瀬能俊史の憂鬱
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俊史は歩遊の事なら何でも知っている――と、少なくとも俊史自身は思っている。 物心つく前から一緒で、気づけば家族のように…否、本当の家族よりも近しい唯一人の存在として過ごしてきた。多少ドン臭く、うじうじとした弱気な態度が癇に障る事もあるけれど、基本的に歩遊を「そういう風にした」のは自分だという自覚はあるので、俊史はそういう苛立たしい面も全て含めて歩遊を大切に想っているし、「あいつは自分がいなければ何も出来ない」と言う、確固たる信念も持っていた。 「大丈夫だよ。一人で出来る」 その歩遊が、高校も2年生に上がってからゆっくりと変わっていった。 「この間、ここの単元は耀君が教えてくれたんだ。それで結構数こなしていったら、応用問題も解けるようになったし。昨日の小テストなんて初めて満点取ったんだよ!」 俊史は歩遊の笑顔を見るのが好きだ。 昔から笑うと凄く可愛い事を知っていた。いつも「可愛いね、綺麗だね」ともてはやされている人気者の女の子なんかもまるで目じゃない。誰より歩遊が1番だと思っていた。 ただ、それを周りに知られるのが嫌だったから、いつも歩遊には厳しく当たったし、「お前なんか駄目な奴なんだから」と苛めて、わざと自信をなくさせるような事ばかり言った。 本当は磨けばピカピカに光る貴重な原石なのに。 それを、「お前は俺がいなくちゃ駄目なんだから」と縛りつけていたのは俊史なのだ。 「耀君はサッカーも凄いのに勉強も出来るんだよ。クラスの皆に人気あるし。本当凄いよ」 俊史は何故か昔から「子どもらしくない子ども」で、元々歩遊という存在以外に興味あるものが何もなかった。いつもどこか冷めていて、何でも器用にこなせてしまう分、何に対しても執着するという事がなかった。 だから勉強もスポーツも、歩遊が「俊ちゃんはやっぱり凄い」とか「僕も俊ちゃんみたいになれたらいいのに」と言うから、良いところを見せようと思って頑張ってきただけで、小学校の頃やっていたバスケットも、中学の頃少しの間だけ習っていた弓道や空手も、あっという間に飽きてしまった。多少は面白いと感じる部分もあったけれど、そういうものに時間を割いている間に、もし歩遊が自分から離れてしまったらと考えると、何だか何もかもどうでも良くて、結局落ち着かなくなってしまった。 だから部活動は勿論、本当は生徒会役員もやりたくなんてなかったのだ。 でも歩遊が「1年で役員に推薦されるなんて、やっぱり俊ちゃんは凄い」と言うから――。 それなのに何故最近は、その「凄い」相手が自分ではない別の奴になる事が多いのだろう。 「最近、本性が出まくりだよね」 教室の窓際から仏頂面で校庭を見下ろしていたら、不意に戸辺がそう声を掛けてきた。 「別に」 面倒臭いなと思いながらも声だけは平静に答えると、妙に気の合うこの親友は「ふふふ」と意味あり気な笑いを唇に含ませながら、自らも窓際に寄って行って外の景色に目をやった。 それから何という事もないように言う。 「俊って可愛いよなぁ」 「煩ェな」 「あんまり声大きくすると聞こえるよー? 『どうした、噂のカップルが痴話喧嘩か!?』って、新聞部あたりに騒がれるかも」 「どうでもいい」 ハアと溜息をついたまま俊史は素っ気無く答えた。 最初こそ面白いかもしれないと思って好き勝手に流させていた噂だけれど、最近はそれが妙に鬱陶しくて、もう全校に「あれは嘘だ」と触れ回りたい気分になっている。 噂―…そう、自分とこの戸辺優が「お似合いのカップル」、「付き合っている」などというガセネタ。 「あ、何だ、やっぱり歩遊ちゃんの事見てたのか」 悶々としている俊史に戸辺が涼やかな声でそう言った。身長のない戸辺がわざと背伸びをするような格好で窓枠に両手をつき、校庭の片隅に立ち尽くす歩遊の姿を目で追っている。それは休み時間に入ってから俊史がずっとやっていた事で、それを戸辺とは言え第三者にされるのはあまり気分の良いものではなかった。 「行くぞ。会長が呼んでるんだろ」 だからわざと窓際から離れて戸部をそこから引き離そうとしたのだが、賢しい親友はそんな俊史の考えに乗ろうとはしてくれなかった。 「まぁ、いいじゃない。もうちょっとくらいなら許されるだろうから、ちょっと視姦してこうぜ。