、「あぁ可愛いなあ、優しいなあ、相変わらずだ!」などと満足そうに頷いている。 「いや、でもなぁ」 それでもその笑顔を引っ込めた後、貴史はケーキの箱を歩遊に押し付け、困ったものだという風に肩を竦めた。 「ミキさん達も度が過ぎてるというかなぁ。俺がこんな可愛い息子持ってたら、絶対こんなに長い間家に独りで置いとくなんてしないのに」 「また…そんな…」 俊史よりも更に背の高い、モデルのような体躯。仕事場から直接帰ってきたのだろうか、着ているスーツやシャツはよれよれ、髪もボサボサで顎には無精髭が生えているし、眼にも疲れが見え隠れしている。…それでも、俊史の父・貴史は若々しくて「カッコイイ男性」だった。乱れたそんな姿すらどこか色気があり、いつも「おじさん」などと呼んでいいのかと迷ってしまう。年は歩遊の父と同じく40代だが、この甘いマスクと秀麗な微笑みを見ると、歩遊はいつも「お父さんとは全然違うな」と思ってしまう。 「それで」 ぼんやりとそんな事を考えている歩遊に、ふいに貴史が口調を変えて訊いてきた。 「うちのバカ息子は来てる? どうせまた泊まってるんでしょ?」 「え…あ、ううん、俊ちゃんは…」 歩遊が緩く首を振るのを、貴史は意外そうに目を見開いた。 「あれ、来てないの? 何だ、電話にも出ないから、どうせこっちに入り浸ってるんだろうと思ってたんだけどな。あのクソガキ、生意気にも夜遊びなんか覚えやがったのか」 いつもニコニコしている俊史の父だが、しかしその笑顔は歩遊限定である…というのが、俊史と俊史の母の言である。実際彼は実の息子である俊史にはかなり厳しいところがある為、歩遊は俊史が怒られてはいけないと必死に口を開いた。 「……い、いつもじゃないよ? 昨日は…何か、友達と約束があるって言ってて」 「ふうん? 友達と? どうせ女だろ? あいつ、如何にもなエロい顔してるもん。誰に似たんだか」 「しゅ…俊ちゃんは、おじさん似だと思うけど……」 「えー、歩遊ちゃん、そりゃあ、おじさん傷つくなぁ!」 あんなのと一緒にするなよーと冗談めかしく笑った後、しかし貴史はまたガラリと表情を変え、眉をひそめると腕組をした。 「しかし仮にホント友達と遊んでるんだったらな、歩遊ちゃんも誘えってんだよ、なぁ? それ感じ悪いだろう。いつも一緒に遊んでいた仲なんだから」 「……今は、別に」 「あれ? あんまりつるんでないの?」 そうは思えんがと独りごちた貴史だが、ふと昨夜の孤独を思い出して俯いてしまった歩遊を認めるとすぐさま慰めるように手を差し出し、ぐしゃぐしゃと頭を撫でてきた。 「まぁ、あのバカの事はどうでもいいさ。いないならいないで煩くなくていい。歩遊ちゃん、久しぶりにお話しよう? おじさん、腹も減ってるしなぁ、歩遊ちゃん家で飯食ってっていいか?」 歩遊が生まれる前から家族ぐるみの付き合いをしている瀬能家と相羽家は、血縁関係は全くないが、「遠くの親戚より近くの他人」そのままに、とても近しい付き合いをしていた。 両夫婦に同時期子どもが出来たという事と、生き方に対する価値観が非常に似通っていた事が大きかったのは間違いない。俊史の両親は服飾関係、歩遊の両親は出版関係と職種は違ったが、夫婦で同じ仕事をしている点も同じだったし、異常なワーカホリックで、しかもどちらかというと母親である女性陣の方が仕事中毒である点も共通していた。 だから俊史も歩遊も幼い頃から両親に育ててもらったという意識はなく、2人の幼児期を面倒見ていたのは歩遊の祖母であり、2人にとっての頼りになる大人と言ったらそれも彼女しかいなかったと言える。 「あんなの親と呼べないだろ」 特に俊史は両親をあまり…というか、かなり嫌っていた。親が傍にいなくて寂しいと言った感情も欠落していて、歩遊と歩遊の祖母がいれば生活に支障を感じていなかったようだ。俊史は偶に帰ってくる両親とは逆にどう接したら良いか分からないでいるようだった。歩遊などは何故うちにはいつも両親がいないのかと悲しんでいたし、それによって時に泣き出したりして祖母や俊史を困らせた事もあるのだが、俊史は「あんなの別にいてもいなくても同じだ」とかなり親不孝な発言を繰り返していた。 だから俊史の両親はいつも歩遊や歩遊の両親に「歩遊ちゃんと俊史を交換してくれないか」と半ば真顔で言ったりしていた(そういう無神経な発言が更に親子間の溝を深めたとも言えるが)。 そう、世間では「出来る俊史に、出来損ないの歩遊」という評価で、誰もが俊史に注目し俊史を慕うが、こと瀬能家に関しては逆転現象が起きていたのだ。 即ち、「素直な歩遊ちゃんの方が可愛い、歩遊ちゃんを息子に欲しかった」と。 特に俊史の父・貴史の歩遊に対する可愛がりようは、案の定というかでいつも無駄に俊史の怒りを買っていた。 「歩遊ちゃんは本当にいつ見ても可愛いよなぁ。ほら、またおじさんに抱っこさせてよ」 「も、もう僕、そんな子どもじゃないよ」 リビングのソファでも玄関先でやられたようにぐりぐりと顔を擦り付けられて、歩遊は困ったように俊史の父を必死に押し返そうとしていた。俊史の父による歩遊へのスキンシップは、見方によってはセクハラ以外の何物でもない。それでも歩遊自身、貴史からは幼い頃から可愛がってもらい懐いている事もあって徹底的には逆らえない。だから彼が相羽家で勝手に作って勝手に済ませた食事の後は、もてなしとして出した紅茶と持ってきてもらったケーキを前に、第三者から見たら激しく異様な、「がっちり抱擁された体勢」を取らされている歩遊であった。 「しかし歩遊ちゃん。ミキさん達、こんなに帰ってこなくて食事とかどうしてんの? 色々困る事も多いんじゃないの?」 けれどひとしきり歩遊を愛でて満足したのだろう、貴史はようやく身体を放して歩遊を自由にしてやると、ケーキを食べるよう促しながら当然の質問をしてきた。 「あの人たち取材の時もそうだけど、一旦編集作業入ると何もかも忘れるでしょ。人格まで変わっちゃってるし。まあ確かに自分らで何もかんもやるのは大変だけど、それにしても育児放棄し過ぎだよな。あ、うちは別にいいんだけどね。ガキがあれだから」 おどけたように言う貴史に歩遊は苦笑いをしながら首を振った。 「僕、全然困ってないよ。もう寂しいとかもないし…」 「本当?」 「ほ、本当だよ…。もう高校2年だよ?」 貴史の探るような目に焦って歩遊は握っていたフォークを取り落としそうになった。 だから慌てて続ける。 「それにご飯は…俊ちゃんがいつも作りに来てくれるから」 「はあ? 夕飯を? あいつが?」 「うん。前は時々だったけど、最近は毎日作りに来てくれる。昨日も…ご飯は一緒じゃなかったけど、朝のうちからおかず置いてってくれてたし」 歩遊はケーキを切り分けながら必死に「自分は大丈夫だ」という事をアピールしてみせた。確かに両親があまりに帰ってこなくて寂しい事はまだまだあるけれど、彼らが自分たちの仕事に対してどのような熱意を持って取り組んでいるかはもう知っているし、そもそも「愛されていない」という感覚もない。 それに俊史がいる。歩遊はそれを貴史に分かってもらいたかった。 「ふうん…」 けれど貴史は歩遊とは全く別のところに疑問を抱いたようだ。 