キミの歩遊ちゃんがお外で何してんのかサ」 「優。俺、キレるぞ」 「おー怖ッ。ふふ、けど無駄だよ? それに、その本性出すのやめなって。折角猫被ってたのに台無しじゃん」 「……もうどうでもいい」 また深く溜息をついて俊史はらしくもなく肩を落とした。最近はめっぽう駄目だ。強気な態度もどこか空々しくて、特に親友の戸辺には全部見透かされているだけに分が悪過ぎる。 けれどもうそれすらどうでも良いのだ。“品行方正、成績優秀な瀬能俊史は周囲の人望もあり、今期の生徒会会長選挙でも当選確実”…なんて。むしろそんなシナリオはこの際なくなってしまった方が清々するのだから。 「優。いい加減にしろ。行くって言ってんだろ」 「ああ、なーんだ。やっぱりあのバカと一緒にいたんだ」 「!」 戸辺がとことんまで無視して外を見続けていたのには腹が立ったが、その台詞で俊史もぴくりと肩を揺らしてしまった。 反射的に身体を窓際にまで戻すと咄嗟に下方に視線を落とす。 グラウンドのフェンス際に一人で佇んでいた歩遊は、今はそこから出て来た太刀川耀―歩遊のクラスメイトだ―と何やら楽しそうに談笑していた。 「サッカー部のヒーローが、最近どうにもご執心だよね、地味で目立たないはずの歩遊ちゃんに」 俊史の怒りを買うと分かっているだろうに、戸辺はわざと小さな声でそう囁いた。 「あの男はさ、俺らと違ってノーマルな人間みたいだけど。一発目覚めちゃったら、ありゃ変わるね。そういうニオイがするもん」 「………」 「俊も気をつけないと、マジで歩遊ちゃん食われちゃうよ? 折角大事に大事に育ててきたのにさー。ねえ?」 「……帰る」 戸辺が「こういう性格」だとは、俊史も1年間付き合ってきて重々承知している。だからこそ重宝すると思っていた部分もあるし、実際色々と助けてもらってきたところもあるけれど。 それでも、今これ以上一緒にいると八つ当たりをかまして怪我でもさせかねない。俊史は努めて怒りを表に出さないようにして踵を返した。 「マジで? 役員のお仕事は?」 戸辺も茶化し過ぎたと思ったらしい。その端整な顔に少しだけ苦い笑みを浮かべながら「悪かったよ。ごめんよ」と軽い口調で謝ってくる。 「悪いと思うなら、俺の分も仕事しとけ」 「はいはい。後で何か奢ってよねー」 ばいばーいと、誰もが凝視してしまうような笑みで戸辺は手を振った。 けれど俊史はもう振り返らなかった。 イライラして仕方がない。最近はもう本当に駄目だった。煮詰まって息苦しくて仕方がないのだ。 こんな日はもう不貞寝しかない。らしくもなく、俊史はただそれだけを思って校舎を出た。 高校に上がってから知り合った外部組の戸辺優は恐ろしい男だった。 どういう経緯で親しくなったのかは俊史も実はイマイチ覚えていないのだが…とにかくその可愛らしく清楚な見た目とは裏腹に、彼はとても「いやらしい」性格をしていて、人間関係においてもいい加減が服を着て歩いているような感じだった。 如何せん見た目が良いので、ニコリと笑えば大抵の人間はホンワカと癒された気分になり騙されてしまうが、実際の戸辺は気に入らない相手に対しては「あいつ、凄ェバカ」とか「死んだ方がいい」とか平気で嘲笑していたし、それを俊史が嫌な顔で見ていると、「お前しかいないから言ったの。心の中でくらい本心語らせろ」と悪びれもなく言い切った。 戸辺は基本的に人付き合いが好きではないらしく、人間関係は「広く浅く」をモットーとする俊史とどこか通じる部分はあった。実は中学まで住んでいた地元には彼女もいるらしいのだが、嘘か本当か「俺は男でも女でも可愛ければ誰でもオッケーだよ」などとはぐらかすので、その「彼女」も事によると一人ではないのではないかと思わせた。 ただ俊史も別段凄く興味のある事でもないから深く訊ねなかった。 このアブナイ戸辺が歩遊に近づきさえしなければ、後はどうでも良かったのだ。 「いちいち周りが煩いからさ。俺ら、付き合ってるって事にしちゃおうか? そうしてくれたら、交換条件で、俺、俊の歩遊ちゃんには近づかないから」 だから戸辺が先にそう持ち出してきた時、俊史はそれは渡りに船だと、周りが騒ぎ立てた「噂」に自ら乗った。もしかしたらそれで歩遊がヤキモチをやいてくれるかもしれない―、そんな仄かな期待も抱いていたし。 