「それで普段は基本あいつもこっちで飯食ってるの? 食費とかどっち持ちなわけ? まさかあいつ、ミキさんから金貰ってるとか?」 「あ…うん。お金は、お母さんから時々貰ってるって言ってた。でも多分、俊ちゃんが自分のお金出してくれてる事も多いと思う…。だから僕、ずっと悪いって思ってて、お母さんにお金の事もっと言わなくちゃって思ってた」 「いいよ、そんなの。どうせあいつの事だから、何かセコイ事して金稼いでんだろ?」 「そんな事…」 視線を上げて歩遊は困ったように否定しようとしたが、貴史は取り合わなかった。 「何であんなに生意気なんだ、あいつは。この間だって俺が金困ってんだろうって生活費振り込んだのに、使ってないんだよ。『テメエは親のくせに遅ェんだよ!』って文句だけはつけてきてたけど。メールで」 「そ、そうなの…?」 「そうだよー。もう。…ああ、あと飯もそうだけど、他に要る物とか大丈夫? 服とかさ、あんまり買ってもらってないんじゃない?」 「そんな事ないよ。あの…俊ちゃんが時々買ってきてくれるし」 「はぁ?」 貴史の素っ頓狂な声に歩遊はびくりと身体を揺らした。まずい事を言ってしまったのだろうかと後悔が走るが、今さら止められない。元々嘘をつく事など出来ないのだ。 「ぼ、僕、悪いからいいっていつも言ってるんだけど。俊ちゃん、そういうだらしないの嫌いだからって。ちゃんとしろって」 「……何を偉そうに。……しかし、なあ。もしかしてあいつ。歩遊ちゃんのパンツとかも買ってあげてたりして?」 「………」 歩遊が咄嗟に黙りこむと、貴史はあんぐりと口を開けて暫し何も発しようとはしなかった……が、やがてげほごほと咳き込みつつ、前のめりになって窺い見るような視線を向けた。 「ああ、そう。あいつ…まあ、安心した。歩遊ちゃんのこと、ちゃんと面倒見てるんだ?」 「……僕、俊ちゃんに迷惑ばっかりかけてて」 「違う違う。あのバカが勝手にやりたくてやってるんだから、それは気にしなくていいよ。気を遣う必要もないからね。むしろどんどんたかってやっていいよ」 「でも…」 「それよりおじさんも歩遊ちゃんに何か買ってあげるよ。もうすぐクリスマスだしなあ、何がいい!? 歩遊ちゃんの好きなもん、おじさん何でも買ってあげるから。お、勿論、特性の特大ケーキは予定に組み込まれてるから、それ以外のものな!」 「プ、プレゼントなんて…。僕もう高校生だし」 歩遊がしきりと首を振るのを、貴史はまた「だーめだめ」と言って無駄に抱き寄せ自身の顔を歩遊の髪に擦りつけた。 「クリスマスプレゼントは毎年恒例、どうせミキさん達だって俊史に何かくれるんだろうから、遠慮しなくていいよ。どう? 何がいい? おじさんだけでなくて、うちのおばさんも歩遊ちゃんには贅沢なもん送りたいって言ってたからなあ、お金に糸目はつけないぞ?」 「で、でも僕……あ! じゃ…じゃあ、クリスマスの日はみんな一緒に…?」 「あー…。それは……未定だな。今ちょっと色々と立て込んでいるからなぁ…」 ごめんなと貴史は心底申し訳なさそうに謝ってから、「でも」と再び綺麗な笑顔を見せた。 「歩遊ちゃんのプレゼントだけはちゃんとクリスマス前には届けるからな。何が欲しいかよくよく考えておいてくれな?」 歩遊の前髪をかき分けるようにして優しく触れながら、貴史は歩遊の顔をまじまじと覗き見てそう言った。歩遊はそんな貴史を見つめ返し、「ああこの目は本当に俊ちゃんに似てる」と思った。俊史とは違ってふざけたり軽口を叩いたりする事の多いおちゃらけた人ではあるが、歩遊はそういうところも好きだと思っていた。俊史とはまた違った意味で凄いし、尊敬もしているのだ。 「おい!!」 けれど俊史は、そんな父親がやっぱり大嫌いらしい。 「何してんだ…テメエ……」 リビングに入ってすぐ己の鞄をぼとりと取り落とした俊史は、最初こそ半ばボー然としていたものの、すぐに殺気立った顔でツカツカと2人の元に歩み寄り、歩遊の腕を掴んだ。 「あっ…」 あまりの痛さに歩遊は顔をしかめたが、対する俊史はそんな事まるで構わないという風だ。無理矢理立たせた歩遊をあっという間に自分の後ろへ追いやってしまい、視線は実の父へ真っ直ぐに向ける。 「ここで何してんだって訊いてんだよ」 「何ってえ?」 いやに間延びした声で父である貴史はソファから俊史を見上げた。それは久方ぶりの父と息子の対面にしてはあまりに冷ややかで素っ気無くて、その上「物騒」なものだった。 それでも貴史の表情自体に重苦しいものはない。悠々と長い足を組みながら、彼は息子である俊史にバカにしたような声を投げた。 「見れば分かるだろう。久々の帰還だから、可愛い歩遊ちゃんの顔見に来たんだよ。色々と普段の様子とかも訊きたいしな」 「お前ん家は隣だろうが」 「どっちも同じようなもんだろ」 「ふざけんな! 図々しいんだよテメエは!」 貴史は俊史が普段口にしている事(=「どっちも同じようなもん」)を発しただけなのだが、俊史はただただ怒りに満ちた眼と声で実の父を威嚇した。その上、背後へやった歩遊の姿はひたすら彼には見えないように隠している。まるで大事な物を父親に取られかねないと怯えている風だ。 「図々しいのはお前も同じだろ?」 貴史は相変わらず平然としている。息子の反抗など今さらといった感じなのだろう、それよりもという体で、彼はソファの背にもたれかかりながら軽く嘆息して見せる。 「お前、ミキさんから金貰ってるって幾らだよ? あんまり俺らに恥かかせるんじゃねえぞ。ただでさえミキさんたちには幾つかある借り、全然返してねえんだからよ」 「知るかよ。それはテメエらの都合だろうが…。それに金なんて――」 言いかけて、しかし俊史はぴたりと止まってちらと歩遊を顧みた。ハラハラとした歩遊の顔を見やって、何か思うところがあったのか、それきり黙りこんでしまう。その様子を貴史は何か探るように見ていたものの、はっと失笑してすぐさま立ち上がった。 「とりあえず帰るから、お前もすぐ戻ってお母さんに電話しろ。最近全然声聞いてないからって心配してんだよ」 「向こうが勝手に家空けてんだろ。俺は家にいるんだから―」 「いないだろ。歩遊ちゃん家に入り浸ってるくせに」 「何だと…!」 「お前なぁ、前から心配だったけど、歩遊ちゃんの生活に干渉しまくるのよせよ? お前は昔っから勝手な奴だったかんな。テメエは独りでほいほい何処かへ遊びに行くくせに、歩遊ちゃんの事はやたらと束縛してくる。歩遊ちゃんが素直だからって調子に乗るなよ? 誰かを傍に置いておきたいなら、彼女にやれ」 「は…誰のことを…」 「いんだろ? 女の1人や2人」 だから帰ってきてないんだろうと言った後、貴史はさっと歩遊の方を見て眉尻を下げた。 「ごめんな歩遊ちゃん。心配しなくても大丈夫だよ」 2人の言い合いを半ば涙ぐみながら見つめている歩遊に謝り、貴史は俊史を押し退けると歩遊の頭を丁寧に撫でた。 「おじさん、帰るけど。あんまりコイツが無茶言うようなら、いつでも言ってきてくれな? それからクリスマスプレゼントの事も。考えておくんだぞ?」 「お、おじさん…」 「じゃあ、家帰って仮眠した後また戻るから。お前、お母さんに電話しろよ?」 