ただし交換条件には、戸辺が持ち出した「歩遊には近づかない」だけでなく、「歩遊とは口もきくな」も付け加えた。戸辺は呆れたように「別にいいけど」と了承してくれたが、最近はやはりというかで話をしてみたくなっているのか、「ちょっとくらいなら口きいてもいいでしょ」などと甘えてくるようになった。全て黙殺しているけれど。 つまりは、そんなわけで。 俊史は戸辺優と付き合ってなどいない。はっきり言って、歩遊以外の男なんてとんでもない話だ。……女でも、結局は同じ事なのだけれども。 俊史は昔から歩遊一筋なのだ。歩遊以外は考えられない。いつから幼馴染の歩遊が「そういう対象」とまでなったのかは分からない。それでも、俊史が歩遊を想い続けているのは本当に小さな頃から変わらなくて、だから歩遊にも自分だけを見て自分の事だけ考えていて欲しいと切に願ってしまう。 いつも自分だけの傍にいればいいと想う。 それなのに。 「これからはあんまり俊ちゃんに迷惑掛けないようにする。クラスも別々になったし、いい機会だと思うから」 そう言いながら、自立しようとしている歩遊が―…、自分以外の人間とどんどん親しくなって、どんどん輝き始めている歩遊の事が―…俊史は不安で腹立たしくて仕方がなかった。 「具合が悪いから今日は夕飯を作りにいけない」と歩遊へメールを打とうか悩み始めた時、玄関先で物凄く大きな音が響き渡った。 「しゅ、俊ちゃ…!」 悲鳴のような掠れた声が階下でしたと思った直後、2階全体まで揺れるのではないかという程の凄まじい震動を立てて歩遊が俊史の部屋へ駆け込んできた。無駄にあちこちの壁にぶつかりながら上がってきたのか、乱れた髪の毛に肩先を片方の手で押さえたまま、歩遊はハアハアと息を切らした状態でベッドに寝そべる俊史を見やった。 「俊ちゃん!」 歩遊はもう一度俊史を呼び、眉を寄せたまま何も言わない俊史に駆け寄った。 俊史はベッドにいると言っても布団を被って寝ていたわけでもなく、制服もそのままにゴロンと寝そべり本を読んでいたのだが…、歩遊はそれを咎めるような顔で今までよりも更に大きな声を出して言った。 「何でちゃんと寝てないの!? ね、熱あるって…! 重病だって!」 「……そんな事誰が言った?」 「と、戸辺君…っ。それで、早退したって聞いたからっ。だから…!」 「………」 あの野郎、歩遊とは話すなと言ったのに。 この間の映画の時だって勝手に近づいたくせに、2回目かよ。 「ちっ…」 ムカムカとした想いを抱きながら親友の意地の悪そうな笑顔を思い浮かべて不機嫌でいると、歩遊は俊史が具合が悪いと思っているのか、ベッドの隅をグラグラと揺らしながら今度は悲愴な声を漏らした。 「ちゃ、ちゃんと寝ないと駄目だよ…っ。パジャマに着替えてさ…! ほ、本も、そんなの読んでる場合じゃないでしょ!?」 「いざ寝ようと思っても眠れなかったんだよ」 「無理矢理目ぇ瞑ってれば、そのうち眠れるよ!」 勢いよく歩遊の手が伸びてきて、直後俊史は持っていた本を取り上げられた。珍しく強気な態度でこんな事をする歩遊に驚きよりもポカンとしてしまう。 俊史はそれでようやっとまじまじと歩遊を見る気になって、ゆっくりと上体を起こしてから「お前」と口を開いた。 「午後の授業、どうした」 「え? そんなの、だ、だって、俊ちゃんが心配だったからさ!」 「………」 「だって、早退なんてした事ないじゃん! いつも、俊ちゃんは熱がある時だって結構我慢して最後まで学校とかいちゃう方だし! なのに帰るなんて…! だ、だから、何かよっぽどだと思ったし!」 「……お前、心配したのか」 「え? あ、当たり前だよ…っ」 何を言ってるんだという態度を露にして、歩遊は顔を赤くした。それからその勢いのままベッドによじのぼってくると、早く着替えろとばかりに制服のボタンに手を掛ける。 「…な」 馬乗りのような格好で自分に圧し掛かってきた歩遊に、俊史はここで初めて動揺した。 「おま…何してんだよ…!?」 「だって、早く着替えて寝なよ!」 「んなの、自分で出来ん…っ、おい、ちょっ…離せバカ!」 この体勢はヤバイ。 ただでさえ、この目の前の歩遊の事を考えて鬱々としていたというのに、その本人にこんな事をされては堪らない。俺はいつだってお前を想って我慢してきたのに。お前がそれ相応に俺と同じ「自覚」を持ってくれるまで待っていようと思っているのに。 何でそうなんだ、と。 