「しつこいんだよ! さっさと行け!!」 「……可愛くねえガキ」 真っ黒な毒を吐いた後、貴史は「じゃあね歩遊ちゃん」と歩遊にだけ挨拶をして、そのままスタスタと自分の家へ帰っていった。 明るい貴史が消えて怒り心頭だった俊史と、事の成り行きを緊張しながら見守っていた歩遊だけが取り残されて、部屋はしんと一種重苦しい雰囲気に包まれた。 歩遊は傍にいる俊史の事をそっと見上げたが、俊史は歩遊の方を見ない。ただ怒りを必死に抑えているかのようにじっと黙り、それからハアと大きく息を吐き出してからぐるりと歩遊へ視線を向けた。 「!」 その顔がやはり怒っているようなものだったので、歩遊はびくりとして反射的に後ずさりをした。 「歩遊」 けれど勿論俊史はそれを許さない。ぐっと歩遊を掴むと自分の元へ引き寄せ、そのまま顔を下げて歩遊の唇に深い口づけを仕掛けてきた。 「…っ」 俊史の顔が迫ってきた時点でキスされるとは予測したものの、貴史が去った直後だったので歩遊も慌てた。まさか戻ってくるという事はないだろうけれど、もし貴史に自分たちがこんな事を「しょっちゅう」しているとバレたら。 そうしたら、一体どうなってしまうのだろうと思う。 「俊ちゃん…っ」 「あんなクソオヤジと2人っきりになってんじゃねえよ…!」 唇を離した直後、囁くような小声で、けれどやはり怒りの滲んだ声で俊史は歩遊を睨みつけた。 「しかもあんな奴にほいほい触らせやがって……何かされてないだろうな?」 「な、何かって…?」 「何かは何かだ! あいつは昔からお前に異常に触れて…!」 舌を打ちながら俊史はそう言い、それからもう一度歩遊にキスをした後、ぐいぐいとソファにまで連れて行ってそこで歩遊を雁字搦めにした。 「しゅ…俊ちゃん…?」 「あんな奴にプレゼントなんてねだるんじゃねーぞ」 「え…?」 「欲しい物があるなら俺が買ってやる。だからあいつには絶対言うな。絶対何も貰うな、分かったな?」 「う、うん…?」 「絶対だぞ?」 あまりに物凄い迫力でそう詰め寄られたものだから、歩遊は何度もこくこくと頷いてから俊史の目を覗きこんで震えた声を出した。 「俊ちゃん…あの、お金…」 「ん…?」 「お金…お母さんたちから貰ってるっていうの、本当に本当なの…?」 「……何でそんな事訊いてんだよ」 「だって…」 歩遊の両親は決して歩遊が邪魔だったり可愛くないというわけではないのだけれど、昔から自分たちの親(歩遊の祖母に当たる)に歩遊の養育を丸投げしていたせいもあって、常にどこか抜けているところがあった。俊史の両親もいい加減放任し過ぎなのだが、それでも1週間に1度はどちらかが帰ってきて2人の様子(主に歩遊)を見にくるし、生活費の事や身の回りの物で足りない物はないかと、今日の貴史のように確認もする。 けれど歩遊の両親にはそれがない。悪気はないのだが、恐らくは彼らの仕事(―と、いうよりは「人生における使命感」)の為に子どもの事は二の次になってしまうのだ。だからお金の事も、俊史は「おばさんから貰っているから心配するな」と言うけれど、実際はどうなのだろうと不安に思う事もある。 「あいつに何言われたのか知らねェけど、くだらない事心配するな」 俊史が歩遊をぎゅっと抱きしめながら言った。 「お前は今のままでいいんだよ。どうせ細かい事考えたってロクな事しないんだから」 「……でも」 「何だよ」 「よく考えたら…。ううん、よく考えなくても、ご飯も服も…ほ、他の事も。全部俊ちゃんにやってもらうのは、おかしいよね…」 「………」 歩遊が思いつめたように言った言葉に俊史は最初何も言わなかった。 だから歩遊も後を続けやすかった。 「2年になって、これからは俊ちゃんにあまり頼らないようにしようって思っていたのに、結局…全然だ。僕、やっぱりバイトとかして―」 「バイトは駄目だって言っただろ」 歩遊の言いかけた言葉を全部かき消して俊史はいよいよ腹を立てたように言った。 「お前はただでさえいつも赤点取るか取らないかって成績のくせに、何がバイトだよ。そんな偉そうな口はまともな成績取れるようになってから言え」 「で、でも…」 「でもじゃねえよ。お前は大学に行くんだろうが?」 「え…」 「お前は俺と同じ大学に行かせるからな」 「そ、そんなの無理だよ…!?」 進学はするだろうと何となくは思っていたものの、俊史から初めてそんな風に言われて歩遊は驚きの声を上げた。元々俊史は理系で自分は文系だから、一緒の学校は高校までだと思っていたし、そもそも学力が違うのだから同じ大学なんて絶対に不可能だ。 けれど歩遊が無理無理と何度も首を横に振るのを、俊史は忌々しそうに眺めてからまた唇を寄せてきた。 「やってみないうちから諦めてんじゃねえ」 「だ、だって…僕は…っ!」 再び無理だと言おうとした唇を塞がれて歩遊は混乱した。いつものように勢い身体を押し倒されて、そのまま唇だけでなく様々な場所にもキスされる。歩遊はぎゅっと目を瞑りそれを受け入れつつも、やはり今の俊史の発言も、また貴史の事も気になって、何とか身体を逃がそうともがいた。 「俊ちゃん…駄目だよ…っ」 「何がだ…」 けれど俊史もいつも以上に強引だった。普段ならキスをして終わりなのに、今日は身体への愛撫もいやにしつこい。だからその手が段々と下へ移行して太股を撫でられた時、歩遊はいよいよ悲鳴に近い声を出した。 「しゅっ…俊ちゃんっ!」 「煩い」 「……っ」 俊史の声が怖い。歩遊は息を呑んだ。それでも首筋に噛まれるようなキスを続けられ、しきりにまさぐられる下半身への攻めに自然がくがくと震えが走った。 「ひっ」 そうして自分の大事な部分へ俊史の手が向かい、そこをしきり擦られるように撫でられた事で歩遊はいよいよ怯えを強くした。 「俊ちゃんっ…」 「………」 けれど俊史は答えない。それどころか歩遊のパジャマズボンを中途半端にずり下げ、中へ手を差し入れてくる。 「や、やだぁ…っ」 どうして突然こんな事になったのだろう。歩遊の頭はぐるぐると回る。それでも全身が否応なく熱くなっていき、先日公園でキスされた時になったような不可解な熱に侵され、どうしようどうしようと目を開く。 「あ…」 そこには既に歩遊を見つめている俊史の視線があった。 「しゅ…俊ちゃん…」 「………」 それでも俊史は答えない。ただ俊史自身、何かの病のように顔を赤くし、どこか苦しそうに歩遊を見つめている。歩遊にはそれが不思議で、一瞬だけ与えられていた恐怖を忘れた。 「俊ちゃん…どうしたの…」 「……何が」 「顔……」 赤いよ、と言おうとしたものの、すかさず身体を寄せられキスされた。 「あっ」 けれどその繰り返される細かいキスと同時に下着の上から股間を擦られ、歩遊はぐらりと眩暈を感じた。横になっているのに視界が揺れる、恥ずかしくて堪らなかった。 「あ、あ…」 それでもやんわりと包まれ優しく揉まれ始めると、もうどうしてもやめてという言葉は出てこなくて、歩遊はただ首を左右に振りながら俊史から目を逸らした。 「あ、あっ…俊ちゃ…どうし…っ」 「歩遊…っ」 歩遊のものを下着ごしに刺激していた俊史がようやっと歩遊を呼んだ。やはりどこか熱っぽい声。