「うぜーんだよッ!!」 それはある意味理不尽な一方的な想いに過ぎないのに、この時俊史は歩遊に対する居た堪れない怒りの気持ちを爆発させて、つい心にもない台詞を放ち、歩遊の身体をベッド下へ突き飛ばした。 「あっ…」 案の定バランスを崩された歩遊はそのままゴロゴロと転がり落ちて、身体のあちこちをぶつけ、痛みに呻いた。そして俊史が己の愚行にハッとして後悔した時にはもう遅い、弱虫の弱気な歩遊は、もう目に涙を湛えて「うっうっ」と心身に与えられた痛みに嗚咽を漏らし始めた。 「ふ、歩遊……」 「ご、ごめん…っ…」 それでも先に謝るのはいつも歩遊だ。いつでも俊史が怒るのは自分が悪いと思いこんでいる。そうインプットされているのだろう。俊史も歩遊がそういう風に謝る展開は見えていたはずなのに、無駄な癇癪で歩遊に余計な痛みを与えて苦しめてしまった。 折角心配して来てくれた幼馴染に。 (幼馴染……) 実際歩遊はどういう気持ちで自分の元へ来たのだろう。俊史はこんな時なのにぼんやりと思った。 生まれた時から一緒に過ごしてきた幼馴染だから?友達だから?いや、そんな言葉は似合わない。それならやっぱり、家族のような存在だから? 「歩遊……」 ベッドから下りておずおずと片手を差し出し、俯いた頭に手を乗せる。歩遊がゆっくりと顔を上げた。べそをかいた顔は先刻よりも酷く赤くて、瞳は目一杯濡れていた。今すぐ抱きしめてキスしてやりたい衝動を必死に抑えながら、俊史はやや震える手先を必死にセーブしつつ、歩遊の頬をさらりと撫でた。 「泣くなよ」 謝るべきだと分かっているのに、「ごめん」というたった一言が出なかった。 「……だ、だって……俊ちゃん、が……」 ひぐひぐと嗚咽を漏らしながら歩遊が何かを呟いた。その言葉を聞きたくて辛抱強く待っていると、やがて歩遊はまた俊史の方を真っ直ぐ見つめて言った。 「う、うざくてごめん…。で、でも、でも……、嫌いに、な、なら、ないで…」 歩遊の言葉に俊史は目を見開いて身体の動きを止めた。背筋がゾクリと粟立つのは分かったけれど、それでもどうにも出来なかった。 歩遊は子どもの頃から俊史に嫌われる事を異様に畏れていた。仲間外れにされたくない、置いていかれたくない、一緒にいて欲しい…。そういう信号を、はっきりと言葉には出さないものの、必死の形相で常に訴えかけていた。 俊史は先を歩きつつ、いつも振り返っては歩遊のその顔を見て安心した。安心して、しょうがねえなあと言いながら手を差し出してやって、歩遊がそれを嬉しそうに取るのが堪らなく幸せだった。 「……歩遊」 結局、それは今だって変わりない。変わっていないじゃないか。 そうだ、お前は俺がいなくちゃ駄目なんだ。 「…バカ。別に嫌ってねえよ」 ぐしゃぐしゃと髪の毛をかきまぜてやりながら、俊史はそう言った。抑揚の取れた声だっただろうか、自問したけれど分からなかった。 「お前があんまり煩く騒ぐからちょっと怒っただけだろ。別に……別に、嫌ってなんかない。泣いてんじゃねえよ」 「だ、だって……俊ちゃ……」 「どっか打って痛めてないか?」 「う…? うん。平気だよ…」 俊史が気遣ったのが分かったのだろう、歩遊はすぐに慌てて頷くと、ぎゅっと俊史の腕を掴み、それからようやくほっとしたように笑った。 「……っ」 歩遊のそうやって笑う顔が愛しくて堪らない。俊史は我慢が出来なくなり、歩遊の身体を強く抱きしめた。 「俊ちゃん…?」 案の定歩遊は不思議そうに戸惑った声を掛けたけれど、俊史は答えなかった。ただぎゅっと抱きしめた後は、二度、三度と歩遊の髪の毛にキスをして、それからそれに思い切り驚いている歩遊を見つめ、その瞼にもキスをした。 今の自分を見られるのが堪らなく恥ずかしかった。 「俊ちゃ…くすぐったい…っ」 目を閉じながら歩遊が困惑したように言った。それでも然程逆らう気配はない。それをいい事に俊史は「煩い」とぴしゃりと言った後、またしつこく歩遊の目にキスの雨を降らせた。 ずっとこうしていたい。ずっと触れていたいと思った。 それが今すぐには叶わない願いだとしても、近い将来には―。 「歩遊」 近い将来には必ずそうしてみせると。俊史は改めて強く自分に言い聞かせ、自分よりも一回りも小さい歩遊の身体をかき抱いた。 |
了 |
戻
前回の子パンダ話で戸辺の正体が曖昧だったのでこんな話を書きました。