歩遊はそれを遠くで聞きながら、気持ちが良いのに怖い気持ちも捨てられなくて、思わずぽろりと涙を落とした。 「歩―」 けれど俊史がそんな歩遊にはっとして声を掛けようとした時だ。 「忘れ物した」 玄関からそう言うとぼけたような声と、ドアを開く音が2人の耳に届いた。 「…!」 「あ!」 それによって2人はほぼ同時に互いの身体を放した。俊史は反射的に立ち上がってリビングの扉を閉めに行き、歩遊は上体を起こして物凄いスピードで乱されたズボンをきっちりと履き直した。 「お…何だよ、何閉めてんだ」 ガラスを木の格子にはめている扉だから全く視界が遮断されるわけではない。ドアノブを握ったままドアの前に立ちはだかっている俊史に、目の前にまで来た父親の貴史は思い切り訝しそうな声を上げた。 「何してんだ、開けろ。携帯忘れた」 「……〜ッ、ざっけんな! 帰れ!!」 俊史は珍しく興奮しているようで、怒りに任せた取り乱した声でドア向こうの父親を詰った。貴史の方としてはとんだとばっちりなわけだが、向こうは向こうで息子の生意気な態度に心底頭にきたようで、意地を張ったように外側のノブを持って強引に扉を開けようとしてきた。 「どっちがふざけてんだ! おい、何考えてんだ! 歩遊ちゃん!? いるのか!?」 「あ……は、はい!」 けれど歩遊は歩遊でそれどころではないから…というか、むしろ貴史には入ってきて欲しくないから、何とも出来ない。俊史がドアを締め切ったままでいるのを見やったまま、歩遊はオロオロしながらただ俊史の背中を見つめた。 「携帯なら俺が今持って行くから、お前早く帰れ!」 「だから何で閉め出してんだって話だよ! 何隠してんだ! お前、歩遊ちゃん、苛めてんじゃねえだろうな!?」 「苛めてねえよ!!」 俊史はガンとしてドアを開けようとはしなかった。歩遊はそれをソファからボー然と眺めながら、未だどくどくと高鳴る心臓の音と、俊史によって触れられた箇所の熱を必死に下げようと股間を抑え続けていた。 けれど落ち着こうとすればするほど、抱きしめられキスされた事も、熱っぽく愛撫を繰り返された事も、俊史のあの顔も。全部が生々しく思い返されてどうにも出来ない。 「ふっ…」 どうしてか感情が昂ぶって歩遊は思わず涙を落とした。先刻も俊史の前で泣いてしまったけれど、それと今の涙は違う。それは何となく分かって、それでもそれが分かったからといってどうにも出来なくて、歩遊はただぼろぼろと声を殺して泣き始めた。 「歩遊…」 振り返った俊史がそんな歩遊を見て気まずそうに眉をひそめた。それでもドアを放棄して駆け寄る事も出来ないのだろう、扉の前から歩遊を振り返って、ただ俊史は愕然としていた。 「歩遊ちゃん! 大丈夫か!? 歩遊ちゃん!」 「だ、だいじょ…っ」 貴史の声に応えようとするも出来ない。こんな風に泣いているところを見られたら、絶対に貴史は誤解するだろうし、すぐさま傍にいた俊史を責めるだろう。それはやめて欲しかったから、歩遊は何とか涙を止めようと何度も何度も目を擦って泣き止もうとした。 「う…っ」 それでもどうしてか歩遊は泣き止む事が出来なかった。胸が苦しい。この痛みは何なのだろうと思いながら、それでも歩遊は嗚咽を漏らしながらどうしようどうしようとただ取り乱した。己の感情に翻弄された。何が何だか分からない。分からない事だらけだった。 「うっ…ふ…」 ただ、確実に分かっている事もあった。 「ぼ、僕…僕は……」 俊史の事を考えると胸が痛くなる。それだけは分かった。 |
了 |
戻
それが恋なのかどうなのかって事にはまだ気づいてない歩遊です。